…「秘色の語り夢・沙緒の章〜外伝」…

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 遠く、さざ波のように。中庭の向こう、大広間の賑わいが聞こえてくる。

 燭台の灯りに浮かび上がる障子戸の外は深い闇に包まれているというのに、華やかな余興はまだまだ続く様子だ。さもあろう、もともと婚礼の宴というものは幾日もにまたがって続くものとされている。折しも今は秋の収穫前で、少しは手の空く時期。招かれた客人たちも心おきなく楽しめるというものだ。

 ――まあ、何とも気楽なものだわ。

 殺伐とした大臣家で、始終ギスギスした雰囲気の中を過ごしていた自分。このように腹の底から笑い楽しんでいる者たちを目の当たりにするのも初めての経験であった。

 今夜の主役のひとりであった燈花ではあるが、ずらりと並んだ列席者に誰ひとり覚えのある顔はない。一通りの儀式を済ませた後に無礼講となれば、もう何もすることがなくなってしまった。
  夫となったこの館の主は、それこそ自分の席に腰を落ち着かせる間もないほどに、客人の席のあちこちを飛び回っている。このような場合、自分も伴われて一緒に挨拶をするのが礼儀であろうか。そうは思っても、言われもしないのにこちらから申し出るのもどうかと思い、ぼんやりと過ごしていた。

 

「お集まりの方々は、ほとんどがご一族ゆかりの皆様。後はこちらの御館様の治められている土地の方々だと、伺いましたが……」

 一足早く退席して、案内された対に向かう。品良く整えられた奥の一角が、新しくこの館の女主人になった燈花のためのものだと教えられた。その場所もまた、先ほど同様に賑やかな侍女たちが大勢待ちかまえている。一通りの衣装替えが済むまでは、大勢の女子(おなご)衆に囲まれていて身動きも取れないほど。

 やっとその者たちが去り最初の侍女とふたりに戻る頃には、心も身体もこの上なく疲れ果てていた。

「そうなの。……あなたの知っている顔もあった?」

 宴席に並んだ膳は、見たこともないほど美しく趣向を凝らされたものであった。しかもそれらは、ただいたずらに飾り立てられたばかりではない。素人目で見ても、それぞれの食材が持つ真の美しさをしっかりと味わうことが出来るよう心配りがされているように思われた。それほど食欲が旺盛ではなくても、何となく箸を付けたくなる品々。しかし、とうとう燈花は最後までそれらに口を付けることはなかった。

 そのことをそばに控えていた侍女は承知しているのだろう。熱い香茶に可愛らしい干菓子を添えてくれる。その支度をする指先を見つめながら、燈花は訊ねた。

「は、はい……。私もそれほどは明るくはございませんが……」

 とはいえ、兄の御館にあっては訪れる官僚の顔を見る機会はいくらでもあるのだろう。粗相などは許される身ではないのだから、それこそ初めて見る姿も必死になって覚えるのだと誰からとなく聞いたことがある。

「御一族の長である方と、その跡目様。ええ、……確かに相違ございません。こちらの『月の一族』の方々です」

 普段から気弱なたちの娘である。言葉が震えているのは、緊張のためであると考えていいだろうと思った。悟られぬよう平静を保ってはいるが、燈花はこの侍女のことも心底信用しているわけではないのである。最初から何もかもを承知した上で、こちらの者たちと一緒になって自分を欺いているのかも知れぬ。やはりそうやって疑って掛かってしまうのだ。

 だが、……しかし。結論を急ぐことはないだろう。

「『月』……ああ、そうね。そのような名だったわ」

 

 こちらから挨拶に出向くことはなくても。宴席の人々は我先にと燈花の元へと進み出た。皆が口々に自分の名を述べるのだが、何しろいっぺんに来られてもとても覚えきれるものではない。
  それにこのようにたくさんの者たちの前に出て声を掛けられるのも初めての経験なのだ。気の利いた年配の侍女が取りなしてくれなかったら、一体どうなっていたか分からない。

 西南の大臣である兄からは何も知らされてはいなかった、だから何の予備知識もない。ただこの家が代々大臣家の重臣として使える一族であると言うことだけは確かだった。……でも。

 

「では、……誠にここは化け狐の館ではないということね……?」

 念を押すように燈花が言うと、若い侍女は何かを必死に振り払うように頷いた。ああ、そうなのだ。この者もとても恐ろしい想いをしているに違いない。どんな気丈な者であったとしても、この館の有様を見たら誰もが腰を抜かすはずだ。このように身の程知らずな振る舞いをしでかすなど、どう考えても気違い沙汰としか思えないのだから。

 もしも今、目の前にある全てがまやかしであり、夜が明けたら何もない枯れ野原に横たわっていたとしたら。否、もはや骸となり、何もかもを吸い取られていたとしたら……そのようなことを考えてしまうほどに気が動転している。

 今はこうして、婚礼初夜の衣装に替わっている。身を清めて新しく付けた肌着は柔らかく、肌にしっとりと馴染む上質なものであった。その上の純白の寝着も、同色の糸でびっしりと刺し文様が施された豪華な仕上がり。でもこれだけの糸を使っても、重みひとつ感じられないとはどうしたことか。最後に上から羽織った重ねも、燭台の蜂蜜色の灯りに、その文様をきらびやかに浮かび上がらせていた。
  部屋の奥、几帳の向こうにはすっかりと閨の支度も調っている。迎え火が渡りを柔らかく照らし出す向こうから来る人を、待つだけの身の上であった。しかしそのような場面にありながら、何の感慨も浮かんでこない。女子としての当然の恥じらいとも全く無縁のままであった。

  ――このような恐ろしいことが、決して許されることなどないのだから……。

 

「……あ……」

 ぴくり、と侍女の肩先が波打ち、その髪が舞い上がる。その怯えた視線の向こうから、確かに響いてくる衣擦れの音――。やがてそれが静かに部屋の前で止まるまで、ふたりは指先ひとつ動かすこともなく身を固くしたままであった。

 

 普通の屋敷のしつらえであれば、渡りに面した部分には部屋の奥が覗けないようにぴっちりと御簾が掛けられているのが普通だ。しかし、そのようなものがない田舎造りの屋敷では、どこにも身を隠す場所はない。

  この対に通されたとき、几帳すらほとんどないことに驚いた。が、そのことを訊ねると屋敷にもともといる侍女が声を立てて笑う。

「こちらは我が御館様と奥方様のお部屋であります。私たちども使用人の他には立ち入ることの出来ない場所ですわ。どうしてそのように、他人行儀なものが必要でありましょう」

 そう言われてしまえば、返す言葉も見つからない。年配の侍女の目には、燈花の物思いなど初めて夫となる人とまみえる夜の戸惑いくらいにしか映っていないのであろう。

「御館様は、それはそれはお優しい御方です。何も心配などございませんよ? どうぞ、ご安心なされませ……」

 

 すっと、静かな音を立てて障子戸が開く。

 王族の館のように床に寝台を置いて過ごす造りならば、主を迎えるときに進み出でて片膝を付きひれ伏す。しかし、このような畳や板間の生活であれば、座した姿勢で頭を低く垂れれば用が足りるのだ。相手が化け物であれ極悪人であれ、一通りの礼を尽くすのが道理。そう自分に言い聞かせながら、燈花は新しいい草の香を吸い込んでいた。

「おやおや、……今度はすっかりとお支度が調っておいでだな」

 元の通りに障子戸を閉めた男は、侍女が用意した敷物の上にどっかりと腰を下ろした。その動きは一見無造作なように思えるが、ほとんど乱れない衣の裾などから見るに、かなりの身のこなしと分かる。
  世の中には見てくればかりが立派でも中身が少しも伴わぬ者が数多くいると言われていた。どんなに取り繕うとも、それははっきりと周囲には見えてくるものなのである。

「お前はもう、下がって良いぞ」

 その声に、侍女は驚いて顔を上げた。自分ひとりがここに残るように言われていたので、きっと夜の番も任されるものとばかり考えていたのだろう。その瞳は意外そうに瞬いていた。

「あちらでまだ色々と仕事が残っているそうだ。やはり姫君のことはお前が一番良く承知しているのだから、早く行って侍女頭たちを助けてやっておくれ」

 男はゆっくりと分かりやすい口調でそう告げる。丁寧に話している様子であるが、やはり少し田舎訛りがあるようだ。その素朴な響きに安堵したのだろうか、侍女はふっと緊張をほぐしたように見える。その姿が、燈花にはどこか裏切りのように映った。

 

◆◆◆◆◆


「……さて」

 控えめな足音が渡りを過ぎていくのを確認してから、男は再び口を開いた。

「こちらは家の者たちが、たいそう時間を掛け心を尽くしてご準備致しました。いかがでございましょう、大臣家の姫君のお気に召しましたでしょうか……?」

 ゆるゆると顔を上げると、双の瞳がこちらをまっすぐに見つめていた。西南の民はそのほとんどが褐色の肌に炎のような赤毛、そして濃緑の瞳とされている。男のそれも見まがうまでもなかった。しかし、その輝きには少なからず驚かされる。実家の大臣家にいた頃に燈花が目にしていた者たちの目とはあまりに違いすぎるのだ。
  返答を待たれているとは分かっていても、すぐに切り返す言葉が浮かんでくることはない。大臣家の姫君として、何もかもにおいて恥ずかしくない教養は身につけてきたつもりであった。その中には婚礼の夜の心得、などというものも含まれていて、その時のやりとりの言葉などもすっかり諳んじることが出来るようになっている。だが、目の前の男に対して、どうしてもそれを口にすることが出来なかった。

「これは……、困りましたね」

 俯いたまま口をつぐんでいる燈花を見てどう取ったのか、男はくすりと笑いを漏らす。座した姿勢のまま、少しこちらに身を乗り出し、片手を顎に置いていた。

「お言葉も頂けないほどにみすぼらしい有様でしたでしょうか、それとも長い道中のどこかにお口を落として来られましたか?」

「……なっ……!」

 一体何を言い出すのだ、どこまで人を馬鹿にしたら気が済むのか。もう全て全てが信じられない限り、今日一日のあれこれで疲れ果てた身体にも怒りが熱くこみ上げてきた。寝化粧をした頬がカッと熱くなるのを感じる。

「な……ならば、申し上げますわ。一体、あなたは何者なのですか。この状況をどうご説明なさるおつもり……!?」

 正直、この言葉を口にするのも恐ろしかった。黙っていればやり過ごせることもある、見て見ぬふりをしているうちに全てが終わっていることも多い。でも……、顔を上げてしまったら。しっかりと見据えてしまったら、もうそこから逃れる術はなくなる。

「このような……恐ろしいことを! ご自分のなさっていることが、お分かりなのですか!? こんな……、このような。このことが西南の大臣である兄に知れたら、どうなりますか。いえ、兄が知らずとも、もしも他の者の口の端にのぼったら……!」

 ほんの一時の戯れとしても、許されることではない。世の中にはしかるべき規律がある、それを皆が乱さぬように努力するからこそ、今の平穏な時代が続いているのだ。この世界は王家を頂点として各集落の長、大臣家、そして民百姓と裾野に広く広がる身分制度が敷かれている。王族には王族たるゆえんがある、だからこそ殿上人としてあがめ奉られるのだ。

  それを……、このようにかたちだけ真似事するなど。悪ふざけにしても程がある。やはり田舎官僚にはその辺のことが分かっていないのだ。無知というものはこのように恐ろしいものか。

「ほ、ほう……そのように仰いますか」

 こちらは真剣にことの重大さを伝えているつもりである。それなのに、目の前の男の態度はどうしたことか。まるでこの状況を楽しんでいるかのようにすら感じられる。全く信じられないことだ。

「さすがに、かの大臣家の末姫様。私などが考えていたよりも、ずっとしっかりしたお考えをお持ちの様子。頼もしい限りです、我が妻にはこの上なくふさわしい御方……」

 婚礼初夜の衣は、夫婦共に同じものをまとう。何者にも汚されぬ、雪のように白い寝着。何人にも囚われることなく、生まれたままの姿で契りを交わすために。その輝く純白の袖口から飛び出した腕が、素早く燈花の片方の袖を捕らえた。

「聡いあなたなら、もうお分かりでしょう……? この先、どうなさることがご自分の得となるのかと言うことを――」

「……」

 間近で見るその瞳は、まるで夏山が雄々しく茂り湧き立つような激しさを彷彿させた。一点の曇りなきその輝きは、どこまでも深く澄み渡り揺るぎない自信に満ち溢れている。初めて、兄以外の人間を心から恐ろしいと思った。その想いが、燈花の唇を大きく震わせる。

「ここで、西南の大臣である兄上に忠義を示したところで、あなたには何が残りますか? また、あの御館の奥の対へお戻りになるだけですよ。そんなに籠の鳥になるのがお好きなのでしょうか、……違いますよね?」

 

 強く握りしめられた手首が、ぎりりときしむ。震えが止まらない全身が鳥肌だっていた。何て……何て恐ろしいのだろう。一体、この男は何を考えているのだろう。

  どう考えても許されることではない。今すぐに大声を上げ、この場から逃げ出さなければ。ああ、どこまで行けば、救われるのだろう。この男の息の掛からぬ場所まで、どうにかして行き着かなければ……!

 ――だが、しかし。

 女子の足で、それも歩き慣れぬ身で、どうすることが出来るか。もしも、幸いにして兄の元に辿り着くことが出来たと言っても、自分の口から出た言葉を全て信じてもらえるとも思えない。ここまで周到な男である、きっと偵察の者が来たときに何食わぬ顔をして元通りの田舎官僚の姿をすることなど造作ないことに違いない。

 ならば、……一体、どのようにして。

 

「あまり、……軽々しいことをお考えにならぬ方が宜しいかと存じますよ? ここはひとつ、取引を致しませんか。あなたがこのまま私の妻として留まってくだされば、この暮らしの全てが手に入ります。私も館の者たちも、喜んでお迎え致しましょう。決してないがしろになどすることはございませんよ……?」

 障子戸に映る男の影が、ゆらりと動く。もしや、何もかもが計算ずくで運ばれているのだろうか。このままあの兄から逃れることが出来るはずもない。あの人が何を望んでいるのかは知らない、だが時が満ちればまた、自分は再び「駒」として動き出すことになるのだ。

「そう……で、ございますわね」

 ゆっくりと、口元に笑みを浮かべることが出来た。茨の館にあって心にもない表情でやり過ごす術を身につけてきたことは、やはり無駄ではなかったと思う。案の定、男は満足そうに微笑みを返した。

「さすが、……私が見込んだ御方だ。誠に頼もしい限りですよ」

 

 男はふわりと立ち上がる。その身のこなしは、やはりただの田舎官僚とは思えなかった。

 昔、まだ幼子だった頃に新年の宴で見た、男舞いの姿にも似て。翻る衣、まるで魔術のように部屋じゅうの灯りがふっと消えた。

「さあ、……いつまでもここが明るくあっては、皆が訝しがりましょう。そろそろ、お休みになりませんか? 早朝からの長旅で、大変お疲れになられたでしょうから」

 ひとつだけ手元に残した灯りを持って、彼はゆっくりと奥に進んでいった。そして、几帳奥にほんのりと火を灯す。柔らかい薄布の向こうがふわりと浮かび上がった。

「……あ……」

 かすかに漏れ出でた自分の声を、男が耳にしなかったことを祈る。そうだ、余りの出来事が続いたためにすっかり忘れていた。自分はこの者の妻となったのだ、となればこの先彼が望むことを拒否することなどは出来ない。何故、もっと早くそれに気付かなかったのだろう。もうここまで来て、取り乱すことなど出来ぬのに。

「すっかりとお支度は調っておりますよ、どうぞお出でくださいませ」

 そのようににこやかに招き入れられて、困惑してしまう。座したまま動けない身体、ただぼんやりと燭台の輝きに浮かび上がる輪郭を眺めていた。

 

 ――と。

 不意に男がこちらに背を向ける。少し前屈みになったと思った瞬間に、突き当たりの壁の下の部分にあるにじり口をすっと開いた。そして、あっけにとられている燈花の方を振り向く。

「では、……私はこれで。また、明朝にお目に掛かりましょう」

 純白の重ねだけを抜け殻のように残して、男はそのまま夜の闇へと姿を消した。

 

つづく(050607)


 


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