No.001 --01.06.12
このサイトは
本当は、このHPはもう少し先にした方が良いのではと思ったのです。なぜなら私自身があまり良い状態だとはいえないからです。自分の中にちょっとした悩みを抱えていて、それが解消できない為にけっこう暗いです。そういうものが必ず文字に乗って伝わるということを解っているから迷いました。でも、自分の為にHPを立ち上げることにしました。だから私にしてみれば、このHPは自分の中のバランスを取るという状況のものであると共に、自分の中のものを吐き出し、新たなものを受け入れる、言ってみればトイレの様なものなのです。と、表現は悪いのですがこの厠(かわや)現象は、皆知らずにやっていることは多いです。吐き出す事ができない人は、そのエネルギーを自分の内にためてしまっていつか爆発!ということが結構あります。
とはいえこのような状態でも、内なる自分はちゃんと教えてくれます。「それならば、悩みなんてすぐ解決できるだろう。」と考える人もいるでしょうが、どうやらそれは今生の私の大きなテーマの一つのようで、もう少し時間がかかるようです。というより、もう少し時間をかけたいのですね。表の私は。時間がたってそれが何だったのか、ここでシェアすることもあるかもしれません。
というわけで、このサイトに来てなにか感じるものがあれば、あらゆる意味で、自分のものにしていってください。ただ、内なる自分からは『これがすべてではない。』というものが既にきていますので、皆さんの内側に照らして見てください。きっと、もっともっと自由な魂のもとに素晴らしい世界(宇宙)があるでしょう。
|
|
No.002 --01.06.12
内なる私は
上の書き込みをしたら、内の私から言われた。
『違う所でやればいい。』『それがすべてではない。』『悩みがあることがいけないことではない。』とのことだった。
なるほどそうかと思った。内側の自分とやるんだっけ。悩みがあると、それが自分のすべてのように思っているけど実は、ただの一部であるだけなのだと思った。そうだな悩みをいけないことのようにとらえていたな。
でも、このHPが自分の為にあるということには変わり無いな。
|
|
No.003--01.06.13
行くべき方向
「魂がもとの所に帰るという根拠は?」と思ったら、『もともと一つだからこそ、行くべき方向が解る。』と内の私から答えが帰ってきた。
|
|
No.004--01.06.14
まん中の道
上だけ見たら、地に足が着かない。
下だけ見たら、動けない。
右(左)だけ見たら、真直ぐに歩めない。
後ろだけ見たら、立ち止まったまま。
前だけ見たら、行くべき道がハッキリ見えない。
上下、左右、前後、全部見て内の自分と歩む道。
|
|
No.005.--01.06.16
悲惨な事件
テレビのニュースで連日悲惨な事件が伝えられる。いったい何故このような現象が自分の目の前に繰り広げられているのだろうか?それは偶然ではない。
人々(自分)の意識がそれを作り出しているからだ。極端な形で見せられている。決して他人事ではないのだ。多くの人が見ている事は、多くの人にかかわっている。同じような事件が時折続くことがあるが、それは何度もくり返し知らされていることだ。他人事にしているとそれはどんどん近付いてくる。
たとえば『大阪児童殺傷事件』。犯人は、物事がうまく行かない為の腹いせで子供を巻き込んで死のうとしたらしい。これは自分の中の「そういう部分」がこの現象を起こしていると考えられる。「そういう部分」というのは何かと言ったら、思い通りに行かないと弱者に当たることだ。思い通りにならないと、人や動物、物といったものに当たっていることはよくあることだ。これは昨今の幼児虐待や、いじめなども同じ側面を持っている。ストレスのはけ口を、弱いものに向ける。これは物事をすべて力関係で見ているということだ。力のあるものが偉くて、自分より弱いものは自分の思い通りに出来ると思っているのだ。自分の中にそういう部分があるか見ると、決して無いとは言えないことが解る。理解しようと思う。
一方、自分のストレスをうまく発散している人たちもいる。様々なものでバランスを取っている。しかしそれはバランスをとっているだけであって、はけ口がなくなり条件がそろえば、同じ事をするかもしれない。けれどその意識は、自分を救う事無く、結局は自分を壊すことに繋がるということだ。
自分の中のやりきれない気持ちを、何かを蹴って、それで気が済むと思ったら、自分の足の方が痛かったということはよくあることだ。必ず自分に帰ってくる。
一つのテクニックとして、ストレスを何かでバランスを取っておいて、その間に理解するのが一番楽だ。ただ、究極にならないと理解できない人も多い。(私がそうだったりして。)
|
|
No.006--01.06.19
何もない
人は何を求めて生きているのだろう。自分、理解、愛、光、永遠 etc。
けれど 何処へ行っても 何も無い。掴んだと思っても、ただちに手の隙間より霧散する。何も得ないし何も失わない。
美も醜も明も暗も上も下も右も左も愛も光も永遠も多分自分さえ。そこには何も無い。
神(法則)は何も持ってはいない。人は初めから一つであり、人は初めから神である。
それなのに『そうではない』と言っているだけなのだ。それだけの現象(進化=退化)。自分(神)意外に何か有ると思っているだけだ。それは神自身の自己への行程であった。何かの状態(愛、光、自分)でいる事が神なのではない。
起っている現象、形、それには何の意味も無い。神という言葉や存在さえ。
もう何もいらないのだ。
上記は私の中から出てきたものですが、多分そうだろうとは思っていてもまだ自分のものにはなっていません。
前に物事は、『有ると思えば有るし、無いと思えば無い。』ということを聞いた事があります。人の因縁というものも単にそれが有ると思っているからそういうものが現われているだけだではないかと思ったことがあります。有るということにも出来るし、無いということにも出来る。そしてそのように展開する。やはり空なのかなと思っている今日この頃です。そこを使う必要がないということか。
|
|
No.007--01.06.21
因 縁
因縁がなかったら人はどうなるだろうか。
人を殺してもそれが自分に帰ってくることがなかったら、どうなってしまうのか。ということを考えると、やはり現象というものは、「もともとそれはいらなかった。」ということを知るために起きているように思える。なにも無いところから自らが作ってしまったものを捨てる(置いてゆく)為のものだと思う。
やはりもともとの自分に帰ってゆくところに、その本道はある。
因縁は、何もいらなかった自分を思い出す為に起きている。自分が作っているにほかならない。身に付けるものは何もいらないのだ。
|
|
No.008--01.06.23
答えは自分の中にある
自分が尊敬する人、憧れている人、好きな人、解っていると思う人、いろんな人がアドバイスをくれたりする。でも答えはいつも自分の中にある。いろいろな人が言ってくれたことを参考に、自分と相談して決めてゆく。いつも自分にとって正しい答えが返ってくる。
ただし、人が言ってくれた答えと同じことはある。内なる自分に確かめて選んでゆくのがいい。
|
|
No.009--01.06.25
自分自身
内の自分(自分)と表の自分(自身)そこが大きく離れると、とても辛い。自分が分離しているように思う。そこはもともと一つであるべきだから。
理解に応じて人によってその度合いは違う。理解の進んだ人程、少しでも離れると辛いようだ。
やっぱり内外一体で生きるのが快適。安らかな幸福感がそこにはある。
|
|
No.010--01.06.30
愛のポジション
ニューエイジの方たちの『愛』は過去から現在までを見て『今は一つでは無いので一つになりましょう。』と言っている。
私はもともとの所を見て、そこが先だという所から『本当は一つなのだから、そこに帰ろう。(あるいは思い出そう。)』と言う。だから『愛という概念は無い。』と言っている。それは当たり前のことなのだというポジションに立っているからだ。
しかしニューエイジのポジションはそれが当たり前ではなく、素晴らしいと言う所に立っている。
この二つは一見違うように見えるが、実は行き着く所は同じなのだ。
|
|
No.011--01.07.02
今朝の出来事
今朝起きてしばらくしたら、胸のあたりがスースーする。何だろうと思って意識を向けると、そこが宇宙に繋がっていた。
とても気持ち良く、温かかった。そこには全てがあると感じられた。
そこには皆がいた。ずっとここに居たいと思ったが、暫くすると閉じてしまった。でも私の中にあるものだということが解った。多分いつでも開く事ができるのだろうとは思う。
何年か前に、宇宙の果てのもっと先のずっとずっと先まで、何処までも繋がっている自分(内なる自分)を感じたことがあった。その時思ったのは、「この自分を持ってすれば、全てが解る。」と言う実感だった。実際内側から本当に何でも答えが返ってきたがその時はそれに恐れを感じ、すぐやめてしまった。
その時に自分が恐いと感じたもの--真実を知る恐れや、自分が変わって行くことの恐れ--を、少しずつ解き放ち、今は又、その時感じた宇宙をいつでも感じられるようになった。
その宇宙は自分の頭脳の中にイメージとして現れるものだが、今日感じた宇宙は自分の中にあるものとしてより身近に感じられた。
この現象は、自分(人間)とはそういう存在なのだということを教えているのだと思う。
今やってみたことだが、
宇宙の果てを越えてそのずっと先まで行った自分(内なる自分)は空を飛ぶ鳥の様に直線的で平面的だったが、それをふと立体化してみることを思いついた。やってみると「神」になってしまった。私が全てになった。
「そういうことか。」と思った。
03.0712
追 加
後日、これは胸のチャクラだと言うことが解った。その後、頭頂のチャクラも宇宙につながっていた。チャクラはエネルギーと愛に満ちた宇宙とつながっていることが解った。
|
|
No.012--01.07.
06
自分が通り過ぎたこと
自分が学んできて、ふと回りをみてみると「なんだこいつ、まだこんなくだらないことをして!!」と思うことが有る。
でもちょっと待ってほしい。
自分もそういう時代を通り抜けてきて今があるのだから、他人がまだそこをやっていることを非難するのは、自分の過去を否定するのと同じことだ。それは現在の自分を否定するのと同じことだ。
過去があっていろんな人に会って、いろんなことを経験して今の自分があるのだから、「それでいい。」ということになる。そういうものが自分をここまで運んでくれたのだから感謝するべきだと思う。
今、自分の過去の姿を見て(その人)それが低いと決めつけないでほしい。そんなことは未来の自分に現在の自分が低いと言われているようなものだ。今の自分は永遠に低い存在になってしまう。
一見どんなにくだらなく見えることでも、突きつめてゆけば行き着くところは同じなのだ。皆自分の入り方をしているだけなのだ。
人の理解はどんどん進んでゆく、今日「これだ」と思っていたことが、明日は「やっぱり違う」と思ったりする。すべては学ぶための教材なのだから。
あとは自分がやってゆくこと、やりたいことを選べばいいだけだ。
|
|
No.013--01.07. 10
ワクワクすること
バシャールがよく『ワクワクする』事をしましょうと言っている。
『ワクワクする』事、それは自分がやりたい事をやることであり、前向きに生きるということだと思う。そしてその『ワクワクする』事を実際に行動に移すことを言っているのだと思う。内なる私は「前向きに生きる」という意識状態が本来の自分の意識状態に近いと言っていました。自分がやりたい事をやってゆくということが、本来の自分にかなっているということなのだと思います。
|
|
No.014--01.07. 19
エネルギーバランス
プラスのエネルギーと、マイナスのエネルギーはそれぞれ2つ在って一つのものだ、人間個人を見てもそのバランスが取れている内は何ごとも無い。
しかし一旦そのバランスが崩れると、病気(肉体的、精神的含めて)になったりする。そのエネルギーのバランスを取る事がとても大切だ。
地球も同じ様にバランスを取っている。だからすべてのものが今この地球上に出ている。善も悪もその他ありとあらゆるものが、地上に溢れている。そうなっていることがバランスを取っていることでもある。(そしてそれは宇宙全体を見ても同じ事が言える。)
でも最後にはそのバランスは消えてゆく運命にある。人は、そこではない所で生きるようになるからだ。
そこではない所、それは自分の中心。言い換えれば『内なる自分と一体で生きること』だ。そうゆう世界はもう始まっている。
人(霊)としての本当の展開が始まる。
|
|
No.015--01.07. 29
愛を愛する
恋に恋するという言葉があるが、どうも愛を愛している人が多いように思う。
しかしもうその『愛』といわれるものを実践しゆく時だ。実践のなかにこそ本当のものはある。
他人は自分だということを実践してゆくことだと思う。これは一人一人の理解により違ってくる。自分ができることをしてゆく。それは大きな事からではなく自分の足もとから。行動もよいが、意識を変えれば行動は自ずと自然な形でついてくる。あせらない事だ。
|
|
No.016--01.08. 03
枠を外す
ケースバイケースで臨機応変に判断する。
ニューエイジ的なあるいは、精神世界的な考え方にもこだわらない。もともとはそんな考え方などなかったのだから。自分を自由自在に解放するもの、その基準は自分の内側にある。他人や誰かの考えを基準にしないで自分の内側の基準で生きてゆく。
|
|
No.017--01.08. 03
変更
Topページの『ありのままに生きる』を「ありのままに生きる」と「自分を偽る」の二つに分けました。自分の中で二つをごっちゃにして最初書いていた。どうも自分でスッキリしなかったが、違うものだと解ったのでわけることにしました。
自分の中で違うと思ったら、これからも変えていきたいと思っています。本当は本文ももう少しスッキリ書きたいものも多いのです。そのうち変更することもあるかもしれませんが、変更は表示してゆきますので、このHPを見てくれている方はご了承ください。
|
|
No.018--01.08. 08
たくさんの自分
前世の自分、未来世の自分、色んな自分がいるが、それをもっと広げてみたら、すべての人の人生を私は生きていることになる。(それを自覚しているかいないかだけ)だから他人は自分なんだな。
|
|
No.019--01.08. 19
さりげない行動
色々な事を理解し手放した人の行動は、とても自然でさりげない。
後でハッと気が付く、『あれっ!あれは私の為にやってくれたんだ!』
逆に『あなたの為に』(認められたい)という意識を持った人の行動は直ぐ解る。こちら側も『恩義』など感じてしまっていたりする。(通常はそういう人を素晴らしいと感じるのかもしれない。)勿論それが解っても、嬉しかったり、ありがたかったりすることに変わりは無い。その行動は自分のエゴの行動かもしれないが、でもその中にも真実の行動は含まれているからだ。だから他人がどのような意識を持って行動していても、(本人が気づかなくても)真実の行動は含まれていることが多い。
私はそんなふうにさり気ない自然な行動に出会うと、自分もそのように行動したいと思う。そういう行動は相手をそこに縛りつけない。相手も自然でいられる。
|
|
No.020--01.08. 19
今
過去があって今があり。
未来を知り今を知る。
|
|
No.021--01.08. 29
神
『神』とは何かと思ったら。
『存在』という答えが帰ってきた。
|
|
No.022--01.09. 14
アメリカのテロ事件
以前何かのセミナーで『ヤクザは人々の臭いものに蓋をするという意識から生まれる。』というのを聞いた事があります。
私にはとても納得できるものでした。なぜならこの世を作っているのは、個人の意識に他ならないからです。(自分・ひとりひとりの意識が生み出す。)その総意が大きな事件となって、(世界の)人々に問題提起をしていると思っています。隠れたものは必ず表に形となって現われます。自分が何故今その事件を見せられているのかと言ったら、自分(の意識)を知らされていうことに他ならないと考えています。
どんなに世界平和を思っても、争いはよくないと思っても、自分の生活の中で隣の人と喧嘩していたり、「あいつなんかいない方かいい。」「あいつはダメなやつだ。」などと思って暮らしていないでしょうか。それがこの事件を生み出しているのです。多くの人はその自分に気がつきません。それどころか自分は「そんな人間では無い。」と思っているのが大多数ではないでしょうか。アクセルを踏みながらブレーキを踏んでいるような状態です。だから前に進んでいるように見えても実は止まっているのです。
勿論、世界平和や戦争の無意味さを思う事を否定しているわけではありません。そこがなかったら、平和な世界を作り上げていくことが出来ないからです。(そこをきっかけに自分を知ってゆく事もあるからです。)しかし本当にそう思うのであれば、(私を含めて)自分を見つめることをすべきだと私は思うのです。
私は、過去の戦争の真実というものが、総てを公にして語られてはいないと思っています。まだまだ力によってねじ曲げられているものが多いように思います。戦争(テロ事件)を起こした方も、攻撃を受けた方も同じ所にいることは言うまでもありません。しかし、双方とも自分の正当性を主張し、多くの味方を自分に付け正義の名のもとに制圧しようとします。本来であればその総てを公にして、過ちを認め合い二度とくり返さないようにすべきです。しかし自己(国家)の利益の為に覆い隠されているものは多いように思っています。それどころか、いつも誰かを悪人に仕立てます。これは今回のアメリカのテロ事件についても同じ事が言えます。
情報に流されずに自分の中の真実を見つめていく方がよいと思います。情報は都合の良いもののみが流されている場合は多いです。又、真実から目をそらす為に、仮のものを作り目をそらされることは多いです。
力というものに弱い人はまだまだ多いです。力をよりどころとした結果を見せられている様に思います。そしてこれから何を選んでゆくのかを問われています。
|
|
No.023--01.09. 17
キリスト
救世主、キリストが再臨していると最近よく聞きます。
以前『キリストや仏陀レベルは霊界にはごろごろ居る。』というのを聞いた事があります。私にはそれが本当であるかどうかは今の所解りません。
しかしそれが本当であろうと嘘であろうと、上には上があるし、下には下があるというのは頭で想像しても解ります。それはどのレベル(次元)の魂にとっても同じ事が言えるわけです。たとえ自分の次元が現在よりもあがったとしても、何処迄上がっても、上には上があるし下も又しかりということです。
それならば、そういう人を仰ぐよりも今の『自分』をやった方がよいのではと思います。どのレベルになってもいつも今の自分をやってゆく。上を見ても下を見てもきりがありません。(勿論、上の人から学ばないということではありません。)
本当のものはなかなか表には出てこないということもある訳です。
意識の世界をよく解っている人は、決して表に出ないと言います。それは、人々の想念を受けるからだというのを聞いた事があります。バックアップしてくれるものはよいのですが、やはり残念なことに、まだまだ嫉妬や妬み、悪意、不信、等々、様々な想念があることは確かな事です。表に出ると言う事はそういうものを両方受けていくと言う事です。
芸能人などを見るとよく解ると思いますが、よいものだけではなく、その逆のものも、受けているのが見て伺えます。昇り調子の時はよいのですが、一度なにか不都合な事があると、一斉に叩きにかかります。それはそういう裏のものが表に現われた現象です。
公に出るということは人々(社会)の理想と言うものを押し付けられることでもあり、影響力が大きいという理由から、社会の見本や手本となることを強いられます。それに合わせて生きるか、否かで大きく本人の評価が変わって来ます。社会的な理想にかなった人が、成功者と言われている訳です。
キリストや仏陀が生きて教えを広めた時代は、人々の教えの象徴としても役割があったのではないかと思います。当時の人々にとってはそれが必要なことであったように思います。
もしかしたらこの時代、キリスト仏陀に関わらず、意識レベルの高い人が沢山生まれているかもしれません。それはきっと、全く普通の人に見えると思います。
|
|
No.024--01.10. 03
あせらずゆっくり
『あせらずゆっくり。』それが一番の近道。
あせっている時の行動は無駄が多い、方向を間違える事もしばしばだ。又見落としも多かったりして、後でそこ迄戻って確認しなければならないようなことも起りやすい。肉体的にも精神的にもストレスを感じ判断をあやまりやすくなる。
何故かといったら自分が『今』に居ないからだ。何時も先方に自分を持っていってしまって、今に自分が居ない。だから自分の今の状況もあまり目に入らない。
それは今の自分が『悪い』と言う所から来ている。だから先に早く行きたいのだ。しかし今の自分をいけないものと否定してしまっては、自分は何処にも存在しなくなってしまう。『今』というものを抜きに人は存在できない。なぜなら人には『今』しかないのだから。だから何時も『今の自分』が『それでいい』というもとに自分を見てゆけばいい。
しかし時間というものを加味してみれば、ゆっくりやるのが一番自分で居られる。回りもよく見える。これはすべてに於いて言えることだ。
|
|
No.025--01.10. 03
人が指し示すもの
湾岸戦争の頃受けたセミナーで
『イラクのサダム・フセイン氏(現大統領)の目はスッキリしていて「神の為にやっている。」と本人は思っている。』
ということを聞きました。その時は単純にテレビ等の報道を信じて「フセインは悪いやつだ!」と思っていたのでビックリしました。でもそう言われてフセイン氏を見てみると、なる程スッキリした目をしていると思いました。
今回のアメリカのテロ事件の首謀者といわれている、オサマ・ビン・ラディン氏も本当にスッキリした美しい目をしていると思いました。氏も「神の為にやっている」と本当に思っていると感じます。(勿論だからそれがいいというのではありません。)しかしそれが本当かどうかはあまり問題ではありません。又やっていることが良いとか悪いとかということも問題ではないのです。それは人が勝手に付けた評価だからです。(テロを容認しているわけではありません。)
過去、キリストや仏陀やモハメッドやその他、現在まで、聖人と現在呼ばれている人は私達の意識の総意が、そういう人を地球に送りだしたのです。しかし逆に大悪者と言われている人も又、私達の意識の総意が地球に送りだしました。それを知らなければならないと思うのです。
それはいったい何であるのか。今こそ私達は知るべきです。目立つ人も目立たぬ人も、聖人と呼ばれる人も、悪人と呼ばれる人も、全て神が送りだした人なのです。
それはとりもなおさず、自分自身(神)がやっていることなのです。
|
|
No.026--01.10. 04
ありのままの自分
小さい時から「良い子になる」事を求められてきた。「勉強ができ子になる」事を求められてきた。「親の言う事を聞く子になる」事を求められてきた。「良い人になる」事を求められてきた。「賢く生きる」事を求められてきた。世間はいつも「そう生きることがこの社会をより良く生きられる。」と教えてきた。
でも、いつもいつもそうなれない自分がいて、そんな自分を「ダメなやつだ。」と思ってきた。たとえ世間的にどんなに成功者に見えても。心のどこかで自分は「このままではいけない。」と思っていた。
精神世界を知り『あなたはそのままでいいんだよ。』『どんな人にもならなくていいんだよ。』と言われ、自分でその意味が本当に解った時。自分のなかにあった壁が崩れてゆくのがわかった。始めてありのままの自分で人と向き合えるようになった。それがどんなに楽だったか。「もう自分を求めて走り回らなくてもいいんだ。」と思った。
今の自分がそのままでよいということ。そのままの自分を受け入れるということ。それで人は十分なのだと思う。もう自己否定はいらない。
しかし、一歩踏み込むとすれば、内側の自分に従っって生きるのがより自由な方向性を得られるということだろう。内側の自分と一体で生きられたらそれはもう神と一体になることに等しい。でもしばしば内側の自分と外側の自分が食い違うことがある。そうするとちょっと辛い。そこで必要なのが理解することなのだと思う。内の自分に相談するのもいい。(どっちにしても教えてくれる。)
人は学ぶ事も学ばないことも選べる。内の自分に逆らって生きる事も選べるのだ。前に歩く事も、立ち止まっている事も、後ろ向きになる事も、自由にできる。自分の世界をどのようにするかは、自分次第なのだ。
|
|
No.027--01.10. 18
インターネット時代
インターネットが盛んになってきた。私もインターネットを始めてから3年ぐらいになる。
そこでつくづく思うのは色々な意見があるということだ。特に最近アメリカでテロ事件が発生し、それに関連する様々なサイトに行ってみると多様な意見があるのが解った。
こうして色々な意見を聞い(見て)てみて思ったことは、特にテレビ等の報道がいかに片寄ったものであるかということだ。以前よりそれは聞いていた事なのだが、改めて実感している。
自分達がテレビ報道など一方的な情報をいかに与えられていたか、そして与えられたものをそのまま受け取る事によって、自分で判断するということを阻害されてきたように思う。これは意識的な情報操作でもあると思う。本来は色々な意見があって当然で、その意見の中から自分の考えかたや、基準を模索すべきで、本当はそれが当たり前のことなのだ。
所が、報道や教育などもそうなのだが、それらはいつもこれが「正しい」という一方的なものを人々に与えてきた。人々は与えられた基準を「正しい」とし、色んな意見や考え方があってしかるべきことを忘れ去ってしまった。だから自分と違う相手の意見も認めにくい。
インターネットはその忘れてしまった感覚を思い出させてくれた。何の規制も無く、言いたい事を、歯に衣を着せずに言い合う事の気持ちよさを忘れてしまっていたのだ。
そう思って見回すと、自分が今「正しい」「これだ!」と思っている事は常に変わってゆくということを理解していればいいと思うのだ。そうすれば、自分の意見に固執する事なく、いつも新しいものや事実を自分の内に受け入れられる。
自分の得たものや理解したものはいつも変化してゆくものだ。だから何時も一つの事実や理解や悟りにこだわる事なく、変われる自分でいることだ。それがより自分を自由な世界に導いてゆく。何時でも受け入れ手放せるということだ。
これは全てのことにあてはまる、意識の世界もこれで終わりと言うものはないのだから。
結局、意識の世界では「正しさ」はない、ただ現象世界においては事実があるのみだ。(この行は、説明不足のため追加)
|
|
No.028--01.10.18
自分を求めて
私は3人兄弟の真ん中に生まれました。姉は小さい頃から体が弱かったし、弟は4才半年が離れていて手がかかったので、私の両親は真ん中の私にまで手がまわらなかったようです。そして私と父は小さい頃から平行線で、昔の人間である父は私と全く合わず、言う事を聞かないわたしは中学生ぐらい迄よく叱られ、泣いていました。
そんな訳で一見友だちもいて元気いっぱいで明るく見えた私でしたが、かなり孤独な幼少時代を過ごしてきました。
私は何時も他人との間に壁があるのを感じて生きていました。何でそうであるのか自分でもよく解りませんでした。
精神世界を知った時、自分の過去をやる事をすすめられ、自分の過去を見てみました。それはノートを一冊用意して左のページには今迄あったことを書き、右のページには「そうでなかったらどうなっていたか」というものを書くというものでした。早速自分の過去を記憶のある限り書いてみたのです。
すると自分が親に「愛されたかった」ということが解ってきました。それが解ったら、するすると色んな事が繋がって見えてきました。
いつも心の深い所で、自分は愛されていないという悲しみのようなものがあったのです。本当は両親に愛してほしかったんです。でも親にそれを望む事は出来なかったので、結局はそれを他に求めることで自分に欠落しているものを埋めようとしていたのです。
そうするとどうなるかというと、他人に好かれたくて(愛されたくて)しかたないんです。そうすると逆に嫌われるのが恐くてしかたないのです。傷付くのが恐くて自分の周りに高い壁をはり巡らしていました。他人が恐くて仕方がありませんでした。その頃の私にとっては大変なことなのですが、今考えるとほんの小さなことで一喜一憂していました。そんな自分の姿がハッキリと見えてきました。
だから時に他人は私を傷つける敵でした。自分を傷つけない為に人の顔色を伺い良い人であり続けようとしました。気に入られる人間であろうとしました。これは人によって出方が違うかもしれませんね。自分の身を守る為に攻撃性が色濃く出る人もいるかもしれません。
外見的には全く普通に見えても,私が何時も他人との間に距離を感じていたことの原因がやっと解ったのです。
最初に「愛されない自分」はダメなのだという自己否定がありました。私は何時も「私はここに居るんだ!」ということを解ってほしかったのだと思います。
それが解ってからは随分楽になりました。もう充分大人になっていましたので、親の愛を求めなくても自分で何もかもやっていけると思っていたからです。又、自分から親に貢献できることを知っていたからです。(これは親に役に立つ事でで失われてものを埋めていたのです。バランスですね。)そうすると自分の回りの壁も少しづつなくなってゆくのがわかりました。自分を否定する気持ちも少しづつ薄れていったように思います。
それから暫くして母親が癌で亡くなりました。でも父は私達子供には亡くなる直前まで病名を知らさずに、ひとりで苦しんでいました。「父親として始めて子供(私)を守ってくれた。」「私は愛されていたんだ。」と思いました。私はそれを知って、それ迄の父との間で苦しんだ事や悲しかった事が全てなくなってゆくのが解りました。私と父との間にはもう何もありませんでした。
親は完璧(一般的な意味)ではないのだということが解りました。親は自分がいいと思う事(理想)を子供にしますが、子供に取っては必ずしもそれが居心地よいものでなかったりします。子供も又その中で理想の親像というものを構築しそれを親に当てはめようとします。そうするとお互いの主張がぶつかって平行線になります。お互いが「自分のやり方」を押し付けあっていては調和は生まれません。やり方が合わないのであれば気づいた方が、自分の信じた「やり方」を相手に押し付けるのでなく、それを自分が実践して相手に示せばいいのです。
しかしその根本には形はどうであれ「相手の事を思う気持ち」(愛)がお互いに込められているのです。それが相手の思うような形で出来る人もいれば、そうでない人もいる訳です。
私はやがて「やり方」があわないだけなのだということに気づいて、違う所で父を見る事が出来るようになりました。でもただそれだけでした。あとは「自分を生きよう」と思っていました。
親も子も同じようにお互いに学びながら生きているのですね。その後もやはり父は私のやる事なす事を反対して「好きな事をするなら出ていけ!」と言われ家を出た事もありましたが、そのことで父の「やり方」を違うと思う事はあっても父を恨む気持ちにはなりませんでした。
その後、私に変わって、父に忠言してくれる人も現われ、今は親子二人けっこう仲良く暮らしています。結局私は失ってしまった(自己否定)自分を探していたのだと今は思っています。「青い鳥」はいつも自分の内にあるものですね。
|
|
No.029--01.12.07
枠
多くの人は自分の枠を持つ。
社会に於いても、家庭に於いても、「これがいい」というものを持つ。そして精神世界やニューエイジを知ると、今度はそれを「これがいい」と言う枠にあてはめて見てしまう。そういう人がしばしば見受けられる。
社会で当てはめていた方程式を精神世界でも当てはめてしまうのだ。そしてほとんどの場合はそれに気が付いていない。
精神世界やニューエイジを知って学んでいる人が「正しい」(良い)くそれ以外の人をダメ(低い)だと決めつけてしまうのだ。
もともと精神世界やニューエイジという言葉は後から付けた言葉で、それは自分を生き、自分(神)を知る事を解説しているだけに過ぎない。
精神世界やニューエイジを何も知らない人でも、精神世界やニューエイジで説明しているような生き方をしている人はけっこういる。
かく言う私も、精神世界を知るずっと以前から、バシャールの言う『ワクワクすることをする』生き方をしていて、自分のやりたい事をやってきた。
それはなにか特別なことではない。この世の現象を自然に受け入れ、しかも充実した人生を生きている人は沢山いる。
もしかしたら、あなたの隣にいる人がそうかもしれません。
|
|
No.030--01.12.07
無条件の愛
『無条件の愛』とは精神世界ではよく聞く言葉だ。
しかし、愛というものに限らず、人は行動に条件を持つことが多い。条件をつけるのは何も愛だけではない。愛というものに条件をつける人は、他の全ての行動にも条件を付けているのだ。
それは、良い悪い(損得)の意識を持つところから来ているのだ。
もし無条件の行動を『愛』と呼ぶのなら。
全ての人が、行動に条件をつけずに動けるようになったとしたら。
それはもはや、『無条件』とつける事も、又『愛』とことさら呼ぶ必要もなくなるだろう。
もともとは何も『条件』など持ってはいなかったのだ。『愛』という言葉もなかったのだから。
|