scene 1 …


 

 

 夜中にふと目覚めるのは、悲しい夢を見たときなのかも知れない。瞼を開ける瞬間の何とも言えない胸のきしみ。
「……う……」
 唇からこぼれる、微かな吐息。水の中から浮上していく心地。身体がきゅっと固くなる。そして次の瞬間に頬に温かいものが触れた。
「どうした?」
  促されるようにふっと目を開ける。私をのぞき込む、心配そうな瞳。その月灯りに照らされた金茶の色をずっと昔から知っているような気がした。
「あ、ごめん。起こしちゃった?」
 申し訳なくて。そうやって呟くと、私を見つめる目が細くなった。口元に笑みが浮かぶ。
 彼は隣りに寝ている私がちょっと動いただけで目覚めてしまうと言う。同じベッドで寝るのも抵抗あるんだけど、この部屋にはひとつしかない寝具だから仕方ない。オフホワイトのダブルの毛布にふたりでくるまって休んでいた。頬の片方をシーツに押し当てる。まつげの先に横たわって流れる純白の海。そこをふたりで漂っていたのは、ほんの数時間前。微かな湿り気がまだ肌に残っている。
  逞しい肩越しに窓の外を見た。夜半過ぎの満月は街の風景をくっきりと浮かび上がらせている。立ち並ぶ住宅の瓦屋根がそれを反射して鱗模様を見せていた。水の底みたい、昼間の景色とは全く違う。異世界に迷い込んだみたいだ。私と彼とふたりきりで。
「明日も早出だって言ってたでしょう? ごめんね、大丈夫だから。寝ていいよ?」
 そう言いながら、額を彼の胸に押し当てた。
  愛し合ったまま休んでしまったから、ふたりとも何も身につけてない。恋人と一夜を明かすとき、こんな風にするんだなと初めて知った。彼は私の最初の人ではないけれど、こんな風に長く時間を共有するのは彼が初めて。時計に縛られない関係がここにある。それを重荷に感じる人もあると言うけど、まだその域までは達してない気がする。
  素肌の彼からは、いつもよりも強い香りがする。彼の匂い、たとえようがないけど、つんとして男の人だなと思う。配送の仕事をしてるから、身体も鍛えられていて締まっている。最初にシャツを脱いだときはどきどきした。
「リセ?」
 当たり前みたいに彼の腕が背中に回って、しっかりと抱きしめられる。じんと熱くなっていた鼻先が彼の肌にくっついて、涙腺が圧迫される気がする。こみ上げて来るものをどうにか留めようとして、唇を噛みしめた。人の体温は心のほころびをほぐしてしまう。だからずっと苦手だった。

◇◇◇

 彼に出逢ったのは土砂降りの雨の夜。私は雑居ビルの間に座り込んでいた。水色の薄い素材のキャミソールのドレスが身体に吸い付いて、解いて垂らした髪からはしずくがぼたぼたと絶え間なくしたたり落ちる。煉瓦の壁に背中をくっつけて、頭の中は真っ白で。何も考えられなかった。
 自分の思考をストップさせたら、いつの間にかここまで来ていた。身体と心を切り離したときに、人間は一番素直になれるのかも知れない。
「どうした?」
 あの日も彼は私に向かってそう言った。お金をなくしたお使いの子供を哀れむように、それはとても自然な言葉だった。
「……」
 微かに唇を動かす。でも言葉を編み出すことは出来なかった。
  それまでもこの繁華街の片隅を通り過ぎる人間はいくらでもいた。でも、飲み屋をはしごして酔っぱらった中年の男ですら、私を見るとさっときびすを返した。普通の残業帰りのサラリーマンなどは視界にすら入れてないように通り過ぎる。それが得策だと言わんばかりに。
  ―― そう。堕ちたものには関わらない方がいい、当たり前のことだ。そう思っているから、別に傷ついたりはしなかった。
「こんなに濡れていると、風邪をひくだろ。家はどこ?」
 私の頭に打ち付けていた水のつぶてが途切れた。その余韻にくらくらとしながら、頭上を見上げる。彼のさしていた黒い雨傘が私の上に開いていた。
「どうしたの? 早く、立ちなよ」
 当たり前みたいに手をさしのべる。彼の身体に雨の粒が打ち付けていた。私の方に傘を出してしまったので彼が濡れると言うわけだ。それなのに、まったくそのことに気遣うこともなく淡い微笑みすら浮かべていた。
  私はそんな彼を見つめると、静かにかぶりを振った。どういう意味に取られるか分からない。でもそれが自分に出来る全ての意思表示だった。
  そのまま、しばらくお互いに沈黙が続いた。その間、彼はずっと雨ざらしになっていて、いつか私と同じくらいのびしょ濡れになっていた。晩秋の雨、ひんやりとした風が通り抜けると身体がぶるっと震える。感覚をなくしたはずの私も彼の震えに反応するように、同じ動作をしていた。
  彼の喉の奥から、くすっと笑い声が漏れた。そのあと、静かに腕を取られて、引かれる。自分の意志とは関係なく、ポリバケツの脇から立ち上がらせられていた。
「ウチに……来る?」

◇◇◇

 ペット厳禁のアパートだったけど、私は一応人間のかたちをしていたから大丈夫だった。でも、その存在は猫だったと思う。バスタブにお湯を満たして、先に使うように言ってくれた彼は、その後も当然のように私に自分の服と食べ物を与えて、必要最低限の暮らしを確保してくれた。小さなハンドバッグひとつしか所持品がなく、素性も知れない私なのに。
「何で、何も聞かないの?」
 思いあまって、聞いた。そこに住み着いて1週間が経って。夜が明けると「いってくるよ」と言い残して出かけ、日が暮れると「ただいま」と帰ってくる飼い主に。
  すると、彼は答えた。何気ない感じで。
「言いたくないんでしょ?」
  そう言われると、何も言えなくなった。差し出されたマグカップを受け取って、中をのぞき込む。白いミルクの鏡に、頬のこけた女が映っていた。
  もしかしたら、彼は何もかもを知っているのかも知れない。知っていて、それで、私に知らぬ振りをして接しているのかも。様々な想いが渦巻く。私はどうしていいのか分からなくなっていた。いつか彼が私を捨ててしまうのではないか。こんな風に干渉しないと言うことはどうでもいいと思っていると言うことなのか?
  彼は私が身体をすり寄せると、そっと抱き寄せてくれた。でもそれは、愛玩物を愛でるような行為で。なだめるように髪を梳いたり、背をさすったりして、それ以上のことは何もしなかった。だから、少し不安になった。
 こうして宿を提供して貰っているんだ、身体でその恩に報いることなんて何でもなかった。少なくとも今までに私が関わった男たちとは残らすそうしていた。最初からそれを目的として近づいてきたと言っても過言ではない。そういうもんだと思っていた。

「私、汚い?」
 ふたりでシーツの上に寝そべって。同じようなTシャツを着ていた。おしゃれでこだわっているのか、単に何も考えてないのか。彼は同じような2Lの白いシャツをたくさん持っていた。ここに飼われてから、外に出たことがない。お金も持ってないのだから買い物も出来ないし。だからお風呂上がりには勝手に彼の服を出して着ていた。
「え? どうして? だって、ちゃんとシャワーを浴びてるでしょう?」
 彼は不思議そうに聞き返した。私の首に腕を回す。彼の鼻に届く私の髪の香りは、彼と同じものだ。男性用のシャンプーなんて初めてだったけど、ちょっとメンソール系のつんとした匂いがする。地肌がすっきりするような気がして、慣れたらやみつきになった。
「だって、あなた」
 私は彼を名前で呼んでいなかった。一応、聞いてはいる。その辺に転がっている郵便物にも書いてあった。
「私を抱かないんだもの」
「……え……」
 彼の胸がどくっとするのを感じた。明らかに反応している。そりゃそうだろう、私の口から出た言葉はあまりにもストレートだった。彼は腕を緩めると、私の顔をのぞき込んだ。
「抱いて欲しいの?」
 次の瞬間、あっさりと切り返される。あまりにまっすぐに言われてしまい、私は自分の頬がかっと熱くなるのを感じていた。自分で言い出したことなのに、どうしてなんだろう。
「君が、そうして欲しいなら、するけど? ……そうじゃないでしょう? だったら、いいじゃない」
 言葉は断定調だった。だから、私には否定することも肯定することも出来ない。
「君がしたいことをすればいいよ。無理しなくていいから」
 彼はそれだけ言うと、さっさと話を終わりにして目を閉じた。

◇◇◇

 私は彼にとって飼い猫だったから、外に出るときはどうしろとか言われていなかった。普通の猫はアパートのドアを開けられない。だから、ご主人様がいないときは部屋の中でおとなしく待っている。でも、私は二本の足で立つ人間だ。扱いは猫でも、鍵くらいは開けられる。
  彼は日が落ちると戻ってくる。多分「定時に上がる」と言うことなんだろう。鍵は彼が持って行ってしまうから、私には鍵を開けられても閉める術はない。あまり長い時間、部屋を開けっ放しにするのはまずいと思う。そんなことを気にしても仕方ないんだけど、やはりちょっとだけ気を遣っていた。
  そろりとドアの隙間から出ると、そこは屋根のない通路だった。彼の部屋は3階で、階段をふたつ下りる。ひんやりとした外気が肌にさらさらと触れていく。
  彼は。私に何かを欲求することはない。
  それどころか、いてもいなくても変わらないみたいだ。ご飯を作って、それから辺りを見渡して。私と目が合うとにっこり笑う。そして「食べる?」と聞くのだ。朝と晩はそんな風で、昼ご飯はお皿に乗せて準備してくれる。それを食べていてもいなくても、何も言わない。黙って次のご飯を作る。
  だから。
  いなくなったら、そんなもんだなと思うのだろう。もしかしたら、次の猫を拾うのかも知れない。
  ―― どこへ、行こうかなあ。
  薄手のキャミソールドレスとレースのカーディガン。素足にサンダル、小さなバッグ。私は彼に拾われたときと同じ格好をしていた。だんだん日が暮れてくる。どこにも行く所なんてない。彼はまだ帰ってこない。帰ってくれば分かる、部屋に電気が点くから。
 そう、私は彼の部屋のベランダが見える場所にいた。うろうろとその辺を歩いていたら、ここに戻っていた。ベンチから立ち上がると、そこを見る。公園の時計はいつも彼が夕食を出してくれる時間になっていた。今夜の宿を探さなくては行けない。その気になれば、一晩の宿も、住み込みの職場も手にはいるだろう。手段を選ばなければ。
  でも。彼が戻ってくるのを確かめたかった。彼の姿がシルエットになって、カーテンに映るのを見たかった。それくらい、いいだろう。
「……あ」
 薄暗い空間にぱっと明るい空間が現れた。左から3番目は彼の部屋だ。思わず胸が高鳴る。さっきまではあそこにいた。私は、あそこにいたのに。
  そう思ったら、胸がいっぱいになってしまった。何、感傷的になっているんだろう。自分が情けなくなってくる。想いを吹っ切るようにきびすを返して歩き出した。

「―― ねえっ!?」
  背中から声がする。え? 嘘。私はきょろきょろと辺りを見渡した。そして自分以外にあの声に呼び止められる存在が見あたらないことを確認してから、恐る恐る振り返った。
  彼が。立っていた。朝、出かけたままの格好で、息を切らせて。
「出て行くの?」
 すがって引き留めてくれている訳ではない。ただ、事実を事実として受け止めるみたいな声だった。
  私が静かに頷くと、彼は手にしていた買い物袋を差し出した。私はそれを黙ったまま受け取って中を見た。
「あ……」
 入っていたのはキャラメル色の上着。するっと線の細いかたちで温かそうな素材で出来ていた。私が中身を確かめたことを確認して、彼はくるっと後ろを向いた。
「今日、給料が出たから」
 足元の石ころを蹴る。それはぽんと跳ね上がって、そのあところころと転がっていった。
「君が寒そうにしていて可哀想だから、その服をどうしても買ってあげたくて。ずっとお店のディスプレイで見ていたんだけど、いざとなると入るのが恥ずかしくて。すっかり遅くなってしまったんだ。良かった、間に合って」
「あ、あのっ……」
 私はどうしていいのか、何がなんなんだか分からないまま、彼の背中を見ていた。
「それを着ていきなよ? 今日は夜が冷えるって言うし、風邪でも引いたら大変だから」
 そのまま、来た道を戻っていく。ざりざりと土を踏みしめながら。
「どうして……」
 立ちつくしたまま、絞り出すようにそう言った。苦しかった、胸の痛みは限界だった。
「どうして出て行くのかって、聞かないの?」
  私の言葉に引っ張られて、彼がすっと振り向いた。
「聞いて欲しいの?」
 ふたりの間にたくさんの距離があるように感じられた。透明なブロックが層を作って立ちはだかる。
  それでも、私は涙がこぼれそうになるのを堪えながら、必死で頷いた。視線のはじっこで彼がふっと顔を崩すのが見えた。
「じゃあ。どうして、出て行くの?」
 当たり前のような言葉。彼がいつも私に向けている瞳。そこには計算されたものが何もなくて、のぞき込んでも言葉以上の何も浮かんでこなかった。それは今も同じで。
  自分が無理に言わせた言葉なのに。胸が詰まって続きがなかなか出てこなかった。
「あなたが、私に何も欲求しないから……」
  いてもいなくても同じような感じで、あっさりしてるから。それが辛かった。存在すら認められていないみたいで。もしも彼が自分の思いをぶつけてくればどんなに楽になるだろう……? 白い箱の中で息が詰まっていった。彼のどこが気に入らなかったわけではない。気に入らないところがどこもないから、辛かった。
「それなら」
  空間を漂って、短い言葉が流れ着く。私は彼の心を知りたくて必死で闇の向こうの姿に目をこらした。
「実は、ひとつだけ。ひとつだけ、君にして欲しいことがあったんだけど」
  彼の唇が、静かに動いた。微かに、空気をかすめる音。
「名前を、教えて欲しいんだ。君を名前で呼んでみたい」
 それは。拍子抜けするほどに自然な問いかけだった。出逢いの一番最初にそれはあるはずのことで、きっかけを忘れてここまで来てしまっただけのこと。彼の頬がわずかに揺れている。
「……莉世。リセって言うの」
「リセ……」
 彼の声が私の名前を静かに呟いた。そして、ふわっと両手を広げて私を見る。
「おいで、リセ」
  サンダルのかかとが地を蹴る音が、とても遠くで聞こえた。

◇◇◇

「どうした? 何で泣くの?」
 温かい胸に包まれて、答えを欲求していない言葉を聞く。彼は私をなだめてくれるけど、深いところをえぐり取るようなことはしない。
  そのかすめるような愛情が悲しくて、愛しくて。たまらなくなる。
「すごく、うなされてた。怖い夢でも見た?」
 額に落ちるぬくもり。抱きしめられてこんなに満たされるなんて知らなかった。男と女のことは奪うか奪われるかの欲望のぶつかり合いだと思っていたから。彼は私の知らないことをたくさん知っている。そして、何も知らない私の存在を包んでくれる。
  そのせいで、私は今までの全てがだんだん遠いものに感じられてきていた。彼とのわずかな時間だけが、まぶしくて。他はもうどうでもいい。
「あなたのこと、忘れちゃったら……どうしよう?」
「え……?」
  昼間、何かのドキュメンタリーを見ていた。痴呆症の話だった。まだ40代の妻が夫のことも子供のことも忘れてしまう。背筋がぞくぞくした。いつか自分はそうなってしまうんだと思った。
「あんな風に拾われたから。またあんな風に捨てられるの。きっと、私はあなたのことを全て忘れてしまうんだわ……悲しいのは嫌だから。でも……忘れるのも、もっと悲しい」
「リセ」
  自分の中の想いがよく分からない。彼は私のことを何も聞かないから。ただ、そばに置いてくれるから。
「オレのこと、忘れたくないの?」
 彼が耳元で囁く。ぞくぞくっとして、心の一番深いところがきしんだ。
「んっ……」
 そっと口づけられる。その柔らかさが胸に染みて、それだけで崩れそうになる。必死で首に腕を回すと、一度離れたそれが、今度は深く重なってくる。彼の舌は私の口内を当たり前のように漂って、心まで引き出してしまう。
「リセ、大丈夫だよ」
 少し息の混ざった声は、何かを我慢してるように苦しそう。それなのに、彼は微笑む。
「リセは、オレのこと絶対に忘れない。心は忘れても、身体は忘れない」
 そう言いながら、耳元から首筋に唇が動いていく。辿られるその道筋に沿って、彼の存在が植え付けられる。私の肌の一枚めくったところから彼の芽が生えてくる。目には見えないんだけど、すっかりと支配されているみたいだ。
「ほら、こんなふうにして」
 私の胸に顔を埋めて、感じている頂に吸い付く。ぴりりっと身体の奥まで電流が走って、声にならない叫びを上げていた。彼はそんな私にとっくに気付いている。さらに強くせめ立ててくる。
「あっ……、やぁっ……んっ……!」
 強すぎる波に巻き込まれて、身体が揺れる。彼は器用に私の身体に腕を回し、片足を持って大きく開いた。
「そうすると、リセはもうこんなになってる。感じまくっているのが、すごくよく分かる」
  ぷつっと胸の圧迫が外れて、身体がふわっと浮く。とんでもない格好で持ち上げられて、彼に自分の全てを晒していた。視界に逆さまになった彼の部屋が見える。腰を抱え持たれているみたい。湿った場所にふっと息が掛かった。
「やっ……いやっ……、ああっ……んっ……!」
 彼の舌が秘所をつつく。つんつんと入り口を刺激して溢れてきたものを吸い上げる。足を抱え持った先の指が敏感な芽もはじき出す。そうされると、もう半泣き状態だ。彼はいつでも私をたかみに押し上げることに集中する。彼自身をどうにかしてくれと言われたことはない。
  頭を下にして宙づりになって。脳細胞がかき混ぜられる気がする。髪が流れ落ちて私の下に流れを作っていた。その一房が彼の指に絡め取られて、引っ張られるその痛みが快感に変わる。
  こんな強い感情が彼の中に溢れているとは知らなかった。いつも私を穏やかに見つめる瞳が、ふっと熱を帯びて、そのまま燃え上がる。そうすると、今までに見たことのないもうひとつの彼が現れるのだ。
「おかしくなっちゃうのっ……! もう駄目っ……、やめてっ……!」
  このお願いだけは、聞き入れて貰えない。何故なら、この訴えは心と反対のものだから。彼がもっと欲しいのに、身も心も滅茶苦茶にして欲しいのに、言葉ではそれを押しとどめる。そんな私のあまのじゃくの思考など彼はとっくにお見通しなのだ。
「いいよ、その声。もっと聞かせて……っ!」
 膨らんだ芽を舌の上で転がされ、彼を待ち望むしずくをあふれ出させる泉には長い指が突き立てられる。そのままぐりぐりと内壁をこすられて、最後の理性が吹っ飛んだ。
  天に向かって伸びている螺旋の階段を勢いよく駆け上っていく。最後に私が発した声はあまりにも淫らで自分の耳では聞き取れないものだった。
「リセ……」
 ようやく背中がシーツについて。頭に集まっていた血液が身体を巡り始める。ほうっと吐息がこぼれた唇をそっと舐め取られる。そして、何度も何度も降り注ぐようにキスされる。ゆるゆると瞼を開くと、彼が優しい目でこちらを見ていた。
「よく、頑張った。ご褒美をあげなくちゃね」
  我が身をこじ開けてねじり込んでくる異物を、たまらなく愛おしいものだと受け入れる。何を忘れても、これだけは忘れない。彼が、彼だけがこんなに欲しくて、こんなに満たしてくれる。私の身体の一部になってしまった彼の存在。

「……どうして、私を拾ったの?」
 あの夜、初めて彼の腕に抱かれて夢を見た。そのあと、私が訊ねると彼は目を細めて恥ずかしそうに言った。
「リセが、欲しかったんだ」
  ほつりと空間に浮かんだその言葉を信じられない心地で受け止める。でも「言葉」としては分かっても「意味」が分からない。あまりに簡潔だから、裏側を探ることも出来なくて。何かを訊ねようとして音に出来ない私の口元を見つめて、彼が静かに言葉を続ける。
「リセを、自分だけのものにしたいなとあのとき思ったから。どうしてかなんて分からないけど……リセが何よりも欲しいと思った」
「それだけなの?」
  それじゃあ、子供がおもちゃを欲しがるみたいじゃないの。何だか、それでいいのかしら? なのに彼はにっこりと微笑んだ。
「それが、一番大切なことなんだよ?」

 この瞬間が、夢なのかも知れない。ううん……人生なんて、そもそも全部が夢でしかないのかも知れない。その中で私はもがく。もがいて、浮き上がろうとして水を飲んで。沈んで、どこまでも沈んで。それでもまだ生きていた。
「ねえ……」
 微かに寝息を立てていた彼を、そっと揺り起こしていた。申し訳ないなと思いつつ、でもこれだけは言いたくて。
「何?」
 起きていたみたいに目を開ける。彼が私のための存在であることが、どこまでも信じがたくて、でも有り難い。
「ひとつだけ……お願いがあるんだけど」
  恥ずかしかったけど、でもしっかりと彼の目を見て、告げなければ。私に出来ることはそれだけだから。
「あなたのこと、名前で呼んでいい?」
  彼はふっと微笑むと私を抱き寄せた。けだるさが腕から伝わってくる。そっと体重をかけると、目を閉じた。
「それは、オレからのお願いにしてもいいかな? たまには、リセにお願いしてみたいな」
  最後の言葉が寝息に変わる。だから、聞こえないほどの小さな声で、一度だけその人の名を呼んだ。

了(030410)

 

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 ※リセの過去話はこちらから(短編です)