No.031--03.27

 イメージ

人は言葉の上にイメージを重ねる。

例えば、神、愛、光、といったもの。そこにはその言葉に自分なりのイメージ(概念)を付け加えている。そういったものを美しいとか聖なるものとか独特のイメージを付けている。

それらは、そのイメージを超えたものであろう。

No.032--03.27

 神というもの

神は個性も性格も人格もない。

そのすべてであり、存在そのものだ。

No.033--03.27

 理解(さとり)

理解(さとり)は立体的。多次元的。

すべて繋がっていて、一つがすべてに、すべては一つを表している。

だから目線を自分の手許に落として見てみれば、いろいろ応用がきくものだ。

No.034--05.10

 わくわくすることは

わくわくすることをすると、どうなるかと言ったらどうにもならない。

それは世間的な成功を納めると言う事でも無い。しかし結果的にそういう評価を受け、そういう立場になる事はあるだろう。

それは、わくわくすることを行動することにより(自分がやりたい事をする)自分が充実した人生を送る事ができるということに他ならない。

『それでいいんだよ。』ということなのだろう。

しかしそれこそが一番だと私は思う。

No.035--05.10

 一年たって

今日でHPを開設して一年がたちました。

 このHPは初心者の方に解りやすく書いている訳では無く、心の赴くままに『自分』と言うものを基盤に自分の為に書き綴ったものです。

書かれている事の中から何か感じるものがあったら、内なる自分に問うてもらうのが一番いいとも思っています。又、ここに書かれている事を私が深く理解して行動できているかと言えば、???なのです。答えが先に出てきて、それを後から確かめている感じです。まだまだ解っていない事が多いです。(苦笑)

 多くの人に見てもらうということも考えておらず、必要な人が必要な時に見てもらえればよいと思っています。必要がなくなれば、それはそれでよいと思っています。

もともと自分の為にはじめたものなので、自分が必要なくなればいつでもHPを閉じようとも思っています。

 こんな調子でこれからもやってゆくと思います。何時まで続くか解りませんが、のんびりやっていこうと思っています。

No.036--07.16

 中 心(内なる自分)

 今の自分の中心。未来の自分の中心。そして過去の自分中心。

それらの中心はすべて一緒だ。だから今の自分の中心(内なる自分)を見てゆけばそれでいい。(事足りる。)

中心はすべて同じ。そして神(法則)へと繋がっている。

その時の自分に必要なレベルから情報はやってくる。そのレベルに何もこだわるものではない。

No.037--07.16

 全ては自分で判断する

 セミナー等で次元の高い存在からのメッセージを聞いたりたり、そういう存在と話したりするが。それが「次元の高い存在」という理由で容易にすべて信じてはならないと思う。

逆にレベルの低いと言われている(あるいは思っている)人の話も「次元が低い」という理由ですべて違うものとするのは違うように思う。

肝心な事は自分の中で本当に必要なものとそうでないものが解る事だ。自分の中のふるいにかけなければ本当に自分のものにはなってゆかない。そうすることによって、あらゆる事から自分に必要なものを理解し自分のものにすることができるだろう。

相手が何かをもってくるのではなく、自分の中に全てがある事を知るべきである。自分がそれを知っているから判断できるのだ。

No.038--07.16

 ためし

 神はためさない。

すべては自分でためしている。確かめるために。

ためすのは人間である。

『愛』を説いたかの人も、究極の状況で『愛』を実践する自分をためし(確かめる)たかったのかもしれない。

No.039--08.11

 変わってゆくワクワク感

 バシャールの本が出た当初からよく友人に言われた事だが、

『ワクワクすることをしなさいって、人を殺すことがワクワクすると言う人がいたらどうすんの??』

もっともな疑問だと思う。

しかしそのワクワクを実行するとどういうことになるかと言うと、自分も他人も不自由になるという結果になってしまうだろう。こういうことから他人を滅したり苦しめる事で、自分のワクワク感は持続出来ない事が解る。

それでも私は他人の事はどうでもいいから自分の思い通りに生きたいと言う人は、仙人のように社会から分離して生きる事をお勧めする。(笑)

社会のなかで生きるということは、自分と違う価値観の持ち主達と共存してゆくということだ。自分と同じワクワク感を他人が持っているとは限らないのだ。自分が良いと思っている事を他人に押し付ければ、お互いの関係を保ってゆけない事は多い。

(私は社会生活は仙人生活よりも高度な環境だと思っている。)

肝心な事はどういう所で自分がワクワクしているかということだ。

 例えば、私は自分の生活環境から自分にコンプレックスを強く抱いていたので、その自分の欠けているもの(コンプレックス)を補う為に『他人の出来ない事をやり他人の注目を集めたい。』という意識を持っていた。ダメな自分をダメじゃなくしたい。(元論それはいけないことではない。)そしてそういう自分を納得させてくれるものにワクワク感を抱いていた。それがアニメーションの背景マンやエアロビクスのインストラクターや声優という職業を選ばせた。他人が容易に出来ない事で「すごいねー!」と他人に言わせたかった。(勿論好きなものは好きなんだけどね。)

しかし、ダメな自分などなかったことに気が付くと今度は違った所でワクワクを感じるようになる。自分はダメじゃないことを他人に認めさせることではなく、自分が本当に好きな事、自分が楽しめる事、自分が充実している事、他人ではなく、自分というものを基盤としたものに変わってゆく。そういう所でやってゆくことが楽しい。

ワクワク感は自分が変わってゆくとどんどんと感点がかわってゆくものだ。今迄やっていた事に魅力を感じなくなったり、同じ事でも見えるもの感じるものが違ってくる。

バシャールは多分、『身近な所からやって(行動して)ゆきましょう。』ということを言いたかったのではないだろうか。

No.040--08. 23

 ワールドカップ

 ワールドカップが終わった。

日本中がサッカーに熱中し、『年令を超えて一体感を味わった。』とニュース番組は口々に伝えた。

確かにサッカーというものを通して一体感を味わった人は多いと思う。私の父は「戦時中を思い出す。」と言っていたが。

人は元々繋がっていて一つだという事を思い出す為に『媒体』(キッカケ)が必要なのだと思う。サッカーという媒体(見方によっては小さな戦争とも言える。)も戦争という媒体も一つの形。そういうものを使うと、人と人との境にある垣根を一瞬で取り除く事ができる。その垣根はもともとはなかったものだからだ。

立場や年令、性別などを超えてそうなるのではなく、もともとそうであるからちょっとした媒体(キッカケ)でそういうものが現れるのだ。

一度そういうものを感じると、その心地よさを忘れることはない。又そういうものを求めてより大きく動き出す。それは表の自分の自覚の有る無しにかかわらず動く。

『媒体』が問題ではないのだ。そこにこだわるものではない。

No.041--08.23

 人間の完全性

 人はいつもどんな時も完全である。そのままで完全である。

これはどういうことかと言ったら、今起きている事、今の自分の自覚している世界は自分が常に作っているという意味に於いて完全だということだ。今の自分に反していることは何も起きていない。

だから自分次第でどのようにでもなるということだ。それがどのように傾いてもすべて自分のやっている事であるということなのだ。

『そのままでいい』ということは「自己否定をしない」と言う意味で使われることが多い。私達の社会は理想と言うものをかかげ、それに合わせて生きる事をすすめてきた、それにより本来の自分とかけ離れた人生を送っている人は多い。しかしなかなか理想通りには生きられないそのギャップから、このままではいけないと思い込んで生きている人がとても多く見受けられる。

以前に、「そのままでいい、変わらなくていいということ(人)は、それだけのものでしかない。」ということを聞いた事がある。勿論それはいけない事ではない。しかし私も同感だ。

変わることが目的ではないのだ。本来の自分に戻ってゆく事が本筋なのである。

しかし私は個人的に、人はどうころんでも、ある方向性に行くように作られているように思う。そうでなければ、喜怒哀楽など感情はないだろうし、考えることも、さとることも、ないだろう。

No.042-03.01.24

 精神世界の落とし穴

 精神世界を学んでいくと、『意識が変わると現実も変わってくる。』ということがしばしば出てくる。それは勿論そうだと思う。

しかし、それは自分がそういう事を理解すると、自分にとって良い事ばかりが起き、何でも思い通りになることだと勘違いすることがある。

そして自分にとって良くない事や辛い事苦しい事が起きると、自分は解っていなくてダメな人間だと自分を責めてしまったりするのだ。

又、(精神世界の)周りの人の中にはそういう人に遭遇したりすると「解っていないや人だ。」「レベルが低い人だ。」という意識ありありの態度をとったりすることも結構あったりする。そんなこともあると本人はますます自分を責めてしまったりする。

しかしそれ等は、ただ単に学ぶ為の現象が起きているだけであって、その他の意味は何もない。自分や周りがそれを『良い悪いの枠』に当てはめて見ているだけなのだ。それは今迄のものの見方から、一歩も出ていないものであると言わざるえない。

又、一見良くない事のように見える現象も次なる展開への布石だったりする。

 私は以前、ある精神的霊的指導者の元で学んでいたのですが、色んな事情からそこをクビになったことがありました。その指導者の方をとても尊敬していたし、意識レベルもかなり高いと思っていたので、自分としてはかなりショックでした。しかも一緒に学んでいた人達からは「中心から弾かれた。」と言われ、そういう扱いも受けました。自分は意気揚々と精神世界を学んでいたと思っていたので、光の道から一気に暗い地の底に落とされたような気持ちでした。そして、そんな自分を責め続けてしまいました。そうなってくると当然体調も悪くなってきます。

私は何とか自分を立て直そうと必死で自分に問いかけました。

そして、そこでで沢山の自分を知る事ができ、すべてが自分の内にある事が解り(自分が神であること)、自分を取り戻すことができました。

しかし、そんな自分とはうらはらに、そこをクビになった夜に見た夢はそこを卒業する夢でした。『まあ、こんな卒業の仕方もあるさ。』と夢の中で私の後ろの人の声が響きました。

でも当時の私はその夢よりも現実の方が重く自分にのしかかり、とても苦しい毎日でした。自分がダメになってしまうと、その穴埋めに色々なものを求めるようになります。私の場合は買い物でした、いわゆる買い物依存症と一般的に言われるようなもので、とにかく自分の穴を埋め合わせるように、いろいろなものを買いまくりました。人によっては他人の為に奉仕することを目指したりすることも在ります。しかしそれは救われたい自分の穴埋め行為なのです。でもそれがいけないわけでは在りません。それはあくまでも自分の為にやっていることだと解っていればいいのです。そうすると今度はその行為が自分を押し上げてくれることが在ります。

しかし自分を見つめることにより、相手もやり方の違いはあったものの、結局は私の為を思ってそうしてくれたことが解り自分を感謝への道へ導くことが出来るようになりました。そうするとだんだん楽になってゆきました。

現象は中立であったはずなのに、自分の中の基準が自分を苦しめてゆくのがよく解ります。人は色んな教材をもって、学んでいるのだと思うのです。どんな学び方があっても、いいのですね。自分が自分で在るために選んできた現象なのですから。

No.043-03.01..24

 名 前

 プロフィールの所で私は自分の本名を出していたのですが、ハンドルネームに変えることにしました。

何故かといったら自分が書きたい事を書く上で、多少なりとも迷惑のかかる人がいるように思えたからです。それは私の本意では有りません。もしほんの少しでもそのような事が起きる可能性があるとすれば、それをなるべく事前に避けたいという思いからです。「私が良ければよい。」と言う問題ではないと思えるのです。

そんな訳で自分の本名は臥せてハンドルネームにしました。

No.044-03.08.04

 心霊

 最近、心霊を学んでいる。

 本を13冊程度読んだだけだが、自分が学んできたことの答えの様なものが多く書かれてあったので嬉しい出会いだった。

以前、精神世界のセミナーに出た時の講師の先生が言っていたことだが、「人間は霊的なこととの関連は切っても切り離せないもの。いづれは心霊をやらなければいけない。」ということを言っていた。

それが意識の中にずっと残っていたことと、夢の中で、「あなたは魂を学びなさい。」と言われたことなど相まって非常に関心は前からあった。そして私の周りに霊的現象がかなり多くあるので、思い切って心霊を学んでみることにした。

 そこで思ったことは、なぜ精神世界と心霊というのはジャンルが分けて語られているのか不思議な気がした。

心霊と精神世界はお互いに良いところを取り入れるべきだと思う。精神世界で語られていることは、心霊の霊界通信で語られていることを、現代人に合う形で補うように実践を取り入れて語られているのではないかとさえ思えた。

心霊の霊界通信は、精神世界でのチャネリングとして語られているものと同じものであると思った。ただ、入り方が違う、精神世界の方がより自分(神)というものを基盤として、個人を切り口に進められているように思う。心霊の方は、時代的にも昔のもので、神を祈ることや、信じることを基盤として内なる自分を見いだすと言う形をとっている。

結局行き着くところは同じなのだが、心霊の方は一昔前のものでその時代、国、文化、宗教、そこに集う人の意識レベルに合った形で語られているように思う。特にキリスト教圏なのでイエスキリストの言葉を借りた説き方が特徴となっている。

又、霊的存在(守護霊、背後霊)を前面に押し出して語られているように思ったが、精神世界では、依存を生むと思ったかどうかは定かではないが、そこを前面にすることはない。又、霊的なものの扱いは非常に恐いものがあり細心の注意を払い、専門家(よほどの人でないとダメ)のもとで行わないと危険であるからかもしれない。私本人も本当に実感している。よく精神世界では「チャネリングは誰でも出来る。」と安易に指導しているように思うが、多分ほとんどが意識レベルのかなり低い(低級霊)ものとつながっているのが現状だと思う。あるいは高いものと低いものが混ざってしまっている状況にあると思う。心霊を学び、より切実に思ったのは、チャネリングをしている人は心霊を学んだほうがよいと言うことだった。

「自分は精神世界をしっかり学んでいるし実践もしている。在る程度の高次元の体験もしている。」それがたとえ自他共に認めるものであっても、人間を陥れようと思ってチャンスを狙っている霊は多く油断は禁物なのだ。

彼らはグループを作り、精神世界や心霊の知識をもちよる。人の考えや思いを読み、本人が忘れているようなことを語ったり、意識レベルの高い霊達の言葉を使ったりして、あらぬ方向へと人を陥れてくる。「神」であるなど簡単に言ってくる。その人の一番弱いところを付いてくるのだ。自分の背後に、そういう低レベルの霊を払ってくれる守護霊団がない限りチャネリングは難しいかもしれない。

又、類魂(グループソウル)と言う考え方も非常に面白かった。そこで思ったことは究極的には神の類魂なのだということで「やっぱり神だったんだ。」という気持ちが込み上げてきた。この変はまだ勉強中なので何とも言えないが新たなことが解ったら書きたいと思う。

No.045-03.08.04

 苦しみ

苦しみは苦しみでしかない。

苦しみの中に真理が有るわけではない。真理は、苦しもうと喜ぼうといつもそこにあったものだ。

苦しまなければ素晴らしさが解らないものは本当のものではない。

苦難を乗り越えつかみ取るから、素晴らしいというものは、そういうものでしかない。

苦しもうと喜ぼうと素晴らしいものは素晴らしい。

真理、それを素晴らしいと思うかそうでないかは個人が決める。

No.046-03.08.04

 自分を愛すること

自分を無条件に愛してゆく、どんな自分であってもその自分を捨てては(否定)だめなのですね。過去を認めたうえで、いつもそこから始めてゆけばいいのです。それが今を生きるということ。

自分を無条件に愛することができれば、他人を無条件に愛することはたやすいことだ。

No.047-04.04.04

 精神病

精神病はない。そこには悩みが在るだけだ。

脳事態に損傷がないかぎり、精神病は本当はないと私は思っています。

私の家族の一人(以下Rと呼びます)がいわゆる精神病という診断をされていました。
しかし、どんな医者に行ってもよくなってゆきませんでした。
日本で一番と言われる精神科医にも行きましたが、なかなかよくならず、病院を転々と変えました。本当にいくつの病院に行ったかー。しかしそのたびに病名が違うのです。精神カウンセラーにも行きました。漢方医、漢方薬、ヨガ、食事療法、断食、自律訓練法、催眠療法、導引術、心霊療法、等々どれもおもわしくなく、しまいには宗教にも入りました。

ある時私は、なぜそのように思うことになったかと、R本人に問いつめてみたのです。そうしたらその原因が次第に明らかになっていったのです。
医者にかかって10年目にしてやっとその原因がわたかったのです。
あきれてしまったのは、一流と言われる精神科医達がその症状の根本原因を聞き出すことが出来なかったことです。日本中の名医と言われる医者たちが揃もそろって原因も聞き出せずして、どのような治療を施すのか?机上の論理もいいところです。だから病院ごとに見立ても病名も違ったのです。

機会があり、ある精神科のお医者さんにいろいろと聞いてみた事があります。医者は脳の脳内物質がうんぬんと言うのですが、「それではどうしてそのような脳内物質が出てくるのか?」と言った所、突き詰めれば「その人の性格。」ということになりました。又、「薬は手助けをするだけ。」とも白状(?笑)しました。
本当に性格が薬で治るとは思えません。薬では治らないことを一番知っているのは医者なのかもしれません。勿論薬が手助けになることもあることは否定するものではありません。
しかし大抵の薬は、頭をボーっとさせ、眠くさせる作用がほとんどでした。(今は良いカウンセラーが多少はいるようにも思います。)

結局原因は本人の悩みであったことが解りました。
思春期になると他人の目というものを、より意識するものですが、その処理をうまく出来ずに悩んでいたのでした。他人の評価というものを極端に気にした結果のものでした。そして、自分をさらけ出すことを恐れ、自分の殻に閉じこもってしまったのです。
しかし、R本人がその病気というもののなかに逃げ込み、多大な依存心を持っていたことが何よりも大きな原因だったと思います。

私達の社会はあまりにも規制が大きくて、他人にとっていい子であることがいいように教わってきました。
みんなと同じがいいと、出る杭を打ち続けてきました。
しかし本当はみんな違っていいはずで、違わなければおかしいのです。

結局は周りの人間も、Rが皆と同じで無いことを責め、又R本人も皆と同じに出来ない自分を責めてきてしまったのです。そこが何よりもRを苦しめてきたのです。

他人との比較の中で人を良いとか悪いとか判断して生きるのは止めにしたいと思います。他人と違っていいのです。同じでなければならないという考えが人々を不自由にするのです。

なにか人と違うと、それに病名をつけるということもすすめられません。
病名をつけて安心するという方向性は違うものに変えた方がいいと思います。
原因が必ずあるのです。
病気だと人に責められないが、病気でないと責められるという構造がそこにはあります。まるで病気は他人の同情を集めるもののようです。
世間は往々にして普通であることがよく、普通でないことが許せないようで、普通でない立場の人に対してはかなり厳しいです。それは普通が良いという教育の産物でもありましょう。
しかし、他人の悩み事に対してもう少し寛大であったらとつくづく思います。本当は普通などありはしないのだから。
結局いずれは裁いたものに今度は自らが裁かれてゆくのです。


上記私の家族Rについての霊的な観点から書きたいと思います。
霊的な世界を知った時、もう少しそういう観点からものを見れるようにもなりました。これは枠を変えて下に書く事にします。

No.048-04.00

No.049-04.07

 スピリチュアリズムの考察

スピリチュアリズムは大変素晴らしいと思う。実際私もシルバーバーチを知った時、このHPをはもう必要無いので閉じようと思ったくらいだ。

しかし反面、とても誤解をしやすい一面をもっていると言う事がわかった。しかし当時の人々にとっては、解りやすい方向性を示す事が必要だったのだと思います。
あまりにも有名なシルバーバーチを少し見てみたい。

■魂は苦しみを経て、成長する。

「人にとって苦しみは必要であって、そこに立ち向かってこそ魂は成長する。」
という考え方だが、もちろん同意する所は大いにある。しかし魂が成長するのはなにも苦しみによってだけではない。そのようには言っていないと思えます。
楽しいことや、素晴らしいこと、普通の出来事、その他何からでも成長することができる。それを勘違いしてしまうと、苦しみだけを必要と求めたり、苦しみを作ったりしてしまうだろう。そんなに苦しむことが必要なら、この世を良くしようなんてしない方がいいと、思いたくなってくる。
自然に暮らしていて、起きてくることを見てゆけばよいのではないかと思う。

シルバーバーチの時代は第二次世界大戦があったこともあり、人びとは実際苦しみの中にいた。この言葉はそういう人たちへの叱咤激励の意味もあったように私には思える。
意識が形になってからでは遅いのであって、形になってしまい苦しむ人びとにいくら原因(意識の世界)を説いてもピンとこないであろう。
現実に立ち向かうことを教えた方がその時の人びとにとっては有益との判断があったのではないかと推測する。戦場のまっただ中で、立ち止まり腕を組んで「う〜ん。どうしてこんな事になったのだろう?」と考え込む人はいないだろう。形になってしまったら、形と意識と両方からやる必要がある。しかし状況によっては形が優先することは多いかもしれない。

人はうまくいっているときほど、道から外れていることが多いように思う。もちろん皆そうなるとは思わないが、放漫になり、人を平気で切り捨てたりしてしまう。苦しんだ人が魅力的に見えるのは、己を知り、そのことによって相手の苦しみが解るからだろう。
結局はいつか自分に眼を向けなければならない時がやってくる。なぜなら本当の自分はどうしたらよいか知っているからだ。それを人は苦しみと言うかもしれない。
しかしそれをきちんと受け止めて歩むことは難しいことではなく、実は自分を解放してくれる礎なのだ。
自分を知ると、他者のことも解るのである。強いだけの人間もいず、弱いだけの人間もいないのだ。

霊的な、見えぬ世界の人びとは、私たちが自分の足を使って歩んでゆく手伝いをしてくれるのだ。
私たちが真に眼を向けるのは、自分の内にある神性と呼ばれる、大いなる自己であって、そこ以外にない。そこを使って生きてゆく為にすべての事が起こっているようにも私は思えるのだ。それは永遠に自分から離れてゆくこともなく、永遠に自らを導いて行ってくれる。そこを見失ってはならない。

■利他愛の実践。その結果魂は成長する。

結果のための行動にどうも陥りやすい。
利他愛の実行や自己犠牲によって魂は成長する、というのは確かにそうなのかもしれないと思う。
しかし、それでは、もし仮にそのことで魂が成長しないとなったら、他者が困っているときに何もしないのか?と疑問がわいてくる。
結局は魂の成長という結果を目的とすると、利他行為になどとうていならないだろう。他人の為と言いながら自分の為にやっている訳だからだ。
結果を目的にしてしまうといつも自分の行為によってこ「れだけの事をしたから自分はかなり高いレベルになったな」と自己判断し安心して自己満足に陥ってしまうだろう。また良い結果が得られないと自分をだめな人間に貶めてしまうだろう。自分の魂の通知票でも届けられればいいのかもしれないが、今のところそんなシステムはない。

自分が利他行為と信じて行った行動も、高い世界から見れば、本当にその人のためになっているかなんて解らないと私は思うのだ。また、一見とても人のためになんて見えないことが、実はその人のためになっていることはよくあるのだと思う。
自分の魂の向上を願う気持ちはあってもいいと思うが、それを目的としてしまわないで、自分が出来ることを、あたりまえのこととしてやってゆくのがいいと思うのだ。自分のやったことが帰ってくるのだから何かを目的として行動する必要もないのではと思う。
結果は後からついてくるものだ。全てにおいて言えることだと思う。日々を淡々と生きるのみ。

以前、聞いた話だが、『「人のために」「あなたのために」と言って行動してきた人は自分の人生の最後に、寝たきりになったりして長患いをしたりして、多くの人の手をかけてもらい、世話になって終わる。』というのだ。
それを聞いてよく考えてみたら、あの人も、あの人もと思い当たる人が浮かんできた。
私の知人もその当時母親が車椅子の生活になり、姉妹で介護をしていたのだが、自分の母親が昔「あなた達の為に、あなた達の為にやっているのよ。」とよく言っていたことを思いだしたと言う。
現象はいくつもの意識で構成されていることが多いので、一概に全てが当てはまると思わないが、結局は自分というものを抜きにしてはだめなのだと思うのだ。シルバーバーチも「自分を大切に」と言っていたはずです。

■自己犠牲の賞賛。

私はよく思う。
もし、友人が自分の為に自らをかえりみず自分を犠牲にして、私の為に何かをしようとしてくれることが解ったら、私は気持ちだけ頂いて謹んでお断りしてしまうかもしれない。
『私の為に何かをするのではなく、あなたが幸せで充実した人生を送ってほしい』と、そしてそうなったら、『こうしたら幸せになれたよ。』と私に教えてほしい。『私はそのやり方を実行したい。』と。
私にとっては、そのほうがずっと説得力があるのだ。
みんな自分が幸せになればこの世はパラダイスになるだろう。

■動機が大事。

動機は確かにとても大事な事だと思うが、やり方はどうでもいいとは言っていないと思います。
いかに素晴らしい車を所有していても、運転者の腕がなければ、あちらでぶつかり、こちらでぶつかりと、せっかくの素晴らしい車もぼろぼろになってしまいかねない。真理を快適に走らせる腕を持ちたいものです。

真剣にスピリチュアリズムをやっている方は、厳しくされる方が多いようです。厳しさは時には必要だと私も思います。

ずいぶん前の話なのですが、私の知っているその方も、大変厳しい方でした。しかし、「厳しさのやり方」を間違えたため、大変なことになってしまいました。
結局はそのやり方の為に、相手との間に違うものを新たに作ってしまい、それを解消するのに大変なエネルギーを使うことになってしましました。
私はその方の意識を垣間見たことがあるのですが、とても愛とは呼べないほど大きな大きなもので、大変感動したのを覚えています。
結局はそこで動機も大切だがやり方も大切なのだということを学びました。

シルバーバーチは明らかに、先を知っていながら、「今はここまで」と線を引いて語っているように思われます。
霊的世界の概要に重きを置いていて、個人の意識の作用的なことも言ってはいるものの、そちらをメインには語ってはいないように思います。(勿論、身近な人びとには指導が有ったかも知れませんが。)

もう一つ思う事は、そこにいる特定の人の個人的な解答も一例として含まれているように思います。それを全てに当てはめてしまうとチグハグな結果になってしまうと思います。

大切なのは、見極めのように思います。一つのやり方にこだわると、そこにある本質が見えないことがあります。方程式は無いのだと思ってます。

No.50-04.05.10

 判断

自分が判断を迷ったとき、他者の意見を聞き(霊の意見を聞き)理性(神性)の声を聞き模索する。
しかし最後の判断はどんな人も自分一人でしなければならない。
解らなければ、解るところまで行ってみたらいい。

No.51-04.05.10

 自分を大切に生きる

自分が苦みの中にいて自暴自棄になり自分を見失ってしまったら、まず自分を大事に大事にすることです。自分を大切に生きること。自分の為に生きることです。

自分を本当に大切にすることができたら、他者を同じように大切にすることができます。
だから決して無駄なことでも、遠回りでもないのです。

自分を大切にしていくと展開も変わってくる。

No.52-04.05.13

 自由意志

 「この世はすべて決まっている。」
 ということを聞いたことがある。

しかし又、例えば占い師に「あなたは3年後に死ぬ。」と言われた人がそれに影響されて生きてしまったとすると、「そういうことを聞いてそういう影響を受けて生きる人生を選んだのだ。」とも聞いた。
結局はこの世はすべて決まっていようが決まっていまいが、あまり関係ないように思う。自分が日々一生懸命生きていればそれでいいのだと思う。

私の知り合いの霊能者の話しである。その人は自分が本当に好きだった人以外の人との間に子供ができると知った時、「子供が親を選ぶ」という霊的事実をもとに、「子供を生まない事は殺人だ」と思い、自分が好きだった人とは違う人と結婚して子どもを生んだ。

この話を聞いた時、私も自分が好きな人意外の人との間に子供ができると解ったら、その人と結婚しなければならないのかと思い、とても恐くなった。
この話はずっと私の中で疑問となって残っていたが、ある時見えない世界の知り合からこんな話を聞いた。彼は肉体を持っていた頃は、精神的指導者だったそうだ。

その人はこの世に生きていた頃、自分の愛する人以外の女性との間に子供ができる事が解かったのだそうだ。しかし彼にはその女性との間に子供をもうける事ができなかった。すると、その子供は他の人の子供になってこの世に生まれてきたのが解ったそうだ。だから「子どもを自分の子どもとして生まなくても、殺人ではない」と言っていた。又、霊界での約束はたくさん反故にされるとも言っていた。私が、「本当は子供のできる人と結婚する事が、この世の課題だったのでは無いか?」と聞いたら、「何度ここに生まれ、何度同じ事になっても、何度でも自分が愛している人を選ぶ」と言い切っていた。

又私の友人の話なのだが、ある夫婦が、子どもが出来ることが解った。
しかし、その子どもが生まれる時、奥さんが病気になってしまい、その子を生んであげることが出来なかった。しかし縁とは不思議なもの。自分が生むはずだったその子は、他の夫婦の間に生まれたが、縁有って自分の手元で育てることになったということだ。

この2つの話を聞いて私は安心した。霊界では自分の親を子どもが選ぶのかもしれないが、結局は親も子どもを選んでいるのだと私は思う。そして共に歩むべき家族はどのような形にせよちゃんと自分のもとにやってくるということも。そして多分、自分がどう転んでも向き合わなければならない自分のテーマは、どう転んでも自分のもとにやってくるものなのだろう。

又、もし皆が自分が好きな人ではなく、子供ができることを大前提に相手を選ぶようになってしまったら、どのような世界になってしまうのかと考えるに、やはり自分が一番好きな人と一緒になる事がこの世の自然なあり方なのだと思える。

「自分を磨いていれば、自ずと現象はやってくる」という言葉があるが、それは全くその通りだと思う。それを理由に「自由意志を使う必要が無い」と言う人もいた。自分の目の前にあることが今やるべき事でありそれが困難なことであれば、「神に試されている」のだと言う人もいた。

しかし私は、霊界の約束を守る事や、起きてくることに受け身でいることだけがいい訳じゃないと思う。自分の自由意志を使って人は自由に人生を選んでいけるのだ。何を選び何を選択するかで人の人生は大きく変わってゆく。この世は自分次第でどのようにもなってゆく世界だと私は思っている。自分で選んでゆけるのだ。

勿論、その選んだ責任を自分が負うことは自由意志に限ったことではない。

No.53-04.05.19

 解放するもの

本当のものは、自分も相手も自由にしてしまうものだ。

お互いに不自由になるものは、そこに違うものが含まれているのだ。

勿論、自分勝手で勝手放埒な「自由」を言っているのではない。

No.54-04.05.19

 体 験

体験は大切。しかし、体験から何を引き出したかが重要。その引き出されたものが自分の血となり肉となる。

No.55-04.05.20

 ラベル

スピリチュアリズムは確かに素晴らしいと思うが、私はスピリチュアリストではない。ニューエイジャーでもないし、勿論どこかの宗教の信奉者でもない。

よいと思ったものは自分で試してみて、自分の中に取り入れるのを旨としている。

スピリチュアリズムは人により解釈がかなり違っている。しかしそれで良いのだと思う。

どんな本を読んでも人によりそこから学び取るもの、見えるものが違うのは当然のことなのだ。それを一つのものにしようという方が無理があるのかもしれない。

自分の理解が進むと、同じ本でも又違うものが見えてきたりするものだ。だからたとえ学術的にその定義がなされたとしても、あまり意味は無いのかもしれない。

スピリチュアリズムが単に真理を求めるものであるなら、私はスピリチュアリストだと思う。

しかしいちいち、「私はこれこれこういうスピリチュアリズム定義のもとにスピリチュアリズムを実践しています。」などと説明するのもめんどくさいし、スピリチュアリズムという枠(?あるかどうかも本当は解らないが)に収まるつもりもない。

まあ、ラベルに拘らずにいいと思ったものは取り入れてゆこうと思っている。

No.56-04.05.30

 存在の力

自分の存在価値や存在意義を一つの所(場所)に求めないで。

どんな所にあっても、自分を輝かせ、自分の力を発揮できることを知る。

No.57-04.05.30

 今にある

前世がどうあったとしても、どんなものであったとしても、今に全てが出ているので、前世にこだわって生きる必要が無い。

前世と今生と違う人間(魂)であろうはずがない。

今をやってゆけばいい。この世は自分次第で変えてゆくことが出来る所。

No.58-04.05.30

 動 機

動機(どういう所でやっているのか)は大切、しかし表現方法(やり方)も大事。

動機さえ正しければ、全てがうまく運んでゆくのかといったらそうではない。それだけで人がついてくるとは思えない。

指導的立場になればなるほど、表現方法を学ばなければならない。

私達は、動機だけではなく、表現方法も学んでいるのだ。

No.59-04.06.17

 心のしこり

心のしこりが体のしこりとなって顕れる。

あなたは何をわだかまっているのか?

あなたは何に拘っているのか?

晴れ渡る空のように自分を輝かせて生きている人は血流の流れも、気の流れも滞りなく流れてゆく。

滞ってしまった自分とは何なのか?晴れやかな自分はどこに行ってしまったのか?

No.60-04.06.20

 自分を生きる

自分に嘘をつかない。自分をごまかさない。

良い人(素晴らしい人)になって生きるより、自分に正直に生きたい。

1.2.3.4.5.