TopNovel短篇集・2 Top>遠ざかるアリス・1


scene 2…

 

 

 子供の頃から、飽き果てるくらい毎日見上げてる空。それが何となく違う色に見える日がある。

 小学校の裏山は一面の蒲公英(たんぽぽ)畑。でも春に黄金色の花を咲かせ、それがやがて白い綿毛になって飛び立ってしまったところで、ただの空き地に戻る。ここは私たちの遊び場だった。
 確かどこかの財産家が相続税を払いきれず物納したのがそのままになっていると聞いたこともある。まあ、誰の土地であろうと子供には関係のないこと。

「お帰り」

 夕日に照らし出された後ろ姿。丘の下に広がる、私たちの生まれ育った小さな田舎町を眺めているのだろうか? 私の声に振り向いた人はくわえていたタバコを足元に落として靴で踏んだ。

「ただいま。……早いな」
 彼はそう言ったあと、私の視線に気づいたのか屈んで吸い殻を拾った。そして上着の内ポケットから取り出した缶の容器に入れる。いつだったか、私がプレゼントした携帯用の吸い殻入れだ。

「うん。車、変わったんだね」

 仕事帰り。彼の実家の前を通ったら、いつもは空いたままになっている表の車庫にブルーの車体が見えた。メタリックブルーと言うんだろうか。確かあの車種の10月に出たばかりの新色だ。

「……もう、落ち着いたか?」
 もう一本、指に挟んで。でもちょっと考えてから、それをもう一度箱に戻す。私を見つめる瞳の色が夕日の加減ではなくちょっと変わった気がした。

「一番、大切な時に。傍にいてやれなくてごめんな」

「ううん」
 こんな風な「同情的な」言葉を、この秋は何度聞いただろう。いつの間にか切り返し方も、もう大丈夫だよと微笑む術も身につけていた。

「健一、お通夜もお葬式も……ずっといてくれたじゃない。それで十分だよ」

 私が想像していた以上に明るいことに驚いているのかな。こちらが意識して何気なく過ごしているのに、やっぱり表情が崩せないままだ。

「ま……な」
 今度はタバコをきちんと持って口にすると、ライターで火を付けた。

「彩音はきちんと支えていてくれる人がいるんだもんな、俺が心配なんかすることもないか」

 彼がくれたのは、どこか自嘲気味な笑いだった。私も余計なことは言わずに、ただ微笑みで応えた。そして、話題をするりと変えてみる。

「仕事、忙しいの? あれから戻ってこなかったもんね……あ、試験を受けてたんだっけ」


 健一の家は代々続く大工だ。今もお父さんが棟梁で、彼のふたりの弟もその下で一緒に働いている。でも、長男である健一だけが、ここから車で2時間ほどの大きな街に働きに出ていた。山道を通うのは大変だとひとり暮らしをしている。

「俺には大工の才能がないんだよ、良二たちの方がずっと上手いんだぜ」

 小学校の頃から、健一は良くそんな風に言っていた。見た目は田舎の素朴な男の子、と言う感じで、目立つところと言えば、年間を通して半袖・半ズボンで通していることくらい。ずば抜けて成績がいいとかかけっこが早いとかそう言うのはなかった。
 そんな彼が時折見せる、他の男子には芽生えていないもの。「先見の明がある」とかその頃はもちろん知らない言葉だったけど、そんな感じ。多分どこか大人びた子供だったんだと思う。

 高校を選ぶ時も、さっさと高専への進学を決めた。建築を学んで、将来に生かしたいと言った。今は名前の売れてる大手企業が一般住宅のシェアに浸透している。それはこんな小さな田舎でも言えること。昔ながらの地元の大工ではなくて、TVの宣伝などでも良く耳にする○○建設とか△△ホームと言った感じのところに家の建て替えを頼む人が増えているんだという。

「せっかくの腕のいい大工も、業者からのお仕着せの注文ばっかり受けていたら面白くないだろうし、だんだん仕事に対する意欲もなくなってくると思うんだ。俺は親父みたいな昔気質の職人が思う存分腕を奮えるような設計をしたい。建て主と職人の橋渡しをしたいんだ。そのためにはたくさん勉強しないとな」

 卒業後は個人経営の工務店に就職して、色々な仕事に携わっていると言っていた。年に何度も戻ってこないことからもその忙しさが伺える。でも、私の前に現れる健一はいつも生き生きと楽しそうだった。


「うん、10月に製図の試験があって、それの結果待ち」

 タバコの煙がゆっくりと上がっていく。ほとんど風のない晩秋に、何も見るもののない空き地にふたり立っている。健一が帰省すると最初に来るのがここ。だから、電話とかしなくてもすぐに会えた。正直言って、何の用事もないのに健一の家に連絡するのも気が引けたし。

「ふうん……ドキドキだね」

 そうなると。試験直前の一番大変なときに、母の葬儀のために戻って来てくれたことになる。喪主だった私はとても「単なる幼なじみ」の健一とゆっくり話をする時間も取れなかった。お通夜の席にも、火葬場にも、ずっと付き添ってくれたのに。他の友人たちは通夜の時だけ、告別式だけ、と言う感じだったのに、健一だけ一緒にお別れをしてくれた。

 それを……改めて「ありがとう」と言わなくても、健一はちゃんと分かってくれる。今ではこうしてたまに再会して近況報告をするだけになっちゃったけど、こうして変わらない友情が続いていることをとても心強く思っているんだ。

「正直なあ……一級なんていらないと思ってたんだ。一般住宅の建築なら二級で十分だし。でも将来独立するときに必要だからって、所長が言うから。それに、そろそろこっちに戻ってきたいしな」

 ああ、そうか。もともと、いずれはUターンするって言ってた。来年で25歳。そろそろそんな時期なんだね。

「そっか〜、健一は戻ってくるんだね」

 丘から見下ろすひなびた田舎町。何にも産業のない、寂れていくだけの町。こんな場所、昔から大嫌いだった。

「私は……もう、ここにいる理由がなくなっちゃったな」

 

 ようやく、飛び立つときが来た。それを心から喜ぶべきなんだと思う。

 なのに……私は沈んでいた。健一は黙ったままで、そんな私の隣に寄り添う。ふたりでそのままずっと、暮れていく風景を眺めていた。

 

◇◇◇


「この町には似合わないくらい、本当に綺麗な子だねえ……」
 物心付くか付かないうちから、私に投げかけられるのはいつもそんな言葉だった。

「さすが、小百合ちゃんの娘だね。でも、こんなじゃ将来苦労するよ。黙っていても男が寄ってくるからね」

 じろじろと品定めをするような視線。口でなんと言おうと、浅ましい大人たちの心の中なんて全部分かってしまう。私たち母子のことを蔑んでいる瞳。嫌いだった、大嫌いだった。

 確かに母はとても綺麗な人だった。小さめの輪郭に、いつも濡れているみたいな黒目がちの目。通った鼻筋、小さな口元。授業参観の日に教室の後ろを振り返ると、私の母だけがきらきらと輝いて見えた。着ている服も、他のお母さんたちと同じように近所の衣料店で購入したものなのに、母が身につけると途端に高級ブランドみたいになる。子供の私から見ても、それがはっきりと分かった。

 子供でも分かるんだから、大人の、特に同性である女性から見ればもっとよく分かっただろう。半分やっかみみたいなものだったんだろうけど、とにかく母に向けられる視線には好意的なものがなかった。小さな田舎町で、隣近所みんな顔なじみ。歩いていても知らない人などいない状況で、母だけがいつものけ者だった。

「あんな風だから、亭主にも逃げられちまって――」

 勝ち誇ったように皆が陰口を叩く。大きな声だから、全部聞こえてしまうけど。気づいたときには父がいなかった。最初から父という存在がこの世にいなかったかのように。その理由を知ったのも、母からではなく下世話なうわさ話からだった。

「何しろ、小百合ちゃんにそっくりだからね。彩音ちゃんだって、ろくなモンじゃないよ」

 決めつけるようないい方。好きでこんな風に生まれた訳じゃない。見目かたちが整ってるなんて、こっちが頼んだ訳じゃないのに。避けようのない身体的な理由で、私の将来まで決めつける大人たちが大嫌いだった。でも……いつかそんな奴らを見返してやりたいと思っていたのも事実だった。


 中2の時に知り合った塾講師。その大学生の男が初体験の相手だった。

「いい参考書を知ってるから探しに行こう」とか誘われて、帰り道に車の中で。ほとんどレイプ状態だったと思う。それまで自分に言い寄ってきていた地元の男子とは全く違う都会の匂いがして、初恋とも言える想いを抱いた相手。もちろん、その頃には性行為についての知識はあったし、そうなっても構わないと思っていたのも事実だ。

 でも……違ったから。

 自分が想像していたものとはあまりにかけ離れていたから、本当に嫌になった。無理矢理私の中に入ってきた男は野獣のようで、自分ひとりが気持ちよくなってあっという間に果てた。肌の当たる音も生々しくて、初めて口内に受け入れた生っぽい舌も気持ち悪かったし。

 母親にはそんなことがあったなんて言えず、黙っていた。それなのに、その後の関係を拒んだら、逆ギレした男がそこら中に私のことを言いふらして回ったのだ。お陰で、あっという間に私は「あばずれ女」のレッテルを貼られてしまった。

「ちょっと可愛いからって、いい気になってるからよ」

 あの裏山に行って、ひとりで泣いた。私をあざ笑う人たちの前で、絶対に泣けないと思った。涙など見せたら、もっと面白がるだろうから。彼らの前では出来る限り気丈にしていた。

 でも。ひとりになると、ぼろぼろと涙が溢れてくる。

 早く大人になりたい、一人前になってこんな町を踏みつけて行ってやると思っていたのに。実際に知った「大人」への第一歩はあまりにもおぞましかった。

 

 子供の頃に見た絵本のアリスは、摩訶不思議な世界を駆け抜けていた。小さくなったり大きくなったりするきのこも、一斉に追いかけてくるトランプの兵隊も、この世にはあり得ないもの。だけど、もしかしたらどこかに存在するかもしれないと信じることは出来た。

 ――もう、私には夢見ることすら許されていないのだ。

 

◇◇◇


 ある日、いつものようにあの場所に行くと、先客がいた。学校指定のジャージ姿で健一がぽつりと立っていたのだ。私の足音に気づいて振り向く。ニキビ面の赤ら顔でにこっと笑った。

「よっ、久しぶりっ!」

 誰もいないと思っていた。ここに来れば思い切り泣けると思っていた。頬に早くもこぼれたしずくを拭いもせず、私は言葉を失ったまま、ただただ健一を見つめていた。

「何だぁ、こんところ、元気ねーじゃん。みんな心配してるぞ、声を掛けようとしてもすぐに逃げちまうって」

 そう問いかける言葉に、灰色の部分なんて少しもなくて。私は驚きを通り越して、少し苛立っていた。知っているはずなのに、健一だって。私、健一のお母さんからだって、すれ違うたびにすごい目で見られているんだよ。怒りにまかせて、はっきり言ってやりたかった。

「何よ、あんたたちに心配してもらうことなんて、何にもないんだから」

 ようやく絞り出した言葉はやはり憎々しくて、自分でも悲しくなった。だって、私がこんなに苦しんでいるのに、どうしてあんたはそんななの?

「そんなこと、言うなよ」
 健一はまっすぐに歩いていって、あるひとつの場所に来て足を止めた。一抱えほどある大きな岩が彼の足元にある。

「俺たち、仲間だろ? だよなあ、ずっと友達でいるって約束したじゃんか」

 私の言葉が喉に詰まった。そこは……小学校の卒業の日に、仲間たち6人で蜂蜜瓶のタイムカプセルを埋めた場所。みんなの「夢」が詰まってる。


 5年生の時。確か校外学習か何かで班編成をした。好きな子同士で組んでいいという私の一番嫌いなパターンで。何しろ、クラス替え前の4年生の時、中心的存在の女子に睨まれて、村八状態になったのだ。その当事者とはクラスを分けたが、今でも私に親しげに口をきく者なんていなかった。

 そんなとき、後ろから袖を引っ張られた。

「彩音〜、ここひとり足りねーんだ。入れよ」

 その一言で、私には5人の仲間が出来た。声を掛けてくれた健一と、男はあとふたりで篤郎と修司、女子は恭子と玲香。今まで感じたことのなかった親しげな空間に、始めの頃はなかなか馴染むことが出来なかった。だけどみんなは我慢強く、私を待ってくれた。人に対して自然に微笑むことも、本当に気持ちを吐き出すことも全部教わった。それまでは嫌いだった学校も大好きになったんだ。


 だけど――こんな事があったら、きっとみんなも軽蔑してる。合わせる顔がなかった。理由はどうであれ私がこうなってしまったのは事実なんだから。

「いいよ、そんな風に無理しなくたってっ……『あばずれ』の友達なんて欲しくないでしょ? 私はもうあんたたちとは違うんだからさっ……!」

 そう言うと、そのままきびすを返した。ここにいつまでもいるわけにはいかない。甘えることなんて出来ないんだ。きっと、迷惑になるだけだから。

「違うって……何が違うんだよ?」

 背中越しに、とぼけたみたいな声がする。演技ではなくて、本当に何も分かってないみたいだ。もう一度、はっきり言ってやろうと振り向いた私に、彼は更に畳みかけた。

「彩音は彩音だろ? 全然変わらねーけどなぁ……」

 慌てて、前に向き直った。だって、こみ上げてくるものを、私は止められなかったから。

 

◇◇◇


 自分は自分でいればいい――そう思うことが出来るようになってだいぶ楽になった。男子たちの色めきたった視線も上手にかわせるようになったし、新しい彼も出来たり。そんな日常の中で、それでも「仲間」の存在は貴重だった。

「彩音はとっても綺麗だもん、男子たちが目の色変えたって仕方ないよ。女の私から見たって、ちょっとドキドキすることもあるよ?」
 玲香なんかはそんな風に言って、私を無邪気な笑顔で下から見上げた。どう見ても、玲香の方がずっと可愛いしモテそうなのに神様って不思議だなと思う。

「メイクしなくたって、肌がもちもちして唇まで色つやいいんだもんなあ。きっと、一生分の化粧品代がすっごく安く上がると思うよ? ああ、羨ましいなあ〜」
 姉御肌の恭子は大柄の身体を揺らしながら、そんな風に言った。いきなりお金の話になるのにはびっくりしたけど、何だか嬉しかった。

 

 中学を卒業すると、みんな進路がバラバラになった。

 健一は全寮制の高専に行ってしまって、あまり戻ってこなかったし、意識しなくても疎遠になっていった。でも、たまに会えばおしゃべりが弾む。なかなか6人が顔を合わせることはなかったけど、難しいことを抜きにして昔に戻れる時間は楽しかった。

 だけど、この町は相変わらず私には冷たくて。道ばたでおしゃべりしているおばさんたちも、私が通りかかって挨拶すると、何だか目つきが変わった。
 取り繕うような笑顔を無理矢理浮かべて、二言三言声を掛けてくれる。今までの無理がたたったのか、私が高校に入学した頃から、母は入退院を繰り返すようになった。一応「不幸な身の上」の娘を邪険にしてはいけないと思ったのだろう。

 ――馬鹿みたい。

 垢抜けない町の空気も、そこに暮らす人たちも。みんなみんな私にとって面白くなかった。だから、いつでも待っていた。羽ばたける時を。いつか王子様が現れて、私をここから連れ出してくれる。

 きっと、いつか……必ず。

 


 気が付くと。私の知らないウチに、恭子と篤郎がつきあい始めていた。まあ、同じ高校に行ってたんだもんね。それも自然な成り行きかも知れない。あまりに普通すぎて、ちょっと笑っちゃったけど。
 玲香と修司はそれぞれ進学のために上京してしまって、健一は相変わらず遠くにいて。だから居残り組の3人で仲良くすればいいのに、何だかおじゃま虫みたいで気が引けるようになって。 他に仲の良い友達もいなかった私は、またぽつんとひとりぼっちになった。

 

 それだけに、たまに健一の戻ってくるときは嬉しくて。

 いつの間にか、彼がこの町いる時間だけ、空の色が変わって見えるようになっていた。


 

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