2009年12月10〜13日じゅっくりの会in京都 記録     home  

10日 駅から  えいぞうさんの家体験記  えいぞうさん父を語る えいぞう・きみこさん新居を語る

11日  柳原照弘の この1年   工芸繊維大講義 デザインイースト 00 を語る  

12日  渡辺菊眞さんに聞く   鼎談 アガカーン賞の王路 (森田一弥・渡辺菊眞・江崎貴洋)
     松岡聡さんに聞く    
工繊大3年生・浅野翔さんに聞く

  佐藤敏宏  えいぞうさんの家 体験記  
福島から  01時雨について 02路上について 03シンケンジャーについて 04えいぞうさんの家

 その01 時雨について 

 (まえ 口上) 

 2009年12月13日am10時頃 

 これから母・息子三人でお出掛けのようである。13日の福島に戻る予定の 別れ際に きみこさんから真っ新のノートが差し出され「宿帳をつくりましたのでなにか書いていただけますか?・・」じっと俺を見つめた。

 3泊4日した京都のお前の家になったはずだから それについて何か記せ!というようである。 

宿帳が出てくるとは!予想外であったので心の準備はなかったが 茶色の表紙のノートを快く受け取って椅子に腰掛け 2009年12月10〜13日日付を書きながら想った。

俺の家in京都=O邸eizouieでの4日間の出来事が脳の中で一瞬に再現され、記憶が欠け去り 特徴的な言葉だけが浮かび上がった。 一句に仕立て真っ新のノートに記した  

きて 路上走る シンケンジャー

枯れ野が相応しいようにおもったが 時雨でなければならないのは 俺の句は 自分の為の記憶装置として作るからだ。定型詩の形式を借り 俺自身が記憶を再現するための呪文・暗号のようなものだ 古来の俳句にあるような意はもたない。もともと意味は無いのが俳句でもあるけれど、俺にとっての俳句は自分の記憶を保全するための記録の要素が強い。


「古池や蛙飛び込む水の音 という芭蕉の句にはメッセは何もないし、意味すらないに等しいけれど 何かを伝えている。詩ではことばの音、声、手触り 、調べ、そういうものが重要です」と谷川俊太郎さんも(2009年11月25日朝日新聞12版19頁インタビュー)詩はどこへ行ったのかでのべてる。 意味すらないけど何かを伝えるシステムが俳句だと思い込み慣れ親しみ使い込んで来ている 

my設計・建築を雑誌 掲載するときには発注から設計経過そして完成するまでに立ち上がり続けた俺の感情を再現可とするために  最後に一句記してあるので 一部紹介しよう (建築文化1994年11月号p57〜096参照) 

BOX09 安達太良に かこまれて悲しか 思月秋
BOX08 道化花 咲き誇る地や 鯖遊戯
BOX10 球場よ 測る 投げる 星監視
BOX07 夏草に 降り立つ女 巨乳発火

セーラムーン計画 退化死か 珍歩求めん 人造夫
千万家  朝顔の台座になりて 千万家
       昼顔の花にゃ あんりゃ 1、000 

上の一句一句解説しているときりがないので、えいぞうさんの家を体験し立ち上がった感情の記憶を解説していこう 

 えいぞう さんの家体験を記憶するための装置=俳句をつくる

それは my設計建築の体験とはの辿り方になるが えいぞう さんの家が設計者によって立ちあがったのだから いえぞうさんの家設計の源流まで辿り着き やがてはえいぞうさんの家が永い地球詩上において ここに在らねばならない地点まで引っ掻きあがりたいと思う。 チープなmy遡上録は失敗記録なのか成功記録になるのかは分からないが 3泊4日のえいぞうさんの家は俺の家の体験記を残しながら それらの解説=ここで生まれた句のあれこれを語ってみてみよう。


きて 路上走る シンケンジャー


要素を混乱・誤配させてあるので 句を3つ分けて話すことにする 時雨きてについて  路上を走るについて シンケンジャーについて具体的なえいぞうさんの家での体験をもとに それぞれ分けて記す

時雨 (しぐれ)について

えいぞうさんの家は大文字山の裾にある。 盆地の形状が生み出す時雨で有名な処は 北山時雨 片時雨だ。 京都盆地で暮らす者なら 誰でも知っている時雨の様だが ここで時雨について お復習いをしておこう。

wikpediaによると 時雨(しぐれ)とは、主にからにかけて起こる、一時的に降ったり止んだりするのこと。北西季節風下、日本海上で発生した対流雲が次々と日本海沿岸に達すると時雨があり、雲が去るとまた晴れる。日本海沿岸を始め、日本海岸気候と太平洋側気候の境界域、たとえば京都盆地長野県岐阜県福島県などでは風とともに 時雨がやってくる。

 えいぞうさんの家を訪ね2009年12月10日俺はまだ戻り来ぬ主人=えいぞうさんを待つ間 奥様とだべった。奥様のきみこさんの生まれは福井県武石市だそうだ。 きみこさんみのり君を連れて里帰りしたと時にも 雷を伴った激しい時雨がやって来たそうだ。 「みのりは震え上がって抱きつき離れなかったのょ ふふふ 」福井や石川県の人なら誰でも体験し知っている激しい雷付きの時雨の様を語ってくれた。

冷たい気流としめった暖かい気流が混じり合うに生まれる時雨。 時雨の誕生はも引き連れて来る。時雨によって生み出される虹は時雨と生死を共にする。
  (虹絵ネットより)

太陽の輝きが続くなかに、鉛色の暗雲の水蒸気が訪れる 暗雲は水滴となって時々散り落ちる その両者が交通し劇的に乱れ続けれる場に虹が立つ

 晴れでもない雨でもない曖昧な様に生きる 時雨 

光と雨粒の同居を示す映像が虹  晴れているでもなく雨が降り続くわけでもない場所の 事象 

 虹を生み出す 時雨は 北山時雨が しめすように 平地と山の際 山裾に生まれるやすい。 

時雨は太陽の力と
地球の空気のグラデーションが共振し生み出す一つの鮮やかで豊かな映像でもある。時には人を怯えさせもするし幸福感を与えることも忘れていない 自然の粗神そのもの。それが時雨の本質であろう

根拠はないんだが えいぞうさんの家は 時雨が生まれるに似たような事態を伴っていると感じる。 地形=領域の際 同時に 何かが起こる際。 事態が移行する時うまれる 古い事態と何かの事態の際に発生した家。 地上に生まれるべくドラマのの一つが 予め内包し誕生した建築の事態なのだと感じた 


えいぞうさんの家で最初に見聞きした体験によって生まれた 感情を まとめるために きてと記した。 その時の感情や体験を記録し えいぞうさん家の初体験映像を再現するための記憶装置とし 機能するように 一句に時雨と刻み込んだわけだ 

時雨的現象はなにも天空にだけ起こるわけではない 一つの抹茶碗の内にも生まれる その映像を貼っておこう  

(抹茶絵 角川本より)
茶碗に抹茶という物体が投げ入れられて何かが生まれる 液体であるお湯の温度差と注ぎ込まれた位置エネルギーが茶碗の中に同時にとどまり巻き起こす一つのドラマの時雨的現象。 お湯に予め内包された温度差のグラデーションをさらに 茶筅によってかき混ぜられることで 生まれる雲海のような泡沫模様は抹茶虹と称するような美しい映像を提示する

表層に浮かぶ泡沫雲海と お茶=抹茶 そのもののグラデーションが見せる 刻々と変わる映像 それも もう一重の時雨的現象だと思う。

 俳句そのものも 時雨的人間の言葉の事態ではある。言葉に記述する以外に捕らえ記憶することが不可能な人間の感情の気流虹の音が肉声。それが言語を媒体することで俳句として残る


抹茶の中にある時雨的表象を my視線とフレームを立て直し ぐーっと近づき拡大してみてみると 


反転して観ると〜
 えいぞうさんの家の平面形式が現れてしまうではないか 

時雨的現象によって生まれたかのような

 きて 建築的図式と形式が同時に示されているではないか!!

 抹茶茶碗の宇宙を観て そこからえいぞうさんの家観てみると

えいぞうさんの家に 起こるだろう人 人 人の配列 その人が動き 残すだろう軌跡のような動線の跡 それらの揺らぎが続ける姿を固定し 反転映像にしたかに観ることができるではないか 


時雨的現象を記し続けることで えいぞうさんの家を語りつづけることが出来るのではないか えいぞうさんの家の魅力を知って天然の豊を知ることも出来るのだ

だから えいぞうさんの家を観て 生まれた句の冒頭に きてを配置したのだ まだまだ記すことは出来るが 長ーくなり 過ぎるので 次に路上を走るについてにを記してみたい
 

  その02 路上についてへ