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巡礼八日目 |
遂に読めた般若心経 |
第二十八番
大日寺 第二十九番 國分寺
第三十番 善楽寺 |
平成30年1月2日巡礼 |
土佐国の三日目、早朝の安芸駅から先ずはのいち駅まで向かおう。冬の四国の朝は日の出が遅く、7:26に下車したのいち駅はまだ朝焼け(下写真)。
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早朝の安芸駅 | |
近代的な構築の「のいち駅」から北へ北へ本日最初に訪れる大日寺へと歩く。地図を見て早足なら20分程度で着くかと思ったら35分もかかってしまった。参道になってから境内に辿り着くまでが長い登り坂で、遍路の札所では良くあるパターン。しかし次の列車の予定を考えるとちょっと行程が甘かったかもと反省した。
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大日寺の山門 | |
「第二十八番札所大日寺(だいにちじ)」---大日寺という名の札所は今回が3回目(阿波国で2ヵ所参拝した)、真言宗と大日如来との繋がりを強く感じさせる。寺伝にも奈良時代に聖武天皇の勅命を受けた行基が大日如来像を刻み当寺が創建されたとある。 来訪は朝の8時、しかし正月二日目の朝とあってか自分以外に誰もいない。そのため却って朝の清々しい空気を味わうことができた。ご朱印を頂いて境内をあとにする。
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早朝とあって静かな境内 | |
再びのいち駅に戻り、土佐くろしお鉄道で後免駅へ。ここから昼過ぎまで歩くのでコインロッカーでも有ればと探すも無し。まぁそれなら荷物は担いで歩くのも良いだろう。 次の国分寺へは後免駅から北へと歩く。25分ほど歩いて左折すると程なく国分寺の山門が進行方向右手に現れる。高知平野の道中はのんびりしているが、昔は今歩いている平野北部が行政の中心地で今よりも栄えていたらしい。
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高知平野を歩く | |
「第二十九番札所国分寺(こくぶんじ)」---奈良時代に聖武天皇が全国に国分寺・国分尼寺を建立したことは小・中・高の日本史(小は日能研?)でとくと学んだが、四国の場合は旧国名の4ヵ寺すべてが現存して遍路の札所となっている。このことは戦国時代や廃仏毀釈など動乱の歴史を考えると大変稀有なことであり、驚かずにはいれらない。
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国分寺の参道 | |
境内を歩いていると国分寺にはある種の風格が感じられた。堂宇の多くが国の重要文化財に指定され、堂内の諸仏もまた然り。境内全体も国史跡に指定されていて、これが「国分寺」の格式なのかもと思った。 初詣客もいるなか、本堂前で「般若心経」の暗誦にチャレンジ、残念ながら1ヵ所とちってしまった(無~~無~~が続くあたり)、惜しかったあと一歩だ!
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国重文指定の国分寺本堂 | |
国分寺から次の善楽寺までは高知平野の北端を西へ西へと歩く。途中には田んぼの畔道のような部分も少なからずあり、ここが本当の遍路道?と迷いかけるが、昔はこのような道が当然だったのだろう。 今は平成に建てられた道標がお遍路さんを導いてくれる。(右写真)
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善楽寺への道 | |
道はいつしか砂利道から舗装道路となり、合流を重ねるうちに交通量も目立って増えてきた。そしてクルマが渋滞するように……これは初詣客のクルマのようで、その目的地は土佐国一の宮である「土佐神社」であった。 さて自分が目指す善楽寺もこの近くにあるはずと思い地図に従って行くと、その土佐神社の参道脇に右写真の観音様がありここだとわかった。
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観音様が迎えてくれた | |
「第三十番札所善楽寺(ぜんらくじ)」---明治時代に一度廃寺になるも昭和に復興、平成6年に第三十番札所となった紆余曲折の歴史を持つ札所である。その詳細は書物等に委ねるとして、まずは境内へ。近年の復興のせいか山門はなく、空が広がってのんびりした雰囲気である。先に触れた初詣客も殆どが土佐神社へ向かっていて、善楽寺には自分を含めたお遍路さんがポツポツという程度だった。 さて遍路のはしくれとして今回も本堂前で般若心経を読経する。「(前略)無無明、亦無無明盡、……乃至無老死、…亦無老死盡、無苦集滅道、無…智亦無得 (後略)」おおっ最後まで暗誦できたぞ、般若心経が!これは嬉しいではないか。
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善楽寺境内 | |
<参考>
安芸駅〜大日寺・国分寺・善楽寺〜高知駅/タイムテーブル
安芸駅 6:53 (土佐くろしお鉄道) 7:26 のいち駅 7:30 - 8:05 大日寺 8:20 -8:50 のいち駅 8:54 (土佐くろしお鉄道) 9:03 後免駅 9:05- 9:50 国分寺 10:20 - 12:05 善楽寺 12:25 - 12:40 土佐一宮駅 12:49 (JR土讃線) 12:56 高知駅
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土佐一宮(とさいっく)駅、次回はここから |