ヒュー=リビングストンの恋愛論


 閉門までがあたし達の通常勤務時間だから、帰るころには暗くなっている。あたしはひとりで人通りの少ない帰り道を急いでいた。一度、このあたりで男に車で連れて行かれそうになったことを思い出す。通りかかった人が助けてくれたけれど、それからあたしは護身用のガンを勤務外時間でも持ち歩くようになった。ポケットの中、固くて冷たい守り神を握り締めて、早足に歩けばすぐにアパートの明りが見えてくる。
 廊下の裸電球にまとわりついている蛾を追い払ってから、アパートの部屋に入ると、姉さんが隅にぺたんと腰を落として何かをやっていた。
「姉さん?ただいま」
「……あら、ヒュー。おかえりなさい」
 ちょっと顔を上げて、また視線を手元に落とす。部屋の中が生ぬるい、どろっとした空気で満たされているようだった。なんだか自分の家なのにひどく居心地が悪くて、姉さんに言った。
「ねえ、夕飯まだなんだ。ハンバーガーでも食べに行こうよ」
「ごめんなさい。今、食欲がないの。あなたにはスープ作ってあるから、温めましょうか?」
 姉さんは弱々しい笑顔を見せて、カーテンで仕切っただけのキッチンに入っていった。姉さんの座っていたところには、淡いベージュのブラウスと裁縫箱があった。ブラウスは今日の朝着ていたものだ。キッチンからはガスコンロの着火音が聞こえた。あたしの思考の中でも、嫌な予感に火がついた。ブラウスのボタンはほとんどちぎれ飛んでいた。
「姉さん。これ、どうし」
「ヒュー、素敵な知らせがあるのよ」
 あたしの言葉をいきなり遮って、姉さんが喋りだした。それはいつものおっとりしていて物静かな姉さんならば絶対にしないことだった。
「私、セーヤさんと結婚するの」
「え?」
「今日プロポーズしてくださったの。それで、借金のことだけど何も心配いらないって。あなたももう毎日遅くまで仕事しなくていいのよ。なんなら学校にだって戻れるわ。セーヤさんが私達二人ともこれから守ってくれるって約束してくれたのよ」
姉さんは普段より早口で一気に言った。一度も振り返らなかった。そして、一息ついて締めくくった。
「素敵でしょう?」
 素敵?そうだね、あたし飛び上がって喜ばなくちゃいけないのかもしれない。遊びのつもりじゃないかと心配していた金持ちの男が、きちんと姉さんにプロポーズした。姉さんは前から憎からず思っていたみたいだし、ジンジャーの言うとおり。あたしが口をはさむ隙はない。けどね。
 あたしの頭の中はこんなときに限って冷静になって、ぱんぱん恐ろしい考えを弾き出した。
 あたし、想像できるよ。今日の朝、姉さんは早起きして洋服を選んで、男にもらったネックレスをつけて、明るい気持ちで外に出た。男の家に招待でもされたんだろうね。健全な考え方するならそこで男の両親がいて、恐縮する姉さんを守るように男が立って、「彼女が僕の交際相手です」なんて紹介されて、プロポーズされるんだろうけど。だけど。姉さんはもっとおぞましいやりかたのプロポーズを受けたんでしょう?お金に釣られて、ブラウスのボタンもひきちぎられて、部屋は生ぬるい、どろっとした血の空気に染まるような、プロポーズ。
 素敵?わからないよ、姉さん。
「そう、良かったね」
 あたしの口は思ってもいないことを平気で言い放った。姉さんはあたしの答えに安心したのか顔を緩ませた。けど、その怯えたうさぎのような目は変わらなかった。だからかもしれない。あたしは次の瞬間、とても悪い人間になった。
「それはそうと、姉さん、首筋にあざついてる。どうしたの」
 姉さんはえっ、とかわいらしい悲鳴をあげて、手のひらで首筋を覆い隠した。本当はあざなんてあたしからは見えなかったけど、それで姉さんは完全に墓穴を掘った。
「素直で最高。姉さんらしいよ。でも、もうちょっとうまいリアクションしてくれないとフォローできない」
 あたしの顔、きっとぐちゃぐちゃだ。
 姉さんがあたしの名前を呼んでいたけど、もうその場にいたくなかった。だから、逃げるように走った…違う、走って逃げた。逃げながらポケットに手を突っ込んで、黒い守り神を握った。昼間と違ってちゃんと装填してある、あたしのガン。

 姉さんはあたしの最後の砦だった。
 覗き込むごとにきらきらと色を変える瞳も、滑らかな長い髪も、透き通った白い肌も、すらっとしたラインの細い体も、同じ親から生まれたとは思えないほど美しくて、あたしは姉さんを誇りに思っていた。優しい物言い、料理も裁縫も得意で、危ういまでに純粋で、男となんて言葉を交わしただけで真っ赤になってうつむいてしまうような人だった。あたしはそんな姉さんに内心でコンプレックスを感じていたけれど、同時に姉さんを守ることがあたしの使命なんだと信じていた。姉さんは何かの間違いで人の世界に落ちてしまった天使だった。
 父さんも母さんもいなくなって、姉さんが学校をやめなければならなくなった時、あたしは第一に自分の不甲斐なさを呪った。好きな花だって育てられないようなじめじめしたアパートに移って、一日中繕いものをしなければならなくなった姉さんがかわいそうで仕方なかった。お金、お金、お金。それさえあれば、姉さんはもっとふさわしい暮らしに戻れるのに。
 いろんなものを失って、自分自身ずたずたになってしまったけど、あたしはまだ走り続けていた。姉さんの存在があたしの支えだった。いつか前と同じ、いや、それよりもっと良い暮らしをさせてあげるんだって誓っていた。
 なのに。
 結局、姉さんはあたしの手をすりぬけて行ってしまった。あたしが必死でかき集めようとしたお金が、逆に姉さんを買ってしまった。
崩れた砦。寒空にひとり投げ出されて、あたしは自分が騎士として致命的に無力だったことを思い知ったのだ。

 「どちらさまで?」
 こんな夜分遅くに、と怪訝な顔で出てきたメイドに、あたしは品のない笑いを投げかけて答えた。
「ここの若旦那にイアラ=リビングストンの妹が来たって伝えてよ。大切な用事だからさ」
「セーヤ様はもうお部屋でお休みです。明日にでも出直していただけませんか」
「大事な用事だって言ってるだろ?朝日が昇るまで待つ気がしない。案内するのが嫌なら勝手に入る」
 セリフを読むように話すと、あたしはメイドを押しのけた。困惑する彼女には少し悪いかもしれないけど、あたしはもう待てない。
「ちょっと…。警備の方を呼びますよ」
 メイドが厳しい口調で言ったところに、若い男の声が割り込んだ。
「構いません。応接室にお通ししなさい」
 玄関ホールから伸びる階段の中程に、彼は立っていた。屋内だから上着は着ていなかったけど、かっちりしたシャツに黒いズボン。さっきまで部屋で仕事の続きをしていた、とでもいうような印象だった。暗めに抑えられた照明の下で、青い目だけが瞬いていた。
「ハジメマシテ。セーヤ=ヨシズミサン」
 機械的で皮肉まじりの挨拶にその男は苦笑いした。
「はじめまして、ヒュー=リビングストン嬢。イアラからいつも話は聞いています」
 呼び捨て?ずいぶんじゃない、あたしの姉さんに。
 セーヤが挑発しているのはよくわかったけど、今ひっかかるわけにはいかなかった。彼は階段を降りてくると、自分が先に立って応接室に入った。あたしはおとなしくついていった。メイドが不安そうに見ている前でセーヤはドアをぴったり閉じた。その後ろ姿は、あたしより頭一つと半分ぐらい背が高かった。
「ねえ」
 あたしはポケットからガンを出して、セーヤの無防備な後ろ頭にねらいを定めた。これでもジュニアスクールのころからシューティングをやっていたのだ。この至近距離で外すことはない。
「あたしの姉さんと別れてよ。あたしの姉さんを返してよ」
 大切なあたしの姉さんを、その腕で抱いたんでしょう?きちんと落とし前つけてもらうから。
「なにか勘違いしていませんか?」
 セーヤが静かに言うのが、頭に響く。
「イアラに何を言われたのか知りませんが」
 姉さんに口づけたその唇で、それを言う?
「姉さんは子供向けの素敵なお話しかしてくれなかったけどね。わかっちゃうんだ、そういうのって。もうガキでいられない年だし」
 あたしはガンの安全装置を外した。そのかちっという音が、真夜中の静けさの中で思いのほか大きく鳴った。
「姉さんに二度と近づかないでよ。嫌だって言うならこの場で撃ち殺すから」
「その調子では『わかった』って答えても撃たれそうですね」
「かもね。あんたなんて最高に大嫌いだもの」
 セーヤがはぁ、と音をたてて溜め息をついた。そして、両手を肩まで上げた。
「一応、答えておきます。イアラとは別れませんよ。愛しているから」
 愛している?ぞっとした。
「はっ、上等だわ!」

                                              


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