画像掲示板
投稿がすぐ反映されないことがあります。「書き込む」は何度も押さないでください。画像(jpg gif pngなど)も投稿できます。不適切な投稿と管理者が判断した場合は、予告なく削除、改変することがあります。ご了承ください。
Page : 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19
下に移動▼
0158 : 2023年04月23日主日礼拝 名前:Kngh@櫛形 投稿:23/04/24(月) 10:43:25
ヨハネ17:6〜19 「祈られて歩む道」

 ヨハネ17章は、主ご自身のための祈り(6-5)、弟子たちのための祈り(6-19)、教会のための祈り(20-26)で構成されています。
 
 導入 日本人と欧米人の挨拶の違い
 1.大祭司として
  〇 神の御名を現した
  〇 失敗ではなく
 2.弟子による栄光
  〇 お守りください
  〇 「世から」ではなく「世にあって」
 3.祈られて
  〇 み言葉による聖別
  〇 天での執り成し

<要約>
 欧米での挨拶(Good morning) は、日本の事実描写(相手の気分、状況変化に関わりがない)の挨拶とは違い、相手のために祝福を願う(I wish)祈りだと言われます。それはキリスト教の信仰が生活の背景にあるからではないでしょうか。主イエスは十字架の前の長い祈りの中で、大祭司のように弟子たちのために執り成し祈られました。主イエスを見て父なる神を見ることが出来た弟子たち信仰を主は喜ばれます。彼らの失敗をあらかじめ知りつつも、その信仰に目を向けられる主の恵みを覚えましょう。
 さらに主は、弟子によって栄光を受けた、と言われます。つまり主にとって弟子たちは誉であり誇りであったのです。それ程の恵みを注がれている弟子たちだからこそ、主はご自分が地上を去った後の弟子たちのため悪から守られるようにと祈られます。迫害の世を去り悪にまみえないように、ではなく、世にあって悪の中にあっても守られるように、です。
 主が弟子たちを「わたしのもの」と言われる資格の根拠は、弟子たちにではなく、真理のみことば、つまり十字架と復活のみこばにあるのです。弟子たちのために命を捨てよみがえられた主が弟子たちのために祈られたのです。私たちもその事実に感謝し、また互いにとりなし祈る者として今週も歩みましょう。 
0157 : 2023年 4月16日説教要約 名前:Kngh@櫛形 投稿:23/04/17(月) 10:57:59
桃の花も終わり、周囲に淡い緑の色が競っています。皆様が健康で、主が造らた自然の恵みに感謝する毎日を送くることが出来ますように。

ヨハネ17:1〜5 「父と御子の栄光」

 私たちが祈る「主の祈り」ではなく、主イエスご自身の心の中の祈りの言葉がこれほど詳細に長く記されている箇所は、ヨハネ17章を置いては他にはありません。
主は教えを語り終えて祈られました。弟子たちへの教えが実を結ぶことを思っての大事な祈りだったのでしょう。子の栄光が現れるようにと願う祈りは、子が父の栄光を現すためという目的でありました。私たちの祈りは、どこに目を向け、何のために祈る祈りだろうかと問われるところです。
 主はすべての人を支配する権威を父から与えられた、と言われます。支配というと窮屈な印象を持つかもしれません。が、罪の世においての支配と混同してはならないのです。主は誰よりも低くへりくだられ、私たちに永遠のいのちを与えたもう。その支配に移されたのです。永遠のいのちとは、イエス・キリストに現れた父なる神の愛を体験的に知り経験することなのです。造り主から存在を許され愛されることの恵みは、まさに永遠のいのちを満たす事に他なりません。
 十字架のわざを成し終えた後、主イエスは父による復活と昇天・神の右の着座による栄光を願われました。まことの神の御子にしかできない祈りでありました。私たちは愛を注がれている者として感謝をもって日々を歩みましょう。
 
0156 : 2023年 4月 9日説教要約 名前:Kngh@櫛形 投稿:23/04/10(月) 10:45:51
 本日は、イースター聖餐礼拝でした。神の愛による救いの成就には、主イエスの十字架と復活がセットとなっていることが重要でした。
 
 ヨハネ16:25〜33「勝利者イエス」

 パウロが語ったように、主イエスの復活は文字通り起きた事実として受け止めなければ、私たちの信仰はむなしいものとなります。これまで主イエスはたとえを用いて神の偉大さと栄光、愛と恵みを教え、わざによって証してこられました。それは十字架と復活を指し示すものでした。すなわち十字架と復活はたとえでないこと。その事実こそ父なる神の偉大さと栄光、私たちに向けられた愛と恵みそのものでした。
 弟子たちは「今、わかりました。信じます。」と告白します。しかし未だ十字架と復活が起きていない「今」という時点で、果たして本当に彼らは理解し信じたのでしょうか? 主はむしろそう告白する弟子たちの躓きを予告されるのです。だがしかし主は絶望しておられない。それは父なる神が死を超えて共におられるという希望があるからでした。
 主はそのご自身の希望をもって弟子たちを励まされます。苦難とは結局のところ死と孤独に通じるもののことなのでしょう。十字架はまさにその極みですが、主はそれに勝利し、私たちにも平安と勇気を与えたもうのです。イースターの恵みは、私たちの代わりに成し遂げられた主の勝利に私たちも与ることです。苦難にあっても主を褒め称え、平安と勇気をもって歩もうではありませんか。
0155 : 2023年0 4月02日説教要約 名前:Kngh@櫛形 投稿:23/04/04(火) 10:38:24
ヨハネ16:17〜24 「悲しみは喜びに」

 「もうしばらくするとわたしを見なくなり、またしばらくするとわたしを見る。」、と主から言われた弟子たちは、何のことか意味が分かりませんでした。数日前に「ホサナ」とエルサレムに迎入れられ、いよいよ王の即位かと期待が高まった分、当惑も大きかったことでしょう。主が見えなくなる、つまり十字架の死は、世とサタンが勝利したかのように見え、彼らは喜ぶかも知れません。しかし、本当は主とその弟子たちの喜びとなるのです。         
 この喜びの真意について、主は出産の際の陣痛に例えられました。子を産む女性は激しい痛みを経験するが、産まれてしまうと新しい命の誕生への喜びがその痛みを覆ってしまうと言われます。同じように主の受難は激しい。そして世とサタンは、救い主や信仰など何の意味もないと私たちに思わせたいでしょう。しかし、その受難によって罪人の私たちもたらされる神の愛に対する確信が、十字架によって与えられるのです。十字架は世とサタンに対する逆転の勝利となる訳なのです。
 そこでもたらされる喜びは、十字架が神の愛の決定的証拠となるため、愛を疑う問いを持つ必要は一切無くなる喜びと替わるのです。また動物のいけにえを通してではなく、いつでもどこでも父なる神に祈れる喜びでもあります。主の受難を覚え、自らの悔い改めと感謝の週を過ごしましょう。
0154 : 2023年 3月26日説教要約 名前:Kngh@櫛形 投稿:23/03/29(水) 11:52:10
ヨハネ16:12〜16 「真理の御霊によって」

 イエスは、弟子が受ける迫害について語られた後、「まだ話すことはあるが、今はあなたがたはそれに耐えられない。」と言われた。迫害についての覚悟や心構えは大事であるが、恐れのあまり萎縮してしまう弟子たちへの配慮だったようです。しかし「今は」なのです。御霊が来ると、御霊は十字架についての真理へと弟子たちを導くから、と主は言われました。
 御霊の現す栄光は、人からの場合『誉れ、名誉』とも訳される。がしかし、ヨハネの福音書ではほとんどが十字架の受難と復活に関連づけられているのです。十字架とは、最悪とも言われる苦痛と、徹底的に人の尊厳を奪う処刑方法であり、人々はその言葉を口にするのもはばかる程でした。しかし主はこれを「栄光」、と呼ぶのです。それを信じることは、人間の知恵や経験からは不可能なこと。だからこそ御霊が働いてくださるときにのみ、それが神の救いの計画の成就だと信じることが出来るのです。
 「しばらくするとわたしを見なくなる。またしばらくするとわたしを見る。」、と言われたのは十字架の復活のこと指すのでしょう。「しばらく」はギリシャ語で小さいを意味する言葉「ミクロン」。受難に栄光が現れ、試練に主の恵みが現れるのは私たちが思うより短いのではないでしょうか。
0153 : 2023年03月19日説教要約 名前:Kngh@櫛形 投稿:23/03/19(日) 16:06:16
ヨハネ16:1〜11 「御霊を助け主として」

 弟子たちが必ず経験するであろう迫害について語ったのは、彼らが実際に迫害に会ったときにつまずかないため、と主は言われます。サタンは迫害を用いて主の弟子たちをつまずかせ、信仰を失わせようとしてくるに違いないからです。詐欺被害に遭わないためにその手口を知る事が有効であるのと同じように、迫害について知ることは大事なこと。サタンの誘いに惑わされるその先には、取り返しのつかない被害があることを覚えたいものです。
 主イエスが共にいる間は、弟子たちは迫害についてそれほど実感することなく過ごせた。けれども主の十字架の後は、弟子たちが直接迫害を受けることになるのです。それを知った弟子たちの意気消沈ぶりが主の言葉(6節)から伺えるのですが、しかし主はそうした弟子たちをなじったり非難したりはなさりませんでした。
 しかも主が去って行かれた後に、助け主としての御霊が遣わされる約束を重ねてして下さるのです。御霊はいつでもどこでも弟子と共におられ、真の罪、義、さばきについて明らかにして下さいます。そうして私たちが迫害によって信仰を失わないように、本当の勝利はサタンにではなく父子御霊にあることを信じさせてくださるのです。
0152 : 2023年03月12日説教要約 名前:Kngh@櫛形 投稿:23/03/19(日) 15:37:46
ヨハネ15:18〜27 「世から憎まれるとき」

 主イエスが、主に従う弟子には必ず迫害が伴うとおっしゃった通り、キリスト教の歴史は迫害の歴史でした。世は身内なら大事にし、それ以外なら拒み疎外するでしょう。それと同じように、キリスト者に対してもそのようにするからなのです。また、師である主イエスが世から憎まれ十字架につけられたなら、その弟子が世から憎まれないことはあり得のです。
 クリスチャンに対する迫害は、クリスチャンの側に原因があるというよりも、世が神を知らないからだと主は言われました。つまり、教会が迫害を回避し宣教を前進させるためにどんなに迎合しようと、福音は広がらないのです。神を知らない、まして知ろうとしない世に原因がある限り、私たちが信仰を捨てる以外に迫害をやめさせることは出来ないでしょう。むしろ迫害はみことばの約束の成就ですらあるのですから。
 であれば、御霊が助け主として下るという約束もまた確かなことばなのです。御霊は私たちが苦難に会うときも共におられ、三位一体の神が共に担って下さるのです。福音は迎合ではなく、御霊と御霊に満たされた弟子の証によって広められていきます。迫害を避けるために私の罪のために死なれた主を裏切ることのないよう、御霊に満たされた愛を実践していこうではありませんか。
0151 : 2023年 03月05日説教要約 名前:Kngh@櫛形 投稿:23/03/06(月) 10:43:57
ヨハネ15:12〜17 「友なるイエス」

 「互いに愛し合いなさい」これは主が何度も重ねて命じられていることです。そして後にヨハネやパウロも手紙の中で同じように命じています。その愛とは、とても具体的に「友のためにいのちを捨てる」愛。それはとてもシンプルな教えでした。しかし、そのような愛は誰も持ち得ていません。ただ一人の方を除いては。
 わたしが命じることを行うなら、と主は言われます。しかし、あたかも交換条件のように、そう出来るのならわたしの友だ、というのではありりません。この「命じる:エントレー」という言葉はギリシャ語では、納得できるように教え、諭して委ねる、というニュアンスがあるのです。もしそうでないなら、それは主人と奴隷の関係になります。が、主は私たちを友と呼び、父の御心を教え、励まし合いながら互いに愛し合いなさい、と命じるのです。
 私たちが主を選んだのではありません。主が罪人の私たちを選び、ご自分につなげ、最高の愛を注いで下されました。この愛に留まるなら、私たちも愛という豊かな実を結ぶことが出来るのです。讃美歌「いつくしみふかき」:英題 What a friend we have in Jesus. の作者は悲しい経験を経つつも主が友である恵みを表現し、多くの人を慰めました。主に愛される恵みを胸に、それぞれ愛を示す場に遣わされましょう。
0150 : 2023年02月26日説教要約 名前:Kngh@櫛形 投稿:23/02/27(月) 10:29:01
ヨハネ15:1〜11 「実り豊かな人生」

 「まことのぶどうの木」と主はご自身を表現されます。旧約聖書を翻ると、神がイスラエルの民を『ぶどう』に例え、豊かな実りを期待したのに酸いぶどうが出来てしまった、と嘆く場面があります。それは繋がっていた木が間違っていたからなのです。だから主は「まことの」と言われたのです。そして豊かな実が実るように、父なる神が大事な私たちの刈込をなさるのです。
 わたしに留まるように、と主は言われる。ぶどうの枝はそれだけでは役に立つものではありません。ただ唯一、枝が価値あるものとして実を実らせるためには、まことの木に繋がり続けることが重要となります。そして、つながり続けるなら、なんでも欲しいものを求めなさいと言われました。つながり続けてなお、自己中心の願いはしなくなり、神のみこころを願う祈りに満ちていくでしょう。それが神の栄光を現すということなのです。
 私たちは、自分の外側から与えられる満たしがなければ、何もすることはできないのです。同様に、自分の力だけで神を、また隣人を愛することはできません。そのために必要なのは、主の十字架の愛にとどまること。実は、嚙み砕かれてこそ他人の祝福となるのです。その愛の歩みに、主の愛にとどまり、愛を頂きながら進んでいきましょう。
0149 : 2022年02月19日説教要約 名前:Kngh@櫛形 投稿:23/02/20(月) 11:03:03
ヨハネ14:25〜31 「わたしの平安をあなたに」

 私たちの住む世界は一寸先は闇だが、信仰を持つことの平安はどこから来るのだろうか。
主はこれまでも、またこの夕食の席でも大切な事を弟子たちに教え、語って来られました。
なおも信仰も理解も足りない弟子たちではありましたが、それでも主は平安であり続けられます。それはご自分が去った後でも、助け主である聖霊が弟子たちを真理に導いてくれると委ねていたからではないでしょうか。私たちも聖書の言葉を読む時に、聖霊によって生けることばとして発見があり、感動を覚えるのです。
 平安とはギリシャ語で「エイレーネー」、ヘブル語で「シャローム」と表現されます。この平安は何も欠けることがなく充足している状態のことを言います。この世の安心ではもたらせられないものではないでしょうか。主イエスの与える平安は、主が持っておられた委ねる平安なのです。私たちに残すと約束されたこの平安を私たちもしっかり握りしめていたいものです。
 十字架は弟子も痛みを覚える出来事ですが、しかし主の約束のゆえにそれらも喜びと信仰の確信へと繋がります。サタンは何もわたしから奪えないと主は断言されました。私たちも主に信頼するとき、奪われるものは何もありません。その平安をいただく時、再び立ち上がり出発することができるのです。
 
0148 : 2023年02月12日説教要約 名前:Kngh@櫛形 投稿:23/02/15(水) 13:43:36
ヨハネ14:15〜24 「三一の神ともに」

 最後の晩餐の席で主は、わたしを愛しているなら戒めを守るはずと言われました。あらゆる宗教の中で、戒めを守り善行を行う動機が愛である、という教えが他にあるでしょうか。逆に言えば愛が動機にならなければキリスト教ではないということです。この後間もなく主は世を去られることとなります。どのように愛を実践すれば良いのでしょうか。しかし主はもう一人の助け主、すなわち聖霊(真理の御霊)を送ると約束されました。世は見えない聖霊を知ることは無いが、主と隣人を愛する主の弟子は御霊が働いていると知ることが出来るのです。
 主はまた、私たちを孤児にしないと言われました。復活してまた会えると言われるのです。ペテロがそうだったように、復活は罪の赦しの確信に不可欠であり、決して主はほったらかしにはなさらない。さらに助け主としてに御霊を送られると約束して下さいました。御霊が私たちの内に住まうことによって、三位一体の神の交わりに私たちは加えられるのです。
 なぜ主はよみがえりの後、世にご自分を顕示されなかったのでしょうか。主は決して人を驚かせて信じさせようとされる方ではありません。主の願いは、主に愛された主の弟子たちが互いに愛し合うことなのです。私たちも世の孤独を癒す主の器として、愛を頂き、愛をもって遣わされましょう。
0147 : 2023年 2月5日説教要約 名前:Kngh@櫛形 投稿:23/02/06(月) 13:46:05
 主日聖餐礼拝でした。
ヨハネ14:7〜14「イエスを見れば」

 過ぎ越しの祭りを迎える前、最後の晩餐となる食卓を囲み主イエスは弟子たちに語られる。
どこに行かれるの?と不穏さに心騒ぐ弟子たちに、ご自分が天の父にいたる道だと告げられた主は、ご自分を知り、見ることが父なる神を知り、見る事だと重ねて告げられます。主ご自身が神である故に、父に至る道が唯一であるということなのです。「今から」「いや、すでに」とは、十字架の贖いがこれから起こる事であり、これまでもその愛は表されてきたことを述べておられるのでしょう。
 ギリシャの神観に影響されていた可能性のあるピリポが、神を見せて下さいと主に願います。しかし主イエスは、ご自分を見ていたのになぜ父を見なかったと言うのか、と逆に問われます。主イエスは父におられ、父は主イエスにおられるのです。人は見えない神を誤解しますが、主イエスを見て、主イエスの言葉を聞くなら、神を見誤ることは決してないのです。
 言葉を信じられないなら、主はご自分のわざを信じよと言われました。十字架と復活に現れた愛のわざは、主が天に帰られた後も、主を信じた弟子たちによって世界中に広まっていくことになります。私たちも主に倣い愛のわざをする時、足りなさを覚えることがあります。その時に主に祈る者でありたいものです。その祈りに必ず主は応え、叶えて下さるのだから。
0146 : 2023年 1月29日説教要約 名前:Kngh@櫛形 投稿:23/01/31(火) 15:09:49
ヨハネ14:1〜6 「心騒がせるな」
 
 様々な出来事や状況に心騒がせてしまう私たちに、主イエスは「心騒がせられてはならない」、と言われます。それは単なる教訓ではありません。人となられた主イエスご自身が心騒がせられた経験があり、しかしそれでもなお十字架の道を歩まれた方の言葉である。揺らぐものにより頼むのではなく、岩であり、いつも変わりない方により頼むことが心騒がせられない鍵ではないでしょうか。
 私たちが世で頼もうとしてしまうものは、決して未来を確実に見通せるものではありません。またその責任も取ろうとしないでしょう。しかし主イエスは私たちの行く道を知っていて下さる。その主が、天の神の家での私たちの場所を用意してくださると約束して下さいました。そこは主とともにいつまでもいることの出来る居場所でした。
 かつて主に教えられたことも忘れてしまう弟子たちは、私たちの姿でもあります。けれども主は改めてご自分がいのちと真理の道であると言われました。よく諸宗教について、どの道も行き着く先は同じと言われますが、違うのでは。主イエスを通してこそ、まことの愛の恵みの神へと導かれるのです。この道を通ってこそ、揺るがない平安と希望を抱くことができるのです。
0145 : 2023年 1月22日説教要約 名前:Kngh@櫛形 投稿:23/01/31(火) 10:28:47
 ヨハネ13:31〜38 「新しい戒め」

 主は、「人の子は栄光を受け、神も人の子によって栄光を受けた。」と宣言されます。
一般的に栄光を受けるというと、人からの賞賛を浴びたり名誉を手にすることを言うでしょう。しかし今主を取り巻く状況は、ユダの裏切りによって十字架の恥辱が決定的になった暗闇なのです。ということは、主にとっての栄光とは、受難によって主と神の愛がはっきり輝くことに他なりません。
 親しみを込めて「子供たち」と呼びかける愛の主は、遺言のように新しい戒め(いましめ)として互いに愛し合うようにと語られます。主が不在に見えても、この戒めを守る時、主と弟子の関係が表れるといわれます。ここでの新しさとは、見返りを求めず敵や罪人であっても赦し受け入れ、相手のために自分を献げるという愛なのです。このような戒めはかってありませんでした。
 しかし、そのような愛で愛し合うなど可能なのでしょうか。事実、人間の力や決意に頼って従おうとしても、それは不可能なこと。そこに、主は今は出来ないが、後に出来る、と言われます。
復活の主との出会い、御霊の注ぎを経て人は愛することができるのです。三位一体の神の御顔を見、神と出会うことによって、出来る者として変えられるのです。
後のヨハネのように私たちも互いに愛し合おうではありませんか。
0144 : 長ネギきらい 名前:長ネギきらい 投稿:23/01/21(土) 15:37:37
さといもや、ながいもを農家でたくさんつくって納品してね
じゃがいもとかも
今から植えといてね
上に移動▲
Page : 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19