花田達朗教授による
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講師紹介
花田達朗(はなだ たつろう) 東京大学社会情報研究所教授
連絡先:<hanada@isics.u-tokyo.ac.jp>
主要著作:
『公共圏という名の社会空間―公共圏・メディア・市民社会』木鐸社、1996年。
(ぼくたくしゃ) 文京区小石川5−11−15−302 tel・fax 03-3814-4195 定価 3500円+税
『メディアと公共圏のポリティクス』東京大学出版会、1999年。定価4000+税
『カルチュラル・スタディーズとの対話』(共編著)新曜社、1999年。
「パブリックな生活」『社会情報学 II メディア』(東京大学社会情報研究所編)東京大学出版会、1999年、25-47頁。
「公共圏に吹く風」『InterCommunication』No.36、Spring 、2001年、98-101頁。
花田です。
3月に続いてまた建築あそびに遊びにきました・・・3月いらしてた方々と今日の方々と部分的には重なっていても、全く同じではないので・・一寸前回の続きというふうな感じから、進めてみたいと思いますが・・。前回
日本史バージョンで
公界(くがい)というお話しをしてそれで終わりました。
そこに
配りましたものは、ある業界紙に年二回書いてるコラムで・・今年の6月に出た分ですけれど・・
佐藤さんの大好きな
重源の話を書きました。
で・・それを何故書いたかと言うとですね。5月頃この原稿を書かなければいけなかったので・・たまたま4月の末にですね・・関西に用事があって、その帰りに奈良の国立博物館で、丁度開催中の「
東大寺のすべて」という展覧会を見てきたんです 。
(東大寺HPへ)( 山口県の俊乗房重源を辿る ・岡山県の重源 )
なぜその展覧会に行ったかと言うと・・そこにも書いてありますけれども・・そこに出展されている
重源上人座像というのを見たくてですね。それで行ったわけです・・・
重源上人が焼け落ちた東大寺を再建したわけですが、その東大寺の写真も・・・。 もちろん写真の東大寺っていうのは現存の東大寺ですけど、これは重源上人が作ったより後にまた再建されたものですから、重源上人が作ったものとは違いますけれども、今でも
世界で一番大きな木造建築というふうに言われています。
私も・・昔ー・・中学生の頃の修学旅行で、京都奈良へ行ってですね、東大寺には行ったはずなんですが、あらためて今年の4月にみて、「
まぁー大きな建物だな」と思いましたね。
重源上人というのは佐藤さん大好きな人のわけですが、
勧進聖(かんじんひじり)と呼ばれる人で・・ようするに勧進という方法のオーガナイザーなわけです。
勧進というのはこういう大きなお寺であるとか、橋であるとか港であるとか、道路であるとか、当時・・
今の概念ですれば公共建築ですね。そういうモノを昔作る時には・・どうやっていてやっていたかというと・・その昔はいわば上の権力者が命令を下して、奴隷を使うなり・・あるいは強制労働的に人を徴用して・・作らせていたわけですが、この
勧進という仕掛けはですね・・もっと一般的な民衆の賛同を得ながら公共的な建造物・・今で言えばインフラ・ストラクチャーですけれども・・そういうものを作っていこうとする仕掛けなんですね。
そういうものをオーガナイズするために・・
ここにも書きましたが、ある意味で
ジェネラル・プロデューサー、そういう人が任命されてあらゆる必要な事柄を組織する・・・
財源であるとか、
寄付を募ってですね、必要なお金を集め、それから
労働力を集め、それから
資材、用材を集め・・これだけ大きなお寺を造る時の柱ですね・・これは大変な大木が必要なわけですけれども、これをどういう国から切り出して、奈良まで運んで来たりするわけですね。
こういう建物というのは当時の技術の結集ですから、大変優れた技術者集団を組織したりもしないといけないわけで、いわば
マルチタレントの ジェネラル・プロデューサーが必要だった。
それが当時勧進聖と言われて、
勧進興行というのを打ちながらですね、諸国を巡り歩いていた。それで一般民衆や貴族などからお金を・・寄付を集めたりして、何年もかけて大工事をやっていた。
重源っていう人はその勧進聖の代表的な人物でして、その写真にあるような木像があるわけで・・この人は非常に面白い人で・・東大寺の再建をするための
大勧進職っていうのに起用されて時に既に61才だったそうです。61才のある意味で年寄りが、大変な力を持って、その事業を完成させています。その老人の座像。それを私は見に行った。
これは大変な迫力でした。
この像は。なるほど・・と思って。ほんとにビックリしました。
なぜこういうお話から始めるかというとですね。前回その公界ということで終わったんですけれども、なぜ公界というお話をしたかと言うと、日本の歴史の中の・・・パブリックなるモノ。あるいは
公共的なるモノという思想ですね。
パブリックなるモノを創り出そうとか、
公共的なるものをみんなで創り出そうとか、そういう思想というモノが日本の歴史の中に存在していたということですね。
決してその西欧社会のお話だけではなくて、日本社会の中にも・・あるいは日本の民衆の中にもパブリックなるモノを創っていこうという思想は・・
公界というかたちで存在をしていたということ・・。
で、さっき所有の話・・酒を飲みながら一寸出ていましたけども、今日、本来話す主旨じゃないんですが、それとの関連でちょっと・・・公界というとらえ方というのは・・
日本中世史家の網野善彦氏によればですね・・
「無縁・公界・楽とセットになって日本の中世の時代に存在していた思想だ」というわけです。
その
無縁という言葉は今や死語になってますけども・・ませいぜい・・無縁仏とか・・それぐらいで残っていますけれど、
もともとの意味は有縁に対して無縁。有縁というのは俗世界の掟のことですね。
だから貸借関係とか上下の身分関係とか・・そういうのが有の世界であって、有縁の世界。
それに対して無縁の世界があるんだと。言ってみれば有縁の世界、所有の世界ということができる。
それに対して
無縁の世界があるんだという思想の中にですね、私はもっと発展させていけばですね、所有をしないという思想もあり得たんではないかと思います。
所有をしない。
無所有。モノを持たない。こういう発想はもう一度今の世の中で光をあててみたら面白いことだなーと思っています。
ただ日本の実際の歴史のなかではこの中世に存在した無縁とか公界とか楽とかという思想は日本近世・江戸時代以降・・滅ぼされていくわけです。残念ながら。それはやっぱり
日本という国が中央集権化されていくなかで、こういう無縁とか公界とか楽とかいうある意味で自由と平等、それから平和という思想が、潰されていってしまったんですね。
だけど・・そうとは言えですね・・歴史の表面から潰されていったとしても、そういう思想というのは、やっぱり
水脈の底の方に沈んでいくわけで決して無くなるわけではない。何時かもう一度浮上するチャンスを伺っているという風なところがあるわけです。
パブリックっていうこと、あるいは
パブリックなること。あるいは
公共性というふうな事柄は、歴史のなかで浮上してきたり、それから沈滞したり、潜行したりですね・・、
いつもこう動いている。
決して固定化されていない。なぜ固定化されていないかと言うと・・
それらは常に人々の活動と意識の関数なのであって、人々の
活動や意識がどれだけの高いモノであるか、
どれだけ組織化されていくかっていうことに応じて、パブリックなるモノが、
歴史の表面に現れて来たり、潰されていったりしているわけです。
ですから現代の日本社会のなかでパブリックなるモノが果たして、何処にどういうカタチで潜在的な力として存在しているのかというのは、我々がジット目を凝らしてみない限りその当たりにコロンと転がって存在している様なモノではない・・というようなことですね。
まぁ・・これは前回の続きという意味での、イントロとしてお話したんですが、一つは佐藤さんへのサービス。佐藤さんの大好きな重源ですからね・・・
会場 佐藤 笑う
で・・今日はですね。じゃ公共圏ということの現代版と言いましょうか・・
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