赤穂事件のあらすじ


 1. 刃傷から赤穂城明け渡しまで
 元禄14年3月14日。
 この日は、朝廷から下向していた勅使一向への返礼が行われる幕府にとっては重要な行事儀式の最終日となっていた。その勅使饗応役を務めていた播州赤穂藩主浅野内匠頭長矩が、江戸城本丸松之廊下において、儀式・典礼の指導役高家筆頭吉良上野介義央を斬り付けるという事件が起きた。時の将軍徳川綱吉はこの出来事に激怒し、内匠頭は田村右京太夫邸に送られそのまま即日切腹、赤穂浅野家は改易に処せられた。一方、内匠頭に眉間と背中を斬り付けられたものの浅手で済んだ上野介には何の御咎めも無かった。
 
 赤穂の国家老大石内蔵助良雄のもとに、刃傷事件を知らせる江戸からの第一便早駕籠が到着したのは3月19日午前6時ごろであった。以来、何度となく家臣総登城の集会が開かれ、その後の動向が話し合われた。一時はお家再興嘆願の殉死切腹案が出され、血判状も認められたが、結果4月11日の評定において「開城」が決定された。4月19日、受城使脇坂淡路守のもと赤穂城は明け渡された。


 2. 浅野家再興の望み絶たれる
 内蔵助は、赤穂明け渡し後、京都山科に閑居しながら、お家再興の為に奔走する。江戸詰めであった堀部安兵衛ら「江戸急進派」が存命の吉良を討とうと逸っているのをなだめつつ、内匠頭の弟である浅野大学を立てたお家再興に望みを託していた。しびれを切らす元家臣達に元禄15年3月には敵討ちをすると約し同志120余名の神文を預かりながらも、時機を待つべし、と延ばし延ばしにして大学の処遇が決まるのを待ち続けた。しかし元禄15年7月18日、大学の本家広島浅野家への永預けが決定された。これによって内蔵助が嘆願していた主家再興の望みは水の泡となって消えた。その10日後の7月28日、円山にて会議が開かれ、最後の一挙である吉良討ち取りに向けて事を運ぶ旨が内蔵助の口から申し渡された。俗にいう「円山会議」である。


 3. 吉良邸討ち入りから切腹まで
 元禄15年12月15日未明。
 14日の晩に吉良邸において茶会が催されるという情報を手に入れた赤穂浪士達は、この日を討ち入り日と決定し、夜半に3箇所に分けられた集合場所に勢揃いした。総勢47名。そして15日午前4時ごろ、本所松坂町の吉良邸に到着し、表門隊と裏門隊の二手に分かれて突入し、3人1組となって邸内を駆け回った。討ち入って約2時間後、とうとう上野介を発見し、その首を打ち落とし目的を達成したのである。
 吉良邸を引き揚げた一行は、浅野家の菩提寺、芝高輪にある泉岳寺に向かい、亡き主君の墓前に上野介の首を供え、そこで公儀の検分使をむかえた。その後浪士達は、熊本藩細川家、伊予松山藩松平藩、長門長府藩毛利家、三河岡崎藩水野家に分散してお預けとなる。
 
 死罪か助命か、賛否両論に分かれた浪士への裁決。世論も助命の声が大きく、幕府内でも学者の意見を求めながら揺れに揺れたが、ついには、徒党を組んで暴挙に至った復讐を否定する形をとり、切腹を申し付ける処分を下した。
 元禄16年2月4日。各大名屋敷に預けられていた赤穂浪士46名、切腹。

 これにて一連の事件は終焉を迎えた。

 

         


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