夢惑う世界 雑記帳 随想録<澪標> 気ままにひと言 |
4.1.2.8−13 気ままにひと言 |
2006年5月29日 森みつぐ 交通事故を起こした者に対する厳罰化が進んでいる。起こした事故の重大さに比べて、罪が余りにも軽すぎるというのである。交通事故のみならず、その他の事件でも厳罰化が進んできている。
先週トラックで自転車の子どもを跳ねて、別の場所に遺棄して逃亡した運転手がいた。子どもを轢いて、“もう、人生は終わりだ!”と思ったのである。交通事故の場合は、他の犯罪とは違い、相手を傷付けようとか、殺そうとか思って事故を起こしている訳ではない。人身事故を起こしたときの加害者の混乱振りには、想像しがたいものがあるだろう。
厳罰化は何を意味するのだろうか。罪を重くしたからと云って、交通事故が減るとは思えない。犯罪と同じような交通違反者には、有効かも知れないが、犯罪を逃れようと悪知恵を働かす者が出てくる。そうして厳罰化とのイタチごっこが始まる。
交通事故を問わず犯罪そのものは、社会の在り方と大きく関係してくる。それにも関わらず交通事故の一時的な低減を計るだけの厳罰化は、社会の在り方に目を瞑ってしまう恐れがある。厳罰化だけでは、犯罪は減らないだろう。
2006年6月4日 森みつぐ 西表島の大原に宿を取り、午後3時半頃から村周辺に歩きに出た。梅雨の最中なのだが、今日は晴れ間が広がっている。20年前と違って、村は大きくなり農道は舗装されている。仲間川への道を歩いていると、路上に何かが落ちている。拾ってみると、セミであった。交通事故死みたいであったが、初めて見るセミである。ちょっと傷んでいるが、初めて見るセミなので持ち帰ることにする。
夕方、NHK沖縄のローカル番組を見ていたら、宮古島のツマグロゼミが啼き始めたとの放送があった。拾ったのは、ツマグロゼミであった。啼き聲がセミらしくなかったので、気付かなかったが、村周辺には多くいるみたいだ。
その後、石垣島に渡って昆虫採集をしていたら、また交通事故死と思われるツマグロゼミを拾った。多分、車の運転手は、セミを撥ねたことを、これっぽっちも感じていないことだろう。交通事故なんて、そんなものなのだろう。悲しいね。
2006年7月6日 森みつぐ 2005年のインターネット普及率(6歳以上で過去1年間にインターネットを利用したことがある人数の比率)は、国民の67%に拡大しているとのことである。
インターネットが身近になっていることは確かなことなのだろうが、利用者の定義が余りにも敷居が低すぎるので、点数稼ぎだけの普及率のように思えてくる。私の場合は、ホームページを開設しているので、当然、情報公開というインターネット利用者なのだろうが、私自身としては、インターネットを利用者だとは思っていない。週に一回、ホームページを更新して、電子メールを確認しているだけで、たまに簡単な調べ事のために、検索を行っている程度である。普及率の定義からすると、利用すると云うほどではないが確かなインターネット利用者としてカウントされるのだろう。
私は便利な物に対して、強い懐疑心を持っている。強烈に光り輝く物ほど、それの作り出す影は、漆黒の闇となる。いつもの事ながら、この闇対策は、後追いとなり、そして抜本的対策は望めない。便利さが、全てに勝る時代になってしまっている。私には、弱者切り捨ての時代と重なっているように思えてくる。インターネット普及拡大は、何を意味しているのだろうか。
2006年7月29日 森みつぐ NHKで、働いても働いても生活苦から抜け出せない人たち、働きたくても職に就くことができない人たち(ワーキングプア)について報道していた。一度、社会の底辺に堕ちると、二度と這い上がることができなくなってしまい、生活保護水準以下の生活を送ることになる。
企業は、賃金削減のために正社員を非正社員の派遣社員やパート労働者に置き換え、そしてその上、非正社員の社会保障・国民健康保険費などの加入を拒否さえもする。そのしわ寄せは、全て低賃金の非正社員に、更なる金銭的追い打ちを浴びせる結果として現れる。
地方都市においては、シャッター通りに代表されるように、人々の足は、駅前の小規模商店街から、郊外の大規模なショッピングモールへと奪われてしまった。商店街の人たちは、日々の生活もままならなくなっている。そして地域社会そのものが、崩壊する危機を迎えている。
小さな政府を目指す政府は社会保障を減らし、そして低所得者・弱者からも更なる税金を搾り取ろうと策略を練る。低所得者は、今でも最低限の生活をしているのにも拘わらず、血税を更に搾り取る。
それでもワーキングプアは、じっと耐えながら生きている。
小泉政権が誕生してから、日本の目標は、アメリカ一辺倒になった。上辺だけのアメリカを模倣する政策だらけである。地域社会の崩壊から、日本社会そのものの崩壊が始まっているように感じているのは、私だけであろうか。
2006年8月4日 森みつぐ 昨日、JR身延線沿線の四尾連湖へ行って来た。市川大門駅で降り、地図を片手に歩き出した。地図からすると、駅前の道をすぐ右に折れ、暫らく歩き右手の踏切を渡ってまっすぐ進み山中へと入ってゆく。
しかし最初から少し違う。"あれっ!"と思いながらも、踏切を探すが見つからない。"こんなに歩くの!?"と思いながらも、踏切を渡ってゆくが、その道も山へとまっすぐに進まないで、山と並行している。地図と全然違っていたが、山へと進んでいった。山へ入る小径を見つけたので、入って行くが径が途中で草茫々となっていたので、已む無く引き返した。"やっぱり変だな!?"
小型トラックに乗っていた地元の人を見つけたので、四尾連湖へ行く登山道を聞いてみると、もう少し先に登山道があると教えてくれた。車が行き交う道を10分ほど行くと、登山道入り口の看板を見つけた。看板には、駅からの道順が書いてある。"何か変だな!?"と思いながら見ていると、駅名が市川大門駅ではなくて市川本町駅だった。見難い地図を出して、駅名を確認すると、"いちかわほんまち"と書いてあった。私の見間違いであったようである。どうも地形図の文字は小さくて見難い。1時間以上、遠回りをしてしまったが、やっとこれから歩ける。結局四尾連湖に辿り着けなかったが、それが目的でないからいいか!
2006年8月10日 森みつぐ アメリカが"科学的根拠がない!"と言うのを聞くと私は、"また、言い逃れのための常套句が始まった!"と思ってしまう。BSE問題で日米が紛糾していたとき、アメリカは、“日本の基準は科学的根拠がない!”と突き放していた。全てを科学的説明だけで決着をつけようとする。心の問題までもが、科学的根拠だけに基づいて説明する。
そう言えばアメリカは、"危険だと言う科学的根拠はない!"という理由で相変わらず劣化ウラン弾を使い続けている国である。戦場での優位性を保つため、"危険だ!"と言う100%確実な科学的根拠が示されない限り使い続けようとする。
人の命が関わる問題だというのにも拘わらず、フェールセーフの思想が欠如している。否、違う。欠如している訳ではない。知っているのにも拘わらず、アメリカの都合で、科学的根拠がどうにでも変化するのである。
アメリカは、自己都合で科学的根拠を使い分ける、そんな国なのである。アメリカの論理、市場経済の論理、そして企業の論理は、似たようなものである。私は、まったく興味がないことだが。
2006年8月23日 森みつぐ いつものように、NHKの番組を見ていた。東京のヒートアイランド現象を抑えるのに有効な方法として、海風を確実に街中まで誘導する方法を報道していた。大きな道に沿って風が流れてくるのだが、大きな建造物が風を遮ることによって、気温が下がらなくなってしまうと。
これを見てて、ふと思いついたことがある。沼津市では、鉄道が南北の交通の妨げとなっている(?)として、鉄道を高架化する事業を行おうとしている。私には、そうとは思えないのだが、沼津市の発展には、鉄道高架化が必要不可欠な事業だと訴えている。鉄道は、海岸線と並行して走っている。海からの風は、地上低く北上してくるが、高架下まで有効活用された(?)巨大な建造物に遮られて高架北側には、風の恩恵が得られなくなってしまわないのだろうか。そして景観への影響も考えなくてはならない。鉄道沿線には、びっしりと民家が立ち並んでいる。日照権の問題もあろう。
NHKを見てて考えてしまった。静岡県の新空港と同じく、経済(企業)中心的論理思考ではなく、新しい切り口で、このような巨大建造物について考えていかなくてはならないだろう。
2006年8月31日 森みつぐ また、飲酒運転による悲惨な事故が起きた。改正道路交通法によって、飲酒運転への罰則強化がされ、ある程度減少したが大きな効果は得られていないようだ。
私は、そもそも厳罰化は、急場凌ぎの応急措置でしかないと思っていた。法が整備されたときだけの、ほんの一時だけ注意するだろうが、喉元過ぎれば、やはり便利さに負けて飲酒運転する。携帯電話のながら運転もそうだった。事故を起こして、初めて自分の愚かさに気付くのである。逆に、事故を起こさない限り、既得権(?)を手放さない。
車を運転する限り、非常に高い確率で事故は起こるのである。それが、車である。そして、利己を追及する人たちにとっては、法は何の意味を持たない。それが、人間の本性であろう。事故を起こしたくなければ、運転免許を持たないこと、運転しないことであろう。私は、車がもたらす光と陰を比べて、影の方が遥かに大きいと思っているので、運転免許は持っていない。しかし、公共の乗り物は利用する。人間と車が同じ次元の中で移動している限り、運転しなくても事故に遭う。そのときは、人間であることを悔いるほかない。災いは、便利さを追求する限り、高い確率で続く。
2006年9月7日 森みつぐ 世界で肥満・肥り過ぎの人々は、10億人になると言う。慢性的に栄養不足の人々の数(8億人)を超えている。これを聞いて人々は、何を思うのであろうか。
富は、先進諸国へと集中する。アメリカが標榜する市場原理・競争原理至上主義は、後進諸国を固定化し先進諸国の優位性を確実にする。後進諸国は、いつまでも後進国から抜け出せないだろう。その上、先進国国内においても顕著な富の格差を生み続け、貧富の各層は固定化する。再チャレンジは、もともと能力がある人たちのためのセーフティネットでしかない。小泉政権の短絡的・近視眼的なアメリカ追従型政策は、肥満も増やすが、それ以上に飢餓に苦しむ人々も増やす。
肥満・肥り過ぎ10億人は、肉体的なものであるが、それと同じような社会システムが、この日本でも出来上がろうとしている。私が望む福祉国家の社会から、だんだん遠ざかってゆく。・・・勿論、肉体的肥り過ぎは、新たな病気を誘発するので注意しよう。
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