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与えられたこの生涯 〜第2回(仙台へ)〜            島 隆三

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東北大学工学部に、その頃、金属材料工学科が新設された。その新しい学科の井垣研に助手として入れてもらったのである。どうしてそんな教室に入ったのか、これも話せば長くなるが、修士課程が了る3月に入って急に出てきた話であった。私は淡い希望を抱いて、初めて札幌の街と我が家を離れたのである。晩い旅立ちであった。

 杜の都仙台は、私の第二の故郷になったが、その頃人口約50万の落ち着いた街で、勉強するに適した環境であった。井垣教授は京大を出た俊英で、まだ四十代の初め頃だったのではないか。先生の弟子のOさんという助教授(講師?)と、奈良女子大から名古屋大の修士を了えてきたIさんというユニークな女性が私の同僚であった。一年早く研究室に入ったIさんは、何もわからないお坊ちゃんのような私に、親切に色々教えてくれた。仙台の街のこと、大学のこと、買い物のこと等々、かゆいところに手が届くように、生活の知恵を伝授してくれた。 

 学生たちも素朴な人たちが多かった。研究室の草創期で、最高学年が大学院の一年だったが、若々しい張り切った雰囲気が漲っていた。実験器具も十分でない中で、皆懸命に実験に取り組んでいた。私は電気関係が苦手で役に立たず、化学科から来たせいか、ガラス細工が彼らよりも少しうまく、これが案外重宝がられた。真空での実験が多い研究室だったのである。

 井垣研は、何を実験のテーマに選んでも良いという雰囲気があった。といっても、熔融鉄の分野は金属工学科の不破研があったから、私は何をやろうかと迷っていたが、先生からやってみないかと奨められたのは半導体化合物であった。私は何も分からないままに、InAsを選んでみた。ケミカルアブストラクトで文献を漁るところから始めて見たが、研究の方向はなかなか見出せなかった。手探りで、自分の出来るところからボチボチ実験を始めるといった感じであった。無機化学教室でやっていた熔融鉄の熱力学とは殆どなんの関係もなかった。

 初めは新しい環境で物珍しさもあって自分なりに一生懸命だったが、慣れてくるとだんだん問題点も見えてくる。研究室にもいろいろ問題はあったが、それよりも大きな問題は自分自身である。果たして研究者としてやっていけるのか、その力があるのかと自問してみると、心もとない。生来、楽観的な私にもさすがに焦りが出てきた。研究は進まず、固い岩盤につるはし一丁でトンネルを掘っていこうとするような頼りなさを覚えた。

 そんな私にとって、最高の楽しみは教会に行くことであった。仙台青葉荘教会という下宿屋のような名の教会であったが、日曜日は欠かさず礼拝に出席し、水曜日の夜の祈祷会も休まなかった。子供たちの教会学校でも熱心に奉仕した。牧師は中島代作という方で、古武士のような風格があった。以前からこの先生の文章に惹かれていたので、仙台に行って先生に会うのが楽しみだったのである。今から思うと、仙台に行ったのはこの先生に出会うためだったと信じている。いかにも力強い説教だった。他界してすでに4半世紀が過ぎたが、目をつぶると今もあの懐かしい口調が耳に響いて来る。
 
 教会の皆さんも、本当に温かく迎えてくださった。仙台青葉荘教会は私の第二の母教会となったが、家を離れた私にとって我が家のような温かいところであった。

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