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一体、何が起こったのか。 しばらくの間、燈花は男が消えた空間をぼんやりと見つめていた。そうしているうちに、開け放たれたままのにじり口より涼やかな夜風が流れ込んでくる。念入りに手入れされ、しっとりと香油を含んだ髪。さらさらと音もなく舞い上がり、後ろへと流れていく。ひとつだけ寝所の内に残った燭台が大きくたなびき、はっと我に返った。 一度ゆっくりと立ち上がり、突き当たりの壁まで進む。身をかがめると、静かに引き戸を閉めた。しん、と静寂が戻ってくる。
――ここはひとつ、取引を致しませんか。 男は確かにそう告げた。あのときの勝ち誇った眼差しが脳裏に蘇ると、今も背筋が寒くなる。静かに、でも熱く滾るものが彼の内側にはある。そう悟った瞬間に、ふたりの位置関係は逆転していた。口惜しいけれど、それは認めざるを得ない。事実、このようにひとり捨て置かれた今も、なすすべもないのだから。
もう一度振り返り、男の消えた場所を見る。純白の衣装が自分をじっと見据えているような気がした。 「……あ……」 ふわり、と柔らかい香が漂ってきて、思わずそちらに手を伸ばす。もしやとは思ったが、空蝉の衣に焚きしめられていたのはやはり「天真花(てんしんか)香」であった。 庶民には用いることの許されていないそれも、やがて竜王の正妃となる立場にあれば恥ずかしくないように身につけておかなくてはならない。そう言われて、一通りきくことは出来るようになっていた。 「天真花香」は現竜王・華繻那様が用いられているものである。后となれば、かの御方の身につけられるものの全てを任されることになるのだからと、特に念入りに教えられた。香のあわせは決まり切ったものだとは言われているが、やはり身につけられる御方によって微妙な違いがある。天真花だけではなく他の素材のものも加えながら、独特のものに仕上げていくのだ。 ――そして……。 やはり身の程知らずも甚だしいと言うしかない。どこでどのように手に入れたものかは知らないが、これは全く竜王様と同じあわせ方のものだ。気の遠くなるほど繰り返しきいた香を忘れるはずもない。
本当に、一体どういうつもりなのだろうか。いくら思いを巡らしてみても、さらに混乱してくるだけであるのが情けない。男の言うとおり、自分は「籠の鳥」でしかなかったのだ。竜王様の正妃となるためだけに育てられ、その他のことは何ひとつ知らぬままではないか。 それに……、さらに理解出来ないのは今宵の男の行動だ。新妻である自分をひとり残し、一体どこへ消えたのだろう。彼の居住まいはここだけではなく、どこか別の場所にねぐらがあるのか。 低い位置にある引き戸を閉めるとき、かすかな水音が庭先の方から聞こえていた。向こうを覗き見ようとまでは思わなかったが、それなりの庭が設えられているのは間違いない。その向こうには一体何があるのか、闇の向こうは確かめる術もない。 人目に触れる表側では質素に振る舞い、裏側では贅を尽くしている。あれは人のかたちをした鬼に相違ない。自分はもう少しで鬼に喰われるところであったのか。 こうしているうちにも、どこからか男が舞い戻ってくるかも知れぬ。その時こそ、この身は腹を空かせた彼の餌食となるのか。ああ、それでも良い。このように恐怖に身を投じているよりも、どれだけ救われるか。だが、今このときにどうして取り乱すことなど出来よう。自分は西南の大臣家の姫君。どんなときにも毅然としていなければ物笑いの種になるだけだ。
柔らかなしとねに横たわってみても、後から後から新たな恐ろしさがこみ上げてくるばかり。男が同席しているときの緊張も言い表しようのない程であったが、こうしてひとり置かれる心細さには敵うまい。せめて連れてきたただひとりの侍女をここへ呼びたいものだが、それでは男との「取引」を違えることになる。 まんじりとして休むことも出来ぬまま、漆黒の夜は過ぎていった。
◆◆◆◆◆
――ああ、ようやく戻ってきたのだわ。 知らず、そんな心地になる。このような場所、今までに訪れたこともないはずなのに、何故かとても懐かしい。辺りを満たす気は心地よく、全ての呪縛から解き放たれていくようだ。 ずっとずっと、このまま。何も考えずに眠っていたい。もしも、それが許されることならば……。ふわりふわりと地から湧き上がり、天に昇っていく泡雨(あわあめ)。頬に触れた一粒が、ぱちっと音を立てて弾けた。
不意にそんな声が降ってきて、ハッとする。このように間近で囁かれることなど、余りないことだ。思わず身が固くなる。慌てて起きあがろうとしたとき、何か弾力のあるものに当たった。 「そのようにお急ぎにならなくとも。……今朝は少しぐらい寝坊した方が、体裁が良いというものですよ。私も今少し、可愛らしいあなたの寝顔を眺めて過ごしたいものです」 燈花はぎょっとして、顔を上げた。案の定、そこにいたのは昨夜自分の夫となった男。ふたりの間にはわずかばかりの空間しかなかった。しかもひとつの衣をふたりで分かち合って掛けている状態である。 「……まっ……!」 思わず口からこぼれた叫び声がくぐもったのは、先回りした男が素早くその花色の口元を手のひらで塞いだからであった。にこやかに微笑みながら、それでもこちらを射抜く瞳に絶対的なものを感じる。だが、この状況をどうして慌てずに受け入れることが出来るだろう。 「そのように驚かれることもないでしょう、私たちはすでに夫婦(めおと)となったのですから。こちらには私が呼ぶまで子鼠一匹入り込むことはございませんよ? ……ご安心ください」 ゆっくりと上がる口端。こちらが戸惑っていることはとっくに承知しているはずなのに、何とも腹立たしい限りだ。まるで些細な反応のひとつひとつを楽しんでいるようですらある。今まで自分に接していた者たちは、腹の内はどうであれ体裁上はこちらを持ち上げて礼を尽くしてくれた。それなのに、この男の気安さをどうしたものか。いくら夫婦となることを許された身の上とはいえ、自分は今でも大臣家の姫君に相違ないのに。 「しかし、感心なものですね。あなたはやはり、とても思慮深く遠くまで物事を見渡すことが出来る方だ。心の浅い者であれば大袈裟に騒ぎ立てているような状況で、ご立派ですよ」
こちらをまっすぐに見据えたまま、男の指が燈花の髪に触れた。 ただそれだけのことなのに、地の底に引きずり込まれそうな恐怖を覚える。知らずに震え出す身体を必死に制し、身を固くして耐えた。それでもいくら気をそらそうとしても、その指が辿る場所を感じ取ってしまう。するすると背中を降りてきた手のひらは、やがて腰の辺りで止まった。 「えっ……、やめてっ……!」 それまでは必死に堪えていた。でも、男の手が当然のように燈花の腰ひもを解いたのにはもう普通にしてはいられない。それ以上の声が上がらなかったのは、奇跡と言えよう。がくがくと震える耳元に、男の息が熱く掛かる。 「……お静かに。ひどくはしませんから」 男は腕の中でもがく小鳥をなだめるようにそう告げると、今度は襟元に手を添えてぴっちりと整ったそれを少し開いた。もう少しで胸元がのぞくところで手を止める。小さく息を吐いた後、静かに再び腰ひもを結んだ。かなりぞんざいな感じで。 「……あ……」 噛み合わない歯をがくがくと揺らしている燈花に、男は悠然と微笑みかける。どこまでも深いその瞳の色は、少しも揺らいではいなかった。 「これくらいは乱しておきませんと。侍女たちはかなりの目利きですから、すぐに気付かれてしまいますよ? ――さあ、そろそろ朝支度にしましょうか。まだまだ居残りの客人もたくさんいますし、あまりゆっくりしすぎてはあらぬ噂を立てられかねませんからね」
男はすぐには起きあがれないでいる燈花を残して、さっさと寝所を出て行った。 そこに漂う残り香が、当然のように自分の身体の隅々まで染みついてることに気付き呆然とする。なめらかに指先が辿ったその跡が、焼けるように熱かった。
◆◆◆◆◆
昨夜からの出来事にすっかり心を乱していた燈花であったが、立場上ずっと部屋に籠もっていることは出来ない。朝餉のあとにはすっかり身支度を調えて客人の前に顔見せをした。当然のことながら、列席者たちからは感嘆の声が漏れる。不思議なことにその視線にも初日の宴ほどは動揺しなくなっていた。 「まあ……、やはり。御方様にはこのように華やかなお色がお似合いですわ。まるで花が咲いたようにひときわお美しくて……溜息が出るほどでございますわね」 侍女たちが用意していたのは、昨日とは全く趣向を変えた新しい衣装。ふんだんに色糸を用いた鮮やかな織りは、まるで人のものとなったことを知らしめているようで恥ずかしくてならなかった。ものは違っても、やはり上等な品であることは間違いない。そのことはその場にいる誰よりも身につけている燈花が一番良く分かっていた。 気分を落ち着けて見てみれば、集まった客人たちは晴れ着であっても庶民が身につけるに値する品をまとっている。彼らの衣には華美な刺し文様もなければ、金糸銀糸もごくごく控えめに配色されていた。昨夜は気が動転するばかりでしっかりと見定めることはなかったが、自分とこの館の主である男以外は規律に反していると言うほどのことはないようである。
客人を見送るときは、一度衣を質素なものに改めた。 夫となった男も一番先に見たときと同じような下男とも思えるほどの衣に着替えている。その姿にひどく違和感を覚える自分がおかしかった。そうした上で、表の庭先まで出て牛車の列を送る。振り返ってみれば、古びた館の後ろにはどっしりとした山が覆い被さるように控えていた。 昨日ここに辿り着いたときには、もう日もとっぷりと落ちたあとであった。今日ももう夕暮れではあるが、それでも辺りを見渡すには十分である。周囲には森のようにたくさんの樹木が茂り、遠目に見ればここに屋敷があるなどと誰も気付かないだろう。 「ここから見える土地が私の任されている領地のほとんどです、あまりにささやかで驚かれるとは思いますが……それでも生きて行くには十分な禄高があります」 屋敷のある場所そのものも高台になっているようである。そこからは扇形に広がっていく農地がゆったりと見渡せた。 西南の地は大臣家の直轄地の他に、決まった領主を置いた土地が点在している。この場所は大臣家のある場所よりもかなり南峰寄りに位置し、気候もだいぶ違うように思われた。辺りを流れる夕暮れの気も、夏にさしかかった頃でありながら信じられぬほどに涼やかである。 「我が父が大臣家より任されている領地はかなり広大なものになります。従ってとてもひとりの手ではまかないきれず、このように一族が分け合って管理しているのですよ」 領主によってはそれぞれの土地に地主を置いているものもあるらしい。それをこの一族は血縁者のみで行っているというのだ。まあ、それを繰り返していてはきりがなく土地が細分化していくだろう。頃合いを見て分割したり合併したりと調整して、上手く取りなしていると言う。さらに人の住めぬような荒れた土地の開墾も試みているようだ。 「月の一族」とは、よその者たちが名付けた呼び名である。親族の名に「月」のひと文字が含まれていることが理由のひとつであるが、燈花が思うにそれだけではないような気がしていた。
――「月」とは、異郷の土地の天にあるもの。同じ形には留まらず、ゆっくりと姿を変えていくと言うわ……。
大臣家からは遠く離れ、目の届きにくい場所。ここは領地のほんの入り口であり、一番奥の領主の館までは早馬でもさらに一日がかりになると聞く。途中険しい山道などもあり、土地の者でなければ往来も難しいらしい。たった一日、人々の会話を聞いた限りではあるが、断片的に様々な事柄が見えてきた。 心のどこかで、燈花はずっと探している。西南の大臣である兄が、わざわざこのような土地に自分をよこしたその理由を。事細かに説明されなくとも、そこはしっかりと血の繋がった兄妹である。きっとどこかに兄の思惑があるはず。その役目をしっかり果たした時こそ、自分には新たな道が拓けるのだ。
「夏月(カゲツ)様」 傍らに立つ、水干と小袴の男。恭しくその名を呼ぶと、彼は驚きを隠せない表情で振り向いた。その瞳を穏やかな微笑みで見つめ、静かにその場に跪く。豊かな髪が庭土に静かにこぼれ落ちるのもいとわずに、額を低く下げた。 「何も分からぬわたくしではございますが……どうぞ末永くお導きくださいませ」 ほうっと、辺りから溜息が漏れる。 客人を見送ったあとで、たくさんの使用人たちがその場にいることは分かっていた。満足げに微笑む男が、ゆっくりとこちらに手を差しのべてくる。躊躇なくその上に自分の手のひらを添えたとき、燈花の心には新たなる希望の灯がともった。
つづく(050613)
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