scene 11 …


 

「啓太さん、元気?」 
  ああ、まただ。思わず眉間にシワが寄ってしまったのが自分でも分かったけど、それも仕方ないと思う。今朝から、何度この名前を耳にしただろう。まだお昼前だよ、デスクについてから二三時間しか経ってないじゃない。
「さあ、どうなんだろ。知らないわ」
  そのたびに気のない返事をしてるんだから、そろそろ察してくれてもいいと思うのにな。残念なことに元々がこういうキャラの私。冷めた態度はお約束で誰も気づいてくれないみたい。
「そう言えば、このところ顔見てませんよね。昨日も別の人が来てたし」
  今度は隣の席の年下くんがそう呟く。嫌になるなあ、久しぶりに内勤で一日気楽に過ごせるかと思ったらコレだもん。ことあるごとに「啓太」「啓太」って、私はあいつの見張り番じゃないって。
「ふうん、だから何? そんなの私が知ったことじゃないでしょ」
  思いっきり面倒くさそうに吐き捨ててみたけど、相手の反応は微妙。あ、絶対に「照れてるな」とか勘違いしているんだよ。全然そんなじゃないのに。
「ふふ、ですよねー。分かってますって」
  知ったかぶりして頷かないでよ、全然わかってないくせによく言うわ。どうして世の中、こんな風に勝手に自分のモノサシで計って納得する人間が多いのかしら。おかげでこっちはいい迷惑をしているわ。
「……あーっ、そうだぁ!」
  うるさいなあ、いい加減、少しは静かにしていたらどう? 普通にデスクワークをしていても、勤務時間の半分は口を開いて無駄口を叩いていると思われる年下くん。一番側にいて欲しくないタイプなのに、どうしてこの席順になってるの。
「やっばーっ、忘れてた! 半田さん、S商事へのサンプル提出って今日まででしたよね?」
  わざと周囲に聞かせるようにわめくのも気に入らない。上司に尋ねたいことがあれば、きちんとデスクの前まで出向きなさいって。
「あ、そーだね。……って、午前中にって指定じゃないか! この馬鹿、何やってんだ……!」
  いつもはのんびりペースの私たちの上司、半田課長。でも、今はそうは言ってられない状況らしい。
「ちょっ、ちょっと待て! あそこの営業部長は時間に厳しいことで有名じゃないか、午前中―― あと三十分もないぞ! どーすんだよ、一体……!」
  あちゃー、またやったか。全く、どこまで注意力散漫なんだよ。
「持参するものは全部揃ってるよな? ほら、すぐ連絡! 至急お届けすると伝えろ!」
半田課長の声が飛んできて、さすがの年下くんも弾かれたように立ち上がる。そして、すぐに携帯を取り出して、……そして何故か私の方を振り向く。
「あのーっ、……比留間さん」
何よ、いくら頼まれたってあんたの仕事の肩代わりはしないからね。そういう気持ちをばっちり込めてにらみ返したのに、彼はまだ上目遣いに頑張ってる。
「す、すみません! 啓太さんのケータイ教えてください! え、営業部長に直接電話なんて……ボク、無理です。啓太さんなら、きっと上手く取りなしてくださると思うし……!」

 そして、嵐が去ったあとのランチタイム。
  ただですら、人数の少ない部署なのに、更に課長以下男性陣すべてが出掛けてしまって閑散としている。こういうときはのんびりと外で食事を楽しむことなんて無理。仕方なく、皆が順番で近所の弁当屋まで昼食の調達に出掛けた。
「全くー、今村にも困ったもんよねーっ!」
ここ営業三課に所属するのは計八人。男女それぞれ四名ずつで、半数が外回り担当。本来なら、今名前が挙がった年下くん「今村」にもバリバリと新規開拓してもらいたいところなんだけど……行く先々でとんでもないことばかりやらかすから、早々に干されてしまった。願わくば、次の異動でどこか遠くに飛んでって欲しいけど、それも難しいかな。
「本当、あそこまで使えないのを見るのは久しぶりよ。これってゆとり教育の弊害ってやつ?」
そんな風にこっちに話を振られても困ってしまう。私以外の女性陣はすべて年上で、何かと肩身が狭い状況なんだ。ひとつしか年が変わらないこともあって、あの「今村」とは同類にくくられてしまうのも許せない。
「さ、……さあ。よくわかりませんけど」
ほっかほかが売り物のはずのお弁当がここまで冷め切ってるってどういうこと? あそこの店、あんまり繁盛していないんだわ。この見るからに使い捨ての安っぽい容器に詰めてから、だいぶ時間が経ってるに違いない。
「まあねー、比留間さんならあんなこと絶対にないと思うけど。どう? 思い切って外回り要員に名乗りを上げたらいいんじゃないの?」
そんなことを言い出すのが、鈴木さん・その1。何故か、同じ部署に同姓が三人もいるのよね。初めて配属になったときには、三つ子かと思ったお三方。本当によく似ているの。後ろから声をかけられたら区別がつかないくらい、声も話し方のトーンも同じ。
「あ、そういえば。比留間さんって課長の代理で出向いて、そのときに啓太さんに巡り会ったんだよね? 運命だよねえ、そういうのってメチャ憧れるわ〜っ!」
―― また、あいつの名前が出てくる。
ホント、どういうことなんだろう。こっちは綺麗さっぱり忘れたいのに、あちこちから蒸し返されてばかりなんだから参る。しかも、さっきなんて完全消去したはずのナンバーをばっちり暗記していた自分に気づかされてしまったし。これって、情けないったらないわ。
鈴木さん・2に続いて、鈴木さん・3までが余計な口を開く。
「そうだよ、比留間さんは運が強いわ。私が代理で出掛けたときなんて、下心見え見えのオヤジが出てきたわよ? あーゆーのって、絶対に許せないっ!」
むきーって、紙おしぼりの袋を握りしめて。そんなこんなで果てしないおしゃべりが続いていく。早々に食事を終えた私は、一足早くその輪から離れた。

 啓太との出会いは、先輩三人衆の説明してくれたとおり。
  ある日のこと。課長が突然本部から呼び出しになっちゃって、私が頼まれていた書類を得意先に届けることになった。そんなことって初めてだったから、かなり緊張したのよね。そのせいか、電車の乗り継ぎをミスって約束の時間ギリギリになっちゃって。焦りまくって飛び込んだドアの向こう、突然現れた人影にぶつかった。
「うわっ!」
  額にすごい衝撃を覚えて、身体が後ろにはじき返される。閉じたドアにしこたま背中をぶつけてから向き直ると、そこには顎をさすっている男性が立っていた。
「すっ、すみません! 大変失礼いたしました」
  も〜っ、なんたること! 初めて訪れた場所で、とんでも無い大失態をしてしまった。あまりの恥ずかしさに相手を直視する度胸なんてなくて、平謝りのあとその場をそそくさとあとにする。もう二度とこの会社へのお使いは引き受けないぞと心に強く誓いながら。
  その後、通された応接室で。迎えてくれた担当の方に課長が急に都合が悪くなってしまったことへのお詫びとか、とりあえず考えてきた台詞を一通り言い終えてホッと一息。
「事情はわかりました、半田課長にもよろしくお伝えください。では、お持ちくださった書類をこちらにお預かりします」
  目の前に差し出された右手を見つめて、しばし呆然。えっ、ちょっと待って!? わたっ、私、書類の封筒を持ってない……!
  思わず、心の中で「まさか!」って叫んじゃった。もしかして電車の中に? ううん、違う。駅を降りて信号待ちをしているときには確かに手にしていたもの。じゃあ、どうして? どこに行っちゃったの……!?
「失礼いたします。あの、笹倉部長……」
  そこに聞こえてきたノックの音。続いて、ドアの向こうから綺麗な女性が現れる。あ、そうだ。この人って、さっき受付で対応してくれた方だ。
「こちら、お客様のお忘れ物かと思うのですが―― 封筒に社名が入っいましたので」
  彼女は私の前を素通りして、直接担当の方にそれを差し出す。それからこちらを向き直って一礼すると、モデルのような歩き方でドアの向こうに消えた。
  何とも気まずい沈黙。ち、違うの! いつもの私はこんなんじゃない。今日は慣れない仕事で緊張しているだけ、いつもはもっとしっかりしているんだから。
「お渡しいただくのは、こちらでよろしいですか?」
  しばらくたってから、そう口火を切ったのは相手の方だった。それまでどうしても彼と視線を合わせることが出来ずにいた私も、ようやくそこでしっかりと正面を向くことに成功する。目の前には穏やかな笑顔があった。
「本日はご苦労様でした。こちらは社の方で確認した上で、後日ご連絡差し上げます」
  どこで調子が狂ったのかわからないままに、どうにか取引先をあとにする。帰り道の記憶も全くないままに、気がついたら自社の前まで戻ってきていた。

  そんなことがあってから数日後。
「比留間さん、お客様よ」
  先輩に呼ばれて振り返ると、そこに立っていたのは思い出したくない記憶の一部になっていたその人だった。
「やあ、やっぱりここの会社の人だったんだね。予想が当たって嬉しいよ」
  人なつっこい笑顔でそう言って、私の顔をまじまじと見つめる彼。その視線が前髪で隠した絆創膏にあることは分かっていた。
「まだ、痛い?」
  周りに聞こえないような声でそう囁かれて、頭にどーっと血が上っていくのがわかった。
「いっ、いえ! 別にそう言うわけじゃないんですけど……」
  翌日になって確認したら、すごいアザになっていたのよ。確かに直後の衝撃はすごかったけど、まさかこんな結果になるとは思わなかった。
「なら、いいんだけど」
  その日の会話は、それでおしまい。だけど、その後もちょくちょく彼はうちの仕事場に顔を出すようになった。どうも私がお目に掛かった笹倉部長、その下で働いている人らしい。本来ならば打ち合わせにはこちらが出向いていくのが当然の間柄、恐縮する半田課長に彼は明るい笑顔で言う。
「いいんです、俺はこうして外を回っている方が性にあっているんで。だから、気にしないでください」
  高橋という姓があるのに、いつの間にか課のみんなから「啓太さん」と呼ばれるようになっていた。そんな感じのキャラなんだろうな、きっとどこへ行ってもこんな風にすぐに打ち解けちゃうんだよ。
  手が空いていればちょっと話をしたりもするけど、顔だけ確認して言葉も交わさないまま終わることも多い。それでも彼に会えた日は、少し嬉しい気分になっていた。
「―― あ、比留間さん」
  ある日、経理から戻ったところを呼び止められた。営業部のドアの前、こんな風に他に人目がないところで彼と出会うのは初めて。
「こんにちは」
  こっちに向かって歩いてきたから、道を空けるために少し脇に寄ってから挨拶する。何しろ出会いがとんでもない感じだったから、こっちとしてはやっぱり気まずい気持ちがあるのだ。
「待って」
  そのまますれ違うんだろうと思ってたのに、彼がぴたっと立ち止まる。顔を上げた私の目の前にチケットらしきものが差し出された。
「これ、午前中に回った会社でもらったんだ。良かったら、使って」
  渡されるままに受け取って確認、それは映画の鑑賞券だった。
「俺、行く相手もいないし。興味はあるけど、一枚無駄にするのももったいないしな」
  そうか、こういうのってペアでいただくものなんだ。そんな風に感心してみたりして。
「じゃ、また」
  軽く右手を挙げて、そのまま背中を向ける。そのとき、何故か「嫌だな」って思った。私、もっと違う言葉を期待していたんだなって、気づく。
「あの」
  振り返って、遠ざかっていく背中を呼び止めていた。
「私も一緒に行く相手が見つからないんだけど。一枚無駄にするのはもったいないよ」
  ゆっくり、彼の立っている場所まで歩いていって、チケットを一枚だけ戻す。
「これで、一件落着だね」
  古ぼけた雑居ビルの廊下、エレベーター前。それが私たちの最初の一歩だった。

 

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