夢惑う世界 雑記帳 随想録<澪標> 企業論理を超えて |
4.1.2.4−3 企業論理を超えて |
1998年10月5日 森みつぐ
管理職になるにせよ、ならないにせよ、いつも心の中には、正義を持ち続けなくてはならない。一人ひとり社会の中での立場も違うし、また一人ひとりの人生観も違うので、当然振る舞う行動も違ってくる。しかし、自分の意見を述べることができる。組合に対し記名にせよ、無記名にせよ、大いに意見は述べるべきである。組合は、組合員の大きな声には(本来は、少数意見であっても)無視できないからである。意見は述べられるうちに、しっかりと述べた方がいい。管理職になってからでは遅すぎる。残念ながら普通会社には、管理職組合はないし、今後も期待できない。不平・不満・疑問・要望、何でもいいから組合にぶつけてみてはどうだろうか。無視できなるぐらいに組合を追い詰めてみたいものである。
最近、管理者は、企業は利益を出さなくてはならないと大義を振りかざす。私も、それを否定するものではない。でも、ちょっと考えてみよう。これは結果である。問題となるのは、経過である。利益を出すために、法を無視したり、非倫理的な行為をしていい訳がない。最低限の法のルール、社会のルールは、守らなくてはならないだろう。管理者の言葉に惑わされないように労働者も、もっと賢くなる必要がある。
人は、働かなくてはならない。労働する義務とか責任とか言う前に豊かな心を育むために。但し、労働とは賃金労働が全てだとは思わないし、生産活動が全てだとは思わない。日本の企業においては、これら労働が利益・効率優先という企業倫理の中で歪められているからである。
1997年9月21日 森みつぐ
不健全な労働を強いている36協定の締結、及びその内容を見直すべきである。
年間1800時間程度を目指している労働時間の最大ネックは、36協定であり、その内容である。戦後復興の中で必要不可欠だった36協定も先進国入りし、黒字大国となった今、労働者にとっては、大きな負担になっている。企業は、それにすがって時短の努力をしないで、今に至っている。
私たちは、36協定を時短に向けての武器とすべきなのである。締結の有無やその内容(時間外労働の提言)を変更することにより健全な労働になるようにすべきなのである。
36協定は、戦後復興の高度成長時代には、大きな成果を収めたかも知れないが、経済大国となった今においては、心の豊かさを得るための、大きな足枷となってしまっている。
また男女雇用機会均等法が、男女平等法にまもなく改正(?)される。現時点で、女子労働者が男子労働者と同じ待遇となるとしたら、更なる社会問題を引き起こすことになるだろう。
ゆとりを取り戻すためにも、早く残業の制限を一段と厳しい数値になることを期待したい。そして、実効性を伴った法であることも。
1997年9月21日 森みつぐ
サービス残業を強要することは、違法行為である。大企業たる者が、例え不況だからと言って違法行為を正当化できるものではない(サービス残業は、不況時でないときも行われている)。日常的にサービス残業が行われていることは、組合も知っている。この違法行為黙認の体質こそが問題なのである。
人権を認め合うという民主主義の根幹を覆すような行為は、大企業とは言へど許されない。
企業を作るのは、労働者である。その労働者の人権をないがしろにしたら、その企業は必ず衰退する。そのようなことにならないためにも、サービス残業を認めない強い取り締まりをする必要がある。
1997年3月21日 森みつぐ
下記に示すような発言を、上司が相も変わらずしている。
どう思いますか、このような発言を。はっきり言って“おどし”としか思えません。利益・利潤のためには、人命を犠牲にした緑十字と何ら変わらない倫理観であり、過労死をも容認するこれら発言には、憤りを感じる。“不可能を強いられる者は、倫理的に頽廃する。”と言うが、その通りである。しかも、この考えは、管理職全般の考えでもある。
残業は、業務命令だからと言って、時間外や休日労働を強要できるものではなく、あくまでも個人の意志による承諾が要るという私の考えは、基本的には労組の方針と何だ変わりはない。
管理職側は、個人個人の多様性を容認せず一律に管理をすることが、労働者の人権を侵害することに全く気が付いていないのです。企業は、辛抱強さと協調性に富み、個性や独創性のない労働者になるように、“帰ったらクビになる”とか“仕事を失う”と言って仕向けているのである。
昨年、沼津市主催の「障害者の日・市民の集い」に参加したとき、神津カンナ氏は講演の中で、次のような話をされました。
「杉の林は、みんなすらっと真っ直ぐに高く伸びている。しかし、杉の木は、成長が早いので栄養を全部吸い取ってしまい、周囲には殆ど草木は生えていない。ブナの木は、枝があっちこっちに伸びて余り格好いい木ではないけど、栄養を独り占めしないので、周囲にはいろんな草木が生えている。私は、ブナのようになりたい。」と。
多様性を否定する企業だから、効率優先となり障害者雇用も戦略的に行わないのである。
そして一所懸命働く人間は、無条件にいい人間であるという論理が幅を利かすのである。
今年、静岡県ボランティア協会事務局長小野田氏の講演を聴くことができた。その中で、次のような話を聞いた。
「高校でボランティアの講演をしたとき、生徒の一人から“ボランティアって何ですか?”と問われ、次のように応えた。“偉い人ってどんな人だと思う?お金を一杯持っている人かい?それとも、一流の企業の課長や部長さんかい?私は、そうは思わない。人の為になることをしている人が偉い人だと思うんだが。”と言ったら、生徒たちが安心した表情になったので、私はほっとした。」と。
(高校、大学でボランティア活動が、評価対象になってきた。このような学生が社会人となり企業に入ってくるようになったら、企業は変わらざるを得なくなると思われる。私は、大きな期待をしているのだが。)
アメリカのソローという文学者は、次のようなことを言っている。
「足並みの合わぬ人をとがめるな。彼はあなたの聞いているのとは別のもっと見事なリズムの太鼓に足並みを合わせているかもしれないんだ。」
労働することによって、少しずつでも人間らしく発達してゆくことに意味があるはずである。何故、一般常識を持っていたら勤まらないのだろうか?会社とは、社会人になりきっていない人たちの集団であるが故に、地域社会から遠ざかり、一般常識にも欠けているのである。
これらは全て、ゆとりの無さが一起因になっている。ゆとりを取り戻さない限り労働者は、人間らしい生活が出来ないだろう。
1995年6月4日 森みつぐ
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