TopNovel短篇集・2 Top>遠ざかるアリス・3


scene 2…

 

 

 シャワーを止めたドアの向こうは、不気味なくらい静かだった。

 間接照明しかない薄暗い部屋。そりゃ、最初は明るくしてたって、すぐに暗くするんだから必要ないと言えばそれまでだ。天井を高く造ってあるから広く見えるけど、実際は何畳くらいあるんだろうな。部屋の大きさと比較しても、かなりの面積を占める大きなベッドの上に、俯く影を見つけた。

「……どうしたの?」

 ふわっと浮き上がって見えるのは、備え付けのバスローブ。それをしっかり着込んで、きちんと腰の帯も締めて。彼はタオル地の上からでも分かるくらい、体中を緊張させていた。

 私が入ってきたのは分かってるはずなのに、知らない振りをしてる。ううん、そうじゃないのかな。意識して返事をしない、と言うよりは、返事が出来ないのかも。

「おっ……おい――っ、彩音……」
 私の足音が、近づいていくのにとうとう耐えきれなくなったんだろう。膝の上でぐっと握りしめた手の甲を見つめながら、彼は全身から声を絞り出した。その瞬間に肩が大きく揺れて、短い髪からぽたぽたとしずくが垂れる。

「何?」
 私はあっさりとそう答えると、カバーを掛けたままのベッドに腰掛けた。

 彼が頭の方を陣取ってるから、こちらは足元側に。ヘッドボードの裏側に床置きの照明があるみたいで、それに照らされた健一の輪郭がはっきりとうかがえた。

「なっ……なんかっ、こういうのって、違う気がするぜ。冗談でも、やめようよなっ……!」

 そう叫んで、がっとうずくまってしまう。言葉通りの「頭を抱えた」姿勢で。まくれ上がった裾から覗く膝から下。長い時間一緒にいても、実は踏み込んだことのない部分がたくさんある。結構毛深いんだな……私はぼんやりと、そんなことを考えていた。

「ふうん……そうなの?」

 私は弾みを付けて立ち上がった。スプリングの効いたベッドだから、ふわんと身体が持ち上がる。一応バスタオルを合わせたところを手で押さえて。部屋の隅にある冷蔵庫を覗いて、小さな瓶を取り出す。ピンク色のカクテルだ。200mlくらいかな、スモールサイズ。ひょろりと細長いボディーの先端に付いたプルトップのわっかに指を突っ込んで開ける。

 一口飲むと、強すぎる炭酸の刺激が喉をひりひりと流れ落ちた。

「でも、お金払っちゃったでしょ? 今更何言うのよ……馬鹿みたい」

 

◇◇◇


 すっかり日暮れた砂利道を降りながら、ふたりとも無言だった。いくら日中晴れ渡って暖かでも、日が落ちると急に冷え込む。

 土を踏みしめる音だけ。白い息の向こうの健一がどんな顔をしているのかも分からない。もともとが大人しい性格だから、普段から軽口を叩かない方だ。さっきの私の話を聞いたのだから、もっともっと口が重くなって当然かも知れない。

「……寒いな……」
 手袋をはめてない指先がじんじんしてくる。薄くすいたばかりの髪も何だか頼りなくて、落ち着かない。どこかで休みたいな……でも、どこがいいだろう。もう知り尽くしているはずの小さな町のいくつもない場所を頭に思い浮かべる。

 居酒屋は……嫌だな。他の仲間が一緒ならいいけど。ツーショットなんてしたら、すぐに噂になりそう。まあ、私はいいけどね。健一のほうが大変だよ。あとで、おばさんから嫌みでも言われたら面倒だし。
 今から、大きな街まで出るのもちょっとな。車で行けば楽だけど、帰りが困る。せっかくのお祝いなんだから、アルコールは外せないし。バスはすぐ終わっちゃうし。タクシーなんて使ったら、飲み代より高く付きそうだ。

 私の家……なんて、それこそ最悪か。結構建て込んでる場所にあるし、絶対に誰かに見られちゃう。

 どうしよう、もしかしてこのままお互い家に帰るしかないのかな? 同性の友達なら、何とでもなるのにこんなとき面倒だなと思う。

 

 ……そうか、ひとつだけあるか。

 

 ある場所を頭に浮かべて、私が行き先に足を向けると。健一はやはりひとことも発することなく、後ろから付いてきた。きらきら光るその場所を目指して、田舎には場違いなネオンの下をくぐっても、健一はやっぱり何も言わなかった。

 

◇◇◇


 入り口のカウンターで部屋を選んで前金を払うシステム。モーテルで、大半の客は車で来るんだけど、そういう時もどちらかがカウンターまで出向く。街場では考えられないやり方だ。きっと、こんな風にしないと払わないで帰っちゃうお客がいるんだろうな。物言わぬ後ろの男を無視して、私はさっさとお財布を開けた。ざっと見渡して中くらいの値段の部屋を選ぶ。こんなの、別に大差ないんだから。

 地元の客を意識してるのか、知ってる顔がそこに立っていたことはない。そう……結構、常連さんだったりするんだな、私は。

 

「3時間、ここを使ったって、使わなくたって。お金は戻ってこないんだよ? カラオケだってDVDだってあるし。おなか空いたなら、ルームサービス取ろうか? 今日は全部、おごってあげるわ。お給料日終わったばかりだし、もう使う当てもないから平気よ」

「……彩音」

 情けない声、出してるんだな。早生まれだって言ったって、今年は年男でしょ? しっかりしなさいよね、まったくもう。

「何か飲む? ビールと冷酒とどっちがいい?」

 確か、ポテチとかも入ってたよな〜とか考えつつ腰を浮かせると、つん、と抵抗を感じた。

 バスタオルの裾を、後ろから強すぎない力で押さえてる。もちろん、何かあったらすぐに離すつもりなんだろう。振り向くと、こちらを見つめる瞳に強い怒りの色が浮かんでいた。

「やめろよ」

 私がもう一度座り直したのを確認して、彼は手を離した。正直、あのまま引っ張られているのはかなりヤバイ。いつはだけるか分からないもの。まあ、そうなったときはそうなったときだと思ってたけど。

「とりあえず、服着ろよ。こんなとこはやっぱ、まずいよ。場所を変えよう」

 それから、するっと視線をそらす。小さくため息を落として。

「自分のやってること、分かってんのか? 人を馬鹿にするのも、いい加減にしろ」

 

「――何よ」

 間髪入れずに言い返していた。こういう場で強気に出られるのは、やっぱ場数を踏んでるからかなと自分が悲しくなるけど。

「馬鹿になんて、してないわよ。いいよ、もしもそう言う気があるんなら。お祝いだもん、羽目外してみる?」

「なっ……!?」

 今度こそ、目にはっきりと映す怒りの表情で、健一が私を睨み付けた。微笑みをかたち取った私の頬がかすかに震える。空気の微動を感じ取ったみたいに。

「おっ……お前なんかに今更、どんな気にもなるかよっ! 俺がブチ切れる前に、どうにかしろっ!」

 すぐに、言葉が荒くなる。呼吸が速くなってるみたい。自分では落ち着こうって思っているけど、それがコントロールできないのかな。こんな余裕のない健一って、ちょっと珍しい。

「……ふうん」
 ずいっと、身を乗り出して。ふたりの距離を縮めた。腕を伸ばすと、バスローブの袖に届く。

「別に、気にすることないのに。こんなの挨拶代わりよ、たいしたことじゃないわ。それとも何? ……もしかして、健一って男が好きだったりして? そうよねぇ、こんなにいい女とふたりきりでいて、発情しないんだもん。男性機能に支障がないんだとしたら、それしか考えられないわ」

「……」

 下から見上げて覗き込むと。青ざめるのを通り越して白っぽくなった顔が見えた。唇をぎゅっと噛みしめてる。

「そっか〜、健一に浮いた話のひとつもないと思ったら、そう言うことだったのね。付き合い長いのに、気づかなかったわ〜。もう、おかしいったら。この話を篤郎や修司に言ったら、どんな顔するかしら? あいつらも気を付けないと、夜道でいきなり健一に襲われちゃったりね……」

 何だろう、笑いがこみ上げてくる。あっけにとられている健一の隣で、私はおなかを抱えて大笑いした。何か言いたくて、幾度となく動きかける唇。それを視線の端に感じながら。

 

「いいや、そう言うことなら。これ以上、迫ったりしないから安心して……さ、時間まで飲み倒そうか?」

 そう言いながら、ぴくぴく痙攣してる頬に指を触れた。その瞬間、はだけた胸元の合わせがぱらりと外れた。

 

「……あ……」

 

 刺すような視線を素肌に感じ取って、慌ててタオルをたぐり寄せようとした。やだ、どうしてバスローブにしなかったんだろ。そりゃ、同じかたちの同じ色のものをふたりで着たら、それこそ……なんかなあと思った。でも、そんなことで済めば、こんな状況を回避できたのに。

「ご、ごめんっ。やっぱり、落ち着かないから服を――」

 

 後ずさりしようとして。その前に、私の動きは阻止されてしまった。

 ――コマ送りのシアター映像を見ているみたいに――視界が反転する。捕まれた手首にぎりっと骨に響くほどの痛みを感じた。

 

「……隠すことないだろっ……」

 天井に映るたくさんの影が揺らめく。照明が色んな場所から当たるから、ひとりしかいないはずの身体がいくつもの動きを作る。それを、ベッドに仰向けに倒された私は不思議な心地で見つめていた。

「あっ……彩音っ……!」

 肩で大きく息をして、そのたびに影が揺れる。ぼんやりとした視界。自分の目が潤んでいることにその時気づいた。

「くっ……!」

 私の上に四つんばいになって、健一が辛そうに身体を震わせる。大きく首を横に振り、何かを必死で払おうとしていた。

「だからっ……っ、駄目だって言ったじゃないかっ! 人の忠告は素直に聞くんだよ……っ!」

 ゆっくりと暖まった身体は、更に熱を帯びていた。上気した頬が、額が、腕が、胸が……とにかく彼の全てが何かにたぎっていた。そして、それを必死に押しとどめようとしているのも彼。

「服を……着てくれ」

 腕から束縛が剥がれる。私の両脇に腕を付いたまま、彼はもう一度大きく深呼吸した。みしっと、ベッドがきしむ。

「……」

 

 何だろう、これ。

 私は今まで感じたことのなかった、不思議な心を感じ取っていた。つんと鼻の先が痛くなる。このままだと、何かに置き去りにされる。こんな風に、押さえてはいけない。今、私がすべきことはひとつしかない。

 

 右手を伸ばして、がちがちに固くなった浅黒い腕に触れた。つううっと指で辿って、手首を掴む。呆気にとられた彼が、素直に力を抜いてくれたので、そのまま自分の思い通りに導くことが出来た。

「……いいんだよ、無理しなくても」

 呆然とこちらを見つめる瞳に、ゆっくりと微笑みかける。何かをぎりぎりに堪えながら、それでも私は。

「けど……」 
 健一の手のひらの熱が、胸のかたちをつぶしながら伝わってくる。私の鼓動も、彼に届いているのだろうか?

「このまま、上から押さえつけられたら、痛いし苦しいよ。もっと、優しくして。……分からない? あまり力は入れないで……柔らかいでしょ?」

 そうじゃないって言われたら、返事のしようもなかったけど。だって、他の女の人のなんて触ったことないもん。緊張した面持ちの健一が、神妙に頷くのが嬉しかった。

「こう……か?」
 探るように、指の先が胸のふくらみを辿る。麓から、頂へ。堅苦しい動き、たどたどしいその手つきは気持ちいいと言うよりはくすぐったかった。少し伸び上がって、敏感な部分に触れてもらえるように胸全体を反らす……導くように。

「はぁ……んっ」
 思わず、声が漏れた。

 やはり本能なのだろうか。健一のそれは、少しの時間に驚くほど上達した。

 最初は恐る恐るさすっているという感じだったのに、みるみるうちに滑らかな手つきに変化する。頂の上に咲いたつぼみを器用に摘み取り、それを口に含む。音を立てて吸い上げられると、おなかの奥からどくどくっと何かが溢れてきた。彼の肩を掴んだ手に、力がこもる。

「……感じてるのか?」

 荒い呼吸の狭間で、健一が不安そうに訊ねてくる。私はこみ上げてくるものを必死に飲み込みながら、頷いた。すごくいいよとか、そんな風に誘うのはちょっと恥ずかしくて。女性を乱れさせるのが、男性の征服欲に火を付けるのだとは分かり切っていたけど、今自分がそうなっていくのは怖かった。

「彩音……お前、すべすべしてるんだな。服着てるときはがりがりに痩せていると思ってたのに、付いてるとこには付いてるし」

 そんな風に言いながら、健一の手のひらが私の身体を余す場所なく撫でていく。その動きが、柔らかくて壊れやすいものを扱っているみたいで、たまらなくなる。

 私も腕を伸ばして、彼の肩から二の腕のあたりを撫でた。

「健一だって、思っていたよりがっしりしてるね。ちゃんと筋肉付いてる」

「まあな」
 褒められたのが嬉しいのか、彼はちょっとだけ表情を和らげた。

「いつも仕事で、職人さんに混じって働いてるからな。気が付くと、建具や資材を肩に担いでるよ」

 こんな風に。近くにいても気づかなかった部分をさらけ出して、まっさらな身体を認め合う。こんなこと、一生ないかと思っていたのに。何だかすごく不思議。

 そうしているうちに、徐々に健一に余裕がなくなってきた。すごく苦しそうで、……呼吸も荒い。我慢してるんだ、堪えてるんだって分かる。健一がぎりぎりまで必死に自分を保とうとする性格なのを、私はずっと昔から知っていた。

「うっ……、くっ……!」

 背中をのけぞらせて、歯を食いしばってる。彼が何を耐えているのか、分からない私じゃない。どうすればいいのか、何をしたらいいのか、分かってるよ、ちゃんと。

「……ね?」
 じっとりと汗ばんだ首に腕を回して、耳元で囁く。

「もう……いいから」

 こんなこと、今までしたこともなかったけど。私は最初の時と同じように彼の腕を取ると、もうとっくに準備が整っているその場所に導いた。分かるよね……健一。私が、どうなってるか。

「……うわっ……」

 かすれた呻きが耳に届く。なんか、それだけですごく恥ずかしかった。指先の先端が触れて、充血したその場所がびくびくっと波打つ。ああ、私は待ってるんだ。こんなにも、待っていたんだと気づく。

「いいよ……もう」

 何とも言えない表情で私を見つめた健一は、ひとつ頷くと素早く身体をはがした。

 

 少しの間をおいて、準備を終えたらしい彼はもう一度私の上に覆い被さってくる。その動きにはまだ若干のためらいがあるみたいで、申し訳ない気分になる。私たちがこんな風になっているのは、彼のせいじゃない。こちらが誘ったから仕方なく従ってくれているんだから。

 私の間に身体を差し入れて、健一はその場所をうかがっている。そんな……ご大層なものでもないんだよ、使い古された中古品だって知ってるでしょ? 気にすることもないのに。

 ぎゅっと目を閉じて、その部分を感じながら腰を押しつける。固いものが入り口に触れて、どきりとした。でも、そんな自分を置き去りにして、なおもずらしていく。私が導いたのか、彼が進んだのか、それは分からないけど、固く閉ざされていた部分を分け入って、とぷっと先端が埋め込まれた。

「ううっ……!」

 私の肩に置かれた手に力がこもる。それが、健一の緊張だ。全身で張りつめている、必死になっている。ゆっくりとその動きに合わせて腰を浮かせる。入りやすい角度に私の中の感覚が調整してる。早く早く欲しいと、流れる血潮が煮え立った。

「はあっ……引きずり込まれそうだ。すげっ……、お前の中っ……っ!」

 ようやく奥まで辿り着くと、彼は苦しそうにそう言った。ぱんぱんにこの上なく張りつめた彼自身が、私の中でむくむくっとなおもいきり立つ。それに耐えきれずに、揺らした振動が、私にまで浸透していく。

「ふ……うぅん……っ!」

 もうこれ以上、待ってられない。そう思って、自分から動こうとした。下になっていたら、強引な体勢にはなれないんだけど、もう健一ひとりに任せておけないと思った。でも、彼はそんな私を制すると、小さく言う。

「……強引なほうが、いいんだよな?」

 

 その言葉が耳に届いたあと、もう、ふたりの間にはひとつの感覚しか存在しなくなっていた。

 いきなり最初から、激しい動きで私の中をかき混ぜる健一は、自分自身を制御できてないみたいに、心と体が別々に動いていた。身体が先で、気持ちがあとからついて行くみたいに。そんな彼に応えて、私も必死で受け止めた。

 そう広くはない部屋の中、ふたりの喘ぐ声がこだまする。それが上手く調和したり、ずれたり。なかなかリズムが揃わない。だけど、お互いがお互いを夢中で求めた。湿っぽい吐息が満ちて、素肌に汗が滲んでいく。

 

「彩音……? 苦しいか」

 見ると、健一は一度は乾きかけたはずの髪をまたしっとりさせていた。自分でも意識しないうちに、だんだん呼吸が苦しくなってくる。喉が詰まって、上手に吐き出せなくなっていた。そんな私に動きを止めた健一が、心配そうな視線を投げかけてくる。

「……ん……」
 大丈夫だよ、って言いたくて。私は無理に笑顔を作った。頭の中は野生の感覚で満ちて、ぐるぐると回っている。わずかに残った部分が、私を人間として留めていた。

「そうか」
 健一もやっぱり苦しそうに、歪んだ笑顔で私を覗き込んでる。頬に掛かった髪を払いのけてくれる。口の中が乾いて、喉が痛い。

 ふっと、目の前が暗くなって。そのまま、深く口づけられた。

「んっ……、うっ……!」

 くちゅくちゅと水音が立つ。夢中でお互いを求め合いながら、また健一が動き出す。髪の間に指が差し込まれて、地肌がざりざりと音を立てた。

「ああっ……、彩音っ、彩音っ!」

 たくさん、たくさん、名前を呼ばれた。それに返事をするだけのゆとりはもはや私にはなかったけど。身体の中心から湧き立つ感情が、やがて私の全てを覆い尽くそうとしていた。

「あんっ……、駄目っ! もうっ……、駄目なのっ……!」

 ほとんど絶叫だった。

 そう大声で叫びながら、私はその瞬間を待ち望んでいた。結合が外れるくらいに腰を引いて、また深く打ち込んでくる。計算された訳ではない、彼と私の感覚が同じ波を作りだしていくのだ。互いが互いを求め合う。打算も思惑もない、ただ深いところで繋がっていた。

「ああっ……! 健一っ……っ!」

 その瞬間が、来る。幾度となく、私を駆け抜けた前兆が流れになって溢れだし、だんだん最後の山を登り始めていた。加速して、早く早く。

「ううっ……、彩音っ……!」

 

 来る――そう思った刹那。

 突然、私の中から彼が消えた。いきなりの空白に、溢れかえっていた快感がすうっと引いていく。次の瞬間、太股のあたりに生暖かいものを感じた。

 

「はっ……はあっ……、ゴメンっ……!」

 うっすらと、視界が開ける。ぼんやりと見つめると、青ざめた表情で震えている健一の姿があった。

「おっ……俺っ、途中で訳が分からなくなっちまって……その、ゴムが外れてたみたいで。……大丈夫か、これって……その……」

 

 ゆっくり体を起こす。可哀想なくらい、肩を落とした彼。情けなく彼の前で足を開いたままの私。股の間、白いシーツの上に飛び散った残骸。それを放った彼の、慌てた姿。

「だ……大丈夫だよ、何を慌ててるの」

 一気に熱の引いた身体は、ぞくぞくと冷たいものを感じ取っていた。空調の効いたはずの室内で、私の心が凍えていく。彼が、呆然としたままこちらを見たのを感じながら、あっさりと言い放った。

「やだなあ、もう。何気にしてるの。私、今日は全然平気だから。そうじゃなかったら、最初から誘ったりしないし……」

 健一のぼんやりとした視線が、ふたりの残骸を見つめてる。

「そうか……」
 大きくため息をついて、彼は続けた。

「何だ、……そうだったのか。全くな〜格好悪いな、俺」

「そんな……ことないって、……ね?」

 無理矢理、はがされてしまった身体。求め合っていた胸が手に届く場所にあるのに遠い。あの瞬間、私は満たされていた。いつの頃からか、馴れ合いになっていた「寂しさ」との共存を、忘れきっていた。

 

 ――もう一度、あの場所に戻りたい。包まれてみたい。

 

 だけど、伸ばした腕は、彼には届かなかった。すっと、身を引くと、健一はベッドから跳ね降りる。

「おっ、俺っ……あのっ、汗だくだしっ! し、シャワーでも浴びてくるからっ……!」

 

 そのまま、一度も振り返らずに、彼はバスルームの扉に消えていく。私は、ほの暗い部屋の中。ぽつんとひとり、シーツの上に取り残された。


 

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