そして、約一時間が経過。
家庭用オーブンレンジのブザーが、そう広くもないリビングダイニングに響き渡る。その頃には調理器具で溢れていたキッチンも元の通りに、いやそれ以上にピカピカになっていた。
店長の手際がいいのはいつものことだけど、この人が後片付けをするとステンレスのシンクや調理台があり得ないほどに綺麗になる。これって、実は別の仕事に転職した方が稼げるのではないかと思うほどの特技だ。
自分の顔がはっきり映るほどに磨き込まれた調理台とにらめっこをしていた彼は、その瞬間にパッと顔を上げた。
「結衣、急げ。すぐに運ぶぞ」
「はい、わかりました〜!」
オーブンの中でホカホカと湯気を立てているのは、黄金色の小山。人数分、全部で五個が完璧な焼き色に色づいている。ココット型なんていうお洒落なモノが存在しない我が家だから、それは小振りのグラタン皿に収まっていた。
店長はトレイに並べたお皿の上にそれらを手早く並べると、スプーンを添える。
それを運んでリビングに戻ると、両親と兄は手持ち無沙汰にテレビの将棋番組を観ていた。
「お待たせしました、温かいうちにお召し上がりください」
ピンクのチューリップ柄エプロンを外しながら、彼は言う。その表情はやはり石膏像並に固まっていた。
「え、ええ。ありがとうございます」
「では、遠慮なくいただきます」
あまりの迫力にびびっているのか、両親までがカチンコチンに固まっている。このままでは我が家は数時間後に等身大置物だらけの美術館になってしまいそうだ。
しかし、そんな中で唯一、まったく空気の読めていない人間がいた。
「えー、なにこれ? なんか、思ってたよりも普通っぽいんですけど〜」
この発言は、当然ながら「あの」兄が発したもの。しかもここでやめとけばいいのに、さらに言葉を繋げていく。
「仮にも専門家なんでしょう? だったら、まずは見た目で度肝を抜くような演出をしても良かったんじゃないですか?」
……まったく。
誰が上手いことを言えと。
両親と私が必死に目で訴えているのに、兄は素知らぬ顔。それではと、恐る恐る店長の方へと視線を移したら、今まで一度も見たことがないほど真っ白になった顔があった。
「文句は一口食べてから仰っていただけますか?」
ほらほら。言い方そのものは静かだけど、これは相当に怒っているよ。それが証拠に眉間に青筋がくっきりとできている。
「え〜、でも今、美味しい和菓子で腹がいっぱいだからな〜。ほら、神崎さんも遠慮せずにこちらをどうぞ。食わず嫌いはいけませんよ、ご本人も是非食べ比べをしましょう」
この兄、本当に社会生活が営めているのだろうか。絶対に行く先々で敵を作りまくっている気がする。店長は感情をあまり表に出さないタイプだからブチ切れずにいるけど、平均的な人間だったらとても我慢できないレベルだ。
「はい、是非。でも、まずは作りたてのこちらからにします。温かいうちに食べないといけませんから」
店長は兄の猛攻撃をも振り払い、さっさとスプーンを手にした。兄を含めた一同もそれにならう。
手で直接持つことができないほど、熱い器。その中で焼き上がっているのは、ふわふわのケーキ生地だった。スプーンをそっと入れただけで、細かい泡がしゅーっとしぼんでいきそう。
まずはその感触をじっくり観察していたら、目の前の兄が飛び上がらんばかりの奇声を発した。
「うわっ、美味い! すげーっ、これって、最高ですよ!」
そう叫んだがいなや、兄はものすごい勢いでケーキをかき込んでいく。その姿をちらと見て、店長も黙々と自作のケーキを食べ続けていた。
「あーっ、美味かった! ごちそうさまですっ、お代わりはないですか? いやーっ、こんなに大きいの、絶対完食できないと思ったんですけど〜っ。口あたりが軽くて、いっくらでも入っちゃいますね。さすがっ、専門家が作るものは違う!」
……なんか、調子がいいなあ。
そこに突っ込みたくても、あまりに緊迫した雰囲気についつい口をつぐんでしまう。それは両親も同様であった。
「これはスフレという菓子です。この作り方ですと冷めるとしぼんでしまいますから、出来たてを召し上がっていただくしかありません。お気に召したご様子で光栄です」
ああ、まだ言葉が硬い。ついでに表情も固い。
そうかー、スフレか。本当にふっわふわなんだよね。表面はサクサクで、中は細かい泡でぎっしり。とても贅沢な仕上がりだ。それでいてシンプル。
だってこれ、冷蔵庫にある食材だけでぱぱっと作っちゃったんだよ。最近は私も家でケーキの試作とかするようになったから、香料とかちょっとは揃っているけど、それでも普段店で使っている小麦粉や卵、牛乳ではない。それでも技術だけでここまで美味しく仕上がってしまうんだ。
やっぱなー、さすが店長。しかも「あの」兄に果敢に立ち向かうなんて、かなりの猛者だ。
ようやく、場の雰囲気が少しだけ和やかなものになったとき、ピンポーンと玄関の呼び鈴が鳴った。
「……あ、お昼が届いたかしら」
どうも母親、奮発してお寿司を出前したらしい。まあね、洋菓子専門とはいえ兄の言うところ「専門家」な人を招くのに、手作りで頑張るのには限界がある。ここは手っ取り早く、かつ豪華に行こうと思ったのだろう。
「結衣、お吸い物や取り皿の準備を手伝ってくれる? ほら、昇もいつまで空の器を抱えてないでテーブルを片付けて。……あ、神崎さんはそこに座っていてください。すぐに準備しますから」
男衆三人だけを残して席を立つのには、少しばかり抵抗があった。
見た目は偉そうだけど、人見知りと場所見知りがひどすぎの店長。自ら望んでの行動とはいえ、かなりのストレスになっているのではないだろうか。しかも、天敵のような兄が次々と失言を繰り広げてくれる。よくもまあ、ここまで破綻せずにいたもんだ。
「結衣、ボーッとしているんじゃないの。お客様に失礼ですよ」
でも、こうして母親に再度声を掛けられてしまっては仕方ない。とりあえずは、手っ取り早く準備を済ませて席に戻ればいい。そう自分に言い聞かせてキッチンに向かった。
「ねえねえ、結衣」
リビングからは死角になっている冷蔵庫の影に身を寄せた母親は、私を嬉々として手招きする。
「すごいわね、神崎さん。さすが一国一城の主でいるだけのことはあるわ。私、感動しちゃった」
……あのーっ、なにをはしゃいでいらっしゃるのでしょうか?
かなりの大変な現場だったこと、充分におわかりですよね? だったら、もうちょっと、もうちょっとだけ、年長者としてのフォローが欲しかったところ。だいたい、兄を呼びつけたのはそっちでしょう。だったら、きちんと責任を取って欲しい。
「そ、そうかな?」
まあねーっ、店長のことを私自身も見直したところはあるけど。
私に対してはすぐにキレるし、なにかというとすぐに「お仕置き」になるし、結構短気な子供っぽい人だよなって感じてたんだよね。ケーキ作りの腕は一級品でも、日常生活には支障を来す性格なんじゃないかなとか。
でも、思ったよりもずっとしっかりしているし、そこは素直に嬉しかった。
「だけど神崎さん、今日はどのようなご用件なのかしら? なかなか本題に入らないから、ハラハラしちゃう。もしかして、ただ遊びに来ただけ? それならそれでいいんだけど……」
「うーん、私もそこのところがよくわからなくて」
たぶん、なにかしらの具体的な話がしたかったんだと思う。店長にしてはかなりの装備だったし。でもそのことを本人にきちんと確認していないから……なんとも。
「まあ、いいわ。とりあえず、お昼にしましょう。結衣、あなたも相当におなかが空いたでしょう? 大丈夫よ、今日はたっぷりと注文しましたからね」
そう言われた途端、急にグーッとおなかが鳴った。そうか、今まで緊張しすぎて、自分の空きっ腹のことを忘れていたのか。
「じゃ、そっちのお盆を持って。……はーい、お待たせしました……!?」
リビングに呼びかける母親の声が、最後で急に裏返った気がした。
「どうしたの、お母さん」
「ちょ、ちょっと、結衣! すぐに来てちょうだい!」
慌ててリビングを覗くと、そこにはソファーにだらりと横たわる店長がいた。
傍らには「あの」兄。相変わらず、のほほんとしている。
「あ、結衣? なんかさー、神崎さん、あっという間に潰れちゃってさ。ほら、この前、沖縄出張で買ってきた泡盛。せっかくだからと、開けたんだけどさー……」
「えええっ、なんで!?」
「だって、神崎さん、すごく固くなってるし。少し和ませようと思ったんだよね」
ひーっ、それってまったくの逆効果だよ! 店長、見かけによらず、下戸なんだから。いきなり泡盛なんて、とんでもない。とりあえずのビールでもちょっと心配だったのに。
「まあまあ、仕方ないわね。ほら、結衣。毛布を掛けて差し上げて。きっとお疲れなのよ、ゆっくり寝かせてあげましょう」
母親がにこにこ顔でこう言う。そして、続けて私に耳打ちした。
「いい方じゃない、神崎さん。良かったわね、結衣」
満面の微笑みで見つめられて、私の方が真っ赤になっちゃう。慌てて目を逸らしたら、店長が子供のようにあどけない寝顔を浮かべていた。
つづく♪ (121031)