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0248 : 2024年9月1日 主日聖餐礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/09/01(日) 13:08:07
ローマ9:6-13 タイトル「選びの厳かさ」

ときに差別を生みがちな「神の選び」について聖書は何を語っているか。神に選ばれたにも関わらず救いの祝福を拒むイスラエルについて、では神は約束された祝福を反故にしてしまったのか、との問いもありえる。しかしパウロは、そんな事はない、と断言する。その根拠は、イスラエルから出る者がイスラエルというわけではない、という点だった。
このことをパウロは旧約聖書、創世記の中の二つの事例から立証しようとする。一つはイサクの誕生について。アブラハムには先にイシュマエルという息子がいたが、彼ではなく主はイサクがサラの胎に宿る前からイサクを約束の子と選ばれた。またイサクの双子エサウとヤコブについても、誕生前に主は兄が弟に仕えることをリベカに告げている。
ヤコブを愛しエサウを憎んだと言われることばはショッキングに聞こえるが、人間の側の要素を一切排除した神の主権による約束であることが分かる。その選びを思う時、選ばれた側の優越感など吹き飛んでしまうほどの厳粛さを思う。と同時に今躓いているように見えても主の約束が確かであることの信頼が生まれる。聖餐にあずかるときもこの選びの厳かさと平安を覚え、隣人の救いを祈り今週の歩みに遣わされよう。
0247 : 2024年8月25日 主日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/08/26(月) 16:49:01
ローマ9:1-5 タイトル「主と同じ愛で」

神の愛の確かな確信が語られた後、パウロは悲しみと痛みを告白する。この変化ゆえに9〜11章を蛇足と読む解釈者もいるが大切な箇所である。パウロはこの悲しみについて、キリストも聖霊も証ししているという。自分のことばの信憑性を増そうとしたというよりも、キリストも聖霊も、もちろん父なる神も同じ思いに違いないとの確信であろう。
その悲しみの原因はイスラエル人の救いに関することである。主イエスのすばらしい福音を彼らは手にしていないのである。イスラエルは失われた北王国十部族はもとより、ユダヤ人も福音を拒絶してきた。パウロはそのユダヤ人を恨んでもいないし見捨ててもいない。かつて自分が主イエスを拒んでいたことを思ってのことではないか。しかも主はそのパウロをあわれみ救われたのである。同胞のためならのろわれてもよいとの思いはモーセや、主イエスご自身との思いと重なる。
神が選びの民としてイスラエルに与えた特権と栄光をパウロが列挙しているのを読むと、その特権と栄光を味わっていないイスラエルの歩みがどれほど惜しいことか。誰より主ご自身が残念に思っておられるに違いない。今のイスラエルの歩みを思い、主と同じ思いで祈ろう。
0246 : 2024年8月18日 召天者記念礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/08/22(木) 23:01:21
ローマ8:35-39 タイトル「圧倒的な勝利者」

神の罪人を愛する愛は絶対と記されてきたが、しかしこの世の現実の中ではこの神の愛が見えなくなったり理解できなくなることもあるかもしれない。実際に詩篇が語っている通り、信仰を持っているがゆえの苦しみに遭うことも多々ある。神のために味わう苦難や危険は私たちを神の愛から引き離すだろうか。
しかしパウロは、新約聖書でここにしか使われていない珍しいことばを用いて、私たちは圧倒的な勝利者であると断言する。それは苦難や危険があるにも関わらず、というよりもむしろ、そこでこそ現れる神の愛があるからである。神の愛はキリストの十字架によって現れた。ならば私たちが信仰ゆえに味わう苦難は、キリストの苦難を思い起こさせ、なお一層神の愛の深さを覚えることになるからである。
結局、あらゆる、どんなものも益となって、私たちをキリストにある神の愛から引き離すことはできない。それどころか、死もまた信じる私たちにとっては、神のふところに身を移し、神の愛を永遠に、間近に感じる場所への引っ越しである。決して私たちが見放される事のない神の真の愛によって日々平安と希望をもって歩もう。
0245 : 2024年8月11日 主日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/08/13(火) 18:28:11
ローマ8:31-34 タイトル「神が味方なら」

善悪の判断を神から奪い、神に背いた人間に最後待つのは孤独である。その孤独を埋め合わせるためにさまざまな神を作りだしたが、しかし神はその罪人を赦し神の子どもとしてくださる。これらのことからどう言えるか。神が味方であり、私たちにとっては何も恐れるものはない、という確信が与えられる。その証拠に神はご自分のかけがえのないひとり子さえ与えてくださったからである。
味方といっても、何でも都合のいい事をしてくださるという意味ではない。私たちは自分の罪の負い目のゆえに、さまざまな機会に訴えられる経験をするのではないだろうか。サタンを始め他者から、あるいは自分自身から。その責めに私たちは耐えられるものではないが、神が義と認めてくださる。回りが何と言っても、許された確信を持ちながら自分の過去と誠実に向き合うことができるのではないだろうか。
主キリストは、私たちの救いのためにご自分のいのちを死に渡し、救いの成就のためによみがえられ、今は神の右で私たちのためにとりなしていてくださる。私たちが経験する物事や出会う隣人がこの神の恵みの下にあることを覚え、信頼と平安をもって歩もう。
0244 : 2024年8月4日 主日聖餐礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/08/06(火) 13:19:24
ローマ8:28-30 タイトル「神の計画のゴール」

一流アスリートでイメージトレーニングを軽視する人はいない。私たちは信仰生活とそのゴールをどうイメージしているだろうか。
パウロは感動をもって神を愛する人、という彼にとって珍しい表現を使う。これは当然ここまでの流れから言っても神に愛され神を愛さざるを得ない人のことである。その人は神の計画に召され、その達成のためにすべてのことがともに働き益となる。一つひとつの出来事ではなく、どれも計画の完成のために不可欠なピースとなるということである。
私たちが召された神の計画は、あらかじめ、ということばが特徴的なように、すべて神の全知のうちに進んでいく。これは神が救う人とそうでない人を勝手に分けているというのではない。神を愛する人々にとっての約束の確かさからくる平安のためである。この計画は、私たちを御子のかたちと同じ姿とすること。主イエスがひとり子として神から与えられている栄光と同じ。神の救いの計画のゴールとは、つまり私たちが身も心も神の子どもとされるということである。神の選び、義認、栄化は神の主権のなかで揺るがせられず進んで行く。私たちはこのゴールをはっきりイメージしつつ、今日の信仰生活を感謝をもって歩もう。
0243 : 2024年7月28日 主日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/07/29(月) 20:15:45
ローマ8:25-27 タイトル「御霊のとりなし」

私たちは神の子どもとされたが、後に栄光をいただくまでの間この地上では苦難があり、被造物のうめきを聞き、自分自身もうめきを経験する。そのなかで私たちは、何をどう祈ったらよいか分からない。この祈りは単なる「願い」ではなく、神の前に自分を置くこと、である。神の前に自分の置き方、つまり神にどう接していいか分からないのである。
その時の御霊の助けは、「一緒に代わりに引き受ける」という助けであり、御霊のとりなしは、「私の代わりにぶつかってくださる」という意味がある。私たちは神をアバと叫んで呼べる神の子どもなのだから、遠慮せず、形式張らずに、助けて欲しいと小さい子どものように神にすがって良いのだがそうできない弱さがある。御霊はそんな私たちと共に、私たちの代わりにうめきをもって神にぶつかってくださるのである。
父なる神は私たちの表面的な部分を見て判断されない。私たちの内に住まわれる御霊によって私たちの真実な姿や思いを知って受けとめてくださる。だから私たちは安心してどんなことでも祈ってよいしそうすべきである。その経験を積み重ねて私たちは神の子どもに相応しい、神の前での自分の身の置き方を学んでいくのである。
0242 : 2024年7月14日 主日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/07/015(月) 12:48:02
ローマ8:23-25 タイトル「見えない望みに生きる」

世の終わりと聞くと不安や恐れを伴う誤解もあるが、完成とみるべきであろう。そこにある苦難をパウロは、産みの苦しみと共にうめきと表現する。神の子どもとされても、あるいは神の子どもだからこそ受ける苦しみは、ことばにすることのできないうめきとなる。私たちも信仰生活において実際に体験するのではないだろうか。
けれども私たちにやがて啓示される栄光と比べるなら何ほどのことはない。初穂ということばが示す通り、今は御霊によっていただく恵みは、それほどの恵みではないと感じるかもしれない。しかし続く大きな恵みに目をそらしてしまうことは残念である。私たちは神の子としての身分は与えられても、実際に子として生きるには、肉の弱さに阻まれる苦難を経験するだろう。この肉があがなわれ救いが完成する主の再臨の時を待ち望む必要があるのである。
ともかく私たちは今目に見える苦難や悩みに目を奪われ、後に得られる祝福の約束を逃してはならない。私たちはその約束も込みで救われたからである。忍耐を伴うこの希望は「ことばに尽くせない栄えに満ちた喜び」に躍ることを私たちに得させてくれるのである。
0241 : 2024年7月7日 主日聖餐礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/07/09(火) 10:33:59
ローマ8:18-22 タイトル「今の苦しみと後の栄光」

異常気象や環境問題が叫ばれる昨今である。この問題は人の罪と分けて考えることはできない。神は信仰によって罪人の罪をゆるし義と認めてくださり、御霊を与え神の子どもとしてくださり、キリストとの共同相続人の特権を与えてくださった。しかしこの特権には、不信仰の世にあって神の子どもとしての苦難も必ず伴う。しかしパウロは、その苦難も後の栄光と比べたら大したことはない、と断言するのである。
栄光とは何か。被造物は守り管理する人間の堕落によって歪み、本来の創造されたときの美しい姿を失ってしまった。それゆえ被造物全体も神の子どもたちの現れを渇望している。被造物を虚無に服従させたのは神だから、神が秩序の回復をしてくださることに被造物は希望をいだいているのである。
信仰による私たちの救いが、天地万物の被造物の救いにつながる。その栄光との比較のなかで、神の子どもゆえの苦難は取るに足りない、というのである。人間に被造物全体を救う力はない。しかしやがての日に人を、そして被造物を完全に救う神、その子どもとして私たちの日常生活から、被造物全体へのまなざしを熱心に持ち合わせていきたい。
0240 : 2024年6月30日 主日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/07/02(火) 20:43:59
ローマ8:12-17 タイトル「神の子どもの特権」

キリストの贖いによって罪許され、御霊を頂いた私たちには義務があるとパウロは言う。ここでの義務とは、返さなければならない負債のこと。まずパウロは肉に従う義務ではない、と伝える。生まれながらの性質に従うということは、私たちが「弱い罪ある人間だから仕方ない」と諦めて神に逆らう言い訳をすることに他ならない。そのような歩みには神の前に無価値な死の結末しかない。
では私たちの義務とは何か。キリストの贖いと御霊の内住は、私たちを神の子どもとするためであった。であれば、それにふさわしく生きることである。義務ということばにまつわる強制的なイメージは私たちの思い込みかもしれない。アバ(父ちゃん)!と叫びながら、神を父として安心し遠慮せず慕い交わること。それが求められている。
その時、私たちは神の子どもの身分を御霊によって保証し、奴隷には決して与えられないキリストとの共同相続人の特権を与えられる。人間の愛さえ、人を変える事ができる。ならば、神のこれほどの愛は、人を内側から必ず造りかえ、強いられてではなく主に感謝と献身をせずにいられない。御霊によって神の子どもとして喜び歩もう。
0239 : No Title 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/06/26(水) 17:47:49
不適切な投稿をいくつか削除しました
ご了承ください
0238 : 2024年6月23日 主日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/06/25(火) 19:22:12
ローマ8:5ー11 タイトル「肉の弱さと御霊のいのち」

7章において自らの肉の弱さをつづったパウロは、神の救いを宣言した後、御霊と肉を対比させて掘り下げていく。この場合「肉」とは生まれながらの私たちの有り様、「霊」は神の霊ということである。アダムの子孫としての肉は、自らが神となるという誘惑に対する弱さゆえに、自分の罪過を認める事ができない。むしろアダムとエバがそうだったように、他のせいにしてでも自分の正しさを主張しようとするのである。
しかし神は私たちに御霊を住まわせ、肉ではなく御霊のうちにおらせてくださった。ここでの「もし」は仮定ではなく当然の条件である。私たちが御霊のうちにおり御霊を持っている証拠は、キリストを主と告白するかどうか。自らを神としたい肉のうちにあるままでは、キリストを主と告白することができないのだから。
復活のキリストの御霊を持つ者は、キリストのいのちを持つことになる。自分のいのちを自分で保証しなければという焦りは必要ない。神がキリストの十字架とともに保証してくださるからである。このいのちが保証された平安は何にも替えがたい。弱い私たちは、自らの過ちを認め神と人の前に誠実に歩む真の強さを頂き今週の歩みに遣わされよう。
0237 : 2024年6月16日 主日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/06/17(月) 01:50:08
ローマ8:1-4 「いのちの法則」

指輪の宝石の輝きにも例えられる8章に入る。これまでパウロは神の怒りを向けられる罪人が、どのようにして義と認められるのかを語ってきた。そこで大事なのは肉の絶望であり、キリストの死と復活にあずかる信仰こそ必要であった。そのようにキリストの中にある者に対しては、神が罪と定め怒りを向けられることはないのである。
いのちの御霊の律法は、法則・原理と考えるとよい。私たちはいのちについて知的にすべて理解できなくても、暴飲暴食は健康に良くない、など体験的に法則があることを知っている。しかし復活されたキリストのいのちは私たちの知っている法則とは別の法則があり、その法則は、キリストの中にある私たちの罪と死の法則を塗り替え、上書きする力を持つのである。
神の律法は、汚れた私たちをきよめ、神のみこころにかなう作品と作り上げることはできない。しかし神は御子を遣わし、十字架によって私たちの汚れをきよめ、さらにそれだけではなく、御霊に従う歩みへと導く。その時自分の肉のためではなく、純粋に神を愛し隣人を愛する実を結ぶ者としてくださり、結果として律法の要求を満たすのである。
0236 : 2024年6月9日 主日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/06/10(月) 11:03:38
ローマ7:14-25 「罪の葛藤と絶望」

聖書は他人ごととして読む限り、退屈な書物ではないだろうか。今日の箇所に多出する「私」がだれを差すのかについては古来いろいろ議論があるが、いずれにしろこの私を読者である自分自身と重ね合わせて読むべきだろう。パウロは、律法はあくまで神から与えられたものであり、善を行えないのは自分の中にある罪のためであると告白する。
そればかりではない。パウロは積極的に悪を行う者であるとさえ告白する。善いことができない、というだけではないのである。パウロは律法に明確に違反した事はなかったかも知れないが、この自覚を私たちは持てるだろうか。さらに善を望む内なる人と悪を行う肉なる人の分裂状態にあると告白する。悪に統一されているほうが、すべて変わる可能性がある分まだましと言えるのではないだろうか。自分自身がそのみじめな人間であることの絶望を彼は覚えているのである。
けれども自分の知恵にも力にも行いにも自分を救うことはできない、というこの絶望に至ってこそ、イエス・キリストの福音の光が自分に照らされていることに目を留める事ができる。その恵みへの感謝とともに、安心して自分に絶望し主に頼るクリスチャンの歩みがここにある。
0235 : 2024年6月2日 主日聖餐礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/06/02(日) 20:37:05
ローマ7:7-13 「律法と罪」

たとえば7:5の「律法によって目覚めた罪の欲情」ということばをとらまえて、神のことばである律法を罪とするのかという批判があった。それを見据えてパウロは律法と罪について語る。たとえ十戒の残りすべてを守っていると主張できても、最後の「隣人のものを欲しがってはならない」を守れる人はいない。つまりすべての人がこの戒めによって律法を守れない罪を自覚せざるを得なくなるのである。
それだけではない。私たちは禁止されるとそれを破ることに魅力をさえ感じてしまう事がしばしばある。また、律法を与えた神に反発を覚えさえする。そのように、自分の中に死んでいた(眠っていた)罪を、律法は呼び起こしさえして、私たちを死に導くのである。律法は人を教育するために必ず必要なものであって、神から来る正しく良いものであるにもかかわらず。
つまり律法が悪なのではなく、私たちの罪が問題なのである。善悪の知識の木の実も良い必要な実なのに、私たちはそれを罪の言い訳にもしてしまう。しかしその罪がもたらす死も、福音の恵みの前では必要なものとも言える。今日の聖餐式においてそのことを体験しよう。
0234 : 2024年5月26日 主日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/05/27(月) 10:16:07
ローマ7:1-6 「文字によらず御霊によって」

7章は特に律法を知っているユダヤ人に向けて記された内容である。冒頭、結婚についてのたとえが記されているが、この第1と第2の夫や妻が何をたとえているかを探るのは意味がないだろう。パウロの言いたい事は、律法は人が生きている間のみ効力があり、死によってその人は律法から解放されるという1点である。
ユダヤ人は、神から律法を与えられたということを誇りとしていた。律法を守ることによって自分たちはきよい民だと自負していた。しかし、我が罪のために死なれたイエスを信じ、その死にあずかるバプテスマを受けたのであれば、私たちは律法からは解かれているということになる。そもそも律法を守ることだけで愛を表すことはできない。愛はむしろ律法を超える所に表れるのではないだろうか。
律法は罪を指摘することはできても、守る力は与えない。それどころか罪ヘの誘惑さえ生む。ところがそうした古い文字ではなく、私たちの仕える御霊は私たちを新しく生まれさせ、キリストに似たものとし、喜びと自由をあたえ、主の喜ぶ実を実らせてくださる。自由に生き生きと今週も御霊に促され励まされ、神と人を愛し歩もう。
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