scene 6 …


 

 

 晴れた日には遠くの海が見える、高台の公園。
  余りにも眩しい日差しに重い瞼をこじ開けられた僕は、ぼんやりとベンチの片隅でまどろんでいた。
  いつの間に、また季節が巡っていたのだろう。桜にはまだ早いが、卒業式シーズンを迎えた風景は一斉に芽吹きだした若芽や色とりどりの蕾に彩られて、すっかりと様変わりしている。気が付くと分厚いコートがいらなくなっていた。
「あら、先客だ」
  しばらくうとうとしていたらしい。籠の中で鳴く小鳥のような声がして、目を開ける。立っていたのは当たり前の紺色のスーツを着た若い女性だった。
「ここ、私の席なんだけど。どいてとは言わないから、その新聞をちょっと片づけてくれないかしら?」
  ごそごそと彼女に言われたとおりにすると、「ありがとう」と小さく会釈して隣に座った。その瞬間、桜の匂いがする。桜の匂いなんて、あまり記憶にないんだけど、何だかそう思った。ふわふわした一昔前の少女派女優のような髪を垂らして、ピンク色のルージュを引いている。彼女は膝の上に置いたコンビニの袋から、缶紅茶とサンドイッチの包みを取り出した。
  どこかで子供たちの歓声が聞こえる。振り返って見てみると、ベージュ色のおそろいのスモックを着た小さな子供たちが列になって歩いていた。二列になって隣の子と手を繋いでいる。みんな蜜柑色の色帽子を被っていた。
  その向こうでは一度に5匹の犬を引いたサングラスの男が歩いている。ああ、もしかしてあの人はこの界隈では有名なブリーダーかも知れない。そう言う「カリスマ」が住んでるって、仲間に聞いたことがある。
  子供たちはやがて輪になって座ると、自分の弁当を広げてた。
「ああ、美味しかった。ごちそうさま」
  僕がぼんやりと風景を楽しんでいるうちに、彼女はさっさと自分の昼食を終えていた。ゴミをコンビニの袋にまとめると、あっさりと立ち上がる。
「せっかくのいいお天気も今日までね。明日からは寒くなりそう」
  何も聞かないのに、そんな風に呟いて。彼女は丘を降りていった。

「ねえ、名前を教えてよ」
  3回目に顔を合わせたとき、彼女はそう言った。
「……うざ」
  ひとこと、そう答えたら。彼女は意外そうに目を見開く。こんな風に答えられるとは思ってなかったらしい。でも僕からしてみたら、聞いてきた彼女の方が不思議だと思う。別に待ち合わせている訳でもなし、偶然にすれ違うだけじゃないか。
  こっちは夜型人間だから、普通なら今頃布団の中だ。今日は仕事の締め切りが迫っていて、だらだらしていられない。そう思って昼に起きたら、タバコがなかった。仕方なく買いに出たら彼女がいたのだ。会えて嬉しいとは思わなかった。でも、特等席は譲れない。そうじゃなかったら隣になんか絶対に座らないぞ。
「何よぉ、減るもんじゃないし。いいじゃない」
  彼女はぷりぷりしながら、視線をそらす。そして目の前に広がるパノラマの風景に見入っていた。今日は空が白くなっていて、海が確認できない。
「そんなもん、聞いてどうするんだよ」
  彼女は相変わらず昼飯中だが、僕の方は手持ちぶさただ。仕方なく買ってきたばかりのタバコに火を付ける。ぽんぽんと灰をその辺に落としていると、彼女が飲み終わったホットココアの缶を差し出してきた。灰皿にしろと言いたいのかも知れない。
「だって」
  風に乗って煙が行ってしまったらしい。彼女は一瞬咳き込んだ。
「遠くからあなたを見つけたときに、声を掛けられないじゃないの」
  ……何だよそれ、可笑しすぎ。
「うざい、それ。僕は君に声なんか掛けて欲しくない」
  本当はこうして言葉をかわすのも面倒なんだけど。別にそこまで言う必要はないかなと、喉の奥に湧きかけた気持ちを飲み込む。
  彼女はこの公園の近くにある不動産屋で事務員をしていると言っていた。ぼんやりしているのがちょっとすれ違っただけでも分かるくらいだから、どうやって接客してるのかと心配になる。案の定、窓口ではなく裏の方でお茶出ししたりコピーしたりしてるらしい。この紺色の制服はそこのものなんだろう。
「あなたは何してるの?」
  そう聞かれたから、仕方なく答えた。
「――音屋(おとや)」
  嘘じゃないと思う。でも、彼女の反応は突き抜けていた。
「え……、ちんどんやさんなの? なんか、イメージ違う!」
  会話なんて、面白くも何ともない。他人と関わるなんて面倒くさいばかりだ。――だけど。僕はその一番嫌いな作業をする羽目になったらしい。その後、自分が音楽アレンジの仕事をしてるんだと説明するのに彼女の昼休みが終わるギリギリまでの時間を要した。

「あ、来た来た。名無しくん、こんにちは」
  何をそんなに嬉しそうに。僕はこっちに向かって大きく手を振る彼女を見るなり、ムッとしてしまった。ああ、どうしてまたこの公園に来てしまったんだろう。せっかくの気分転換の散歩、こう毎回嫌な気分になっていては仕方ない。
  だいたいなあ。その手の振り方、不格好だぞ。まるで道路工事の誘導の人みたいだ。
「……何だよ」
  黙って通り過ぎても良かったんだけど、何しろ周りの視線が気になる。あんなに親しげに声を掛けられて無視したら、何だか僕が悪者みたいじゃないか。
「おひとつ、どうぞ」
  彼女は膝の上に置いた包みから、半透明のプラスチックカップを取り出した。つい反射的にそれを受け取ってしまうと、さらにコンビニでくれるみたいな透明なプラスチックスプーンを渡される。
「私が作ったの、イチゴのババロア」
  ――まあ、それは見れば分かる。どピンクのプリンの中に黒っぽいぷつぷつが浮かんでるのだから。仕方ない、一口食べてみた。
「……酸っぱい」
  何だ、これは。砂糖が足りなすぎるぞ。僕は別にその道に詳しくはないが、それでも分かるくらい酸味が強い。
  隣で反応を伺っていた彼女は、俺の態度を見てうんうんと頷いてる。
「やっぱり? 梢ちゃんも一口食べて、いらないって言った」
  成り行きで、彼女と僕は学年が同じだと言うことが分かった。ただそれだけのことなのに、ますます親しげにしてくるのが気に入らない。
「……梢ちゃんって、誰だよ?」
  どうでもいいが、人をゴミ箱みたいに使わないでくれ。それに、いきなり知らない第三者の名前もやめてくれ。あんたの友達だか何だか知らないが、僕には関係のないことなんだから。
「これねえ、昨日、梢ちゃんのために作ったの。イチゴが好きだって言ったから。なのに、いらないって。だからいっぱい作っちゃったし、余っちゃったから、名無しくんにもごちそうしようと思って。自分で食べても良かったんだけど、もう3食これを食べたら飽きちゃった」
  ……そりゃそうだ。美味いものだって食い続ければ飽きるんだ。こんな酸っぱいばかりのプリン……あ、いやババロアとか言ってたっけ……だったらなおさらだろう。
「僕がもし来なかったら、どうするつもりだったんだよ?」
  気が向いたときしか来ないのに。この質問は妥当だと思う。しかし、彼女はきょとんとした顔をして、不思議そうに僕を見る。
「……明日もまた、持ってくればいいやと思っていたけど」
  ――とりあえず、腐ったものを食べさせられなくて良かったと思った。

  その日、昼前からいつものベンチに寝そべっていた。日差しがあまりに眩しいので、買ってきたばかりの雑誌を顔に掛けて。ぼんやりとまどろんでいるうちに、周りの音が遠ざかった。
「コンコン、コウサン。コンニチハ」
  いきなり耳元で囁かれて。ハッとして起きあがったら、目の前に突きつけられたものにもっと驚く。
  ――なんだ、これは。キツネ色で耳がピンとしていて、顔が逆三角で……つまり、キツネそのものだ。もちろん本物ではない、作り物。頭と手がもぞもぞと動いているのは……それが、下から腕を突っ込んで動かす人形だからだ。少し前の、ペットのお茶の宣伝でマツシマナナコがパンダのを持っていた。あれのキツネバージョン。
  ……で?
「どうして、僕の名前を知ってるんだ?」
  聞きたいことはいくつかあったが、とりあえず一番の疑問点を。とぼけたキツネ使いは、相変わらずぽややんとした表情で僕を見た。
「この前ね、夕方に駅前ですれ違ったんだよ。その時に、お友達みたいな人が『コウ』って呼んでたから。それが名前なんだと思った」
「……『降参』みたいで情けないから、『コウ』でいいよ」
  話している間も、ちょこまかとキツネを動かしてるから嫌でも目に付く。僕の視線を感じたのだろう、彼女は嬉しそうに言った。
「可愛いでしょ、これ。お土産に買ってきたの、でも梢ちゃんがいらないって言うから、私のにした」
  ね〜? って、人形と会話してる。どうでもいいが、ハタチを越えたいい大人がすることじゃないぞ。いい加減にしろ。そして「どうぞ」とも言ってないのに、さっさと隣に座る。キツネを右手から抜くと、背もたれに添わせて座らせた(足はないけど)。
「梢ちゃん、私のこと嫌いって言うの。……どうしたら、好きになってくれるかなあ」
  サンドイッチを頬張りながら、独り言のように言う。知るか、そんなの。だいたい、梢ちゃんって誰だよ。僕だって、土産にこんなキツネをくれると言われても嬉しくないし、酸っぱいゼリーは美味くない。
「私、仲良くなりたいのに……何がいけないんだろう」
  だから、僕に聞くな。僕は「梢ちゃん」じゃないし。いちいち質問されたって、ウザいんだ。面倒になってポケットからタバコを取り出して火を付ける。
「僕も、君のことが嫌い。……っていうか、人間なんてみんな嫌いだ」
  煙と一緒に、どろどろした言葉を吐き出した。
  その瞬間に彼女がどんな顔をしていたのかは、知らない。
  興味がないと言うよりは、確かめるのも嫌だった。ただ、面倒な会話を終了させるために何気なく口にした言葉。それが音になって自分の耳元に戻ってきたとき、少しだけ後悔した。
「へえ、……すごいね」
  だけど、少しの沈黙を過ごしてから彼女が発した言葉には僕が想像していたような色はなかった。驚いて振り向いてしまう。一体、どんな顔をしてるのかと。
「コウ、は……人間が嫌いなんだ。何か不思議、私は嫌いな人間なんていないよ。みんな好きだと思っちゃうけど」
  彼女は憐れんでも悲しんでもいなかった。自分のことを「嫌い」と言われたことにもショックを受けてる感じもない。ただ……とても不思議そうに興味深そうに僕を見ていた。
「君、やっぱうざい」
  吸いかけのタバコを足元に落とすと、そのままぐりぐりと土の上で踏みしめた。
「さっきまでよりも、もっと嫌いになった。もう、視界に入る場所に来るな」
  そのまま、立ち上がる。そして、僕の中にある彼女の記憶を全消去するように背中を向けた。
  ――何を善人ぶってるんだ、馬鹿。その手には乗らないんだからな。
  知ってるのはただひとつ、人間は裏切る、ってこと。ある日突然に手のひらを返したように冷たくなる。だから、信じてはいけない。
  そして何よりも許せないのは、彼女のように不用意に人を信じようとする輩だ。昔の僕を見てるみたいで、ヘドが出る。
「あ――、ちょっと待って?」
  思い切りシリアスなシーンをぶち壊す、何とも間の抜けた声。
「あのねえ、私は『ユウ』っていうの。……そして、この子は『コン』」
  肩越しに振り向くと、笑顔の彼女とキツネの人形がふたりで手を振っていた。

「僕の両親、離婚したんだよね」
  何で、こんな話をしてるんだろう。だいたい、どうしてまたここに来てしまったんだろう。昨日の言葉が妙に引っかかって。でもって、彼女の方は全然気にもしていないのがもっと引っかかって。気が付いたらここに辿り着いていた。
「まず最初に、親父が浮気して。浮気のつもりが本気になって、女と駆け落ちしちまった。そしたら、今度はお袋が対抗するつもりだったのかやっぱ男を作ってさ。気が付いたら一家離散、子供は俺ひとりだったからふたりとも押しつけあって腹が立ったよ。てめえらが作った子供だろうよって。よっぽどグレてやろうかと思ったけど、進学先も決まってたし思いとどまった。馬鹿げた話だよ、まったく」
  この話をしたのは、何も彼女が初めてじゃない。酔った勢いで友達に愚痴ったりしたし。そもそも田舎では有名な話だ。僕は良く顔も知らない年寄りにまで同情された。
  もちろん親父が馬鹿なことを始める前は、当たり前の家に育った、当たり前の息子だった。だから、ヒステリックに泣き叫ぶ母親に心から同情して、言い訳をずらずら並べる親父の気持ちも少し分かるなと思った。そして、今はこんなに荒れているけど、すぐに元の鞘に戻るんだと信じて疑わなかったんだ。
  だから「親権はどうの」という話が出て、親父たちがお互いに「あんな子いらない」と押し付け合いを始めたのには驚いた。まさか自分の存在を親に否定されるなんて思いも寄らなかったから。最初のうちこそ余りのショックに気が狂いそうになったが、そのうちに妙に冷めた。もうどうでもいいやって、ひとりで生きればいいって。
  音楽関係の学校に進んで、一通り学んで独立して。運良く友達がプロデビューなんてしたもんだから、アーティストの真似事なんてしてる。出来る限り、人間と関わらない人生。下手に憐れまれるのも嫌だから、自殺とかもしない。死んだ後まであれこれと詮索されるのはうんざりだ。
「へえ……なかなかびっくりな感じだね」
  彼女は大きく目を見開くと、やっぱりのほほんと反応した。
「だけど、犬だったら、捨てられたら保健所に連れて行かれて殺されちゃうけど、人間だから自分で生きていけるし。良くいるんだよ、引っ越すからもうペットはいりませんって言うお客さん。コウは人間で良かったね」
  ……おい。どうしてそこで僕と犬を比べるんだ。別に同情されたい訳じゃないけど「びっくり」じゃなくて「可哀想」とか言う感情は湧かないのか。何を考えてるんだ。
  だが、ムッとすることもない。こんな赤の他人、無駄な感情を持って貰うと逆に面倒だし。ここは大人に振る舞わなくては。
「何だよ……君は両親に裏切られたことなんてないんだろ。おおかた兄貴か姉貴でもいて、みんなにいいこいいこと可愛がられて育ったな」
  心の痛みの分からない奴に偉そうに言われたくない、そんな気持ちをこめた。彼女は一瞬、きょとんとしてから、うんうんと何度も頷く。
「確かに……そうかも。それに、コウはすごい。私は本当にお兄ちゃんがいるの。当たりだね……けど」
  そこで、今日も持ってきているキツネの人形を手にはめた。
「ユウチャン ノ パパ ト ママ ト オニイチャン、トッテモ トオイトコロ ニ イマス」
「……なんだよ、外国にでもいるのか?」
  僕がポケットからタバコを取り出しながらそう呟くと、彼女は笑顔を崩すことなく言った。
「空。……自動車の事故でね。私は無傷だったんだ。病院で目が覚めたら、他のみんなは空に行っちゃってた。もう戻ってこないよ……でも、コウの言うとおり、裏切られたことないわ」
  ――ちょっと待て。それって、すごい不幸な身の上なんじゃなかろうか。
  そう思うんだけど、彼女は全然悲しそうじゃない。相変わらず、にこにこしてる。冗談……なんだろうか。でもいくら馬鹿でも、この状況で冗談言うか? 僕はもう、どんな顔をしたらいいのか分からなくて俯いてしまった。
「ねえ、知ってる?」
  しばらくして。彼女はキツネの人形で僕をつついた。
「キツネはね、普通の挨拶はみんな『コンコン』なの。でもね悲しいときは『コォンコォン』って鳴くんだよ?」
  僕は顔を上げると、無言で彼女の表情を覗き込んだ。そこに何かが浮かんでいることを願って。何か、言わなくてはならないひとことがある気がするんだけど、喉の奥に引っかかったものの正体が分からない。
「――なぁんちゃって。……直接キツネに聞いたわけではないんだけど。とっても不思議なんだ。コンコンしか鳴けなかったら、どうやって気持ちを伝えるんだろうね?」
  さあ、ごちそうさま。と彼女が席を立つ。どんどん遠ざかっていくいつもよりも小さく見える背中に、僕は声を投げていた。
「君は……今、どうしてるの? ひとりでいるの?」
  ふわふわの長い髪が風になびく。ゆっくりと振り向いた彼女は静かに首を横に振った。そして綺麗な笑顔で言う。
「ううん、ひとりじゃないの。一緒に暮らしてるんだ……梢ちゃんのパパと」
  昼下がりの風が、僕たちの間を静かに流れていった。

  いつの間にか、僕の日常は大きく変化していた。
  まあ、髪型が変わったとか服装が変わったとかそういうのじゃないから、きっと周りのほとんどの人間は気が付かないだろう。関わる人間というのがそもそも少ない、話をするのはコンビニの店員くらいだから、彼らにとっては僕はただの客のひとりに過ぎない。
「コウ、お前……どうしたんだ?」
  ただひとり、僕に面と向かって訊ねてきた人間がいた。アキラだ。アキラというのは僕がアレンジを手がけているバンドのメンバーで、曲作り担当の奴だ。まだまだ構想の段階の音をいくつか聞いた彼は、しきりに首をかしげている。不思議で仕方ないと言うように。
「突き抜けてないか――ああ、何てぇ言ったらいいんだろ」
  お互いに言葉には不自由している人間だ。文字を羅列してまどろっこしく想いを伝えるなら、旋律を奏でた方がよっぽど分かりやすい。画家が絵で表現するように、僕たちは音で自分を語るんだ。
「何ちゅうか……ええとな、――爽やかなんだよなあ。お前の音って、もっと鬱蒼としていたんだけど。こう……べたべたって感じで」
  アキラは両手で喫茶店のテーブルを叩いた。粘っこいビートで。
「こりゃ、マナブとも相談しないと。何か最初の構想と変わってきた感じだな」
  そう言いながらもう一度聴き直してる。僕は窓の外の日差しを眺めながら、タバコに火を付けた。
  大きく変わったことと言えば、ただひとつ。お天道様が照っている時間に外を歩くようになったことだ。
  僕としては格段の早起き……とは言ってもパン屋や新聞屋には敵わないが。とにかく、TVのアナウンサーが「おはようございます」と挨拶する時間に目が覚める。
  そして11時過ぎに部屋を出る。あの公園に行くために。
  彼女に特別会いたい訳じゃない。だけど、気が付くとあのベンチで待っている。先週なんて5日間皆勤賞だ、自分でもびっくりした。
「コンコン、コンニチハ」
  彼女はコートのポケットからいつものようにキツネの人形を取り出す。そして僕の肩を毛むくじゃらの手が叩く。やめろよって、払いのけると彼女はにこにこ笑う。いつも笑ってる。顔がそう言う風に出来てるみたいだ。たまに僕の言葉に驚いて「え?」って表情になるけど、次の瞬間にはまたにこにこしてる。
『一緒に暮らしてるんだ……梢ちゃんのパパと』
  そう彼女は言った。でもその言葉にも全然現実味がなくて、「今日は夜、肉じゃがを食べます」と言われたみたいだった。
  梢ちゃんのパパ、というのは彼女が勤務している不動産屋の社長。小さな会社ではあるが、一応そう言う肩書きを持っている一番偉い人だ。社長と言っても、まだ若い。梢ちゃんは今年小学校に入学するらしい。
「この町に来てね、就職の面接を受けて。部屋が決まってないって言ったら『じゃあ、ここの二階に空いてる部屋があるから格安で使っていいよ』って。すごい、助かっちゃった」
  彼女が入社する少し前に、社長の奥さんと梢ちゃんは実家に帰っていた。何が原因かはよく分からないけど、別居状態だったそうだ。もともと、そこの不動産屋は社長の奥さんの親が経営していた店舗のひとつで、ということは、彼はかなり窮地に立たされていたことになる。もしも、これで離婚となったら会社を追い出されるかも知れないんだ。
「社長ね、どうしようどうしようって泣くの。大人なのにね、本当に涙を流して泣くんだよ。ユウがいないと生きていけないって。ちゃんと家があるのに、私の部屋に泊まるの。ひとりじゃ眠れないんだって」
  ……ここまでの話を僕なりに理解するまでに2週間掛かった。何しろ、短い昼休みに、あっちこっちに脱線する彼女の話。こちらが訊ねても意図した通りの返事は返ってこない。別に彼女のことなんて、どうでもいいのに、ちゃちい連ドラを見ているよりも気になった。
「一緒に暮らしてる」と言われても、彼女の口から出てくるとそれはただ単に共同生活をしているみたいに聞こえてくる。でも、やはりここは成人した男と女で、そうはいかないらしい。
「ねえ、ソウロウって、どうしたら治るのかな?」
  社長がすごく悩んでいるんだよ、可哀想なんだ。何ていつもの口調で言われて、最初は何のことか分からなかった。「早漏」だと言うことに気が付いたのはしばらくしてからだ。
「別に早いのが悪い訳じゃないよって慰めたんだけど、何かすごく気にするの。でもねえ、あまり長すぎるのだって、逆にこっちが疲れちゃうし。だいたい、男の人なんて長さもかたちも色もみんな違うんだよ。いいじゃないねえ、そんなの」
  ――おいおい。どうして春の日だまりの公園のベンチ、しかも真っ昼間。そんなことを言い出すかな、サンドイッチを食べながら。
  だいたい、人間なんて嫌いな僕だが、男だし人並みに性欲はあると思う。だが、彼女とこうしていても全然そんな気にならないし、ましてや彼女の夜の生活なんて想像も付かない。
「何だか、すごい手慣れてるような台詞だな」
  そう言ってやったら、ほえ? と言う感じで振り向く。そして、おもむろに指を折り始めた。
「そんなことないよ――ええと、5人かな?」
  あ、違った、社長で6人目とか言う言葉が、僕の耳を転げ落ちていった。全く、男どもは何を考えてるんだ、こんなスポンジみたいにふわふわした奴に。
  この頃、梢ちゃんはよく店まで来るようになったと言う。奥さんは来ないけど。もともと社長の奥さんはそこの店で経理なんてしていたらしく、社員たちはみんな慕っていた。だから、梢ちゃんのこともとても可愛がる。
「でもねえ、社員さんたち。何か私のこと、嫌いみたいなの。お昼休みも、ささーっといなくなっちゃうし、飲み会とかにも誘ってくれない。私、何かしたかなあ。どうしたら仲良くできるんだろう……?」
  最初は、分かっていて言ってるのかと思った。
  だって、誰が考えたってすぐに分かるじゃないか。社長と奥さんが離婚成立してないなら、彼女は立派な不倫相手だ。どうして気づかないんだろう、本当に馬鹿なのか。そんな男にほいほい付いていって、簡単に騙されて、良くもまあ今まで警察沙汰にならなかったものだ。
  家族が全部事故で死んで、自分だけ取り残されて。しばらくは親戚の家に厄介になっていた。でもそこの息子というのが彼女に惚れ込んで、親に反対されたから一緒に逃げてくれと言ってきた。だから、その家を出た。でも、半年ほどで、彼は音を上げる。その頃には彼女の両親の遺産が全て親戚のものになっていた。息子をたぶらかした女だと、故郷を追われてしまう。
  その後も、同じようなことを繰り返してきたらしい。僕と同い年なら今、22歳。高校卒業から4年の間に、どんな風に生きてきたのやら。で、どうして未だにそんなにのほほんとしてるんだ。
「今に、その社長にも捨てられるんだぞ。今までだって、どうせそんなふうだったんだろ」
  人を嫌いにならない、と彼女は言った。でも、それは多分嘘だ。男を信じて騙されて、挙げ句の果てに捨てられて。そんな風になったら相手を絶対恨む。関わりを持てばいつかは裏切られる。だから、最初から距離を保つんだ。こっちに近寄るなと、ハリネズミのようにびんびんに毛を逆立てていればいい。
「う〜ん、でも……」
  彼女は今日が給料日だと言って、特別に生クリームが上に絞り出してあるプリンを買ってきていてた。それをプラスチックのスプーンで丁寧に味わっている。どうして僕の分を買ってこないんだ、気が利かない奴だ。
「ユウがいないと寂しいって言われたら、そしたら傍にいてあげようって思うじゃない。私、今みたいに会社の人に嫌われてるのすごく悲しい。だから、どうにかして好きになって欲しいの。人に『嫌い』って、言われるのがすごく寂しい。だから、誰も嫌いにならない。社長のことも、ずっと好き」
  その言葉を聞いたとき。僕は腹の奥底から湧いてくる憎悪を感じた。
  何、きれい事を言ってるんだ、コイツは。どうして気が付かないんだ。何で、傷つかないんだ。裏切られたら、恨めばいいじゃないか。不条理なことをされたら、憤ればいい。どうして、あるがままを受け入れようとするんだ。彼女は馬鹿だ。
  人間なんて、きれい事を言っても裏切る。表面上は親の顔をして体裁を取り繕っていても、裏に回れば我が儘で自分勝手だ。自分が有利になるようにしか考えない。ただ、いい人に見られたいから、善人面をするんだ。
  僕も僕だ。いちいち腹が立つのに、どうしてこうして彼女に会いに来るんだろう。誰とも関わりたくないのに、人間なんてみんな嫌いなのに。会話するのも面倒なのに。足が公園に向いてしまう、彼女に会えるように時間を調整してしまう。そんな自分が腹立たしい。
  ――そうだ、僕は。彼女を憎々しく思いながら、ここに通っているのだ。昼休みも一緒にいる仲間なんていなくて、仕方なくひとりで高台の公園までやってくる彼女を。「みんな、大好き」なんて、今時幼稚園児でも言わないような言葉を当たり前のようにほざく奴を。あの人を信じて疑わないような笑顔を壊してしまいたい。でも、出来ない。
  彼女の心はふわふわした殻に覆われていて、そう簡単には砕くことが出来ないのだ。
「――無駄だよ」
  彼女がいつものように席を立とうとしたとき、僕はそう言っていた。
「会社の人たちも、梢ちゃんも、君のことはぜったに好きにならない。それどころか、今のままだと、もっともっと嫌われるぞ」
  何でそんな風に不思議そうな顔をするんだ。僕は当たり前のことを言ってるんだぞ。大人になると、間違いを指摘して貰えることが少なくなる。彼女が今まで、誰にも教えて貰えなかったことを言ってやるんだ。
「みんな……君よりも、社長の奥さんの方が好きなんだよ。君のことが嫌いと言うよりも、もうこれは仕方のない、比較もしようのないことなんだ。そして、梢ちゃんだって、自分のママと一緒にいるパパが好きなんだ。君と一緒にいるパパは大嫌いなんだよ。だから……君がここにいる限り、みんなは君を好きにならない――どんなに願っても無理だからな」
  春休みの子供たちのはしゃぎ声が、余りにも不似合いなバックミュージックになる。芽吹いていく木々たち、咲き乱れる花々。
「……そうかぁ」
  だけど、僕が期待していたような変化は起こらなかった。こんなにぶちまけたのに、彼女と来たらいつも通りに微笑んでる。
「社長と一緒にいる私からのプレゼントだから、コンも受け取って貰えなかったんだね……可哀想」
  いつものように、彼女はゆっくりとした足取りで坂を下りていった。

  次の日。
  朝目覚めたら、花冷えの雨が降っていた。もうじき、カレンダーを一枚めくることになる、ついでに「新年度」ということになる。寝起きに携帯をチェックすると、アキラからのメール。
『OKが出た。とりあえずはお疲れ様。詳細はいずれ』
  新しいアルバムのアレンジは全てメンバーの承諾を得たらしい。まだ、ちょこちょこと手直しはあるだろうが、ホッとする。ここに来るまでにもいろいろあったから。今回の「音」はかなり好評だったらしい。自分がどうしてやろうと思っていたわけでもないのに。だから、アキラからそう聞いたときは意外だった。音に迷いがないと言うのだ。よく分からない。
  ――雨だから、来ないんだろうな。
  そうは思った。でも、どうしてだろう、彼女に会いたいなと思った。昨日、言い過ぎたと言う反省もあるし……何よりも、仕事のことを報告したい。別にたいした反応はないだろうけど。何となく話を聞いて欲しいと思った。
  傘を差して、公園への途中のコンビニでいなり寿司を買う。何となく、あのキツネが思い浮かんだのだ。我ながら、今日はどうしたことか。
  丘を上がりながら、時計を見る。11時半、まだ早い。
  でも……銀色の雨糸に煙る風景の向こうに、桜色の傘が見えた。濡れたベンチには座らずに、丘の向こうの風景を見ている。
  あのベンチは公園の広場に背を向けるように何故か置かれていた。どうしてあの一脚だけが後ろ向きなのか、すごく気になった。まるで賑わいに背中を向けている自分のようだと思ったのだ。
  ――そして、彼女は……?
  ゆっくり近づいていく。足音に気づいたのか、それとも偶然か、彼女がゆっくり振り向いた。相変わらず垂らしたままの髪にたくさん水滴が付いている。
「……やっと来た」
  傘の中で彼女は微笑んだ。別に待ち合わせをしたことなんてなかったし、僕が寝坊して二三日姿を見せないときだって、そんなことを一度も言われたことはなかったのに。そして、気づく。いつもの制服ではない。私服姿であることを。
「ええと、……あのキツネは?」
  ああ、どうして。何を言ってるんだろう。僕は自分に情けなくなりながら、彼女の返事を待った。雨だからだろうか、いつもは僕より先に声を掛けてくれるあの人形が彼女の手にない。
「ああ、あの子ね」
  彼女はぼんやりと自分の右手を見つめた。人形のない、手を。
「梢ちゃんが、ちょうだいって。貰ってくれた」
  ほうっと溜息をつく。彼女にとっては嬉しい出来事のはずなのに、何だかキラキラと輝いて見える瞳が泣いてるみたいだ。そんなはずないのに。少し、黙ってから、彼女はもう一度口を開く。
「私、この町を出ることにしたの。今夜の8時半」
「え……?」
  突然の言葉だった。僕は自分の耳が受け取ったままのシンプルな旋律が信じられなくて、思わず聞き返していた。
「誰かに、嫌われるのは嫌。好きになって貰いたい。でも……私がここにいたら、永遠にそう言うことはないんだもんね。だから……決めたんだ」
  会社も昨日で辞めたと言った。急なことなのに、社長も社員の人も何だか困ったと言うよりもホッとした顔をしたという。
「コウにも、さようならを言おうと思って待ってた。今日は雨だから無理かなと思ってたの、良かった会えて。だって、聞きたいことがあったんだもん……ひとつだけ」
  ゆっくりと、こちらに向かって歩いてくる。
  でも、僕の近くまで来ると、すっと避けるみたいに少し脇にそれて。そのまますれ違っていった。僕は振り向いた、彼女の方を。すると彼女もこちらを振り向いた。
  僕たちの間には柔らかい春の雨が降り注いでいる。手を伸ばしても届かない距離で、彼女はふんわりと微笑んだ。
「コウも……私がいなくなったら、私のこと好きになってくれる? この町にいない私なら、嫌いにならない?」
  彼女の頬に雨粒が吸い付く。それが静かに流れ落ちていく。いくつもいくつも。
  誰もいない雨の公園。僕たちはずっと見つめ合ったまま、とうとう最後まで何も言わなかった。

  夕方には雨が上がった。長い傘を手にしているのは邪魔だから、助かったと思った。タクシーのブレーキランプが流れていく駅のロータリー。僕は時計を気にしながら、走った。
  7番目の乗り場。一番はじっこ。説明して貰ったが、建物の影になっていて分かりにくい。僕はつり下げられた看板をひとつひとつ確かめながら、通路を奥に進んでいった。
  オレンジ色のバスが止まっていて、そこにまばらに人影が見える。平日の乗客なんてこんなものなんだ。――そして、長い髪を揺らしながら乗り込もうとしている背中を見つけた。
「ユウ……!」
  まだふたりの距離は遠い。30メートルくらいある。だから、初めて彼女の名前を呼んだ。そうしないと自分が呼ばれたのだと言うことを気づいてくれないだろう。小さなボストンバッグをひとつだけ手にした彼女は、ハッとして振り向いた。その場所に急ぐ。
「……あれ? コウ、どうしたの。見送りに来てくれたの……?」
  彼女はどうして僕がこの場所に来たのか分からないって顔をしていた。それはそうだろう。だって「8時半」と時間しか言わないで、どこに行くとも何に乗って行くとも教えてくれなかった。そんな彼女をどうして見つけられる? 僕は自分の勘に頼るしかなかった。
  長距離の夜行バス。それが一番彼女に似合っているかなと思った。それにすごく遠い所まで連れて行ってくれそうな気がするし。きっと彼女は、みんなに出来るだけ好きになって貰いたくて、とても遠くに行ってしまおうと思っているに違いない。
「忘れ物……届けに来たんだ」
  久しぶりの全力疾走、息が上がって、すぐには声にならない。大きく息を吐くたびに胸が痛くて痛くて、でもこうして間に合ったからすごく嬉しかった。
「……何?」
  手を出して、と言ったら、小さな右手を差し出してきた。キツネがいないととても寂しそうだ。そして、キツネもいないのに彼女の右手は鳴いている。「コォンコォン」……僕にはそんな声が聞こえた。
「はい」
  僕も右手を差し出す。そして、そのまま彼女の手をしっかりと握りしめた。
「こんな大きな忘れ物をしていくなんて、君はやっぱりうっかり者だね。どうして気づかなかったの?」
  彼女はぼんやりとした目で僕を見つめた。口は半開き、本当に驚いてるみたいだ。何だかそれが嬉しくて、やっぱり彼女らしいなと思った。だから、いつもの彼女を真似して僕はにっこりと微笑んだ。重ね合った手のひらが暖かい。
  やがて。彼女は恥ずかしそうに俯いた。そして、小さな小さな消えそうな声で言う。
「……こんなに大きな荷物、ポケットに入らない。連れて行けないわ」
  ぽとんと雫が僕の手の甲に落ちてきた。もう雨は上がってるのに、彼女の頬には雫が光っている。それが返事ならそれでいい。彼女の目の前に、さっき買ったばかりの水色のチケットを差し出した。
「足の生えている荷物だから、自分で歩いて行けるよ? だから、大丈夫」

  誰も知らない遠くの町で僕たちは一緒に暮らし始めた。
「仕事は大丈夫なの?」と彼女はとても心配したけど、幸い僕の仕事は音さえ貰えればどこででも出来る。たまにはアキラたちと打ち合わせもあるけど、そんなときはちょっと出かけていけばいいんだし。
  人と関わることを避けていた僕には、彼女を想うことがとても難しい。でも、彼女が一緒にいるととても暖かいんだ。そして、誰も嫌いになれないと言った彼女の、一番好きな人にいつかなれればいいなと思っている。
  最初のひとりになるよりも、たくさんの中のひとりになる方がきっと難しい。だから彼女の方がずっと恵まれていると思う。僕は前途多難だ。
「あの時は、ありがとう」と彼女は時折、思い出したように言う。あなたが気づかせてくれたから、大切なものを失わなくて済んだね、と。
  でも……僕は思うんだ。あの時、僕の中にはひどい憎しみしかなくて、それで彼女をとても傷つけてしまった。だって、腹が立ったんだ、彼女に一番に思われていた社長って奴が。僕がその場所に行きたかったから、そいつのことを引きずりおろしてやりたいって。
  寒い夜はふたりでひとつの毛布にくるまって眠る。
  柔らかい彼女の素肌が吸い付いてきて、たまらない気分になる。身体じゅう、心の全てが満たされていく。ふたりとも余計な言葉をなくして、キツネになるんだ。ただ「コンコン」と挨拶する。瞳で手のひらで、心を伝え合うんだ。
  彼女は僕の中の毒まで吸い出して、綺麗な心に変えてくれる。だからずっと傍にいて、いつまでも「好き」でいたいと思うんだ。

了(040322)
あとがきへ(別窓)>>

 

感想はこちらから>> メールフォーム

TopNovel短篇集Top>キツネの挨拶

 

※この話にはちょこっと後日談があります。こちらから(短編です)