第3章 報道被害をなくす方策
1.完全な客観報道
日本のマスメディアは戦後"客観報道主義"を標榜してきた。それは"記者の主観とは離れた客観的事実を伝える"というものであると推測できる。しかし情報源である『当局』と密着しているので、当局の主観的判断をそのまま記事や放送原稿にする傾向が強い。これは主観的伝聞にすぎない。これを打破するのに社会部内や記者1人でも実行できる改革はある。それは読者や視聴者に情報源を明示し、自社で確認した事実か伝聞情報なのかをも伝えることである。
日本では、情報源を秘匿することが記者が守るべき鉄則になっている。アメリカでも"情報源の秘匿"という言葉はあるが、それは裁判所などの権力に対して、"取材の自由"を主張するために使われるものである。アメリカでは「情報源を明示することは、ニュース報道をする上で読者や視聴者に対するジャーナリストの義務」※1と考えられている。それは「情報提供者の身元(アイデンティティ)、つまり取材源はできるだけ明らかにすることによって記事の質が高まり、新聞の信頼が保証される」※2という確信からである。
日本では、ニュースソースが安心して事実や意見を記者に話さなくなくなり、提供される情報がごく限られるから、情報源は匿名と考えられている。日本の情報源の秘匿は、権力を守るためであって、市民の"知る権利"に応えるためにあるものではないと言える。市民のためなら、匿名のままでもアメリカの記者のように、地位や所属、話した場所や状況を明らかにする努力をすれば、その人物の輪郭を読者や視聴者に伝えることはできるはずである。
また日本の新聞・放送原稿では、発表モノとリーク、町の噂、記者自身の想像がいっしょくたにされている。今のまま「ニュースソースを明示しないで伝聞を事実として伝えるということは、その情報が間違っているかもしれないという可能性、あるいは、ひょっとすると当局による情報操作が行われているかもしれないという可能性を考える機会を読者から奪」※3っていることになる。
本当に"読者(視聴者)の立場で新聞(番組)づくりをめざす"なら、今すぐ情報源を明示し、自社で確認した事実か伝聞情報なのかを伝え、完全な客観報道をすることである。
2.速やかな訂正・謝罪記事の掲載
松本サリン事件では、オウム真理教の犯行の可能性が出てきたことから、事件から1年後にやっとマスメディアが一斉に河野義行さんに謝罪した。これは非常に珍しいことである。優秀な学校を出たはずの集団が、「悪いことをしたら謝りなさい」と幼児に教えるような基本的なことができないのはどうしてだろうか。
これについて、原寿雄氏は次のように述べている。「『新聞は絶対間違えない』という建前がある。私は『無謬性の神話』と呼んでいるのですが、絶対間違えないという建前だから、訂正などもめったにしない。アメリカでは訂正欄も『今日の訂正』という欄を設けている新聞が増えてきている。それを私は前から主張しているのですが、なかなかそういかないですね。いつも訂正すると、『いつも間違える新聞』というイメージが怖いのですね。訂正すれば逆に記録として価値が出てくるので、信頼が増すのだからやるべきだというのですが、踏み切れないようです」。※4
自分たちが間違えたことで信頼を失った人が実際いて、その数は少なくないのである。そういう人々を犠牲にして、"間違えない"イメージを保っても、あくまでもそれは虚像であり、虚像はいつか崩れるものである。早く間違いを認めて、本当の姿を見せたほうが信頼されるはずである。速やかな訂正・謝罪は被害者の名誉回復のために最大の効果をもたらすと同時に、マスメディアにとっても信頼を増すことにつながるのである。
3.匿名報道のさらなる拡大
わが国では、ニュースの対象となる人や企業は実名で報道することを原則としている。例外として、未成年者と精神障害者が容疑者の場合と,性犯罪の被害者は匿名となる。
最近は報道被害の大きさを考慮して、微罪の容疑者、別件逮捕された容疑者も匿名で報道するようになってきつつある。匿名報道の拡大に大きな影響を与えたのは、浅野健一が原則匿名報道を主張したことであった。浅野は市民が逮捕された事実が報道されれば、本人やその家族は周囲から何らかの迫害を受けるのは避けがたいこととして、「権力犯罪や企業犯罪は顧名(実名)を、社会的弱者の一般市民の犯罪では匿名を原則としようと提案している」。※5
これに対するマスメディア関係者からの反論はすざましかった。「最初のうちの反論は『起訴率、有罪率が高い』『実名報道(さらし刑)に一般予防効果がある』『氏名が出ないと面白くなく売れない』などが主だった」。※6その後、柴田鉄治が「実名掲載は警察権力のチェックのため」と主張した。
しかし、実名報道を原則としている現在、マスメディアは警察をチェックしているのだろうか。マスメディアは警察などの権力との癒着構造にどっぷりはまっているのである。確かに、マスメディアが匿名報道をすると実際に警察も被疑者を匿名にして発表する傾向がある。これに対し浅野は「警察が『情報回路』を閉ざしてくるなら、記者は一致団結して弁護士、議員の協力を求めて反撃しよう」※7と言っている。マスメディアはどこかで権力との関係にけじめをつけないと、権力に飲み込まれるのではないか。
また"知る権利"を理由に実名報道を続けるべきという考えもある。しかし「『知る権利』の性質から考えれば、市民が民主的な自治を行うために『知る必要』がある場合には報道の自由が優先し、『知る必要』がない場合は市民の人格権が優先されることになるはずだ。それゆえ、政治家・高級官僚等の収賄・地位の乱用等には『知る権利』が及ぶ(それゆえ「顧名」)けれども、普通の市民の犯罪には『知る権利』は及ばない(それゆえ「匿名」)ということになる」。※8知る権利は、事件に関係ない人の"10秒の好奇心"のためにあるものではないのである。
その"10秒の好奇心"のために、人権を侵害される人がいる。河野さんのように匿名でも人権が侵害されるが、実名報道のままだともっと大きな報道被害が確実に増えていく。はじめからすべて匿名報道することには、私自身も抵抗があるのが本音だ。しかし、例えば子供がからむ家族内の犯罪や、起訴していないものについては、匿名報道を拡大する必要があるのではなかろうか。
4.放送メディアへのアクセス権
これまでの名誉毀損訴訟は活字メディアを相手にしたものが多かった。放送は原告がビデオ録画をしない限り消えてしまうという特性があり、証拠という面では原告に著しく不利だったからである。
放送法では、放送により権利の侵害を受けた者が放送内容を確認できるように定めている。またテレビ局には番組を録画して一定期間保存することを義務づけている。95年の放送法改正で2週間から3カ月に延長されたが、3カ月くらいではやっと弁護士をみつけ、方向性を話し合っているかどうかの段階であり、視聴請求まではできないのではないか。そう考えると、まだまだ保存期間は短いのである。
しかし、"テレビの人権侵害やり放題"の時代は終わった。96年6月に、この番組視聴請求を巡って裁判で争われ、原告が勝訴したのだ。現在、河野さんは「ビデオテープの視聴請求を行おうとしているとい」※9て、テレビ局は許諾する方針だ。しかし河野さんにだけでなく、社会的には小さな事件や他の報道被害を受けた人の視聴請求に対してもその姿勢は同じようにするべきである。
5.損害賠償額の高額化と訴訟の活発化
報道被害による人権侵害の救済方法の主なものは、人権侵犯救済申立て・差止請求・損害賠償請求である。そのうち、法務省に人権侵犯救済の申立てをする方法は、「あくまで説得であって強制力をもたない」※10し、差止請求は事前的救済であり時間的に不可能である。残るは損害賠償請求である。
しかし、日本における名誉毀損に対する損害賠償額は、おとしめられた社会的評価を償うにはあまりにも低すぎる。「一般に賠償額は低く、通常数十万円程度、多くて100万円前後にとどまっている」。※11報道被害の深刻さ、物価水準・所得水準の上昇などを考えると、『慰謝料』水準は低すぎるのである。
損害賠償額が低いと、弁護士を依頼すれば自腹を切る覚悟で訴訟に臨まなければならないのである。そのため、弁護士なしの本人訴訟を勧める本※12も出てきた。しかし、精神的ダメージを受けた"法律の素人"を法律の専門家が肩代わりをしないことには、精神的にも肉体的にも苦しいのではないか。弁護士への依頼費を補う程度は賠償額を上げるべきである。
マスメディアの関係者には、賠償額の高額化について、アメリカにおける高額賠償を例にあげて、報道の自由への脅威となる危険性を指摘する声もある。しかし他の損害賠償訴訟でも原告の弁護士は被告の経営状況を把握して請求額を決めているはすであり、裁判官はより被告の経営状況を考慮しなければならないはずである。「一罰百戒的な意味をも有する損害賠償制度のアメリカ合衆国とわが国とを同列に論ずることはでき」※13ないのである。
報道被害を受けた人の中で、報道被害を受けたと言って訴訟を起こす人はほんの一部であり、泣き寝入りする人が多いと考えられる。しかしその"大それたこと"をやらないと、マスメディアの"書き得・言い得"を認めることであり、報道被害は続くのである。マスメディアに報道被害の多さ・深刻さを伝えるためには、損害賠償額を高額にして、訴訟の多発化・活発化させなければならない。
6.マスメディア責任制度の設立
現在(96年時点)の日本では、報道被害者が被害を訴えるところは裁判所しかない。裁判では、例え被害者が勝訴して損害賠償金を受け取ることになっても、マスメディアが裁判のことを報道しない限り、市民に対しての名誉回復にはつながらない。
苦情を受け付ける窓口として、日本の各メディアは紙面審査機構や視聴者センターと呼ばれるものを用意している。しかしメディアはの多くは審査結果や苦情を公表していない。他にも報道審査をしている団体としては、日本新聞協会の審査室やマスコミ倫理懇談会があるが、読者や視聴者が直接アクセスできる体制ではない。市民が直接苦情を解決する方法がないのが現状である。
現在郵政省が「報道被害者の人権擁護」の名目で、対立するマスメディアと被害者の間に立つ「第三者機関」(郵政省側ではオンブズマンと呼ばれている)を設立しようとしている。民放連やマスメディア関係者は、公権力が介入し表現の自由をおびやかすとの理由で反対している。
この現実を踏まえて、日本マス・コミュニケーション学会や新聞労連では、マスメディア責任制度の導入に向けて具体的な案を出し、準備を進めている。それは報道評議会というものである。裁判は法律を基本として違法かどうかを争うが、報道評議会はマスメディアが自ら作った報道倫理綱領に照らし合わせ、ルール違反がないかを判断するものである。
この説明ではオンブズマンと報道評議会が同一物だと思われるかもしれない。しかしスウェーデンでは両方ある。スウェーデンのプレス・オンブズマンは、市民からの申し立てに理由がありそうな場合、調査をし編集責任者の説明や反論を聞いて、話し合いを通してマスメディアの自主的な行動(訂正・謝罪・市民からの反論掲載)による解決策を探るという役割がある。「話し合いがつかなかった場合、オンブズマンは評議会による判断を求めて、その案件を回付する」※14というものである。日本では、スウェーデンのように、裁判所以外の評議会が裁定書の掲載を命じることは、憲法第19条の良心の自由を侵害するのではないかという問題が生じるのではないかと思われる。そのため、ブレス・オンブズマンと報道評議会の2段階のマスメディア責任制度が必要だと思う。
しかし評議会かプレス・オンブズマンか、それとも両方かはともかく、日本にもあくまでもマスメディアの自主的な責任制度を導入することが急務であることは間違いない。それは、「官庁の役人たちが考える『第三者機関』という名の言語統制機関ができてしまう」※15からではなく、報道被害者の名誉回復と市民からの苦情処理の早急な解決のためであることは言うまでもない。
7.情報公開法の制定
犯罪報道による報道被害が多いのは、日本で犯罪が多いからではなく、犯罪を扱う報道が多いからだという指摘がある。日本で犯罪を扱う報道が多いのはその珍しさもあるが、それにとって代わり得る報道するための情報がないと事実もある。「民主主義社会において、国民が国政に関与するにつき、重要な判断の資料を提供し、国民の『知る権利』に奉仕する」※16報道、つまり国がもっている情報を報道できないということである。日本ではまだ、国がもっている情報を国民に開示できる情報公開法がない。民主主義社会では必要不可欠と言われる制度で、先進国でないのは珍しい。しかし現在、情報公開法の制定の話が政府で進められている。
情報公開法が制定されると、行政とマスメディアは変化せざるを得なくなる。行政は今まで適当なことをマスメディアや国民に言ってごまかせたが、情報公開法の制定により行政のありのままの姿を見せなければならなくなる。正確に報告する義務も一層強くなる。マスメディアは国民の『知る権利』に奉仕するため、行政が何をしたか、何が明らかになったか報道することになる。それによって、一般市民による犯罪を扱う報道は、新聞におけるスペースも小さくなり、放送する時間も短くなる。これは96年11月に厚生省高級官僚の収賄事件が発覚した時期の報道からみても、明白なことである。
情報公開法の制定後、個人に関する情報が流出するという新しい人権侵害の被害が考えられる。要綱案では、個人に関する情報は不開示情報になっているが、流出する恐れがあるのも事実である。しかしこの法律は国(行政)が何をしたかをチェックするものである。悪用されることを予想して、制定しないというのでは目的が逆になる。今後は要綱案の内容を悪く変えてしまうことなく、いかに早く情報公開法を制定するかが問題である。
8.新聞への過信と市民の責任逃れ
日本では新聞の信頼度が高い。日本新聞協会研究所は、1995年6月に第11回全国新聞信頼度調査を行った。それによると、『信頼性』について、「信頼できる」(積極的肯定)と「だいだい信頼できる」(消極的肯定)の回答を合わせて、72.3%であった。この調査は2〜3年に1度の割合で79年から実施されており、それらの調査結果を通してみても、89年の58%を除くと、68〜72%の信頼度を保っている。
この調査では『信頼性』の他に6項目について調べているが、この論文の内容に関係した項目をあげるとすれば、『正確性』『品位性』『公平性』『人権配慮』ということになるだろう。95年の調査でのこの4項目についての積極的肯定と消極的肯定の回答を合わせると、『正確性』74.4%、『品位性』62.0%、『公平性』52.4%、『人権配慮』57.0%で、4項目とも前回(93年実施)より上昇している。『公平性』の上昇について、新聞協会研究所は「テレビや雑誌等の、特にオウム関連事件をめぐる浮足立った報道姿勢や情報に比べ、相対的に新聞報道のバランス感覚や冷静さを印象づけたことが考えられる」※17と分析している。確かにテレビや雑誌に比べたらよかったかもしれない。しかしあの時期の新聞報道は、警察による情報だけで、テレビに対抗して意識的にオウム側の反論は取り上げなかった。※18これが公平であろうか。
調査の前年には松本サリン事件の報道があったというのに、『信頼性』やその他の4項目も前回より数値が上昇したのはどうしてか。それは、市民が新聞やテレビの報道を冷静に見ていないからと言える。報道は与えられた情報や解説を自分なりに解釈しなければならないものである。解釈までマスメディアに頼ると、マスメディアによる情報操作に陥ってしまう。「キャスターが捜査の在り方にちょっと呈しただけで、視聴者から『おまえはオウムの肩をもつのか』と抗議の電話が集中した」※19ということが起こるのである。
民主主義社会では、市民は政府・行政だけでなく、マスメディアをも監視する最高責任者である。冷静に見ないと監視することはできない。マスメディアによる報道被害も、読者や視聴者は「自分には関係ない」と思っている人が多い。しかし、それも市民の監督責任逃れではないか。だとしたら、マスメディアに報道被害の予防策を考えさせ、報道被害者の救済の制度をつくるように催促・監督するのも、市民の役目である。
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