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0098 : 2021年10月17日説教要約 名前:Kng@櫛形 投稿:21/10/19(火) 10:00:01
ヨハネ1:35〜42「イエスに従う時」

 バプテスマのヨハネが自分の弟子に「見よ神の子羊」と主イエスを指して言うと、彼らは迷うことなくイエスについて行きます。誰を師として誰に従うのかは非常に大切なことです。あやふやな虚ろなものでは意味がありません。また、神であるいのちの光としてのイエスを前にどっちつかずは有りえないのです。従うべきとなれば、色々なしがらみや繋がりを切らなければいけないとしても、そうすべきでしょう。またヨハネの謙遜も注目すべき点です。
 主は彼らに、「何を求めるのか?」と問われます。私たちも改めて、主に何を求めているのかを自身を問わなければなりません。弟子たちは主に泊まる場所を聞きます。それは何かのご利益ではなく、主イエスとの交わりこそ自分たちにとって必要なものだと受け止めたからではないでしょうか。そうして従ってみたときに主イエスの素晴らしさを体験できるのです・
 その素晴らしさは、弟子の一人アンデレが兄弟シモンにキリストを紹介することからも分かります。主に従う時に切ったと思った繋がりは、主によって改めてつながることになりました。主イエスにこそ従う思いをもって、今週の歩みに遣わされましょう。
0097 : 2021年10月210日説教要約 名前:Kng@櫛形 投稿:21/10/13(水) 10:38:41
ヨハネ1:29〜34「見よ、神の子羊」

 洗礼者ヨハネは主イエスを「世の罪を取り除く神の子羊」と呼びました。聖書の世界の人々(イスラエルの民)にとって羊は特別な家畜なのです。羊たちの放牧により緑が守られ、生活必需品も得られます。そのため神へのささげ物として相応しいし、その従順にいのちを差し出す姿がメシヤを表わすにふさわしい動物とされるのです。「取り除く」と語られたことばはギリシャ語で「アイロー」と言い、もともとは「担う」という意味があります。キリストの贖いを予見した言葉として端的です。
 とはいえヨハネはこの方が誰であるか「知らなかった」、と強調します。聖霊が鳩の様に下り、とどまるのを見るまでは。キリストとの出会いは誰にとっても確かにそうではないでしょうか。私たちは誰一人として自分からキリストを見出したのではありません。私たちの意志や知恵によらず、まず神が私たちにキリストを示して下さって、御霊によって私たちはイエスを主と告白できるのです。
 ヨハネのバプテスマは、ことばの意味通り、水に浸されること。しかし主イエスは聖霊によるバプテスマを授けたもう方であります。御霊に浸った私たちは、御霊とともに歩む生活によって、御霊の実を結ぶ歩みへと招かれているのです。この恵みの豊かさを覚え、また証の生活に遣わされましょう。
0096 : 2021年10月03日説教要約 名前:Kng@櫛形 投稿:21/10/05(火) 10:21:37
ヨハネ1:19〜28「証の声」
 
 バプテスマのヨハネのもとに、パリサイ人たちが祭司とレビ人たちを遣わし、あなたは何者なのかと問う場面。無論、彼らは祭司ザカリアの子ヨハネを知らなかった訳ではありませんでした。それは、こんな事をしているあなたは何者なのかという問いでした。ローマ帝国に対する立ち位置が真逆な彼らからの問いは、ヨハネにとってプレッシャーとなり得る問いでした。しかしヨハネは毅然として、「違うことは違う」とはっきり明言したのでした。
 彼は、自分は「主の道を真っ直ぐにせよと荒野で叫ぶ者の声」である、と告白します。当時も王が通られる道がでこぼこであっていいはずは無かった。ましてや王の王である主が来られるなら、その備えをなせ、と叫ぶ声なのでした。また、声はことばがなければ意味をなしません。自分は「ことばである主イエス」を届ける「声」であるとヨハネは自覚していたのでした。
 それでも権威にこだわる質問者に、ヨハネは自分より後に来られる方こそが権威ある方であり、自分はその奴隷(履物のひもを解く)となる資格さえないと告白します。しかし主は、その謙遜なヨハネのわざを、ヨルダン川を経て約束の地に入る新しい契約の備えとして用いられたました。私たちも声として、器として、小さなわざをも用いていただきましょう。
0095 : 2021年09月26日説教要約 名前:Kng@櫛形 投稿:21/09/30(木) 11:02:19
ヨハネ1:14〜18「ことばは 人となった」

 罪と闇に死んでいた私たちにいのちの光を照らすため、ことばは人となられました。「人」は直訳では「肉」を指し、弱くもろい物。また、「住む」とは「テントを張る」という意味になります。初めからある栄光ある神ご自身であることばは、弱くみすぼらしい姿をとってこの世に来て下さいました。しかしそれによって、罪人の私たちは神の栄光と神の恵みとを知る事ができたのです。このすばらしい恵みを福音記者ヨハネも、洗礼者ヨハネも証せずにはいられなかったのです。
 この世は、「恵み」よりも「報酬」のほうが受け入れやすい価値観の中にあります。しかし聖書全体は神の有り余る豊な「恵み」を証しし、それが非常識なほど人間に注がれている事を伝えています。私たちはそれを受け取る資格のない罪人ですが、それでも主が与えておられることを覚えましょう。
 かつて神を見た者はいない。それ故、神に対する誤解をどれだけ私たちはしてきたことでしょうか。しかし、神の一人子イエス・キリストこそが、真の神を証し、まことの神に導き、まことの神を知る道なのです。このイエスを覚え、また証していきましょう。
0094 : 2021年09月19日説教要約 名前:Kng@櫛形 投稿:21/09/24(金) 10:46:16
ヨハネ1:9〜13「光に照らされる」

 始めからあった「神であることば」は、すべての人を照らすまことのいのちの光であるとヨハネは記します。創造の初めに光が造られたのは、創造の仕上げである人間のためでした。つまり、光は人間の喜びと平安と幸いに生きるために無くてはならないものなのです。
 しかし、人は光よりも闇に惹かれ、光を拒んでしまいます。なぜだろうか。それは光の方が安心と喜びをもたらすと知っていながら、その光によって自分の汚れが露わ(あらわ)になることを恐れるからではないでしょうか。神はこの世とその民を、自分が造った自分のもの、と言われるのです。誰でも、たとえそれが不完全であっても自分が造ったものには愛着を感じるものなのです。人間でさえそうならば、ましてや完全な神はこの世と民を愛しておられることは自明なこと。それを拒むことは、自分に向けられた愛を拒むのと同じ悲劇に他なりません。
 しかし神は、信仰による救いの道を開いて下さいました。「名を信じる」とは、その方を信じてたどり着く行き先を信じるということです。しかもそれは神の一方的な恵みによるのです。光に露わにされた罪も、恵みの赦しが約束されいます。感謝をもって主を信じ歩もうではありませんか。
0093 : 2021年09月12日説教要約 名前:Kng@櫛形 投稿:21/09/16(木) 10:55:52
 ヨハネ1:6〜8「証しのために」
 初めからあった「ことば」についての記述に続けて、バプテスマのヨハネが紹介されます。彼は、旧約聖書最後の預言者マラキから400年ぶりに「神から遣わされた人」でありました。長きにわたる暗黒時代の神の沈黙に、神の約束が反故(ほご)にされたと感じられたかも知れません。しかし、神が人を愛し救うという約束は、絶対に違えられことはありません。私たちも神の沈黙の中にあって、不信仰に陥らないようにしましょう。
 さてそのヨハネの使命は、光について証しすることでありました。証しとは、裁判での証言の意味を持つことば。闇と死の中にある罪人に、光といのちに至る救いの道を指し示すのが彼の使命でありました。それはあたかも、蓄光し光る避難誘導板のように、神からの光を受けて光る働きなのです。
 人々から、ヨハネこそ約束された救い主ではないだろうかと大きな期待をされたこともありました。そのプレッシャーは決して小さいものではなかったでしょう。しかし彼は、自分の使命に謙遜に、そして忠実であることを求めたのでした。私たちも同様に光を指し示すよう招かれています。主の愛をますます確信し、へり下って人々に証しする者でありたい。

0092 : 2021年09月05日説教要約 名前:Kng@櫛形 投稿:21/09/09(木) 14:11:55
 ヨハネ1:1〜5「神を見るには」
 
 ヨブ記を読み終わり、次にヨハネの福音書を読んでいく。ヨブが「私の目があなたを見ました」と告白し救いを確信したように、私たちも神を見させていただきたい。
 十二弟子の一人ヨハネは、福音書を書くにあたり「初めにことばがあった」と書き出した。つまり世界は、混沌や偶然ではなく、初めからことば、すなわち秩序ある神の計画を根源としている、と述べたのである。私たちは世の不条理を見る時、世界は混沌だと思いたくなるかも知れない。しかし、人知を超えた神の計画があることを覚えよう。
 そのことばは、天地万物を創造する力あることばである。人間のことばが無力にも関わらず、人を励ましたり傷つけたりする力があるとすれば、神の力はなおのことである。すべてのものが神のことばによって「あれ」と今語りかけられている希望を確信したい。
 「死」とは何か。他者からの働きかけに何の反応も示さないことを言うのではないだろうか。神に背を向け、神の愛の招きに無反応な死んだ罪人である私たちに、いのちの光である方が、いのちと光を与えて下さったとヨハネは言う。この方を通して、神を見させていただこう。
0091 : 2021年08月22日説教要約 名前:Kng@櫛形 投稿:21/08/28(土) 15:18:59
  ヨブ記42:1〜17「なぜ、私が」
 
 昨年(2020年)9月13日から始まったヨブ記の講解説教も佳境に入り、最終章となりました。悔い改めたヨブを改めて用い、恵みと祝福をもって顧みられた全能なる主の誠実さとご愛に平身低頭。
 
 誰しもが突然の苦しみに会う時、「なぜ、私が」と問うことでしょう。ヨブも然り。しかし原因や理由を知りたいのでは恐らくありません。ヨブは神と出会い自然や被造物の姿を思わされた時、神の全能についての自分の無知を悔いました。神の全能とは万能のことではありません。人間の役に立つことをも拒む程の全能なのです。しかも聖書で神の全能は人の救いにおいて言及されるのです。その事を知識として知ってはいたけれど、体験的に知らされたヨブは、塵と灰の中で悔い改めたのでした。
 神は、神について間違ったことを語っていたエリファズたちに怒りを向けられますが、ヨブの執り成しによって許されるよう促します。ヨブの確かさとは神に対する真っ直ぐな姿勢でありました。そのヨブの祈りを通して友人たちは許されるのです。ヨブの苦難は自らと友人たちを真の恵み信仰へと導いたのでした。
 最後にヨブの回復が描かれています。律法の決まり通り(出エジプト22:7-9?)全て二倍の祝福を得たヨブ。子どもたちも天の御国での再会を考えれば二倍。これは恵みと言う他ありません。なぜ私が?と問い嘆いたヨブは、なぜ私のような者がこれほどの恵みに、という感謝に変わったのです。この感謝を証して歩もうではありませんか。
0090 : 2021年08月08日説教要約 名前:Kng@櫛形 投稿:21/08/10(火) 11:03:47
 ヨブ記40:1〜23「神の傑作品として」
 敬虔なヨブ。その彼に突如災難が降かかりました。ヨブは神が自分の過ちを探し出し、敵対していると思っていとのです。しかし実際はそうではなく、ヨブの方が神のあら探しをしていたのでした。神の被造物である自然や動物たちを見てヨブはその事に気付かされ、へりくだったのでしょう。人は苦難の説明を聞いたり、そのことに納得したりして癒されるのではなく、神との出会いの中で力をいただくものなのです。
 神はなおもヨブに、自分を義とする事が、意識せずとも神を不義することに気付かせようとされる。私たちも自分の正しさを主張する時に気を付けねばなりません。その上で神はヨブに、だったらお前が神のように高ぶりを抑え悪を閉じ込めよと命じられます。こう言うことにってサタンや悪に対する最終的なさばきは、神のする事だ、わたしに信頼して任せよ、とヨブに伝えようとされたのではないでしょうか。
 さらに神は河馬(カバ)と訳されれている「ベヘモテ」について語られます。ベヘモテは獣の中の獣とういう意味があります。その力、柔和さ、威厳は神の傑作といわれます。いわんやヨブを神は傑作として造りたもうた方。神との出会いとへりくだりこそ苦難の癒しなのです。この恵みを覚え歩もうではありませんか。
0089 : 2021年08月01日説教要約 名前:Kng@櫛形 投稿:21/08/02(月) 09:09:41
ヨブ記39:1〜30「鳥獣に学ぶ」
 最近の出来事を見ていると、私たちの意識の中で多様性を尊ぶという姿勢が低くなっているのではと問われます。自分の潔白を主張し、神こそ間違っているというヨブの主張も、そんな私たちと無関係ではありません。そんなヨブに神は多様性に満ちた生き物たちの姿を繰り広げられる。
 野やぎや鹿は、高地にいるため、人間にはあまり馴染みのない生き物です。しかしその繁殖は神の御手の中にあります。野ロバは家畜のロバとは違い、自由奔放です。その自由さを人間は理解できないかも知れませんが、主が与えられたものなのです。かつて牛を大量に牧していたヨブにとって、野牛の荒々しさは想像を超えていたことでしょう。ダチョウは人間には愚かに見えるかもしれな。しかし、人間には叶わない能力の持ち主なのです。人間が頼る軍馬の能力は、神から与えられた力です。タカやワシは本来汚れた鳥とされるが、それでも神は素晴らしい力を与えられ、命が守られています。
 結局、人間の小さな視野と頭でさばくことが間違っているのです。神に対してそう言っていたヨブは次章で悔い改めることになります。私たちも創造主にあって多様性を尊ぶ歩みに遣わされて行きましょう。
0088 : 2021年07月25日説教要約 名前:Kng@櫛形 投稿:21/07/25(日) 15:10:03
ヨブ記38*1〜41「神からの問い」

 神が現れ自分の疑問に答えてくれることを願っていたヨブに、いよいよ嵐の中から神は現れ  て下さり声をかけられます。私たちも神の言葉を聞くのは、順風満帆な時よりもむしろ、嵐の時かもしれません。ところが神はヨブが抱いていた疑問に答えるのではなく、逆にヨブに問いかけるのでした。聖書は神からの問いに満ちています。私たちも同様に神に問われる存在ではないでしょうか。
 それから神は天地創造から始めて、あらゆる自然現象を問いかけの中でヨブに思い起こさせました。それらを通してヨブの無知を明らかにしていきます。その中で神は、人間にとって恐れられるものもまた、神の御手の内にあることを示されます。また、天の星の運行を通して、神の知恵と支配が圧倒的であることを示されます。
 しかしながら神はヨブに対し、怒りと裁きをもって臨んでいる訳ではありません。神が若獅子やカラスの子の養いにまで目を留め配慮することを通して、ましてやヨブへの愛と慈しみがいかばかりかを示しおられるのではないでしょうか。私たちも無知な者ですが、神に恵みを示していただき、自らも体験し、そして世に証していきましょう。
0087 : 2021年07月18日説教要約 名前:Kng@櫛形 投稿:21/07/25(日) 14:39:30
ヨブ記37:1〜24「雨雲の中の光」

 前36章の終わりからエリフは季節についてヨブに語りかけます。乾季と雨季とはっきり分かれる季節の中(イスラエルにおける乾季は陽暦10月中旬<第八の月>から翌年4月中旬<第一の月>までの間)。ここで語られるのは、雷、大雨、そして寒さです。つまり秋の初めに降る『先の雨』から迎えようとする冬の描写を語っているのです。冬は人間や他の生き物にとって活動を制限させられる時期です。しかし先の雨と冬を通し人は、神に信頼すべきことを学び、いのちの恵みをいただくのです。
 そしてエリフはヨブに、この神の偉大な知恵と配慮とに、あなたは叶うのかと問いかけます。デカルトが「人は知恵を得たら、知らない事が減る。」という立場だったのに対し、パスカルは、「人は知識を得れば得るほど知らない事が増える。」という立場であったといいます。人間の頭が神の知恵と対等であるはずがない、人はへりくだるべきであるとエリフは論ずるのでした。
 しかし主は、雨雲の中に光を照らしたもう方。たとえ今光が見えないとしても、人は神を不正義で愛のない方などとは言ってはなりません。むしろ神を恐れ、神を待つべきなのです。事実、神は次章38章で雲を払いヨブに直接語りかけられます。エリフの存在は確かにヨブが神の声を聞く備えとなりました。私たちもそのように用いられれば幸いである。
0086 : 2021年07月11日説教要約 名前:Kng@櫛形 投稿:21/07/13(火) 09:52:36
 ヨブ記36:1〜33「苦難をも用いて」

 これまでヨブや友人たちに反論する形で語ってきたエリフは、神の代弁者を自負し、さらにヨブに語りかけます。まず、神は公正な裁きをなさる方だ、と言います。決して悪者も苦しむ者も、また正しい者もそのままにはされないと。ヨブの3人の友人たちの過去に原因を求める因果応報論と違う点は、あくまでもエリフは今から未来への視点があるということです。そして、正しい者にさえ苦難があるという点です。
 また、怒りを蓄えることへの危険を警告しています。人は怒りを貯め込むと助けを求めなくなりがちだろうと。ヨブは神に苦難の助けを求めるというシンプルで大切な信仰を抱いていたでしょうか。神は苦難の中でこそ人を信仰による救いに導くことがあるのではないでしょうか。誰であれ神の恵みがいくら大きいからといって、神よりも自らを義としてしまうことが有ってはなりません。滅びに向かい始めてしまうことの無いためなのです。
 エリフは神をすばらしい教師であり、苦難をも用い人を成長させる方であると見ます。神の大きな御業の賛美へとヨブを招くエリフは、神の偉大さと正義と憐みをヨブに気づかせていくことになります。
0085 : 2021年07月04日説教要約 名前:Kng@櫛形 投稿:21/07/05(月) 10:30:08
ヨブ記35:1〜16「あなたは神を待て」

 エリフはさらにヨブに問います。自分は潔白だというが、その義は神からのものだと主張することは正しい事なのか、と。さらに、神を信じることに利益を求めてはいないか、と。因果応報を説いた友人たちはまさにそうでありました。しかし潔白な自分になぜ神は敵対するのかと問うヨブも、実は因果応報に片足を踏み入れている状況にあり、そしてそれはサタンが1章9節で神に挑戦したテーマでもありました。
 それに対しエリフは、創造者である神と被造物の人間との間にある一線を強調し、人の罪も正しさも神に影響を及ぼすものではない、と言う。理神論ではなかった。エリフは、人の振る舞いによって神のみ業が押しとどめられたり進められたりするものでは無い、と言うのです。
 では私たちの祈りは無駄なのでしょうか。否、エリフは人々は苦難の時には叫ぶが、神ご自身をもとめていない、と指摘します。それは結果として神を奴隷として自分の欲望を満たそうとすることではないでしょうか。だから人は、神のもとに叫びが届いていることを信じ、待つべきなのです。神が愛と正義の方ではないと早急に判断してはならないのです。主イエスにある愛を知る私たちはなおさらのこと、神を待ち悪から離れて歩みましょう。
0084 : 2021年06月27日説教要約 名前:Kng@櫛形 投稿:21/07/01(木) 10:34:28
ヨブ記34:1〜37「誤解がもたらすもの」

 エリフの言葉について、しばしば激しい評価がなされることがあります。苦難の中で苦しんでいるヨブに対し冷酷であり、また3人の友人たちの教えの焼き直しに過ぎず、無神経である、という批判です。
 実際エリフのことばの表現は激しいものではあるが、その真実は何でしょうか。まずエリフの主張の土台は、神の絶対主義と公正という点にあります。そして、対する被造物である人間の罪と愚かさ、という点でもあります。もし神が正義をただまっとうされるなら、全ての肉なるものは滅びなければなりません。エリフは、神の裁きの公正さを語りながら、神が人を誤解することは決してない、と言うのです。苦難は個人的なものであるが故に、その苦難を通して人は神をミクロな視点で決めつけ、誤解しやすいもの。しかし、信仰は神をどこまでも正義で最善をなされる方だと信じ続けることではないかとエリフは問うのです。
 私たちは誤解されることを恐れるが、むしろ神を誤解してはいないでしょうか。主イエス・キリストは誤解を受けながらも黙々と父なる神に従いました。神への誤解から神の視点に立つ時、ヨブはやがて癒されることになります。エリフの言葉はその備えとなったのです。
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