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40年のうちの7年がこんな具合で過ぎ去ったが、後は一瀉千里でいかねばならない。新宿の大久保と新大久保の間にある淀橋教会という大きな教会の中に東京聖書学校という神学校(というより私塾のような学校)があった。校長は小原十三司という高名な牧師で、札幌の母教会のI牧師の葬儀も、仙台の中島牧師夫人の葬儀も共に小原牧師によって執り行われたのであった。その学校の寮生活を半年送ってから、中野区にある更生教会に伝道師として迎えられたのは1969年4月であった。
そこには安倍豊造という老牧師がいて、小原師のよい意味でのライバルであった。先に夫人を亡くして長女の方と二人で教会と幼児園を守っていたが、そこへ「お坊ちゃん」伝道師(と冷やかされたが)の私が転がり込んだのである。その年の6月に、淀橋教会の伝道師であった妻と結婚することが決まっていたので、妻が来るまでは半人前で、ただ老牧師の話を聞いていただけである。
妻と結婚するに至ったいきさつは、恋愛結婚というようなロマンチックなものではなく、淀橋教会では殆ど口を利いたこともなかったが、私に必要なのは明るい伴侶であるという中島牧師の配慮で、すぐに結婚ということになってしまった。周囲の者も驚いただろうが、本人たちも戸惑うような急展開であった。昔の伝道者は会った事もない人と結婚するという無茶な話も聞いている。今日はさすがにそんな無謀なことはしなくなったが、私の頃でもまだ伝道者の結婚は世間一般の常識とはかなり隔たりがあった。とにかく恩師の導きで伝道者になり、おまけに妻まで世話してもらったが、妻の助けがなければはたしてどうだったろうかと、これを書きながら改めて考えさせられた。
結婚して妻と帰札した時に、研究室に丹羽先生を訪ねた。先生は上機嫌で我々を歓迎してくださって、その時の記念写真が今もどこかにあるはずだ。先生は私が井垣研を辞めるときも大変心配してくださったが、牧師になるつもりだと話したら、自分の父も金光教の布教師だったから君の気持もわかる、しっかりやりなさいと励ましてくださった。いつか大阪に伝道に行った時、近所に金光教の教会があり、そこの先生は北大の学長の兄弟らしいと聞いてぴんと来るところがあり、訪ねてみた。やはり丹羽先生の弟さんであった。兄上が学者になったので、弟さんが父上の職を継がれたという。ご本人には会えなかったが、奥様とお嬢さんにお目にかかった。お嬢さんは貴知蔵伯父を大変尊敬していて、言葉遣いなども実にきちんとした、礼儀正しい方であった。
井垣先生のこともちょっと書いておこう。私たちが更生教会を辞任して、香港の日本人教会に行っていたとき、先生は奥様と一緒に香港に来られ、私たちを訪ねてくださった。中国料理を食べながら昔の研究室の話に花が咲いた。私が去ってから、井垣研に熱心なクリスチャンの学生が来て、彼に誘われて私のかつての同僚のIさんは教会に行き、クリスチャンになった。そして、上京の折りにはよく私たちの教会を訪ねてくれた。ところが驚いたことに、このIさんも神学校に行くと言い出して、当時、仙台の八木山にあったバプテストの神学校に入ってしまった。井垣先生はさぞかし驚かれたと思う。
ところが、この神学校は保守的で、女性は牧師にはなれない。そこで自分は牧師夫人になりたいといつも私たちに言っていた。もう若くはないし、はたしてその通りになれるかと危ぶんでいたが、彼女の祈りの通りに、神学校を卒業してから大阪の著名な牧師と結婚した。彼は妻に先立たれ、二人の子供を抱えて苦労しておられたのである。彼女は妻と母親と教会の母という三役を立派に果たしたが、惜しむらく先年ガンで亡くなった。ご主人が一度香港に来られたことがあるが、あんなに中国が好きだった本人に来てもらえなかったのが今も心残りだ。
彼女を教会に導いた例の学生も、大学院の博士課程から神学校に行って、今は仙台の泉区で牧師として活躍している。昨秋、仙台の母教会に応援に行った時に、彼が訪ねてきてくれた。同じ研究室から3人の牧師(牧師夫人)が続いて出たという例も珍しい。井垣先生の心境は複雑なものがあったろう。先生は時々私にも研究論文を送ってくださったが、古代の鉄に関心を持たれて、旧約聖書に出てくる「銑鉄」はおかしい、調べて欲しいと二度ほど文献と共に手紙をくださったことがある。先生も聖書を読んでおられるのかとうれしかった。
すでに規定の枚数を超えてしまった。まだまだ、書きたいことはあるが、50年の記念文集を出すことになったら、そこに書かせていただこう(生きていればの話)。
東京の教会には15年お世話になり、付属幼児園の園長などもして結構忙しかったが、老牧師を天に送り、会堂建築など一区切りがついたので、ちょっと旅に出て、香港日本人教会の牧師になった。ここは超教派の教会で、多くの人との出会いの場になった。
香港での楽しかった6年も瞬く間に過ぎて、1990年から埼玉県の川口市に戻った。そこで西川口教会の牧師になって早くも12年が過ぎてしまった。さらに、3年ほど前からは、かつて修養生として半年間お世話になった東京聖書学校の校長を兼任することになった(現在、埼玉県吉川市にある)。私は長の器ではないが、たまたま他に適当な人がなかったのである。現在15名ほどの牧師の卵(といっても若い人とは限らない。定年退職してから入学してくる人もいる)と一緒に聖書と神学を勉強しているが、こんな楽しい学びはない。神学校にもいかなかった者が、神学校の校長になるというのもおもしろい。神様は時々皮肉なことをなさる。あと何年教師が務まるか、また牧師が務まるか、妻とよく相談しながら、「与えられたこの生涯」を走り抜きたいと願っている。
結び
以上、40年を駆け足で振りかえってみて、いかにも受身の人生であったことを認めざるを得ない。就職も、結婚も、みな他人様の世話になり、自分から積極的に選び取ったものは殆どないことに気がついた。これは末っ子の甘えん坊で育ったことが一番の原因であり、キリスト教信仰と結びついて、いっそう受身の人生になってしまったらしい。キリスト教信仰の特色の一つは、神の時が来るのを待つという面がある。
そういう受身のわが人生の中で、牧師になったことだけは、自分で決断した一つの道であった。しかし、それとても神から与えられた道に他ならないということであろう。(神より)「与えられたこの生涯」と題した所以である。(完)
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