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与えられたこの生涯 〜第3回(転身)〜            島 隆三

第1回  第2回
 仙台に来て一年が経たない2月14日の日曜の朝、この日は母教会のI牧師の命日だったので、普段より早く教会へ行って、礼拝堂で独り座って祈っていた。するといきなり牧師館のドアが開いて、伝道師であったご子息が泣きながら飛び出してきた。何事かと驚いたら、向こうも私がいるのでびっくりした様子で、「今、母が亡くなりました」という。思わず絶句した。教会のお母さんと皆から慕われていた牧師夫人が、突然神に召されたのであった。しかも、我が家の恩師であるI牧師と同じ日に召されるとは。

 もちろん、人は偶然と言うだろうが、私には単なる偶然とは思えなかった。この出来事を通して、神は私に何かを語っているのではないか。その日の礼拝を終って呆然と下宿に帰り、とにかく祈ることに決めた。夕食も断って、腹を決めて祈り出した。聖書を読んでは祈り、祈っては聖書を読んだ。時間が過ぎるのも忘れて、気がついたら外は明るくなりつつあった。月曜日はいつものように研究室に行き、早めに帰宅して、また聖書を読んだ。食事を抜いて祈っていたので、体は疲れていたが、頭は冴えていたと思う。その夜も徹夜をして、明け方近く、近所の与平沼というところへ出て行った。仙台の2月はまだ寒かった。そこで祈りつつ考えて、ついに結論に到達した。研究室を辞めて牧師になろうと。

  早速、両親に手紙を書いた。折り返し母から返事が来て、自分には異存はない、神に示されたように進みなさい、という励ましの手紙であった。しかし、肝心の父からの手紙が来ない。何日待ったろうか、ついに便りが届いた。お前の気持はわかった、しかし、何も牧師にならなくても、例えば宮部金吾博士(北大教授で、世界的植物学者。敬虔なクリスチャンだった)のような人もいるではないか。特にお前は父に似て口下手だから、伝道者には向かないと思うと、父親らしい忠告も書いてくれた。が、最後には、キリストの十字架によって救われたお互いだから、神の導きに従おうというものだった。私は何度も何度も父の手紙を読み返した。研究室の屋上でも読み返した。このときくらい、父の愛を強く感じたことはなかった。

 兄や義兄からも手紙が届いたが、皆、私のことを親身になって心配してくれた。とにかく、両親が許してくれたのだから、後は牧師に話して神学校に行くばかりである。そこで、尊敬する中島牧師に話すと、師はすでに知っておられた様子で頷いて聞いていたが、良いとも悪いとも返事がなかった。神学校に進むなら4月からである。研究室の辞め時もある。私の焦る気持をよそに、先生は何も言わない。とうとう4月になってしまった。私はただ黙って待っていた。そして少し体調を崩した。結核菌がリンパに入って、肩のリンパ球が破れたのである。「昔ならば穴が塞がらなかったかもしれない」と、医者に叱られ、週に何回かストマイを打つために病院に通った。しかし、研究室は休まなかった。

 そんなある日、中島牧師から、君の決心は変わらないかと私の気持を確認され、変わらないなら個人的に指導してあげるから、日本基督教団の教師検定試験を受けてはどうかと言われた。そんな道があるのかと驚いたが、聞くところによると、神学や説教など20科目ほどを3年かけて数科目ずつ受験するのだという。そんな試験を受けて伝道者になれるものだろうか。私には良く分からないが、先生には何かお考えがあるのだろう、よし、お任せしようと、牧師の勧めに従うことにした。

 とうとう生きる目的がはっきりした。25歳で人生の目標が見えてきたのだ。晩い目覚めであった。それからの仙台での3年間は、私にとって一番楽しいときであったように思う。Y先輩が語ったDevotionを見出した喜びであった。

 ひとつ気になったのは、こんな人間がそのまま研究室に残っても良いのかということである。聖書に、「あなたの富のあるところに、あなたの心もある」という言葉があるが、私にとって研究はもはや大した意味のないことになってしまった。それでも研究室にいてよいものか。黙っていてはいけないと思って、首になるのを覚悟で教授に話した。教授の返答は私にとって温情溢れるものであった。3年たって君の考えが変わらなければ好きなようにしなさい、変わったら研究室に留まりなさい、と。

 そんな訳で、私の生活は表面上それまでと少しも変わらなかったが、内実は変わっていたのである。研究室では冴えない研究を続け、学生の相談にのったりして、家ではせっせと聖書や神学書を読んだ。実際、大学受験の頃も含めて、あんなに楽しく懸命に勉強したときはなかったように思う。3年後にめでたく補教師試験全科目に合格して、1968年春、東北教区総会で准允(じゅんいん)を受けた(これで正式に日本基督教団教団の補教師になる)。

 その頃、東北大学は学部や研究所が青葉山へ移転しており、我々の研究室も夏頃には移転が終ることになっていた。そこで私も8月まで勤めて仕事に区切りをつけ、9月から新宿の東京聖書学校に修養生として置いてもらうことにした。試験に合格したからと言って、すぐに伝道者・牧師になれるわけではない。伝道者になるための訓練が必要である。カトリックの神父の場合は最低6年、プロテスタントの牧師も3〜4年は普通だ。私は修養生として半年だけ寮に入れてもらったのである。

 研究室では私のために佐利総本家というアルコール抜きで有名なすき焼き屋で送別会を開いてくれた。初代の店長、佐藤利吉氏は熱心なクリスチャンとして仙台では有名だった。今日高齢ながらご健在と聞いている。

 こんな書き方で、果たして昔の教室の仲間たちに理解してもらえるかどうか分からないが、要はなぜ私が牧師になったのかということである。研究に行き詰まって教会に逃げたのか。確かに研究には行き詰まっていた。だから、答えはイエスである。しかし、生意気を言えば、研究に行き詰まったおかげで、「神から与えられた生涯」に導かれたのである。これは私にとって何にも換えがたい幸いなことであったと感謝している。

最終回


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