花田達朗教授による公共圏 続編
 2002年11月2 日の建築あそび の記録   秋 ー5
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決して無かったものですね。伝統というものがヒョッとしたらついこの間発明されたモノかもしれませんね。あたかも昔からあるように伝統を表示し、そういうカタチで君たちは一つのネーションだとっていう風に繰り返し繰り返し呼びかけることによって、人々が「あぁ・・そうかもしれない」って思うようになっていくわけです。

これがその国民文化の形成。それがあんまり高じちゃうとナショナリズムとなって噴出をしていく。このネーションステートというものと公共圏というものはどんな関係にあるのかということが問題になり・・そこでやっぱり公共圏っていうものは失敗をしてきた。


要するにナショナルなモノにパブリックなものが負けてきたと。

あるいは国民という捉え方のほうが強くて、公衆という捉え方が弱い。あるいは、市民という捉え方が弱い共圏という理念が作用するという空間を創り出そうとしてもですね、そこにもう一つ別な作用原理を持った国民国家の空間というのが常に入り込んでくるっていうことですね。

そうした国民国家という大枠の中で・・確かに最近はですね国民国家っていうものが、グローバライゼーションのなかで揺らいできたとか言われますけども、以前として国民国家は強力。


北朝鮮かっらの帰国者を巡る、最近のやり取りを見ていいてもですね。国民という定義から決して抜けることは無いですね。


グローバライゼーヨン
と現象のなかで確かに国民国家というものを弱めるような働きも見られるんだけれども、しかし同時にそれをもっと強めるような作用もあるんですね。グローバライゼーヨンが国民国家の弱体化へと働かない逆に国民国家を強化する方向にさへ働くケースもある

    

 そうした国民国家とグローバライゼーヨンの関係のなかで、じゃ公共圏というものがはたして成功できるのか。ということ今の一つの問題になるわけですね。

簡単な回答を与えようとすればですね。国民国家っていう原理から自由になってグローバルに展開をする、NGOだとかNPOにその公共圏の形成ということは託せるんだと。いう風にい言えないことはないんですけど、そう単純にはいかない。簡単ではないと。

この二つの空間編成の原理は非常に複雑に葛藤しているのが現実であって、その中で公共圏っていうモノの失敗っていうのが起こっていると。



それから三番目ですけれど・・
  
 公共圏とコミュニケーション・メディア
 公共圏と公共空間
 コミュニケーション・メディアの作り出す公共空間
 公共空間の中のコミュニケーション・メディア


公共圏とコミュニケーション・メディア・・ここでは公共圏という言葉と公共空間という言葉を区別しておいた方がいいかなと思います。公共圏というのは先ほど言いましたように言葉が交換されていく、オープンな社会空間であり、そこでシェアーしようという意識が作用している、そういう空間だと。

だけどそういうのが作用していなくても公共空間というのは存在するわけですね。例えば公園のこと公共空間といいますよね。だけどそれを公共圏とは言わないですよね。

    

ここの場は公共圏とは呼べるけれど、公共空間じゃないですよね。佐藤邸というプライベートな空間ですね。だから公共圏という言葉と公共空間というものは違う概念であると考えなければいけないですね。

ただそれがコミュニケーション・メディアの高度化のなかでその問題が非常に錯綜してきているということが一つあります。

コミュニケーション・メディアっていうのはですね、新聞から始まってですね・・一つの目に見えない公共圏っていうものを創り出してくることに働いてきました。新聞読者というっていうのはみんなバラバラに散在してるわけですけれども、しかし新聞っていうメディアによってその新聞の読者というカタチで結びつけられ、彼らが公衆となり、その結果そこに公共圏というものが形成をされていると見なすことができるわけです。

で・・コミュニケーション・メディアっていうものはそういうカタチで公共圏あるいは見えない抽象的な公共空間というモノを作ることに作用している。ここに来てですね、技術革新のなかで、このことがモット進んできて、ゆわゆるバーチャル・スペースだとか、サイバー・スペースだとかという言葉で表されるようなカタチで、コミュニケーション・メディアが作り出す公共空間の増幅っていうか、生産の拡大ということが行われているわけですね。

一つそこで登場してくる問題点は、たとえばサイバースペースと呼ばれるような、インターネットが作り出すような公共空間っていうものが果たして公共圏かと・・いう設問です

テープ交換 途切れる・・二本目のテープへ

・・それがパブリックな目に触れるカタチにオープンにされている。そういう事態ですよね。私事性の公共化だと言うことができますね。
これは例えばその佐藤さんのホームページ・・そこでは私事性の公共化が行われているわけですね。例えば日記をホームページで公開してるっていうのはですね。
佐藤笑う
プライベートな世界をオープンにしている。公共化している。そういうことはさっき佐藤さんも言っていたように、昔ならば自分の考えを公表する場合に本や雑誌を出すとか 大変なお金も掛かり面倒な事だったけど、今ではホームページでお金もかからないで簡単にできるんだということ。確かに新しい技術環境のなかで可能になってきた話なわけですが・・、問題はこれが今後どうなっていくかですね

・・私事性を公共化して行くっていうことは果たしてそれは公共圏を生み出すことになるのか・・。あるいはそれとは違う別のモノを生み出していくことになるのか・・って言うこと。

これには恐らく簡単な回答はない。私も簡単に回答を思いつきません。

   

例えば「2チャンネルは公共圏になるか」って聞かれてもイエスノーで答えれる、問題じゃなくて、これはそのサイバースペースのなかでどういうコミュニケーションが行われているかということに依存しているわけであって、そのプロセスに依存しているわけであって、最初から固定して「こうだ」って回答を出すことの出来ない問題だと思います

もう一つあるのはですね。今度は逆にコミュニケーションの私事化という問題プライバタイゼーションですね。それが今進んできているわけですけれども。あるいは公共性のプライバタイゼーションと言ってもいいということ。あるいは公共的なるものとか場所とか性格とか、そういうモノがプライベート化されていく。

これはあのー・・プライバタイゼーションって言うと、いままでよく使われるのが・・例えばかつての電電公社が株式会社NTTになったというのがプライバタイゼーションなわけですね。民営化と呼ばれるわけですけれども。パブリックコーポレーションを民間企業にするというのが民営化であり、英語で言えばプライバタイゼーション。そういう一つの傾向が80年代以来続いてきているわけです。

ところがプライバタイゼーションというのはもっといろいろな局面で進行しているんじゃないかと。公共空間なかのコミュニケーション・メディア。端的な例が携帯です。携帯が登場してきたとき持っていない人達が非常に戸惑ったわけですね。あるいはもっと前の例で言えばウォーク・マンが登場してきた時に持ってない人は戸惑ったですね。

恐らく今でも携帯について言えば・・今日乗ってきた新幹線のなかでも注意がありましたが、「他のお客様のご迷惑になりますからデッキでお話ください」 あるいは都内の電車の中ではモット強くて「スイッチを切ってください」と言われますよね。

なぜそうなっているのだろうかということです。あるいは何故我々は違和感・・あるいは戸惑いを携帯電話に持ったんだろうか・あるいはウォークマンに持ったんだろうか。

 確かに今では携帯電話は固定電話より契約数が多くなるほど普及しましたから、電車の中なんかでもおそらく持っている人の方が多いですね。だけどおそらく持っている人にしても誰かが電車の中で携帯を使ったら、持っている人でも違和感があるんですね。いったいなぜ違和感を持つだろうか・・。あとで皆さんのご意見をいろいろ伺ってみたいと思っています。やっぱりパブリックな空間という問題に非常に関わってきているのは明らかなんですね。電話はもともと固定電話だったんですね。事業所なり家庭なりに電話機というのが置かれていてそこに固定されていた。その場所に行かなければ電話をすることが出来なかった。と言うことはそれぞれの場所に番号がふられていたんですね。

    

それに対して携帯電話は・・モバイルですね。移動することが出来るようになっていて、端末に番号がふられていて、それを自由に持って歩くなかでドコモの「何時でも何処でも」が実現する。今日では携帯電話ということでスタートしたのが・・モバイルホーンというカタチでスタートしたものが、むしろモバイルPCになってきている。モバイルなパーソナルコンピューターになってきている。要するにマルチメディア端末になってきている。

それから・・話をするオーラルなメディアからマルチモードの携帯端末へと移ってきたというわけですね。

携帯・・移動性ということはいったい今何を生みだしてきているかというと、移動できるが故に人間は公共空間の中に浮遊していくわけですね。そこで携帯電話をかけるとですね、公共空間の中に私事空間が島のように誕生するわけですね。・・その事を公共空間の中にいる他者は違和感を持つ。

なぜ違和緩和を持つかと言えば、公共空間の中で・・例えば電車の中では我々は他人同士だけれども・・その電車という公共空間をシェアーしているという意識を持っているんですね。だからそこには暗黙のルールっていうものが存在している。だからみんなが同じ公共空間に居ると思っているわけですね。一つのマナーが存在していたわけですね。

ところがウォークマン携帯は何を可能にするかというと、公共空間の中に私事空間の島を突然作り出すその人達はその時点でその公共空間をシェアーしていない事態が生まれて、他のシェアーしている人達からすると、極端に言えば異分子に見えてしまう。携帯はそういう事態を可能にした。ただこのことは果たして全く新しい現象なんなのかどうか、そうは言えないかもしれませんね。

電車のなかで本を読んでいる。本を黙読している人に対して誰も不快感を持たないですね。うんー・・我々は本を黙読するていうことに慣れているのであって、ところが本を黙読するっていう習慣はそんなに古い事ではない。昔は本は音読していた。声を出して読んでいた。黙って本を読むと言うことはなにか怪しげな事をしている。

会場笑い

というふうに思われて・・黙読という習慣が生まれる前は、それは何かいけないこと、すすめられないこと・・だった。それはどうしてかって言うと黙読するっていうことは自分だけの小さなカプセルの世界を作り出しているわけですよね。そうすると他の人が何をしているか分からないわけで、他者が何をしているか分からないということは きっと怪しげな事をしているんじゃないかと疑いが持たれてしまう。

だけど黙読っていうことによってですね・・なにが始まったかというと、読むというのが内面化されていった。そのことによって自分という意識が強められた。そいう効果を見いだしたというふうに言うことも出来るわけですけど。

    

そういうことを思いおこすと・・今携帯で起きている公共空間の中での・・その公共空間の私化っていう事は、あるいは個人化っていうことは過渡的なことなのか・・我々がまだ慣れていないから・単にそう思うことなのであって、今後こういう事に慣れていけば丁度車内のなかで本を読んでいる人に何も思わないと同じように、車内の中で携帯電話をかける人に対してなにも思わなくなるような事柄なのか、あるいはそうじゃない・・

プライバタイゼーションあるいは個人化っていうことが確かに非常な勢いで進んでいるわけですけれども、これが今後何処へ行くのかという問題ですね・・


やはり社会にとって悪く作用するのか良く作用するのかという設問が立て易いんだけど、おそらくそういう設問の立て方は間違っていて、モット別の見方をしなければならない

公共圏の失敗と言うことに戻せばですね、こういうプライバタイゼーション私事化ということが進んでいるなかで、公共圏の構築っていうのが今後一層難しくなるのではないかというのが私の感じてることです。


終わります

会場拍手パチパチ・・と鳴り響き後の宴会は深夜まで続くのでありました

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