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まさに、寝耳に水の出来事とはこのこと。 大臣家の姫君として十余年を生き抜き、大抵のことは右から左へ流す術を身につけていたつもりであった。だが、前触れもなく訪れた兄のその言葉には、呼吸すらしばし止まっていたのではないかと思われる。 「……何と。そのようなこと、……」 肉親にあって隔てる御簾もなく、台座の上の凄まじい形相を直に見てしまったのだから無理もない。生粋の西南の民、その血を誰よりも濃く受け継いでいると誰もが承知しているその姿。褐色の肌は今や怒りに燃え上がり、耳の先まで赤く滾っていた。 「ええいっ、忌々しいことよ! あの若造が、良くも儂の顔にべったりと泥を塗ってくれたものだ。このようなことが他の集落の者に知れ渡ってみよ、いい笑いものになるに違いない……! 何としたことっ、すぐさまこの足で都まで上がり、首の根を掴んで問いただしたいものを……!」 もともと気性の荒さについては、この上なく悪評の高い人である。このように天下の長・竜王様を相手にしても遠慮というものが見られない。 ――まさか、……でも。 洗い髪が未だに乾かず、部屋中に広げたそれで身動きが取れない状態にあった。三日後の出立に向け、最後の磨き上げだとお付きの侍女たちの真剣さも並大抵のものではない。普段の倍の時間を掛けて丁寧に洗い上げた髪に念入りに櫛を入れていく。香料を使わずともかぐわしい匂いが御簾向こうまで流れていくという自慢の髪。つややかな流れに触れれば天にも昇る心地だと言われていた。 「まあ、良い! こんな馬鹿げたこと、到底聞き入れることなど出来ぬが、醜く食い下がっては儂の恥となる。ここは奴が自分のしでかした失態に悟り泣きついてくるのを待つしかないだろう。こちらはいくつでも打つ手はあるのだからな……! 元はと言えば、――翠の君っ! お前がしっかりしておらんからこのようなことになるのではないかっ……!」 脇に控えている兄嫁を蹴り上げんばかりの勢いで立ち上がると、そのままいとまも告げずに兄は去っていった。部屋を出た向こうで侍女のひとりが絹を裂くような悲鳴を上げたが、そこで何が起こったのかもはや想像のしようもない。 どかどかと更に荒々しい足音が遠のくと、彼女はようやく俯いてた顔を上げた。 「……何ですの、あなたも私に仰りたいことがあって?」 返ってきたのはどこまでも冷たい眼差しであった。夫である兄が同席しているときにはその白すぎるほどのお顔を上げることもなく黙り込んでいた人である。騒ぎが去った途端に豹変するのはいつものことであったが、ここまで突き放されるとは心外であった。燈花が何も言い返すことが出来ずにいると、更に勝ち誇った笑みをその口元に浮かべる。 「ああ、相変わらず可愛げのないお人ね……! 今回のことも、誰ひとりとして私の落ち度と考える者はいないでしょう。ねえ、あなた。都でご自分が何と噂されているかご存じ? まあそれも、身から出た錆というものでしょうけど……ほほ、哀れなものね」 目の前で翻る漆黒の髪。その冷たい輝きと同様にいつまで経っても馴染むことの出来ぬ兄嫁であった。王族の生まれであることをどこまでも誇りにし、ことあるごとにただ人である館の者たちを蔑んだ目で見る。 まあそれくらいの気丈さがなくては、好色な兄が次々に手を付けた側女(そばめ)たちをもまとめ上げ、その産み落とした子を我が子として育てることは出来ないだろう。自身が産み上げた御子も8人を数えていた。その長子は燈花といくらも年が違わないと言うが、そろそろ次の跡目としてのお披露目になると聞いている。昨年生まれたまだ乳飲み子のいる身の上には思えないほど、彼女は鋭いお顔つきをしていた。 同じ母から生まれた兄弟であっても、兄と自分とは二十近い年齢差がある。その両親もすでに亡くなり、こちらにおられる兄嫁であっても、半分母親のようなものであった。だがそれも立場上のことだけであり、このように辛い状況にあるときでもお優しい言葉のひとつもない。 「お可哀想な義妹君に、後でお慰めする絵巻物でも届けさせましょうね。その時に今回ご婚礼用に揃えたお道具を全てお引き取りしましょうか。今となっては、あなたには必要ないものばかりですものね……」 青ざめた頬を髪が隠してその色を見せずに済んだのは幸いであった。何故、このような時にまで容赦なく言葉が叩きつけられるのだろう。もはや兄嫁に期待するものなど何もなかったが、それでも悔しさとも悲しさとも形容しがたい感情で胸の内が渦巻いていた。 ――きっと、あのような姉上を持つ御方ですもの、御本人も鬼のように恐ろしいお姿に違いない。 そう考えられることだけが、ただひとつの救いであった。先ほどまで忙しく立ち働いていたはずの侍女たちも、気付けばすっかり消え失せている。きっと突然の知らせに驚いて、その真相を確かめようと散り散りに飛び出していったのだろう。このように主人を置き去りにして、全くいい気なものだ。あの者たちにとって重要なのは、結局は自分たちの今後についてだけなのである。
いや、違う。ひとりだけ、そうではない者がいた。その存在を忘れてしまうほどの大人しい侍女がすぐ後ろに控えている。 「……姫様、お顔の色が。今日は珍しく冷えますので、火を熾しましょうか。お召し物も一枚重ねられた方が宜しいのでは……?」 何も返事をせずに肘置きに寄りかかっていても、せっせと世話を焼いてくれる。年配の侍女が多い中、ただひとり年の近いこの者だけが人のぬくもりを教えてくれた。だが、それすらもいつ翻るか知れぬ幻影のようなもの。分かっているから、心を開くことなどついになかった。 「いいわ、あなたも下がっていて。わたくしが呼ぶまで、奥の部屋には誰も入るなと伝えてちょうだい」 ハッとして顔を上げた侍女に、懐刀を差し出す。それが燈花に出来る精一杯の思いやりであった。
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幼き頃から人目に付かない館奥の対に閉じこめられ、外界との接触は最小限に留められていた。亡くなった実の父親と長兄である今の西南の大臣の他は、どんなみすぼらしい下男であっても渡りを通ることは許されない。次兄以下の兄弟は、顔も見たことはなかった。 ただひとつの慰めといえば、時折都から届けられる文だけである。そこに綴られている都でのさまざまな出来事が、いつの間にかはっきりと思い描けるほどになっていた。流麗な文字からかいま見られる、柔らかな人となり。あの兄嫁が実の姉であるのだから、それほど期待してはならないのかも知れない。だが、他に何を頼りにすることが出来るものか。
都よりの異変を告げる文を届けたのは、今は竜王様の館にて侍女長としてその名を知らしめている人だった。 兄夫婦も絶大な信頼を寄せているというその人こそが、今回の立役者となるはずの存在。あまたと名を挙げた正妃候補の中で燈花の名がいち早く抜きんでたのは、他でもない彼女の働きかけに他ならなかった。竜王様もその者の言葉ならば素直に聞き入れられると言われている。 ――それなのに。竜王様ともあろう御方が周囲の反対を押し切ってお選びになったのは、どこの馬の骨とも分からない異郷の女子(おなご)であった。もはや正妃としての扱いで寝所奥に住まわせ、人目を憚ることもないご寵愛ぶりだと言う。
――そんな馬鹿なことが、あるわけないわ。今にきっと、竜王様から礼を尽くした詫び状が届くはず。だって、わたくしは西南の大臣家の姫君なのよ。いくら竜王様とはいえ、我が一族をないがしろにすることは出来ぬことをご存じのはず……。 しかし、待てど暮らせどそのようなものが届く気配はなかった。それどころか、塞いでいる耳にも流れ込んでくるのは、都での仲睦まじいご夫婦の噂。人が変わられたように快活になられた竜王様は、以前にも増して政務でのご活躍も素晴らしいと言う。 竜王様の元への輿入れがなくなったことで、さらに内外の自分の評判が悪くなっていることも知っていた。もともと、あの兄と同じ血が流れる妹として、あらぬ噂が立つのは慣れっこになっている。若い侍女を周りに置かないのも、俗世に染まることがないようにと兄夫婦が画策したことであったのに、それも正しく伝わってはいないようだ。だからといって、自分にはどうすることも出来ない。 何もかも、ただ受け入れるだけ。そこに何ら感情など抱いてはならない。少しでも弱さを見せたりすれば、腹黒い者に付け入れられるだけだ。
ぼんやりとしているうちに春は過ぎ、いつしか衣替えの頃を迎えていた。明るい色目の侍女の装束が辺りを彩る頃になり、さらに明るい日差しが閉ざしたままの部屋奥まで追いかけてくる。届けられた夏の装束は、あまりにもみすぼらしいものであった。 「仕方ございませんわ、燈花様はもう都に上がられるものとばかり思っておりましたもの。王族としてのふさわしい御衣装ならば新しくこしらえたものがいくらでもございますけど……そのようなものを今更身につけられては、更にわびしさが募るというものでありましょう……?」 もっともらしい言い訳を考えつくものだと思った。 本気で揃える気になれば、大臣家には年頃の姫君が何人もいるのだ。その者たちに用意した衣をこちらに回せば用が足りると思う。ただ、それをしないことで兄嫁は暗に自分を「厄介者」であると言いたかったのだ。分かりやすいやり方で、侍女たちも更に自分の元から遠のいて行くのが分かる。この上ない屈辱ではあるが、言い返す言葉も見つからない。 庭先の花がほろりと首から折れていた。あんな風に、自分もいつか朽ち果てていくのか……そう思ったとき、突然胸の奥から熱いものがこみ上げてくる。それを吐き出せば楽になると知りながら、また飲み込んでいく。ただひたすら、羽ばたくその日を待ち望んでいたのに。それが閉ざされてしまった今、もう行き着く場所はない。
以前は足繁く通ってくれていた兄も、もう長いことこちらを訪れていない。もはや自分という存在が、誰からも無用のものとなったことを更に深く心に刻み込まされた。 竜王妃としての未来があったからこそ、皆はこの身を大切なものとして扱ってくれたのである。お上の元に上がり、必ずや世継ぎをお産み申し上げるという大儀を果たす。それにより、いずれはその存在が政務をも動かすこととなるのだから。 この地が一番美しく輝く季節に、燈花の心は冷たく凍り付いたまま再び動くことはなかった。
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久方ぶりに渡りを進んでくる兄の足音は、人が変わったように弾んでいた。そのすっきりとした顔に何事かと思う。そして兄の口から出た言葉にはさらに驚かされた。 「そうだ、急な話であるが、それほどの支度も必要ないだろう。ただちに車を手配させるから、お前も急ぎ支度を整えるように。ああ、めでたきこと! これで、儂も肩の荷が下りるというものよ」 すぐにはその話を現実として受け入れることが出来なかった。兄はすでに自分の夫となる者を決めて話を付け、何もかもが決まった後にこちらの対に渡ってきたのである。 「夏月(カゲツ)……様?」 もちろん、その名にも覚えがない。もしも他より比べて抜きんでている者ならば、どうしても館の者の口に上がるはず。それすらもない、どうしようもないただ人。何故、自分がそのような者と縁づかなくてはならないのか、全く理解出来なかった。
翌日の朝には車が館に横付けされ、兄がわざわざ部屋まで出迎えにやってきた。臣下の元に縁づく自分にあちらまで同行することはないらしい。ただ、館主としての体裁上、見送りだけはしっかりしようと考えているようであった。 「一度は竜王の元に上がらせようと思ったお前だ。あまりぞんざいに扱ってはならぬからな……」 自分にしか聞こえない声で、兄はさらに耳打ちをした。 「……しばしの辛抱だ。時が来れば、お前にはさらに新しい仕事を与えることになる。その時まで、ゆっくりと骨休めでもすればよいのだ」 燈花が驚いて顔を上げた時、兄はもうだいぶ前に遠ざかっていた。
―― 一体、何事……? 堂々たるその背中を信じられない面持ちで見つめる。それまでぼんやりと霞んでいた頭がすっきりと晴れ渡っていくのを確かに感じていた。そうか、……そうなのであるか。自分は、兄に捨てられるわけではないのだ。今回のことも、兄なりの采配があってのこと。単なる厄介払いではなかった。 何がそんなに喜ばしいのか、自分でも理解出来ない。でも、兄が自分に告げたその言葉は他のどんな祝辞よりも嬉しかった。まだ、自分は役に立つことが出来る、兄のために働くことが出来ると分かったのだから。
しっとりとした皮膚の下を、熱い血潮が流れてゆく。 たくさんの侍女を従えて渡りを進んでいく燈花は、どこまでも大臣家の姫君としての威厳を輝かせていた。
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いつの間にか辺りはすっかりと闇に包まれていた。御簾の向こうにぽつぽつと光が続いている。きっと出迎えの者たちが灯しているたいまつなのであろう。 「長旅、……大変お疲れ様でございました。ようこそ、我が館へ」 ゆっくりと御簾が上げられ、地に跪いている男が目に入った。恭しく出迎えるその者に、後ろで控えた侍女たちからもどよめきが上がる。何と言うこと、これが婿殿か。確かに「我が館へ」と申したのだから間違いはないが、これはどうしたことだろう。どこから見てもみすぼらしい下男の装いでしかない。 「家の者たちが手を尽くしてあれこれご用意致しました。どうぞ、こちらへお渡りくださいませ」 何だろう、恥ずかしいのだろうか。俯いているため、その顔はよく見えない。身丈はだいぶありそうな感じであるが、定かではなかった。何しろ、あの兄以外に物心ついてから殿方を近くに見たこともない。どんな恐ろしい魔物が出てきても、納得するしかないのだ。 それでも手を差し出されれば、ゆっくりと従うしかない。燈花に続いて、近くでずっと控えていた侍女も車を降りた。そして、後の者たちもぞろぞろと後に続こうとしたその時。たいまつを持った男たちが歩み出て、あっという間に車下の足場を取り払ってしまった。 「……申し訳ございませんが」 燈花の手を取った先の男が、ゆっくりと後ろを振り向く。その拍子にぼさぼさの赤毛がふわりと舞い上がり、下から垢だらけの首筋が見えた。しっとりとした手のひらとは対照的なその部分に、言い尽くしようのないおぞましさを覚える。それでもその手を振り払うだけの気力は、もう燈花には残っていなかった。 「我が館はこの通り大変に手狭でございます。姫君の身の回りのお世話をする侍女もすでに幾人かは控えておりますので、あとの方はどうぞお引き取りくださいませ。お道具なども必要ありませんので、そのままでお持ち帰りくださって結構です」
猫の額ほどの表庭では、牛車を回すだけでも難儀であった。不格好なほどに飾り立てた牛車の列が去ってしまうと、あとにはしんとした静けさだけが残る。 「では……まずはこちらへ。突き当たりの控えの間にて、まずはおくつろぎください。私もすぐに支度して、お迎えに上がります」 側に控えていた侍女が、慌てて主人である燈花の重ねの裾を持ち上げた。男はそれを待って、ゆっくりと歩き出す。
その永遠とも一瞬とも言える時間。 つづく(050516)
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