夢惑う世界 雑記帳 随想録<澪標> 企業論理を超えて
夢惑う世界4.1.2.4−5 企業論理を超えて

1997年9月21日  森みつぐ

 労働基準法の第一条に、「労働条件は、労働者が人たるに値する生活を営むための必要を充たすべきものでなければならない。」としている。また、労働省労働基準局は、この趣旨について、@「労働者に人格として価値ある生活を営む必要を充たすべき労働条件を保障することを宣明したもの」としA「労働者が人たるに値する生活を営むためには、その標準家族の生活を含めて考えること」と述べている。

 戦後50数年、戦勝国に追い付き追い越せを目標に突き進んできた生産・成長第一主義の右肩上がりの経済は、見事に達成し、既に先進諸国の仲間入りしている。しかしながら、この経済システムは、発展途上時においては、有効に作用してきたかも知れないが、効率・利益優先主義は、大量生産・大量消費を私たちにもたらし、その結果、大量廃棄へと繋がり環境問題を引き起こしてきている。そして、それだけではなく更に大きな問題を潜在させていた。
 物の豊かさは手に入れたが、企業への滅私奉公・長時間労働は、地域社会の崩壊(家では、父や母や子どもを演じているだけ)は、地域社会の崩壊や家庭の崩壊(最悪のケースは、過労死だろう)をも、もたらし続けている。その結果、社会の弱い部分である子ども社会に、いじめ、オヤジ狩り、援助交際等々の形で現れてきている。その最たるものが、神戸市須磨における少年による殺傷事件ではないだろうか。
 学校を出て社会人になって企業に入社しても、長時間労働のため自己の確立も出来ないまま年齢を重ねてゆく。そのような労働者がどうして満足な子育てが出来るのだろうか。全てがゆとりのなさに起因することなのである。
 今、私たちがゆとりを取り戻さなければ、日本社会そのものが更に荒廃してゆくだろう。


1998年4月21日  森みつぐ

 ILO(国際労働機関)が労働時間の基準として、一日8時間、一週間で40時間以上働かないと決めたのは、半世紀以上前のことである。
 8時間労働、8時間睡眠、そして残り8時間は、自己実現などの生き甲斐(家庭を含めて)を見出すための時間である。40時間というのは、法定労働時間ではなく、当然残業を含めた時間でなければならない。
 これは、労働者が人間らしく生き生きと暮らしてゆくために、必要な時間割である。当然、この数値基準は最低のものであることは言うまでもないし、労働基準法によると、労働条件は家庭をも含めて人たるに値する生活が出来るものでなくてはならない。
 全ての会社で、全ての国で、これを守ればいいのであるが、相手のことを考慮しないで行き過ぎたアメリカ的自由競争が日本社会全体を狂わしているのである。


1996年4月12日  森みつぐ

 労働者の組合離れが言われてから久しい。そして組合は、それに対して有効な対策を打てないままである。
 労働は、労働者、及びその家族が人間らしい生活を営むために、また幸せを得るためにあるのである。従って、組合は、何よりも尊重されなければならない労働者の人権を保護する必要があります。否、組合の業務とは、それに尽きるかも知れません。労働者一人でも人権侵害を受けていれば、組合は、その原因を全力を尽くして除去する必要があるのです。
 昨今、世間を賑わしている住専・薬害エイズ・TBS・全酪連等々の問題は、利潤優先主義の企業に共通に抱える問題です。このような企業によって労働者も、数多くの人権侵害を被っているのも明白な事実です。
 しかし、今の組合は、労働者一人ひとりの声に耳を傾けているとは思えません。そして、その対応にも真剣さは、見受けられません。その証拠に意見・要望を提出しても、満足に回答が戻ってきませんし、戻ったとしても、その場限りのもので、大切なフォローがなされてません。労働者にとっては、経営側の無言の圧力によって意見・要望を提出することさえ、大きな精神的負担を感じているのです。それなのに、組合に無視されたら、何も信じられなくなって組み合い離れが加速しても、何ら不思議ではありません。
 組合は、受け身ではいけないのです。組合は、意見・要望を発表しやすい職場の雰囲気を作り、そして親身になって、それに対応してゆく姿勢が大事なのです。
 弱者である労働者を護るのは、組合だけです。本来在るべき組合業務を再確認し、労働者のために行動していただくようお願い致します。


1996年7月9日  森みつぐ

 組合離れが進行する中、これを阻止するには、動員型の組合から参加型の組合に移行しなければならないだろう。
 高度成長経済を経る中で、大量生産、大量消費の文明は、教育制度を含めて歪んだ社会を作り上げてきた。学生は、自己形成・自己確立が未熟なまま社会人になる。そして刹那的な衝動や欲望に流されやすく、消費社会の餌食になる。他人との接触やぶつかり合いの中で自己は確立され、自分や人の痛みを知り、自らを見つめ直すことになるのだが、人は事勿れ主義、横並び主義を採り、嫌なことは通り過ぎるのを待つ。そして、快楽主義に走る。
 組合は、人の集まる場所でなければならない。人と人とが触れ合える場所でなければならない。そして、本音で話し合える場所でなければならないのではないだろうか。御用組合は、最悪である。


1996年9月22日  森みつぐ

 多くの組合員が、支部員・執行委員の経験をしているのにも関わらず、労働法に関して、余りにも無知である。それどころか、組合員とは思えないような言動が増えてゆく。この人が、元執行委員?だったと思ってしまう。このような状態でいいのだろうか。
 組合そのものの内部改革を進めないといけないのではないだろうか。組合の存在価値、そのものが問われているときなのである。
 組合は、管理職までの仮の居場所ではないのです。それは、倫理観というものは、組合員だから管理職だからで変わるものではなく不変なものだ。
 はっきり言って、今の管理職たちは、精神的にも、肉体的にも、非常に不健康な状態である。そして倫理観もしっかりしたものを持っていたとしても企業倫理の狭間の中で、黙殺してしまっている。非常に、同情されるべき人たちである。
 組合は、企業の行為に対して監視、チェック、および提言する権利があると思っている。人間の普遍の倫理観に対して、企業が横暴な態度をとらないようにすべきであるし、それが組合の大きな業務である。


1998年4月21日  森みつぐ

 不況のこの時、組合の存在が強く問い質されている時代でもある。山一証券が自主廃業したとき、労組は何をしたというのか。トップの責任追及、組合員の救済など殆どなく、労使協調路線がもたらした結果は、山一証券が幕を下ろしたとき、労組もそれに大人しく追従していった。
 右肩上がりでしか成り立たない経済至上主義から、もうそろそろ脱却し、人を幸せにする経済理論を作り上げる必要があろう。私たちを取り巻く社会状況から乖離した企業を変えられるのは、対立軸としての労働組合だけなのである。戦後50年の間に成し得た経済復興に伴って生じてきた子どもたちを含めた多くの社会混乱は、行き過ぎた自由競争社会を突っ走ってきた結果であろう。
 私たちにとって生き甲斐(働きがいは、ほんの一部である)とは何なのかを、働くこととは何なのかを真剣に考え直すべき時期に来ている。
 今ここで、この問題について真剣に取り組んでいかなければ、心の豊かさはいつまでも得られず、安全な生活の送れない不幸な時代が到来する。


1998年9月28日  森みつぐ

 米国三菱自動車製造のセクハラ訴訟は、問題になりやすい行動や社員の不満への組織的な対応を欠く日本的な職場管理の問題点を浮かび上がらせた。労使協調路線を行く現在、これは会社側だけの問題ではなく、知りながらも決定的な対策をとらない組合の問題でもある。労働者の組合離れの大きな原因は、ここにもあるのである。そして、労働者は、見ざる・聞かざる・言わざるの三猿になってゆく。
 従来、労使紛争と言えば、組合と会社の対立だけを指したのだが、最近では、個人で会社と争う個別紛争が急増中だという。個別紛争がいい方向とは思えないが、労使協調路線の中で、弱腰になっている組合には期待できず、個別紛争になっているのは已むを得ないことと思われる。でもこのことは、組合の存在価値そのものが問われていると言うことであろう。
 目的が手段を正当化するようになってはいけない。TI社会長は、次のようなことを言っている。「期待通りの収益をあげることと、倫理的に正しい行為の『どちらかの選択を迫られた場合、私たちは、もちろん迷わず正しい行為を選ぶ』」と。
 言葉で期待させ、行動で裏切ることの無いようにして貰いたいものである。


2004年9月30日  森みつぐ

 御用組合と化した日本企業の労働組合は、長く続く不況を背景に労使協調を強化して、競争至上主義、成果主義を取り込み終身雇用制を破壊してきた。子どもたちの不安定な心を生み出している大きな要因の一つと考えられる労働強化は、経営側と組合側によってもたらされているのである。本来在るべき労働者側寄りの組合が、経営側にべったりと寄り添って、労働強化になる方向に進んでいる。日本の組合は、労働者について、日本社会について、熟慮しているとは到底思えない。
 そんな折り、9月に日本プロ野球組合は、球団合併問題を不服としてストに突入した。日本にも組合らしい組合が、まだ存在していた。何故、日本企業の組合は、こうも経営側に迎合するのだろうか。年間3万人以上も自殺死する社会、理不尽な殺人事件が横行する社会、不可解な子どもたちの事件が多発する社会、社会に対しても企業は、責任を持つ必要があるのである。当然、組合も社会的責任を果たさなくてはならない。
 組合は、労働者を守るために、社会を守るために力を発揮しなければならないのである。

Copyright (C) 2004 森みつぐ    /// 2004年10月3日 ///