花田達朗教授によちいさい公共圏みつけた
 建築あそびの感想を書いていただきました     秋ー7
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 2005-03-08記事 



        ちいさい公共圏みつけた   
 
花田達朗著 (建設業界2002年12月号 p46〜47写し


『ちいさい秋みつけた』という歌がある。

 だれかさんが だれかさんが
 
れかさんがみつけた
 ちいさい秋 
いさい
 
ちいさい    みつけ た

 サトウハチロー作詞、田中喜直作曲のその歌はボニージャックスが歌って、昭和37年の第3回日本レコード大賞童謡賞を受賞した。ご存じの方も多いだろう。「ちいさい秋」はだれでもがみつけるものではない。だれかがふとした拍子にみつけるものだ。だれがみつけるかわからない。そのふとした拍子を招き入れる軽い構えが必要なのだ。


 秋深まる福島を訪れた。福島在住の建築家・佐藤敏宏さんが主宰する「
建築あそび」に招かれ、そこで話をするためである。ご自宅の「BOX1」のコンクリート打ちはなしの外壁には色づいた蔦の葉がさざ波のように揺れていた。

 佐藤さんはユニークな建築家である。考え方も面白いが、つくった住宅が面白い。施主の注文が
一千万円の予算だったことから、それを視覚化して、上から見れば1○○○の形をした住宅が設計された。つまり、丸い単位が三つ横に並び、外廊下でつながり、端に台所などの共有部が配置されている。この「千万家」は住む人にユニークな住み方を要求し、住む側にも家族のあり方を問うことになっただろう。けれども、結局住む側がその変わった住宅を使いこなし、住む人と建っている住宅は互角の関係を作って、お互い楽しんでいるらしいのである。

 彼は建築以外のものもつくり出している。それが「建築あそび」と名づけられた場である。そこにはいろいろな人々、老若男女が集まる。彼の
友人や知人施主さん夫妻などが近隣から、ホームページで知り合ったサイバーフレンドやさらにその知り合いなどが遠方から集まってくる。だから、お互いほとんど初対面である。建築に関心のある人達が多いようだが、必ずしもみんながそうではない。そこにスピーカーが招かれ、そのが触媒となって遊び場が構築されるのである。触媒はほかにもあって、地元福島の地酒とおいしい料理が用意されている。

 
その場は公共圏に他ならない。見知らぬ者同士が集まり、自己紹介もそこそこに一つの話を聴き、あるいはプレゼンテーションを見て、自由に討論するのである。オープンな言葉の交通圏が立ちあがるのである。そこにはそういう場をシェアーしたいという意識だけが共有されている。 

 私はその場で公共圏というテーマについて話をした。あるまとまりのある講義として組み立てて話をした。ということは、公共圏と呼ぶことの出来る空間で、公共圏について語るという二重のことをやってみたことになる。公共圏を語りつつ公共圏そのものを実際化する、あるいは公共圏のなかに身をおいて公共圏を語るということである。その二重性は興味深い経験だっ。そういう意味ある経験はいかなる方向へであれ思考を刺激してくれるものなのだ。
 
公共圏概念と建築意識が遭遇し交叉したところに思考の断片が落ちてくる。そこからいくつかを拾ってみよう。


 最初の断片−。
公共圏と建築は似たところがあるどちらも空間として感じられるが、しかし入れ物や容器ではない。両方ともそこに社会関係をつくりだしもするが、同時に社会関係からそれらがつくり出され、つくり直されもする。公共圏も建築も未決定の動的な存在である存在というよりも過程であろう。そこに展開される社会関係によって生かされもするし殺されもする。住宅に住まうということと、公共圏に住まうということは住まうという存在のあり方において重なり合っている。生きられる公共圏と生きられる建築、つまりオーセンティックな公共圏と建築という視点が欠かせないのである。

 次に、
住宅は通常プライベートな空間であるが、そこがパブリックな空間になることがある。いや、住宅はそのような可能性に開かれたものでなけらばならない、プライベートな世界に固定され閉鎖されずに、公共圏の取り込みを可能にするような住宅とはどのようなものだろうか。佐藤邸の「建築あそび」はまるでストリートの出会いのようだ。偶然に道で出会った人々が突然議論を始めるようなものである。もちろん口論ではなく、理性的な言葉の交換によってである。その舞台を用意できるような可変的な住宅こそが住まうべき住宅に値するのではないだろうか


 もうひとつの断片−。
公共圏はだれのものでもない。どこにでも発生する。それはそもそも所有されないし、私有されるべきものでもない。それが原理である。しかし、建築ないし住宅はどうだろうか。それは地表に固定されて、土地に結びつき、不動産と呼ばれ、所有権が設定され、おおむね私有物である。マイ所有物なのである。この了解事項は果たして今後も当たり前のこととして放置されてよいであろうか。所有しない住宅、私有化されない住宅という可能性はないのか。テンポラリーにそのスペースを占有するとうい考え方と仕組みが発明できたら面白いと思う。それが住宅で実現できるなら、今世紀は無所有の原理に向かって一歩を踏み出すことが出来るかもしれない。私自身、すまうべき住宅を探している。ついに見つけられずに死ぬのではないかと思っている。
 

さて私の見つけたちいさい公共圏。ちいさいからこそいろんなことを考えさせてくれる。他者との出会いを美酒が間を取り持ってくれる。おそらくこうした小さい公共圏は無数にあるのであろう。すべてを知る必要はない。自分がみつけたものと付き合っていけばよい。


 再び佐藤さんはユニークな建築家である。福島市でも一夜にして60センチもの雪が積もることがあるという。そうすると、かれは自宅の雪掻きもそこそこに施主さんの家へ出かけて行って、さりげなく
トップライトの雪下ろしをしてくる建築が人々の社会関係のなかに配置され呼吸しているのだ。次に来る施主さんがどういう注文を出し、彼がどういう住宅をつくるか、それを見るのを楽しみにしている。