花田達朗教授による公共圏 続編
 2002年11月2 日の建築あそび の記録   秋 ー6
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重源の皺    花田達朗著   

               

 今日の日本社会の閉塞と混迷を抜け出すためにはパブリックなるもの」の再興をはからなばならない、と私は考えてきた。それには公共という日本語の概念の再定義が必要である。日本語で「公共性」とう言葉、あるいは公共事業、公共放送、公共建築、公共企業体などの言葉は常に「お上」のニュアンスが付きまとってきた。「公共」という言葉は「お上」や「官」という意味におおいかぶせられ、横取りされてきたと言える。そこから解放してやらなければならない。

 日本のみならず現代社会一般いついても「パブリックなるもの」の再構築は課題として認識されて来た。特に東西冷戦構造および社会主義国家体制の終焉後に堰を切ったように進んだ資本主義的市場経済主義のグローバル化のなかで、国家行政と市場経済とは別の価値で動き、それら両者と対等に渡り合う独自の領域として市民社会(シビルソサエティ)という概念が再定義されて登場してきた。その意味で市民社会こそは「パブリックなるもの」が展開される社会関係のことにほかならない。私はそうした社会関係が演じられる舞台空間を公共圏という日本語で呼んできた

 そのような市民社会論を西欧モデルであって日本社会の伝統や現実には合わないとする論者もいるが、私はそうは思わない。ある人々は市民という言葉が嫌いらしい。私にとって重要なのは、国家行政などの公権力から自らを区別し、それと渡り合い、同時に市場経済という社会関係からも自らを区別し、それとチェック・アンド・バランスの関係に立つ「パブリックなるもの」という柱が存在する、存在しなければならない、という構図そのものなのである。いくら翻訳語がお嫌いとは言え、社会いう言葉も使いたくないという人はまずいないだろう。もう百年以上も使ってきたのだ。だから社会という言葉はお許しいただくとして、ならば市民社会の代わりに無縁社会、公共圏の代わりに公界(くがい)や江湖(ごうこ)と言ってはどうか。

 国立国語研究所地下3階の日本語死語霊安室から3つ絶滅種の遺伝子を解凍して蘇生させるのである。われわれの歴史も言語も捨てたものではない。もちろんそれぐらいのストックは持っている。私にそのことを教えてくれたのは2人の日本史家の著作だった。高名な中世史家、網野善彦氏の「無縁・公界・楽」(平凡社)と、若き俊英、東島誠氏の「公共圏の歴史的創造ー江湖の思想」(東大出版会)である。網野氏は「有主」「有縁」の世界に対して「無主」「無縁」という関係の世界があったことに光をあて、「公界」(くがい)という名の、世俗権力の立ち入ることが出来ない解放区、世俗の縁を切った自由の領域が日本中世に存在したことを描き出した。東島氏はその公界を支えた勧進という仕掛けに中世都市住民の自発的な公共負担、つまりボランタリー精神の発露を見出し、勧進興行の桟敷空間に「パブリックなるもの」を生成させるメディア装置を見て取った。さらにパブリックな言説空間を意味する江湖(ごうこ)という言葉を過去帳からすくい上げようとした。

 「ウーンこれが重源かー。」 私はそばの誰にも気づかれないように唸った。4月末の祭日に私は奈良国立博物館で開催中の「東大寺のすべて」展を訪れた。大仏開眼1250年記念特別展として七夕の日まで開催されている。 私は「重源上人坐像」と対面するためにそこにやって来た。首を前方に突き出して、多少前傾姿勢で座っている。顔と手に肌色の色彩を残す。目は窪み、左目は病のため薄く開くのみで 、右目は遠くを望む。頬はこけて、頬骨が際立つ。口をへの字に縛り、鼻筋はよく通る。額や首筋に刻まれた皺は僧衣の襞と同様、優美に流れる。数珠を持っ手は太く、がっしりとしている。老人の写実的な迫力のある表現である。
 
 重源とは、周知の通り、勧進聖の代表的な一人である。東大寺は1180年に平家の焼き討ちにあって炎上したが、その再興のために大勧進職に起用されたのが俊乗房重源である。その時61歳だった。頭の落ちた大仏の鋳造を85年に成就し、95年には焼失した大仏殿などを再建した。重源は東大寺造営勧進の宣旨が下ると、一輪車を6両つくり、左右に再建の詔書と勧進疏をはり、みずからもこの車に乗って諸国を巡行したという(「鎌倉・室町人名辞典」新人物往来社)。勧進聖とは財源として広くあまねく寄付をつのり、労働力を集め、用材を調達し、技術者集団を組織し、事業を完遂していくマルチタレントのジェネラルプロデューサーである。彼は公権力(公家や新興階級の源頼朝)と渡り合い、協力を取り付けならがら、民衆の力と技術者の力をまとめあげて、大プロジェクトを達成するのである。その事業とは阿弥陀仏の世界という表象をこの世に具現させることであり、彼の脳裏には「パブリックなるもの」への強烈な使命感があったと、私は思う。決して公権力のためにそれを成し遂げたのではあるまい

 重源はほかにも多くの寺をつくり、橋を架け、港を改修し、道を整備した。勧進聖とは土木工事の遂行者でもあった。今日の視点からすれば、それは社会事業と言えるだろう。土木工事が英語でシビルエンジニアリングと言われるように、それはもともと一般民衆生活のための技術であり、誰でもが利益を受けるものを造営するためのテクノロジーであった。公界者とも呼ばれた勧進聖はその技術を駆使して、パブリックに奉仕してのである。

 特別展カタログを読んで、私は「知識」という言葉の死んだ意味を勉強した。東大寺は聖武天皇が創建者となってつくられたが、743年の詔には造営には広く知識に期待するとあって、その知識とは「結縁のために仏事に私財・労力を提供すること、またはそれをする人々」のことだと注記されている。そして、その知識をつのる活動、つまり勧進を担ったのは行基であった。行基は勧進に共鳴する知識を掘り起こしたのである。

 さて今声高に政治改革、市場改革、社会改革が叫ばれているが(大学改革もその内に入る)、なかなかうまくいかない。いずこもガバナンスの機能不全を重く抱えている。なにが足りないのだろうか。「パブリックなるもの」のポテンシャルとイニシアチブが足りないのではないか。重源の深い皺はそのことを語りかけている。

            「建設業界」2002年6月号、42〜43頁より転載)

 


 

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