No.61-04.06.24

 水面下で起こっていること

以前受けたセミナーで、「日本の報道は戦時中と何も変わっていない。」「田中角栄は戦後日本人が自ら選んだ初めての人だった。しかし日本人自らの手でひきずりおろしてしまった。」と言っていた。又「人に備わった真実を知る力(理性、神性、中心感覚)を知っている人が、それを使わせないようにしているのだ」とも言っていた。つまり洗脳して従わせるということだ。
そんなものなのかと、その時は思っていたのだが、最近時に同じように思うことがある。

終戦から60年たとうとしている。しかし日本は敗戦から未だに立ち直れていない。敗戦をずっとひきずったまま未だにその足跡をひきずっているように思える。

アメリカがアフガニスタンやイラクに戦後作ったのは親米政権だった。その様子を見ていて思うことは、第2次世界大戦後アメリカは日本に親米政権を建てなかったのか?ということだ。普通に考えて「日本方式でやる。」などとイラクへの戦略を語っていたアメリカが、あの時代それを日本に対して「やってこなかった。」と思う方が難しいだろう。現についこの間、情報番組で「自民党は親米派が多いと」自民党議員自らが言っていた。
よく日本がアメリカのポチだとか続国だとか言われるゆえんだろう。

民主主義の主役は国民だ、しかし自分の思い通りにするためにその国民の民意を操るということする者達が大勢いるのだ。自分に都合の良い情報だけを流し、時には捏造したりする。
正しい情報でなければ正しい判断は難しい。私たちは自分の神性を要に本当のものを選んで行かなければならない。

何にしても、自分たちの国の事を自分たちで決められないなんて、あまりにも変だ。

インターネット時代になり、人びとは知らなかったことを多く知った。
自民党は戦後岸信介を首相に、アメリカが作った親米政権であると最近いわれるようになった。
そして、日米安保条約を結ぶことによって、アジアでアメリカにとって唯一の危険国であった日本の牙を抜き、日本にアメリカの軍事基地を作った。それはソ連への軍事的な戦略で有ると共に、日本が軍事武装しないように見張っていたと言われる。(勿論それだけの理由では無いとは思われるが)

今まで知らされなかった歴史の真実、東京裁判の不当性、原爆の真実、中国、韓国、北朝鮮による歴史の捏造、在日朝鮮人の来歴の捏造、反日教育、日本の国会議員の中に存在する在日(帰化)議員、日本国民の税金が北朝鮮に不当に流れてゆく事実。自己の利権の為に日本を売るようなマネをする議員達。裏で暗黒社会と繋がる政治家。
アメリカより、韓国よりのマスコミのありかた。芸能界や報道に韓国人や在日が多く存在すること。民団や朝鮮総連の、命に関わるような集団的な脅し。報道関係者のタブー。タブーを言えば仕事を干されてしまう事実。
マスコミは正しく機能していない。報道に決して出てこないことがあまりにも多い。

国会議員はひどい!政治家は腹黒い!マスコミはひどい!と言うのは簡単なことだ。しかしそれを選び生み出しているのは、私達国民なのだ、国民がひどく腹黒いから、政治家もひどく腹黒いのだ。人任せで自分さえよければいいという生き方をしていれば、同じように自分達さえ良ければいいと言うものに自由にされてしまう。
自分たちに反する事は現実に顕れない。私達は現実(自分)を見つめ知らなければならない。国民の代表者が国民のレベルと違うはずがない。それが法則なのだ。

真実(事実であり自分)を知り、お互いの違いを認めその上で、それを超えてよりよい関係よりよい社会、よりよい地球を築き上げなければと切に思う。何よりも、日本の未来は日本人自らが作り上げてゆかなければならないものだろう。

水面下に隠れていたものは今、少しずつ浮き上がっているようだ。

隠されいたものは、いずれ表面に出てくるのだと思う。

No.62-04.07.05

 死 者

イラクでジャーナリストの橋田さんと小川さんが亡くなった。

お二人のご冥福をお祈りしたい。お疲れ様でした。

しかしよく人が亡くなると思うのだが、亡くなった人は美化されるということだ。勿論上記の二人が実際素晴らしかったかどうかという観点の話ではない。

以前にイラクで人質になった3人がいたが、報道のされ方の違いに違和感を感じた。

3人を取り巻く環境や事情が違うということ、そして片や死、片や人質という色づけがされ、又、思想的なものが重なると人びとの反応がこうも違うものかと思った。

経験の差はいかんともしがたいが、イラクへ降り立ったときの気持ちは生き死にに関係なく、取り巻く家庭環境が違っていようと、皆そんなに変わらなかったのではないかと思った。

もしあの時人質3人が亡くなってしまったら、途端に美しい話になったのではないだろうか?

人は環境によって学ぶべきものが変わってくるのだろう。それを選んだのは自分なのだが。そしてそれを見ている人々も、又それを見て学んでいるのだ。彼らはそれを見せてくれている。

著名人の死の扱われ方を見ても「死人にむち打たない」という考え方はあってもよいと思うが、死者への美化は必要なことだとは思わない。故人の生前そのままでよいと思う。

No.63-05.06.19

 情報ソース

このHPで書かれている事のソースは、

○今まで読んだ書籍やセミナーから学んで自分なりに考えたこと。
○昔ある霊能者で心霊家の人を師事してた時に教えてもらったこと。
○私自身が霊的な存在から直接聞いた話や体験したこと。
などが元になっている。

特に霊能者に師事していた時に学んだことはとても大きく、私の霊的観点の基本となった。
その方は霊的啓示も受けており、私はありがたいことに、そこまでの啓示を全て見せてもらった。
このHPに書かれていることはそれ等を私なりに理解したり考えたり体験したりしたものを元に書いている。

とっくにお気づきのことと思うが、実は私は霊的存在と普通に話が出来る。
しかしこんな事が出来るようになったのは、ここ10数年ぐらいで、その前は霊的能力など全く無いのが自慢できるほど、あちらの世界とは無縁の人間だった。それが、あるきっかけから霊的世界にどんどん入っていってしまって、現在に至る。

私の所に来る霊的世界の住人は本当に様々な人が居るが、殆どの人はこの世をより良き所にしようとする人や、意識の世界を学んでいる人だ。しかし中には良からぬ意識の持ち主も居たりする。彼等は徒党を組み色々と悪さをしてくるのだ。今までずいぶん彼等を説得もしたし様々なことを試みたが悪さを止めさせることが出来なかった。かえってムキになってしまったようであるー。なので今は全く無視することにしている。

実際私はそういうものにかなり振り回されて手痛い目に沢山あった。又、彼等のやり方も実に巧妙なものだった。「こんな低次元のものにつきまとわれる私は同じように低次元だからだ。」と、深く落ち込んだ時期も長い。私を助けてくれようとする見えぬ世界の人達は皆こちらの世界に来ることを止めた方がいいと助言してくれた。私もそれに従って止めていた時期もあったが、これは大丈夫というものは書いている。

「霊能者はそういう良からぬ者たちの餌食になる。」と聞いたこともあるが、霊的世界に頼らなくても自分の神性を使ってゆけばこの世を渡ってゆけるものだ。

これからも、ここを訪れる人は書かれていることを鵜呑みにしないで、自分の内側に照らしてほしいと思っている。

No.64-05.08.24

 戻しました

7月にいくつかを上げたり下げたりしましたが、違うものが混ざっていることが解りましたので
全部下げて戻しました。
上げたいものは、改めて書き直して上げる事にします。

No.65-05.08.24

 以前に教わったこと(紫字は私見)

以前、霊能者から学んだものをいくつか紹介したい。
未だに確認できていないものも多いが、自分の理性(中心)に照らし合わせて確認されることお勧めしたい。


○ 中心(理性・内なる自分)を知った人間に指導者はいらない。自らが   自らを導いてゆく。

その通りだと思う。しかしだからといって、指導されることを否定しているということではない。
自分が導かれる必要があれば、謹んで教えを受けたい。


○ 死んだら、「これだったのか」と解る。

中心(理性・内なる分)は死んでからも変わらない。

○ 中心(理性・内なる自分)を使うと大体同じ意見が導き出される。

普遍的な領域からの答えは、みんなあまり変わらないと言うことだと思う。

○ 血液型は変わる。

実際に私とあまり年齢の変わらない知り合いが、A型からO型に変わった。
昔の血液型診断は正確ではなかったとよく言われるが。
本当のところは、確認できていない。


○ 病気は必要。

「その症状が有るからこそ、あなたは生きていられるのだ。」とよく言っていた。
逆説的な解き方だとは思うが、病気には理由があり地球がバランスを取るために地震を起こすようなものである。ということからも納得がいくことではある。


○ 子供が親を選ぶ。

自由意志」の所でも書いたが結局は親も子供を選んでいると思っている。

○ 夫婦は以前、敵同士だったことも多い。
○ 復讐の為にその目的とする人の子供として生まれてくる場合もある。
○ 子供によって、自分がやってきた事を見せられる事がある。

多分そうだろうとは思っているが、確信はない。
しかし、思うことは前世から導き出されたものが今生で有ろうが無かろうが、今、自分が直面していることをどのようにしてゆくかと言うことが最も大切であり、霊的未来が有ろうが無かろうが、肉体生命が終わるまでの未来を作ってゆくのだということだろう。

前世が問題なのでは無い。例え前世が解ったからといっても何と言うこともないのだ。以前知り合いの人が前世診断を受けた時のことだが「あまりにも多くの人生があって、終いには前世なんかやるよりも、今をやった方が良いのではないかと思った。」と言っていたが、全く的を得ていると私は思う。前世にこだわって今生を作り出してゆくことは本末転倒だと思う。

○ あの世で一番苦しむのは、弁護士や裁判官。お笑い芸人は意外に罪が少ないことが多い。

多分そうだと思うが確信はない。

○ セックス

細かい言い回しなど忘れてしまったので、私の理解の範疇で聞いたことを書くことにする。
女性は男性とセックスをすると、その相手の男性の「もっているもの」を受け取ることになるのだそうだ。
後に他の男性と子を成した時、その男性の「もっているもの」といっしょに以前にセックスをした男性の「もてるもの」もその子供に受け継がれるのだそうだ。その女性が以前セックスした全ての男性の「もっているもの」が、その子供に引き継がれてゆくということだ。

しかし必要と言っても、意識は引き継がれるもの。たとえば有る女性が複数の男性とみだりに性的関係をもったとすれば、いずれ一緒になる相手の男性はやはり同じような性的意識の持ち主になる場合が多々あるとのこと。勿論男性の場合も同じなのである。又、子供もその意識を受け取る(引き継ぐ)事になることも然りである。
要するに子供にとっては、自分の母親が過去に性的関係を持った全ての男性が、全員子供の父親であると言うことなのだ。

しかし一言、言い添えておきたいのは意識の世界は自分次第でどの様にも変えてゆくことが出来るということだ。
どんな意識や性格を受け継いだとしても、自分の力で変えてゆくことが出来るのが人間(霊)の素晴らしい所だと思う。
そして、例え自分の父親がたくさんいても、自分にとっての本当の父親は誰なのかと自分の心に問うてみるとその本質の答えが見えてくる。

今日、若者の性がフリーになってきているが、いずれ生まれる自分の子供が、自分が性的に関わった全ての男性の子供であることが解れば、セックスする相手も自ずと選んでゆくことになると思う。

しかし返す返すも残念なことは私は結婚もしておらず、子供も産んではいないので、これらのことを確かめられないということだ。
これを見た方は是非自分の体験を通して確かめた頂きたいと願っている。

○ 世界の中心は日本。

これも、そうかもしれないとは思っても確証はない。

しかし、あえて言おう。「クソ」みたいなものだと。例えそうであったとしても、今迄だって時代によって世界の中心は移ってきたように思う。いつだって中心は移るものなのだ。もしそうであったとしても、事実は事実として受け止め、後は拘らないことだ。

客観的事実を目的にすると途端にそれは違ったものになってゆく。

No.66-05.09.25

 セックスの補足

上記セックスで書いた話の補足です。

この話は「白人の夫婦から肌の色の黒い子供が生まれた。」という新聞の記事を題材に話をしてくれた時のものです。

又、セックスとはもしかしたら少し違いがあるかもしれないのですが、関連した話で、「輸血をしたら正性格が変わった。」と言う問いにも、相手のものを受け取ると言った同じような話をしていました。

要するに、人は金太郎飴のように、どこをどう(切っても)とってもその人自身であるのだと思われます。
相手の体液なり一部なりを自分の中に受け入れると言うことは、その相手そのものを受け入れるに等しいことなのだと思います。
これが事実だとすれば、似たもの夫婦なんていうのも少し納得できる話です。

しかし、よく考えてみればお互いを受け入れ一体となったように見える夫婦でも、離婚する人もいれば、一見仲が悪くうまくいっていない様に見える夫婦でも別れず、ずっと暮らしてゆく人達もいます。
結局は自分が受け取ったものをどの様にしてゆくかという自己の理解と意識(選択)こそが、最も大きな力となっているのです。
自分を支配するのは自分でしかないということだと思います。

No.67-05.11.18

宇宙の法則

宗教団体はどこへ行っても奇跡話やおかげ話でいっぱいだ。そしてそれこそが教えが本当である証拠だとどこも口をそろえて言うのだ。一体どこの宗教団体がおかげ話一番なのか、統計を取ってみたいものだ。
しかし、宗教団体に則していない人々にも、奇跡は多く訪れる。これは何を意味するのか。

結局はその人の心根(意識)が大きく関係しているように思う。
宗教をやっていなくても「その道」を知らずの内に歩いている者も多いということだと、思っている。
又、一見はずれたようにも見える教義の宗教団体の人も、本人の真剣で真摯な気持ちはそれなりに届くものだと思っている。

この宇宙の法則を大昔から色んな人や霊が語っているのだということを、最近よく思う。
同じ事を違う角度で説いていたり、相手の意識レベルに合った言い方や、それらを聞いた本人の持っているものが真理をオブラートしてしまうと、全く違うものに聞こえたしまったりするが、実は同じ一つの宇宙の法則を語っていることがある。
そんなことを考えると、いったいどれが正しいだの、どれが違っているというのはあまり意味のないことのように思えてしまう。自分が解りやすいところから入っていけばよいと思う。
結局は自分がその宇宙の法則を、自分で確認してその流れのままに生きてゆくことが自然なのだと思う。
自分が本当かどうか知らないことを、どの様に人に教えると言うのだろう。

(霊的な、あるいは真理の)メッセンジャーとしての役割と自分の人生を生きることがイコールになっている人は幸せだと思う。
しかし、メッセンジャーに徹している人は、自分を見ることをやっていないから、自分がそのメッセージと違うことをやっていても気が付かない。結果、判断をあやまり、せっかくのメッセージが人々から疑いに満ちたものになってしまうことが有るように思う。それは大変残念なことだ。
メッセンジャーは完璧を求められるが、実はそんなに完璧な人などいないと思う。
しかしながら、自分をやってゆくことは、結局は他人の為になることなのだと言うことが解ると思う。どんな立場の人でも同じ事だ。
自分と他者はかけ離れた存在ではないのだ。単なるメッセンジャーにならないことをお勧めしたい。
そのメッセージを自らの人生に生かしてこそ、自分のものにも他者のものにも容易くなり得るのだ。
それを解った上でこの世を見つめてみると、又違ったものが見えてくるのではないだろうか。

宇宙の法則はどの様な人の上にも余すところ無く等しく働いているのだ。

No.68-06.07.10

 感情が通り過ぎるまで

あるトンデモサイト(笑)に行って「感情が通り過ぎるまで待つ」という感情の対処とも言うべき考え方に出会った。
そのサイトで紹介されていたのは「怒りなどの感情が湧いたら、来た来たと思ってその感情が通り過ぎるまで待つ。」というものだった。
私は「果たしてそれでいいのだろうか?その感情の根を解った方が良いのではないのか?」とあれこれ考えその方向性を見いだそうとしていた。

ある時、見えない世界の人が「どちらかというと、感情が通り過ぎるまで待つ、と言う方が早い。なぜならこの世は何も無いからだ。」と語っていった。
成る程と思った。「感情の根」を知ると言うことはどういう事かと言えば、行き着く先は(最終的には)その根は自分が作っているということだ。
つまり、何もないと言うことを知ることなのだ。一切皆空。

例えばいじめられた人は、自分を否定する意識や人を恐れる意識を持つことが多い。人によってはその中に閉じこもってしまってそこから出ることが出来なくなることもある。しかし本当に世の中は自分をいじめる人ばかりなのか、又それは本当に自分を否定したり人を恐れたりするようなことであるのか、一体何が正しくて(法則に叶った)何が間違っていたのかきちんと研鑽してみると、見えて来るものがあるはずだ。
結局は自分の体験から自分や他者に対して抱いていた意識は、ただいたずらに自分の感情の中で空回りしていたことに気づくはずだ。

又、いじめる側といじめられる側の意識は表裏一体で在ることが多い。価値基準が共通しているからだ。
いじめ、いじめられることがどうゆうことか理解して、自分は決していじめる側にならないことだ。
自分が変わって価値基準も変わると、例え相手がいじめてきてもまったく傷つかないようになる。
普遍的なものに自分の価値基準を置くことをお勧めしたい。

自発的な理解の仕方には大きくは2通りある様に思う。
一つは、前にも書いた通り自分でその原因に入っていってその原因を解消するやり方。
もう一つは、あまり問題を掴んでしまわずに、そこから離れること。そうすると自然にその枠がはずれてゆく。
つまり、どうでもよいことを自分がしっかりと掴んでしまって、自分の中でこねくり回して苦しんでしまうということがある。
そうゆうものは掴んだ手を離してやると、自然にそれがどうでもよくなってくる。
いくら考えても答えが見えてこないものは、少し距離を置いたり、手放してみることを試してみたらいかがだろうか。

要するにこの世にはどうでも良いことと、きちんとやった方がよいものがあると言うことだ。
昔、「この世の全てを理解していこう!」と意気込んだ事があった。すぐに後ろの人に「無理をするな」と言われた。そして次の日の朝、目が覚めたらずっと気になって気になって仕方がなかったことが、なんだかどうでも良いことになっていた。どうやら眠っている間にどこかで学んで来たらしいが、憶えていない。
学び方は沢山あるのだと思う。しかし見るべきものからは目をそらさない事が肝要。

「道はあまりにも広くて、どっちに行ったらよいか解らない。だから東西南北があるのだ。」と昔言っていた人がいた。要するに東西南北、上下、左右、前後などは行くべき方向に向かうために、便宜的に自分たちで作った物であるという理解だ。
全てはその中心(ゼロ、空)に有るのだ。「中心に帰一する」とはよく言ったものだ。その中心をもってプラスマイナスゼロと私はこのHPで言っている。

「感情が通り過ぎるまで待つ」というやり方はこの世が本当に何もないことが解っている人や、どうでもいいことにムキになってしまう人には非常に有効なやり方だと思う。一方自分がしっかり見つめた方がよいものもあるということだ。

この世が何もないところだと言うことは、前にも書いたとおり何をしても無駄だから何もしないということではない。
何もないのだから自由に作っていけるのだ。自分(達)が作り出して来た世界を今後どの様に、より快適にしてゆけるかということだ。
その為のエネルギーはこの宇宙には十分すぎるほど有る。

No.69-06.07.10

 意識が現象を引き寄せる。

これは簡単に言えば、10点の人は10点のものを引き寄せ、50点の人は50点のものを引き寄せるということだ。
つまり、意識が変わらなければ現象は変わらずに繰り返すということだ。

結局は前世が何であったかが問題ではなく、もてる意識が問題なのだ。
振り返って自分を見てみると、前世は何であったかなど細かいシチュエーションは解らなくても、自分の意識を見てみれば自分がどういった過去を過ごしてきたか大体解る。
どんなに前世が解っても解決されないものがある。今の自分の苦しみを招いているものが何であるか知ることがとても大事なのだ。

No.70-06.07.10

 利他愛と自己犠牲

「利他愛と自己犠牲、それこそが人の魂を向上させる行為である。」とは良く聞く言葉だ。特にスピリチュアリズムではよく言われている。
これは思うに単に自分さえよければいい。という考えを戒めたものだと私は思う。
高次元の存在が利他愛と自己犠牲をことさら説くのは、そこに集う人々、あるいはその時代の人々がよほど利己的だからだと私は思っている。尤も今もそれはあまり代わりはないかもしれないが・・。

仮にこれだけが正しいとしたら、行き着く先は何なのだろう。
全ての人は(人類は)皆自分のことを後回しにして他者を優先し他者のためになることばかり考えて、誰も自分のことをやらなくなってしまう。
しかし、そんな世界が果たして本当によい世界なのだろうか?と私は思う。

では、自分を幸せにするものは、いつも他人によって成されるものなのか?
私は自分を幸せにするのは自分でしかないと思ってる。
時に他者はきっかけをくれることが有るかもしれない。それはとてもありがたいことだ。
しかしそれを自らに取り入れるのは自分なのだ。
どんなに素晴らしい教えも本人にその気がなければ、馬の耳に念仏だろう。
自分を幸せに出来ぬ者が、他者を幸せに出来るものだろうか・・・?
幸せとはいったい何であるのかを知らない人間が、他者を幸せに出来るのだろうか・・・?
それとも人が幸せにならなければ自分も幸せに成れないとでも言うのだろうか。
自分の幸せが、それほど他者によるもので本当に良いのだろうか?私には疑問だ。
「あなたが幸せにならなければ、私はずっと不幸だ。」と言うのは一見美しいように見えるのだが、それでは永遠に「私」は幸せになれない。なぜなら自らの内にその中心(真理)を見いだせない人は後を絶たないと思えるからだ。それが不幸を招くのだ。
それならば「あなたの幸せの方向はこっちですよ」と教えてあげられる方が良い。その方向性(中心、神、真理)を知った者は、自らの足で歩み自ら道を踏み外すことはない。たとえ間違えても修正は早い。

「本当にそれだけが自分の魂を向上させる道なのだろうか?」と考える時、やっぱりこれは方程式になってはならないと思うのだ。
勿論、人のために自己を犠牲にして尽くす事はとても尊い行為だと思うしそういうことが有っても良い、でも同時に自分の幸せを求める(見つめる)時があっても良い。
自分が幸せになったら、その方法を他者に教えてあげればいい。

要はエゴがダメなのであって、分かち合ってゆくことが本道だろうと思う。

それにしても「自己の魂の向上を目指す」のは勿論悪いことではない。
しかし自分が他者に投げかけたものよりも、自分が投げかけたことで他者から帰ってくるもののほうが、何倍も大きいと私には思えるのだ。
そんなことを考えた時、もうそれで十分だと思える自分がいる。それ以上の何を望むものがあるのだろうか。その結果が何であろうと私はかまわない。そこに有る事実の方が私には何倍も嬉しいのだ。

結果は後から付いてくるのだ。結果を求めて物事を成すなかれ。

No.71-06.07.10

 普遍的な価値

賛成の為の賛成、反対の為の反対、右の為の右、左の為の左、善の為の善、悪の為の悪、愛の為の愛。

結局それらは、何かを守るために行う行為だ。
彼等は自分の庭から一歩も外に出ることが出来ない。
自分の庭を守り美しくかざり違うものや汚いものは入れず、あるいは埋めて蓋をして満足をしているだけ。

一体何から自分を守っているのだろうか?
後退し退廃してゆく恐れ、自分、見栄、面子、お金、立場、権力・・・etc.
それらは本当に守るべきものなのか?
彼等はそこから前に進むことは出来ない。
進化できないもの、変化できないものは、いずれは無くなって行く運命にある。

しかし普遍的なものはいつも変わる事がない。

悪を成す者は、必ず善を知っている。
知っているからこそ悪に落ちる。つまり必ず自分の内に善があることを知っているはずなのだ。
一番最初を思い起こそう、何のために右になったのか?左になったのか?悪に落ちたのか?善を求め愛を求めたか。
より良きものより正しきものを求めた結果ではなかったのだろうか?それはそこに(その庭に)あっただろうか?
それを思い起こして、あっさりと自分の庭から出て行けばいい。
そこには思いがけない自分(世界)が待っている。

No.72-06.07.10

 ダメなものはダメ

「喧嘩はいけない。争いはいけない。」そう思うあまり。
はずれたことをうやむやにして許してしまったのでは、結局不自由な世界を招くことになる。外から見れば一見喧嘩しているように見えるかもしれなくても
言うべき事を言い、やるべき事をやり、正すべきものは正し、認めるものは認めた方が良い。

「まあいいか。」と曖昧にすることは結局自分に同じ事が降りかかってきた場合、それを「まあいいか」で許さなければならない。それは、その「仕方がない事」を自分に対して容認する事に他ならない。

自分の子供が不当なことで責められた時「まあいいか」ではすまないでしょう。
しかし、他人の事なら「世間とはそういうもの、しかたないよね。」などと言って済ませてしまう人は多いように思う。
法則はいつか「本当にそれで良いのか?」とでも言うかのように我が身に同じ事を起こしてみせる。つまり自分を見せられる時がいつか来るのだ。

昔、「他人事にしていると必ず自分の身に降りかかってくる。」と教えられた。
今もその通りだと、その言葉を噛みしめることはとても多い。

その時の諸事情で、すぐに違っていることを修正できないことは有るが、少なくとも修正のチャンスを待つ気持ちは必要だろう。

ダメなものはダメなのだ。

No.73-06.09.26

 自らの意志

霊能者、守護霊、背後霊、亡くなった家族。
見えない世界の人々にも様々な意見があるだろう。特にずっと見守ってくれている守護霊の意見は耳を傾けるべきものがある。
しかし、最後の判断は自分でするべきである。
そうでないといつも、見えぬ世界の者の意見に頼って、結局は自分で何一つ決められなくなってしまう。

以前私は自分の人生に於いて大きな問題が起きた時に後ろの方々に大変お世話になった。私は大変感謝している。
しかし未熟な私は、そこで背後の人達に頼り切ってしまった。
そして何が起こったかと言えば、箸の上げ下ろしも霊的世界の人に聞かなければ居られないようになってしまった。
どんどん自分が無くなってゆくのが解る。でも不安で聞かずにはいられないのだ。
そんな風になってしまうと、今度はそこに付け入る者達がやってくる。それ等は本当に善人の顔をしてくる。
私の意識を読み、私がほしがっているものを与え、それを使って操ろうとするのだ。
結果、そんな者達に振り回されボロボロになってしまった。

そんな時、私の中に声が響いた。「自分の足で立って歩きなさい!」
「あなたは自分で出来る人だから、もう止めなさい。」
「あながちゃんと自分で歩くことが出来ることを信じている(知っている)」
結局それで我に返った。

その後、よく言われたのは「自分の人生は自分で選んで(選び取って)生きなさい。」ということだった。
前世がどうだとか、霊界で決めてきたこと、霊界の人が言うこと、偉い人が言うこと、「ああじゃなきゃいけない。」「こうじゃなきゃいけない。」ではなく
「自分はこれをやりたい。自分はこうしたい。」という人生を送ることを選びなさいと。

自分以外の者の意見を聞くことは大切なことだが、誰かに決められ歩かされるのではなく、やはり最後は自分で決め、自らの意志で、自らの足で歩むことが大切なことなのだ。

そして霊的世界の善霊達の言うこと全てが正しい(道に叶った)とは限らないと言うことも知っておくべきだろう。

No.74-07.03.16

 自らの意志 2

ある時、霊的世界の人が「生きている人間が解る(理解する)事が一番早い。」と語って行った。

要は生きている人間が自分の足でちゃんと歩けるようになることなのだと思う。
時折、霊的世界の協力を得るために生きている人が見受けられる。
高次元の意識体から援助が有るように、常に顔色を伺い良い子になって生きている人が居る。
自分の人生を自分で努力しないで、誰かが落としてくれるぼた餅を口を開けて待っているように生きる事が良いとは思わない。良い子でいる努力が真理を連れてくることは無い。努力の方向を間違ってはいけない。

勿論、霊的世界の人々が手をさしのべてくれることは有るだろう。しかしそれが解った時に感謝をすれば良いわけで、その後はその助けを期待して生きるべきではない。(そうでないと、前述の私のようになってしまう。)それは現実の世界にも応用できる事だ。
高次元の存在や、無くなった人に依存して生きることは、自分を自由で自在な方向に導いてくれることはない。

又、不純な動機を持った肉体を持たぬ良からぬ者達も、自ら立っている人間には手出しが出来ずに、諦めて自分の事をやらざるを得なくなるという訳だ。

「自分の足で立って歩く」ということは、たった一人で生きなければいけないと言うことではない。何でも一人でやらなければいけないことでもない。
一緒に歩く人がいてもいいし、自分の肩を相手が歩けるところまで貸すことだって有ると思う。
又、相手を背負って生きなければならないことだってあるかもしれない。
しかしお互いがお互いに寄りかかって生きれば、どちらかが倒れたら、もう片方も倒れてしまう。
気づいた方が自分の両足で大地を踏みしめれば、展開も変わってくる。

自分の人生で起きてくることを、他者への依存ではなく自ら受け入れて生きられるかどうかなのだと思う。自分にとって良いと思われることは受け入れやすいが、良いと思えないことは受け入れがたい。
しかし、「嫌だ嫌だ」「違う違う」と逃げ回るよりも「自分はこうなのだ」「これが出来ないのだ」と受け入れてしまえうと、次の展開が見えてくる。自分が次にどうしたらよいかが解ってくるはずだ。本当は受け入れて生きることの方が他者に責任転嫁したり否定して生きるよりずっと楽なのだ。

自分の人生は、自らの意志で受け入れ選び取って生きるべきで、それが自分の責任に於いて生きると言うことだ。
そしてそれが結局はより自由な世界へ導いてくれるのだ。

失敗したっていいじゃないか。私は沢山失敗してきた。でも何一つ後悔はしていない。どんなに失敗しても、その中には沢山の宝石が詰まっていた。そして、それらがいつも次への扉を開いてくれた。

No.75-07.04.01

 自らの中心

若い頃の私は世界の状況や政治には全く興味がなかった。世界は日本と同じような国がほとんどなのだと思っていた。
しかしインターネットの時代になり、テレビや新聞などが伝えていない事実があることを知り、そして世界はあらゆる個性がひしめき合っているということを知った。それと同時にあまりのレベルの低さに絶望のあまり涙が出てきた。

例えば国際政治の場面では、自国利益優先するのは当然のことだと思うが、そのやり方が酷い国が多い。都合の悪い者は貶め、裏切り、暗殺し、あらゆる手段を使う。そんな醜態を見ていると、これでは世界中からいじめ問題が無くならない訳だと思ってしまう。弱いところに顕著に表れてくるのだ。いじめ問題は大人社会の縮図と言われるがその通りだと思う。
しかし、これが私の世界なのだとキッチリ受け入れて、少しずつでも改善してゆくしかない。
世界を諦めるのは、自分を諦めることと同じだからだ。

強者弱者という一側面を見ても様々なことが見える。
強者=悪 弱者=善 とは限らない。しかし現在はそのように見られがちだ。 
強者というのは叩かれやすいし、力を有する者がその力を使って人々を押さえつけようと言う構図は解りやすい。
しかし力を持っていること自体が悪とは言えない。その力の使い方が問題なだけなのだと思う。
むしろ弱者を装い自己に有利に事を運ぼうとする行為は、かなり外れた行為であると言える。
自分のエゴのために、本当に救済されなければならない人を巻き込む事があるからだ。

現在この世は強者も弱者も同じように力を持っている。
だからこそ、その力の方向性、使い方がとても大切。

このように清濁、真偽が入り交じり何が真実で何が嘘なのか解らない時代だからこそ、個々の内に備えている機能
つまり理性や中心や神性に根ざした「ものの見方」や「判断」が不可欠になって来ている。
他者が言うことを鵜呑みにせず、従来の考えに捕らわれず、ニュートラル(空、ゼロ、中心、神)な所で物事を捕らえると、スッと見えてくるものがある。
感情に走るとそれは見えにくくなる。どんな感情を持っていても、一度その感情を足下に置いて見ることをお勧めする。
すると、今まで自分の心の隅み追いやっていたものが実は本当のものだったことが解る瞬間がある。
後はその自分に何処まで表層の自分が追いついてゆくか、重ねられるかなのだと思う。
やり方は沢山あると思われる。

感情を優先させそれを良しとしている人々は、本来の機能を使えない事が多い。それに慣れてしまって機能が麻痺してしまうと視野が狭くなり近視眼的な判断しかできなくなる。そうすると色んな人との衝突が多くなったり、何よりも洗脳されやすい。権力者にとってはとても扱いやすい人と言える。感情をくすぐるようなことを言えば直ぐに反応して動いてくれる。
感情が激しく動くような事柄は、気を付ける必要がある。時間を置いたりして冷静になった時に改めて考えたりすると良い。

自分の中に全てがある。自分以外の全てのものも人も、そこを揺り起こす現象なのだ。
自分を揺り動かす全ての「人や現象(神の現れ、法則)」に感謝を。

No.76-07.04.12

 代理母出産

最近は代理母出産が問題になっている。

代理母はただ単にお腹を貸すだけではない。

子供はこの世の中に出てきてから初めて育てるのではない。
受精した瞬間から育てているのだ。
たとえ受精卵が他者のものであっても、この世に生まれ落ちる約10ヶ月近く子を宿す母胎が自らの血肉を分けて育てているのだ。そして命をかけて子供を産むのだ。
自らの血肉を分けて子供を育て、命をかけて子供を産む人が母親でなくて何であろうか。代理母は単なる代理ではなく立派に母親なのだ。その母親が我が子をお金で売り渡すようなことが正しい行為で有るわけがない。
つまり実際、遺伝子の母と血肉を分けて生んだ母と2人母親がいることになるわけだ。実にややこしい。

よく胎教と言うが、おなかの中で愛情を注がれず事務的な作業となった子供は果たして幸せであろうか?
逆に代理母であれど出来る限りの愛情を注いだら、生まれて来てから手放しがたくなるだろう。我が子なのだから。これは実際に問題が起きているし、その他にもハンディキャップを持って生まれた来た場合など、あまりにも問題が多い。

代理母も臓器移植も私はよいと思わない。
もし、それが理にかなったことであるなら、人間は最初から内臓や受精卵など簡単にすげ替えられるような構造になっているはずだ。
しかし実際はそうではない。
臓器ビジネスや代理母ビジネスは人を物として扱っている。そのうち身体の全てを切り刻んで売るようになってゆく。
いや裏の世界ではもうそうなっているのかもしれない。

意味があって形があるのに、その形を無理矢理変えれば、それが違う形になるだけだ。その根本は変わらない。そこに横たわる問題は解決されない。「そのような意識だからそのようになった。」としか言いようがない。

道から外れたことは遅かれ速かれ何れ回帰するように法則は働いている。それは与えられる道ではなく人類自らが選ぶ道でなければならない。そして法則は多くの場合そのように働くのである。

No.77-09.06.18

 死は自分で決める

何らかの原因で肉体から霊体が出てしまった時(幽体離脱とは違うようです)、その肉体に戻るか否かは自分で決めるのだそうです。
つまり、肉体が完全に機能停止してしまわない限り、本人は生きようとしていると言うことが言えるわけです。

本日衆議院で臓器移植法A案が可決されたが、だいたい人の死を法律で決めることがおかしいのではないでしょうか?何か恣意的なものが絡んでいるとこうなってしまうのか。

私が肉体から霊体が出てしまうという自体に陥ったら、すぐさま霊的世界へ行こうと思います(笑)が、この世に気ががりを残している人も多くいると思われます。何としても生きたいと思う人、幼い子どもは親の側に居たいと思うかもしれません。

本人の生きようとしている本意を無視して臓器移植をすることは反対です。

1.2.3.4.5.