scene 11 …


 

 苛立ちの理由なんて、そこらじゅうに掃いて捨てるほど転がっている。
  たとえば。夏のボーナスが出たらGetしようって決めてたワンピが、タッチの差で店頭から消えていた。しかもその数日後、再会したその服は社内で一番人気の後輩が格好良く着こなしていて。ええ、もう。多分、私が身につける何倍も似合っていたわよ。
  それだけじゃない、付き合いで仕方なく参加した同期会では「コイツとだけは絶対にお近づきになりたくない」って思っていた男の隣になっちゃうし。ああ、拷問のような二時間。途中で抜けようにも、どうにも上手くいかなくて泥沼だった。奴に対する認識は同期のコたちも私と共通だったみたいで、みんな遠巻きに眺めているだけ。ホント、泣きたかったわ。同情してくれてるならさっさと助けてよ。
  新しい服を初めて着た日には突然の雨。乗ろうと思っていたバスにはタッチの差で置いて行かれる。社内研修と称して週末だけ提携しているレストランチェーンの助っ人に入っているんだけど、そこでも他の店員への難癖をお客様から延々と聞かされる羽目になる。しかもディナータイムのかき入れ時よ。端から見たら、絶対に私がミスったみたいに思われたわ。
  それでも私、懲りずによく頑張っているなと思うの。堪え性がないと嘆かれる「イマドキの若者」でありながら、愚痴ひとつこぼさず必死に毎日を生きてるわ。え? 今ぼやいているだろって? ああ、これはあくまでも心の声だからいいのよ。口に出さなきゃ、誰にも聞こえないでしょ?
  ―― ただ、こんな場面で頭の中にごちゃごちゃ雑念が詰まっているのはやっぱり反則だろうな。

「どう、……いい?」
  足の付け根の辺りから、等間隔の水音が聞こえてくる。大きく開かれたその部分を、何かが出入りしている気配。ううん、別に「それ」が何であるかが分かってない訳じゃないのよね。ひとつの部屋に私の他にもうひとりの人間がいて、しかもそいつが男である上にお互い裸で絡み合ってる。となれば、簡単に想像が付くでしょう。
「……うっ、うん……、すごい……っ!」
  悩ましげに問いかけられても、咄嗟には何のことか分からなくて困った。ああそうか「感度」を聞かれているんだなとか少し遅れて気付いて、慌ててそれっぽく返事する。もちろん、そんなの演技よ演技。そりゃ、何となく気持ちいい気もするけど、ただそれだけのこと。だけど、奴の方はそうじゃないみたい。
「そう、……だろうな。沙砂(ささ)ン中、すげー締まる。こんなじゃ、たまんねえ……」
  激しい息づかいの合間にこぼれ落ちる言葉たち。それが汗ばんだ私の肌の上を通り過ぎていく。うーん、どうなのかなあ。とりあえず自分の身体なんだけど、そう言うのってよく分からない。鍛えれば、自在に締めたり緩めたり出来るって聞いたことはあるよ、でもそれってプロの技でしょ? それとも素人でも普通にやってる人、結構いるのかな。
  そんな風にひどく冷静に思考を巡らせていたら、首筋からだらりと汗が流れ落ちた。いつも思うんだけど、セックスってスポーツよね? お互い技を出し合って、どうしたらもっと良くなるか試行錯誤したりするし。終わったあとに毎回それなりの達成感があるところも似てる。ま、全然無いよりはたまにあった方が健康的だしね。
「……っくっ……!」
  びくびくっと海老反りになって、一時停止するのも毎度のこと。最初の頃は「何でいきなり固まっちゃうんだろう?」って驚いたりもしたな。ああ、なんて初々しい私。今なら分かる、これって「寸前のとこで堪えてる」動作なんだよね。別に必死で我慢することもないと思うんだけどなあ。さっさと終わるなら終わればいいのに。
  どうもね、コイツに限ったことじゃないんだけど。男って「早すぎる」のは自分のプライドが許さないらしい。一体どんな自信過剰だよって思っちゃう。そりゃ、入れた途端に終わられたらさすがに興ざめかも知れないよ。でもなー、だからといって惰性でだらだら続けられても。
「……啓太」
  仕方ない、反応してみるか。こういうときはちょっと鼻声に、そこはかとなく憂いを秘めてね。うっすらと涙目になってたりしたらさらにいい。
「沙砂」
  私は自分の名前があまり好きじゃない。とくにこんな風に行為の最中に呼ばれるのはかなり萎える。だって物心ついた頃からの悪しき記憶が一気に蘇ってくるんだもの。
「そろそろ、いいかな? 一緒にいこう」
  その言い方も陳腐だな。「いく」ってどこにだよ、って感じで。お互いにお互いでいい気持ちになるって言っても、それが本当に同じくらいのものであるのか誰にも分からないでしょ? ああ、でもホッとするわ。やっと終わりか。あと少しって思えば、散漫になっていた意識をどうにか集中できそう。
「啓太、……啓太、啓太……っ!」
  すごいね、お互いの呼吸と腰の動きがぴったり連動している。こうしているとオートメーションな機械の一部になっちゃってるような気がするよ。いつの間にかシーツと背中のこすれ合う音が、ガチャンガチャンって金属音にすり替えられていたりして。いや、それはいくらなんでもあり得ないか。
「ああっ、……沙砂っ……!」
  私の胎内。薄い膜を挟んで、奴の分身が爆発する。その瞬間は確かに身震いするわね、大げさな言い方になるけど人類進化の一端を担っているというか。こういう悦びがあるからこそ、男と女の歴史は続いていくんだろうし、いくら長い将来にわたって奇跡的な科学の進歩があったとしてもなくなっちゃいけないものなんだろうな。
  そう思ってたら、するっと私の中から生あったかいものが引き抜かれる。たとえようのない喪失感とそれよりはいくらか少なめの安堵感。頭の中を覆い尽くしていた霧が一気に晴れて、あっという間に現実が戻ってくる。
「あー、かったる。先にシャワー浴びてきていい?」
  薄めを開けて、声のした方向を見れば。今更隠す必要もない裸体をまざまざと視界に入れてしまう羽目になる。今まで私の中で暴れていた部分はまだ床に対して平行な角度を保っていた。
「……駄目」
  自分でも不思議だった。いつもなら「いいよ」って譲っちゃうのに、このときばかりは返答するよりも早く起き上がっていたし。
「先に使わせて、急いでるから」
  この台詞も口から出任せ。勢いよくベッドから滑り降りると、まだじんじんしている股の部分に違和感を覚えながらもシャワールームへと進む。いいや、これからのことはすべてを洗い流しながら考えよう。それでいいじゃない。

 四十五分後。
  ゆっくり身支度を調えた私は、だらしのない裸の男の前へと戻ってきた。あー、今まで気づかなかったな。やっぱ、これからはシャワーを先に使った方がいいかも。こんな風にみっともなく寝そべっている姿を仮にも恋愛中の相手に見られたくないなら。
  ドアの開く音に反応したんだろう、半ばうとうとまどろんでいた奴が目を開ける。かろうじて腰の前の部分はタオルで覆ってるけど、すね毛の足とかそういうのは丸見え。私もいつもはこんななのかなあ。さすがにすね毛はないけど、辺り一面に漂う脱力感は何とも言えない。
「じゃ、帰るね」
  どうやって切り出したらいいのか、シャワーをじゃばじゃば浴びながら必死に考えた。だけど、あれこれと理由をくっつけて説明するのも面倒だし、だいたい現時点では自分で自分を持て余している状態だし。ま、ここは単刀直入に切り込むしかないだろう。
「……」
  何だ、まだ寝ぼけてるの? もごもごって口が動くけど、声にならない。ただその表情からだいたいの気持ちは分かった。うん、「何だ、この先用事があったのか?」って感じかな。
  そうだな、意外に思われちゃうのも無理ないか。だって、今日は普通に待ち合わせして映画見てご飯食べて。そしたらそのあとはお約束でホテルへ。どちらから言い出したわけでもないけど、もう半年以上続いているパターンだから。
  たまに最初の「映画」の部分が「遊園地」になったり「スポーツ観戦」になったりと変化するくらい。何か他の予定が割り込まなければ週に一度、つきあい始めてからずっと変わらない。
  行きつけのここの部屋は時間無制限だから好きなだけごろごろして、そのあと軽くお茶してバイバイってなる。前回も今回も、そして次回も。きっとそんな風に続いていくんだと思ってた。そう、ほんの数十分前までは。
「元気でね、またどっかで会うこともあるかもだけど」
  ま、そういうことで。
  ほどよく踏みつけられたカーペットの上を大股で進んで、ドアレバーを引く。最後に振り向くのは絶対駄目、イマドキ女は背中で全てを語る生き物なのよ。
  バタン。背中でドアが閉じたのと同時に、バッグから携帯を取り出す。そして住所録を開くと手早く奴のナンバーとアドレスを着信拒否にして、その上で該当のデータを完全に消去した。

 ときには、気持ちを切り替えることも必要だって思うんだ。ううん、その言葉は妥当じゃないか。ちょっとした軌道修正ってよりは大々的に塗り替えるって言うか―― そうね、建築物で言えばリフォームじゃなくて建て替え。全部壊して、基礎から新しく造り替えるの。
  だって、面倒じゃない。何となくほころび始めた関係を、その場その場で適当に繕っていたって仕方ないのよ。根本的な解決にはならないし、最後は結局全部破けて悲惨きわまりない結果になる。
  男女の関係って、不思議。盛り上がって行くときはふたりともほとんど同時なのに、頂点に達したあとに冷めていくスピードには微妙なズレが生じるのよね。それだから、あっさり別れることが出来なくて、泣いたり泣き付かれたり。傍から見ていると見苦しいだけの惨劇が延々と続いてく。
  私だってね、こんなこと最初から分かっちゃいない。初めて特定の男と付き合った中学生の頃から、何度も何度も似たような体験を繰り返して、ようやくこの頃「あ、そうか!」って悟った感じ。それまではね、なまじっか「後腐れなく、きれいに別れよう」なんて思うから、泥沼になっちゃったのよ。どっちにせよ、終わるときは終わるんだし、綺麗も汚いもあったもんじゃないのにね。
  ―― この頃、何となく全てのことにおいて気持ちの歯車が食い違ってきている。
  それを啓太ひとりのせいにするのはさすがに可哀想だと思う。でもね、さっきも言ったとおりに「気持ちを切り替える」ことが、今の私にとって最優先課題なの。可もなく不可もなしの男とこのままずるずる行ったって、どうなることでもないよ。ま、引き返せない事態になって腹をくくることになったかもだけど、そういうのも、何かねー。
  不快指数200%、ただ歩いているだけでも生ぬるい汗が背中をだらだら流れていく。梅雨前線が日本列島にどろーんと横たわる夜半、それでも私の足取りは軽やかだった。

 

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