…「秘色の語り夢・沙緒の章〜外伝」…

-序-

 

 

 その道はどこまでも果てしなく続くように思われた。金糸銀糸をふんだんにあしらった織り文様はさながら川の如くほっそりした身体に沿って流れ落ちている。かすかな揺れでその布端が次第に崩れるのを直す気にもなれず、ただぼんやりと空虚な心をもてあましていた。

 汗ばむほどの初夏の陽気ではあるが、こうしてのどかな山裾の街道を進み行けば木々の若葉のまぶしさが清々しさを運んでくれる。ほととぎすの鳴き声なども遠くから聞こえ、さらに奥まった地に入り込んできたことを嫌でも思い知らされた。人によっては風流だと思えるのだろうが、今はとてもそんな心地ではない。

「姫様、ごらんくださいませ。こちらからの眺めは我が西南の集落でも随一と言われているとのことでございますわよ。本当に……夢のような美しさですわ」

 傍らの侍女が素直な口ぶりでそう説明する。牛車とはいえ、しとねを何枚も敷き詰められるほどの広さのあるその場所には他にも幾人かのお付きの者たちが乗り合わせていた。だが、今口を開いた者以外はまるで貝のように口を閉ざしたまま。咳払いをすることすら憚られるような様子である。まあ、あれこれと言葉を掛けられてもこちらとしては面倒な限りなので、このように息の詰まるような状況の方がかえって有り難かった。

「……そう。別にそのようなもの、見たくもないわ」

 肘置きから身を起こすのも億劫で、少しばかり首を動かしただけ。なのに、美しく結い上げた髪に満開の花の如く飾られた紐や珠がしゃらしゃらと音を立てる。その瞬間に背後の女たちにぴくりと緊張が走った。こちらに気付かれぬようにちらりとだけ向けられる眼差しはどれもひどく怯えているのが感じ取れる。
  金の珠を鈴なりにしたそのひとつだけでも普通の民が何年も働いた給金に相当すると言われていた。だが、そのようなことはたいした問題でもない。我が身をどんなに美しく飾ろうとも、今の彼女には何の感慨もなかった。

 ――奴隷のように売られていく者たちだって、きっとここまで絶望してはいないでしょうよ。

 何を押し黙っているのだ、と馬鹿馬鹿しくすら思う。言いたいことがあるなら、普段なら良く働きすぎるほどのその舌を存分に働かせればいいのに。どうせ後でその腹の中に積もったものを、皆で吐き出して楽しむに違いない。使用人たちの態度が裏と表でどれくらい豹変するものなのかと言うことも、とっくの昔に知り尽くしていた。それに彼女たちにとって、今回のことはどんなにか楽しめる話題であろうか。

 

  哀れにも程があると思う。どうしてここまで辱められなければならないのだ。

 古より畏れ多くも竜王家に対しても絶対的な権力を誇示していた西南の大臣家。ただ今の家長となる実の兄上の元には現竜王の姉君が御降嫁されている。飛ぶ鳥をも落とす勢いの一族に生まれ、集落一の、いいえこの海底国で一番の姫君と称されていた。次の竜王妃になることを誰もが信じて疑わなかった自分なのに。

 こんな風に牛車に揺られて行き着く先は、必ずあの晴れがましい都でなくてはならなかった。そして、迎え入れてくださるのは他の誰でもない、殿上人であられるあの御方。千夜の闇を閉じこめた漆黒の髪、同じ色の瞳。すらりとした長身にまとうのは、国中から集められた腕自慢たちが刺し競った美しい刺繍が施された上掛け。
  未だお目に掛かったことはなかったが、そのお噂はたとえ耳を塞いでいたとしても流れ込んでくる。御年ははたちに届かぬというのに、その神々しさと言ったら見る者の心を一瞬で捕らえるほどの威力だと聞く。そのような御方のおそばにこそ、我が身はふさわしい。

 車が止まり御簾を開ければそこには、輝かしいばかりの未来が待っているはずだった。 

 

 御簾越しに傾きかけた日差しが、蜂蜜色のぬくもりを運んでくる。そろそろ夕暮れ。薄紫に霞んで連なる山肌が朱に照らし出される刻限だ。車の進みも先ほどよりはゆっくりになり、丁度いいその時を自分に見せようと言う計らいだということだろうか。そう察してしまえば、ここは何があっても眺めることなど出来ないと思った。

 ――だから、何だと言うの? こんな見え透いた真似をして、わたくしを喜ばせようなんて馬鹿にしてるわ。

 湧き上がる怒りを押しとどめるためにきつく唇を噛んでいた。口内にじんわりと血の味が広がってゆく。……そう、我が身を覆うのは怒り。嘆き悲しんで涙に暮れるなど、西南の大臣家の姫君として育った自分にはふさわしくないのだ。それが出来るくらいなら、このような話をどうして承知するものか。

 生まれ育った館を出る今朝の彼女は、咲きほころんだばかりの花の如く美しかった。

 金茶に近い赤髪、館奥で過ごしたためにその肌は日にさらされることもなく土地の者としては信じられないほどの白さ。もっとも大臣家は好色で知られる家系であるから、彼女の生母もそれはそれは美しい御方であったと言われている。その血を兄弟の誰よりも濃く受け継いだからこそ、俗世とはかけ離れたほどの幸せにも近いはずだった。

  初めて公の場に姿を見せる深窓の姫君を一目見ようと集まった民たち。その誰もから声にもならない溜息が漏れた。口をぽかんと開けたままの者もいれば、自分でも知らぬうちに拝むように手を合わせる者まで見える。凍り付いた表情でそれらを見回した後、彼女はすっと俯いた。

 ――当然じゃないの、そんなこと。わたくしに勝る女子(おなご)がこの世に存在するはずもないのよ。

 それなのに、向かう先は奈落の底。もしも叶うならば、この瞬間に胸に忍ばせた懐刀で胸を突きはかなく散ってしまいたい。この先、どんな風に生きながらえようと、明るい光など差すはずもないのだ。

 

 ぎし、と車が大きく揺れ、方向が変わる。一国一の花嫁を運ぶ行列は、やがて静かに山裾の村に吸い込まれていった。

つづく(050509)

 


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