夢惑う世界 雑記帳 随想録<澪標> 気ままにひと言
夢惑う世界4.1.2.8−1 気ままにひと言

2001年7月3日  森みつぐ

 先般、評論家佐高信氏の講演を聴いてきた。「豊かさのかげに〜会社国家ニッポン〜」という演題を与えられれていたのに、実際は、「小泉純一郎を斬る」という内容であった。演題が変わることくらいで、驚いたりしない。これが、評論家の評論家たる所以であるからである。佐高氏の切れの言い話を聴いていて思ったのだが、”評論家は、性善説なんて、これっぽっちも思っていないのだろうな!?”と。
 私は、性善説を信じたい。立前は、性善説だが、残念ながら本音は、相手次第で性悪説となってしまっている。多分、世の中の多くの人は、私みたいな人が多いのではないだろうか。しかし、評論家はそうはいかない。疑うことから始まる商売だからである。真実は、性善説からは、残念ながら導き出せない世の中となっている。会社も、国家も変わらない。悪い奴は、やっぱり悪い。
 少なくても私は、悪い奴の言いなりにはなるつもりはないし、騙されるつもりもない。まして、騙されているのを分かっているのに、騙され続けられるつもりもない。でも私は、性善説を信じたい。性悪説は、悪い奴のためにとっておこう。私は、金持ちや地位の高い人は、余り信用していない。貧乏性みたいなものだ。
 ところで、小泉純一郎は、信じられるであろうか。政治は、個人の人柄では決められない。多分、”やっぱり自民党は、自民党だった。”となる可能性が大だ。
 講演は、面白かった。以前、某新聞社の局長の講演を聴いたことがあるが、今回の佐高氏の講演と同じく、人を見るのにしっかりとした基軸(視点)を持って評論している。政治に関しては、私は、”まだまだ。”と思いながら、いつかは自分なりの判断が出来るようになりたいと思っている。それには、余りにも灰汁の強い評論家の批評は、最初は、避けた方がいいかも知れないと思いながらも、耳をそばだててしまう。
 信じる人が報われない世の中になってきてしまったけど、私は、やっぱり性善説を信じよう。人間は、不信感の中では生きてゆけない動物だから。


2001年8月21日  森みつぐ

 ブラジルからの帰国時、アマゾン中央部の州都マナウスの空港内の待合室にインターネット用のターミナルが置かれているコーナーを見つけた。ふと、その時、“ここから地球の裏にある日本の私のホームページが見られるか”試してみたくなった。5ドルを払って、早速、アドレスを打ち込んで、「リターン」キーを打つと、警告メッセージが現れた。駄目で元々、「OK」をクリックすると、すぐに見覚えのある背景色に意味不明の文字である。当然の如く、日本語がサポートされていないと文字化けをする。そこで青い文字をクリックすると、始まった。トンボが飛び、バッタが跳ね、そして仕上げにはチョウが舞う。いくら何でも画像化けは、起こさなかった。そして、表紙へ。もう日本で見ているのと全く同じ感覚である。文字化けさえなければ、ここがマナウスなんて思わないだろう。恐ろしいIT革命である。
 そう言えば、アマゾンの小さな町にいても、携帯電話が必須みたいであった。多くの大人が携帯電話を持ち歩いている。多分、後進国では、固定電話より携帯電話が普及することだろう。
 それにしても、今後、IT革命は、どの方向に進むのであろうか。人を幸福にする方向か。それとも、従来のように人間の欲望を肥大化する方向に技術革新は進むのか。
 その時、私たち一人ひとりの生き方が問われることになる。


2001年9月18日  森みつぐ

 先日、健康診断の結果が送られてきた。私の場合は、先天的にコレステロールが高く、毎年「要注意!」の判が押されてくる。これは、例年のことなので気にはしてない。ところが、今年、何の気なしに診断書を見たら3年間の推移を記録してあったデータが凸凹しているのに気が付いた。
 中性脂肪の欄が、2年前が正常値、昨年がずば抜けて高い、そして今年、また正常値に復帰していた。“え!何故!!”でも、すぐ原因は分かった。そう言えば昨年、網膜剥離で半年間ジョギングをしていなかったのである。ジョギング効果が、こんなにあるとは思ってもいなかった。
 ジョギングは、中性脂肪を抑えるために始めた訳ではないのだが、思わぬ効果であった。6km35分程度とのんびり慌てず週に2〜3回走っているのだが、効果抜群である。この歳になると、新陳代謝は知れた物である。ちょっと気を抜くと脂肪がだぶついてくる。この歳のだぶつきは、貫禄になるのかも知れないが、私はお断りする。まだまだ、身軽に歩き廻りたい。この効果を知ってしまったので、もうジョギングを止めることは出来そうもないみたいだ。


1996年10月6日  森みつぐ

 40数回、熱帯地方を旅して初めて病気に罹った。このことで、やっと私も今まで熱帯地方を旅してきたんだという実感が湧いてきた。それなりに気を配っていれば、そんなに罹るものではない。ポイントさえ、押さえていればいい。でも、土地の人に近付けば近付くほど、確率が高くなるのは避けられないことです。楽しい旅をしようと思ったら、その土地の人との触れ合いが大切だから、それでいいと思っている。病気に罹るのは、その土地の人間でないことに対するリスクなので仕方がない。
 子どもたちに、夢を持ってもらいたいのです。そのためには、大人が夢を持ち続けることが必要だと思います。そうでなければ、子どもたちと一緒に夢を語ることができません。私が、夢を語るには旅が必要なのです。

 ・ 感染症と熱帯に住む人たちに想う
 去年のコレラ患者の急増と今年の病原性大腸菌O−157の猛威など、日本でも感染症が俄に脚光を浴びてきた。特に昨年などのアフリカ・ザイールにおけるエボラ出血熱騒動もあり、細菌性、ウィルス性感染症が人々の心に分からない(無気味なもの)に対する少々ヒステリックなパニック現象を生じさせ、心の中に恐怖を植え付けてしまったように思われる。それは、疑いのかかったかいわれ大根がさっぱり売れなくなったり、また特に私の心配するところのいじめ(仲間外れ)の問題の発生でもある。感染を防ぐ方法として、O−157である程度は、分かったと思うが、普段からの手洗い、うがいの実行であり、抵抗力ある健康な体の管理が重要なのである(但し、行き過ぎた潔癖性は、そもそも病気に対する免疫力そのものまで排除してしまうので、私には、好ましいとは思えない)。しかし、飲食材そのものが感染していたら、後は、自分の体を信じる他ないのである。人から人への直接感染する病気は、殆どなくエイズ同様、ある程度の知識を持っていれば(特別な知識ではなく、常識的な知識)、一緒に暮らすことにも何ら支障はない。
 ところが、エイズ患者は、自分がエイズだと名乗ることはない。それは、私たち全てを含んだ社会の問題なのです。O−157でさえ、いじめを生んだ社会です。日本だけとは思わないが、皆と違う人、理解できない人、無気味なものを極力排除してしまおうという社会が、職場に、地域社会に、日本に存在します。これは、世界各地に広がっている民族紛争、宗教紛争と何ら変わらないのです。但し、病気を患っているのは少数ですので、ただ迫害されるだけです。空気で感染(インフルエンザは別)する訳ではありません。握手をしたからといって感染する訳ではありません(但し、手はいつも綺麗にしておきましょう)。もしかしたら、あなたの職場にも、エイズ患者がいるかも知れません。今、それを言うと、職場から追放されるでしょう。そこには、相手を思いやる心が全く欠けているのです。そして、常識的行動も自分自身とともに見失っているのです。
 私は、多くの熱帯地方を旅してきました。貧しい国々(心は、貧しくありません)ですが、病気に対する知識は持っているでしょうから、食事は当然、火を通して食べてます。死にたくないでしょうから。今回行った南米ガイアナでも飲料用の水と、洗濯や体を洗う水の貯水槽は、別々に管理されています。生活の知恵が、そうさせているのです。でも、水道はありません。日本人(先進国の人)がそこに行くと、なんと不潔だろうと思うかも知れないけど、でも彼らからしたら、それが精一杯の対策なのです。熱帯地方を、そしてそこに住む人たちを先進国側の先入観(偏見)で見ないで下さい。
 熱帯地方の旅は、そんなに危険ではありません。勿論、先進国に比べたら病原菌が多い(熱帯に起源を持つから)でしょう。全てが、個人管理です。あまりにも慎重になりすぎると、旅そのものが面白くなくなります。予防も確かに有効ですが、もし罹ったら、それから治せばいいでしょう。早くそれに気付く、対策を打つのが大切です。他人には、そう簡単に移ったりしません。余りにも、ヒステリックなパニック現象は、無知からきます。少しは、勉強して、もっと熱帯に住む人たちへの偏見、熱帯を旅する人たちへの偏見、そして病気に罹った人たちへの偏見を取り去る努力をしてみたいものです。


2001年10月29日  森みつぐ

 先週から、年末の標本箱の整理を始めた。標本箱を一箱ずつ綺麗に拭いて(カビ除去)、箱内の乾燥剤と防虫剤を交換するのである。当然、箱内にカビが生えてないかどうかを確認する。それに加えて、今年採集した分を追加する。標本箱に余裕を持って保管できればよいのだが、金銭的にも、場所的にも、そんな余裕はない。
 10年ほど前までは、年に2回行っていたのだが、箱の数が増えてきて年1回となり、今は、この年1回でもふうふうなのである。この作業に一月半から二月掛かってしまう。大変だけれども、これも大切な命を預かった者の責任である。最終的には、この倍の数を考えているがとんでもないことかも知れない。
 標本を整理して気付くことは、同じ種類だと思われるのに違う名前が付いている。その逆もある。似たような種類がいるので、図鑑を見る度に同定が異なる。またいろんな場所で採集しているので亜種レベルでの相違があり、尚更難しい。でも、こういうことを繰り返してゆくと目がだんだん肥えてくる。何処に差異があるかが見えてくるのである。だから名前を調べるときは、以前採った種だからといって以前の標本で名前を確認しないで、図鑑で確認することにしている。
 時間があれば、全てを見直してみたいのだが、今は残念ながら、そんな時間はない。 今回ホームページで紹介している昆虫は、疑わしい種は再度調べているがこれも完璧ではない。
 さて、果てしなく続く標本箱の整理を、今日もしなくては!

Copyright (C) 2001-2002 森みつぐ    /// 更新:2002年1月6日 ///