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ぎしぎしと足場が音を立てる渡りを進み、言われたとおりに突き当たりまで辿り着く。 男はしばしのいとまを告げるとどこかにさっさと消えてしまい、燈花は大人しい侍女とふたりだけで残された。戸板を脇の柱に固定する黒い蝶番(ちょうつがい)は所々に錆が浮かんでいる。人の住まう館のしつらえにはおよそふさわしくないと思われる無骨な戸を、侍女が進み出てゆっくりと開いた。 「これは……、その。一体、何と言うことでしょう……?」 侍女はひとこと呟いたきり、その場に立ちつくしたままである。ややあって振り向いた顔には、分かりやすい困惑の色が浮かんでいた。それでも主人である燈花が静かに歩み出れば、慌てて敷居を踏まないように部屋の中に飛び込んでいく。そして片隅に申し訳程度に置かれていた敷物を急ぎ整えたあとで、燭台の灯りを増やしていった。 初めての場所であっても、とにかくは主である燈花がくつろげるように準備しなくてはならない。一番重要なことを、彼女は知っているのだ。 それにしても。確かに侍女が言うことにも一理ある。この殺風景な部屋は何としたことだろう。天井はあまりに低く、女子(おなご)であっても立ち上がって少し背伸びをすれば指の先が触れてしまうほどだ。突き当たりのふすまにも薄墨で描かれた笹の絵が申し訳程度にあるのみ。畳などはあちらこちらがすり切れている。およそ客人を招き入れる部屋とも思えなかった。 「あの、……どなたか御館の方を呼んで参りましょう。このままでは……」 あんまりです、と言いたかったのだと思う。だが、燈花はそんな言葉を軽く首を横に振って制した。 「いいのよ、これからは兄上の御館のようにはいかなくて当然でしょう。あまり気ぜわしくするのも、みっともないと笑われるわ」 思えば、生まれて初めての遠出であった。長時間牛車に揺られてきて、この上ない疲労感がずっしりと全身を覆い尽くしている。出来ることならこのまま身を横たえて休みたい。だが、何も用意がないこんな部屋ではそうすることも出来なかった。厳しくしつけられてきた燈花にとって、きちんと寝所としてしつらえられた場所以外で横になるのはとても考えられないことなのである。 ――こんな衣がふさわしいところに、追いやられてしまったのだわ……。 あの計算高い兄が決めたことだ、従うのが賢明というものだろう。だが、それにしても、もう少しましな選択肢はなかったものか。自分はかの西南の大臣家の姫君なのである。こんな田舎暮らしが似合うとも思えない。しかも夫となった者は、あのようなみすぼらしいなりの男なのだ。これ以上の辱めがあるだろうか。あの兄嫁がどんなにか勝ち誇った顔をしてるだろうと思うと、情けなくて仕方ない。
簡単な茶道具すらなく、座したままの姿勢でどれくらい待っていただろう。 渡りの向こうからきしむ足音が響いてきて、部屋の中のふたりはさっと身構えた。傍らの侍女が歩み出て、戸口の側に控える。ぎい、と戸が開いた刹那、部屋奥にいた燈花は大きく目を見開いた。 「……なっ……!」 手にしていた扇は顔を隠すどころか、ぽとりと畳の上に落ちていた。一体、これはどうしたことなのだろうか。余りのまばゆさに、しばらくは入ってきた人物をまっすぐに見つめることすら出来ない。しゅるしゅると、衣擦れの音が部屋中に響き渡り、迷うことない足音がこちらへ近づいて来た。 「……おやおや。どうしました、このような上がり間で。もうすっかり支度が調ったものとばかり期待して参りましたのに」 ――これは、何事……? 何なのだ、この見知らぬ男は。何の前触れもないまま、いきなり現れて。垂らしたままの赤毛はさらさらと胸の辺りまで届いている。整った柔らかな面立ち、静かに笑みを浮かべた口元。……そして。 「おっ……、お待ちくださいませっ……!」 侍女が、ぱっと飛び出してふたりの間に割って入った。その肩先は後ろから見てもはっきり分かるほどに、大きく震えている。畳に付いた指は食い込みそうなほどの勢いであった。 「こっ、こちらは、この上なく高貴な姫君様にあられますっ! このように……見ず知らずの方の、突然のお渡りは、どうかご遠慮願いたく……」 ほほう、と男がその場に跪く。ようやく少し影になって、その衣の文様が視界に入った。 ……何と言うことだろうか、このようなことが許されるのか。この者は殿上人でなくては身につけることが許されていないはずの、豪奢な刺し文様の施された衣装をまとっているのだ。幾重にも重ねられた絹も、ぱっと見ただけで一級品と分かる。ふわりふわりと気の中を漂う様も、この上なく優雅であった。 「まさか、もう私の顔をお忘れか? たった今さっき、会ったばかりだろう……」 恐ろしさに耐えきれず頭を低く床に押しつけていた侍女が、促されるままにゆっくりと面を上げる。その横顔が、みるみる驚愕の色に染まっていった。 「えっ……、そんな! そのっ……、これは一体……!」 ほとんど半狂乱で、しっかりとした受け答えにはならない感じである。だが、それは燈花とて、全く同様であった。こんなこと、あるわけがない。あっていいわけがない……! 「――姫」 男は静かに侍女の前を通り過ぎて、まっすぐに燈花の元に進んでくる。差し出された手のひらだけ、確かに見覚えがあった。 「急ぎ、お支度を。今頃、家の者たちが、首を長くしてお待ち申し上げておりますよ? 皆、あなた様のお越しになるのを、今か今かと心待ちにしておりましたから……」 薄汚れていた首筋は綺麗に清められ、濃紫の上掛けがこの上なくしっとりと美しく映えている。衣だけではない、その立ち姿までが都のさる貴人を彷彿させた。
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「すでに幾人かは控えている」と言っていたはずの侍女の数は、それこそ部屋を覆い尽くすほどであった。その誰もが、満面の笑みで燈花たちを招き入れる。ふすまをひとつ隔てた次の間は、今までの場所とはあまりに違いすぎる豪華なしつらえであった。何という広さだろうか、兄の館でもこれだけの部屋はそう見当たらないと思われる。側に控えたままの侍女は、先刻から身体の震えが止まらない様子だ。 「さあさあ、殿方はこちらには必要ございませんわ。あちらの広間ではすでにお客様がお待ちです、お相手をなさってくださいませ」 几帳の内をのぞき込もうとする男は、たっぷりした体格の侍女にあっという間に押しやられた。朝、兄の館を出るときに身につけた花嫁装束はあまたの手であっという間に取り払われる。それこそ、声を上げる暇もないほどの早業。さすがに呆然とした燈花の首筋に、柔らかな香りのおしろいがはたかれてゆく。 ……まさか、そんな。 桃色に近い葡萄茶の長袴は王族の女性しか身に付けられない色であると承知している。何故、それが自分の婚礼衣装として用意されるのだ。このようなことが許されるわけもない。いくら王族に続く一族と呼ばれる燈花の実家でも、女子たちがこのような衣装を身につけたことはなかった。あの兄嫁ですら……、元は王族であったお方ですら、そのくらいはわきまえていたのである。 「何をそのように驚かれていらっしゃいますか、我が館の主が方々手を尽くして探し求めた一級品にございますよ? あるいは……こちらでは、大臣家の姫君様のお気に召しませんでしょうか」 両脇から支えられて立ち上がると、袴の裾はふわりと足下に広がっていった。その流れの優美なこと、そして裾の刺繍の華やかなこと。およそこの世のものとは思えない仕上がりだ。兄嫁が用意してくれていた輿入れ用の装束にもこれほどの品はなかったと思う。しかも、丈直しもほとんど必要ないほどに身体にしっとりと馴染んでいた。 「まあ、……良くお似合いで。これはこれは、評判以上のお美しい姫君様ですわ。ご主人様も何とお幸せなことでしょう、このように素晴らしい奥方様を頂くことが叶うなんて……」 姿見に映った燈花は、その言葉通り山裾に広がる花霞の如く美しかった。そうしているうちにもあちこちから手が伸びて、髪にも新しい飾りが次々に編み込まれてゆく。ただひとりの元からの侍女も、放心状態ながらあれこれと質問されながら共に支度を手伝っていた。 どんな特別な薬草でも入っているのか、長い間たいした手入れもしていなかった肌におしろいがしっとりと吸い込んでいく。そのみずみずしい輝きは、それだけで朝露の光る花びらのように可憐であった。花色の紅、見たこともない艶は南峰の集落の特級品でもなかなか見られない色味である。紅は肌に合わないと情けないことになるのだが、その色は燈花の唇にこの上なく良く似合っていた。 次々に塗り替えられ、飾り立てられていく自分。それはつい半日ほど前にも、兄の館の長く住まった対で行われていたことであった。だが、鏡の前に現れていく自分は、あのときとは全く異なる。数年前に裳着を迎え、お忍びで山のお社まで禊ぎに出掛けた。その時の晴れ姿も館では語りぐさになるほどのものであったが、それすらも遠く及ばない。 全く、何と言うことだろう。この家は集落をまとめ上げる大臣家でも何でもない、ただの一豪族に過ぎない家柄である。そのことを実家の皆が承知していたことは、あの見た目ばかりが立派で造りがぞんざいなお道具たちにしっかりと表れていた。 確かに。竜王様の元へ輿入れするときの準備とはだいぶ違う品ではあったが、それまで身につけていた装束もそれなりに素晴らしいものではあった。仮にも大臣家の姫君の輿入れなのである、人目に晒されるその時に一目で安物と分かるものを身につけていては、自分でなく兄夫婦が陰口を叩かれることになる。そのようなことを、気位の高い彼らが許すはずはなかった。 だが、今となっては、彼らの見栄の全てすら紙くずのように思えてくる。 主君である兄も知らぬままに、家臣がこのような贅沢をしていたなんて。まさかあの兄が、このような行いを黙って見過ごすことはないだろう。もしも、この事実が明らかになったらどうなるか、考えるのも恐ろしい。 跡目でもない身分の男が、都の王族とも見まがうほどの豪奢な衣装をまとう。更に彼らが住まう館も、外見はただのあばら屋のようでありながら、奥まった人目に付きにくいところでこんなに贅沢にしている。この分では、館の裏に広がる庭などもどれほどに素晴らしく造られていることか。 そして、何より……あの男の恐れを知らぬ微笑みを何としよう。
年配の侍女に手を引かれ、更に奥へと導かれる。そこに掛けられていた純白の打ち掛け。そのまばゆいばかりの布地を覆い隠すほどの刺し文様は、先ほどのあの男がまとっていたものと色違いに造られたものに相違なかった。 幾重にも重なり合う花びら、色とりどりの牡丹の花園の上で羽ばたくつがいの鳳凰。その羽が雪のように花の上に舞い降りている。鮮やかな紅と透き通るほどに白い羽の対比。どこまでも計算し尽くされた芸術が目の前にある。
……ああ、何としたこと。 下に重ねられた朱の薄物を見たとき、燈花の目の前には禍々しいほどに赤く滾る血の海の幻影がどこまでも広がっていった。 つづく(050525)
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