夢惑う世界 雑記帳 随想録<澪標> 気ままにひと言
夢惑う世界4.1.2.8−12 気ままにひと言

2006年1月22日  森みつぐ

 昨年からアメリカは入国するときに、指紋と顔写真を撮られるようになったのだが、出国時については、何ら審査もなく搭乗する航空会社が出国カードを集めていた。昨年末ブラジルに行くときも、出国カードを搭乗ゲートで、今まで通り渡した。
 ところが帰国時、ダラス/フォートワース空港で、“やっと最後の便だ!”と思いながら搭乗ゲートのカウンタでチケットと出国カードを渡すと、“出国手続きをして下さい。”と言われた。“えっ!何ですか?”と応えると、“そこにある「US Visitor」と書かれた機械で簡単に出国手続きができます。”と言うのである。出国手続きが行われていること自体を知らなかったので訊いたのだが、“簡単にできる!”との返事だった。
 CD機みたいな機械の近くには、操作を教えてくれる係員がいて、パスポートのデータを読み取りして搭乗便名を入力し指紋と顔写真を撮る。入国審査そのものなのだが、人件費の削減なのか、機械に任せた審査である。
 アメリカのグローバリズムは、何をもたらしているのだろうか。私には、余り納得できないことが多くなっている。


2006年1月29日  森みつぐ

 昨年末、ブラジル南部の地方都市イグレジーナを訪れた。ところが町の規模に反して泊まるところがなかった。困っているとき、タクシーの運転手が助けてくれた。民家を紹介してくれたのである。
 イグレジーナの郊外に建ち並んでいた住宅街で、ごく普通の平屋建ての民家である。50代と思われる女主人と20代後半の息子一人が住んでいた。隣家には、娘家族が住んでいて、娘さんやその子どもがよく遊びに来ていた。
 広い屋根を持った玄関口には、洗濯機が置いてある。そして開けっ放しのドアから一段高い台所兼居間に入ると、大きな冷蔵庫、21インチくらいのカラーテレビとテーブルが置かれている。奥には、水洗トイレ、シャワー(電気温水)室が併設してあった。思っていたより電気品が揃った生活である。靴のまま居間にあがるのだが、普段の生活ではサンダル履きである。
 居間から一段あがって奥に行くと、3〜4畳くらいの部屋が5部屋あった。部屋には、ベットと箪笥が置いてある。子どもたちが巣立っていったので、今では、2部屋しか使っていない。残った一部屋を今回、貸してくれたのである。部屋は少し狭いかも知れないが、生活するには充分である。
 朝晩は、玄関先に椅子を置いて、のんびりと世間話をしていた。欲さえ出さなければ、こんな生活で充分である。ほどほどをわきまえれば日本でも、楽しい人生を送れると思うのだが。


2006年2月10日  森みつぐ

 偶像崇拝を禁止するイスラム教、その預言者ムハンマドを風刺画としてデンマークの新聞社が新聞に掲載し、イスラム世界から大きな反発を受けている。民主主義の先進国である欧州各国では、当然の如く表現の自由は、保障される。報道の自由は、保障される。そして信仰の自由も保障される。
 このニュースをテレビで聞いていて、ふと思ったことがある。小泉首相が靖国神社に参拝して、中国や韓国から大きな非難を受けている。この2つが似ているような気がしたのである。相手の気持ちに配慮することなく、己の信念だけに従って行動する。行き過ぎた自由の行使であろう。“話せば分かる!”では済まされないものが、信仰心の中にあり、人心の中にある。
 お互いに、土足で相手の心の中に入り込まないように気を付けたいものである。多種多様な考えのある中で、自由とは何かをしっかりと考えていきたいものである。


2006年3月3日  森みつぐ

 先日の新聞に、高校生の意識調査が載っていた。日米中韓4カ国の調査であったが、日本高校生の異様さが目を引いた。高校生だというのに、人生をすっかり冷めた目で見ている。社会に出る前に、既に夢を失った親父サラリーマンみたいなものである。
 最近、学力低下が叫ばれて、ゆとり教育の是非が問われているが、この調査では、そんなレベルの話ではなく、それ以前の問題である。勉強する意味が分かっていない。勉強するための動機が、何処にも存在しないのである。何が何でも勉強したというハングリーな精神なんて、これっぽっちも見当たらないのである。学力低下なんて、当然である。フリータ、ニート、当然の結果であろう。
 この日本社会は、子どもたちを育てられなくなってしまった。子どもたちを育て上げる家庭も地域社会も崩壊してしまっている。その大きな原因が、企業であり、それをバックアップする政府である。経済市場主義、競争至上主義は、子どもたちから間接的に夢を奪い続けることだろう。


2006年3月24日  森みつぐ

 先週のある朝、ガスストーブを点火したらガラガラという音と共に赤茶けたゴミが吹き出してきた。ファン付きのガスストーブなのでファンが壊れたと思い、ストーブを分解してみると、ドラム式のファンがバラバラに砕けていた。
 5〜6年前になるだろうか、都市ガスからLPガスに変わり、ガス会社が今までのガスストーブが使えなくなると言うことで新しいファン付きガスストーブを変わりに置いていった。昨年末、ガスストーブを使い始めてからファンの異音がときどきしていたので、少しは気にしていたのだが、中がこんなになっているとは、全く予想もしていなかった。一枚一枚の羽根が薄い鉄板なのである。何故、錆びるところに鉄板を使っているのか理解に苦しむ。もう、ぼろぼろの状態であった。
 本末転倒のガスストーブである。本来のストーブとしての機能は問題ないのに、補助のファンが壊れたら、ガスストーブは終わりである。情けないガスストーブである。
 3月末、今更新しいストーブを買う気になれないので、25年以上も前に買ったファン付き電気ストーブを押入から出してきて使っている。こちらのファンは、快調に回っている。


2006年4月16日  森みつぐ

 昨年からだと思うけど、新聞紙上に度々掲載されていたのを思い出した。韓国との間で運航している高速船が、鯨らしき物と衝突して負傷者を出したとの記事である。今回、種子島からの高速船も鯨らしき物と衝突して多くの負傷者を出した。
 他の生き物からすると迷惑千万であろう。道路上でも交通ルールを守らない生き物たちは、屍となって横たわっているのを見かけることが良くある。人間の欲望の犠牲となってしまった生き物たちは、人間からすると少しは、“ごめん!”と思ったりするだろうが、車体の窪んだ箇所を見て、“どうしてくれるんだ!”といきり立つ対象でしかない。そして今や、道路上だけでなくて、海上でも同じ事が起こり始めたみたいである。
 異常である。大海原さえ、おちおち泳いでいられない時代が、とうとう来てしまった。


2006年5月6日  森みつぐ

 先日、駿河湾でサメの一種である巨大深海魚メガマウスが定置網に掛かった。体長が5.7mと言う。深海と言うと不毛地帯を想像するが、ダイオウイカを始めとする巨大魚が多くいるみたいである。巨大な体を維持するだけの食餌があると言うことなので、豊かな生態系が存在するのだろう。
 この地球では、まだまだ未知の生物が人間社会と隔絶された世界で生き続けているみたいである。とても興味深いことであるが、人間の活動範囲が広がってゆくに従って、未知の世界が狭まってきている。
 それ故、憂う気持ちはある。商業主義が跋扈する中、珍しい生き物を求めて、魔の手が忍び寄ることである。珍しいと言われる希少種は、特定の狭い地域にしか生息していない種である。商業主義は、簡単にそれらを絶滅に追い込んでしまうだろう。しかし深海は、魔の手も届かぬ別世界かも知れないが、陸上での環境変化が、いつしか深海の環境をも変えてしまうことだろう。地球はひとつ、大事にしたいものである。


2006年5月13日  森みつぐ

 今春、新しいデジカメを買ったので、5月に入ってから近くの山へ試し撮りをするために行ってきた。新緑の一歩手前であったのだが、林道の傍らは、既に春の妖精たちで賑わっていた。
 私は、視力は良くない方なので、今までは林床でひっそりと咲く小さな花たちを、"なんと云う花だろう?"と思いながらも、余り腰を下ろしてしげしげと見たことはなかった。しかし、デジカメを持って歩くようになってからは、小さな花たちは近づいて撮影しないとならないので、腰を下ろしてじっくりと見る。小さな花たちなのだが、その見事な造形には、いつもびっくりしてしまうほどである。
 "スミレを撮りたいけど、咲いているかな?"と思いながら、林道を歩いていたら、林道沿いで見かける花たちの多くが、幾種類ものスミレであった。拍子抜けしてしまった。今まで何十回と歩き回っていた林道なのだが、花については、大きく目立つ花以外は、まったく見ていなかったみたいである。灯台下暗し。人生とは、そう言うものかもしれない。見ようとしないものは、足元にあっても見えていないのである。


2006年5月24日  森みつぐ

 昨今の子どもたちが引き起こした様々な事件を鑑みて、教育の在り方を再構築しようと云うことで、国会での議論が熱を帯びてきている。社会情勢の変化に対応した教育に見直そうとしている。今までの教育基本法では、子どもたちを正しい道へと導くことができないと云うのである。昨今の子どもたちの起こした事件は、教育基本法に問題があると云うのである。
 教育基本法改正で私が納得できない点は、そこにある。子どもたち側に問題があるから、教育基本法を改正して、今の社会に適応した子どもたちにしようとしている。事件を起こした子どもたちに問題があるのは、確かであろう。しかし、問題の起源が教育基本法にあるとは思えない。問題は、子どもたちより子どもたちを取り巻く社会そのものに起因していると思えるのである。
 子どもたちの繊細な感性は、昨今の歪んだ社会そのものに敏感に反応する。家庭、学校、地域社会、国、そして世界の情勢の変化の中で、子どもたちは子どもたちなりに、肌で感じ取っている。夢のない社会を。教育基本法の改正は、そのことを充分に汲み取って議論されるべきである。

Copyright (C) 2006 森みつぐ    /// 更新:2006年6月11日 ///