シャワーを止めたドアの向こうは、不気味なくらい静かだった。 間接照明しかない薄暗い部屋。そりゃ、最初は明るくしてたって、すぐに暗くするんだから必要ないと言えばそれまでだ。天井を高く造ってあるから広く見えるけど、実際は何畳くらいあるんだろうな。部屋の大きさと比較しても、かなりの面積を占める大きなベッドの上に、俯く影を見つけた。 「……どうしたの?」 ふわっと浮き上がって見えるのは、備え付けのバスローブ。それをしっかり着込んで、きちんと腰の帯も締めて。彼はタオル地の上からでも分かるくらい、体中を緊張させていた。 私が入ってきたのは分かってるはずなのに、知らない振りをしてる。ううん、そうじゃないのかな。意識して返事をしない、と言うよりは、返事が出来ないのかも。 「おっ……おい――っ、彩音……」 「何?」 彼が頭の方を陣取ってるから、こちらは足元側に。ヘッドボードの裏側に床置きの照明があるみたいで、それに照らされた健一の輪郭がはっきりとうかがえた。 「なっ……なんかっ、こういうのって、違う気がするぜ。冗談でも、やめようよなっ……!」 そう叫んで、がっとうずくまってしまう。言葉通りの「頭を抱えた」姿勢で。まくれ上がった裾から覗く膝から下。長い時間一緒にいても、実は踏み込んだことのない部分がたくさんある。結構毛深いんだな……私はぼんやりと、そんなことを考えていた。 「ふうん……そうなの?」 私は弾みを付けて立ち上がった。スプリングの効いたベッドだから、ふわんと身体が持ち上がる。一応バスタオルを合わせたところを手で押さえて。部屋の隅にある冷蔵庫を覗いて、小さな瓶を取り出す。ピンク色のカクテルだ。200mlくらいかな、スモールサイズ。ひょろりと細長いボディーの先端に付いたプルトップのわっかに指を突っ込んで開ける。 一口飲むと、強すぎる炭酸の刺激が喉をひりひりと流れ落ちた。 「でも、お金払っちゃったでしょ? 今更何言うのよ……馬鹿みたい」
◇◇◇
土を踏みしめる音だけ。白い息の向こうの健一がどんな顔をしているのかも分からない。もともとが大人しい性格だから、普段から軽口を叩かない方だ。さっきの私の話を聞いたのだから、もっともっと口が重くなって当然かも知れない。 「……寒いな……」 居酒屋は……嫌だな。他の仲間が一緒ならいいけど。ツーショットなんてしたら、すぐに噂になりそう。まあ、私はいいけどね。健一のほうが大変だよ。あとで、おばさんから嫌みでも言われたら面倒だし。 私の家……なんて、それこそ最悪か。結構建て込んでる場所にあるし、絶対に誰かに見られちゃう。 どうしよう、もしかしてこのままお互い家に帰るしかないのかな? 同性の友達なら、何とでもなるのにこんなとき面倒だなと思う。
……そうか、ひとつだけあるか。
ある場所を頭に浮かべて、私が行き先に足を向けると。健一はやはりひとことも発することなく、後ろから付いてきた。きらきら光るその場所を目指して、田舎には場違いなネオンの下をくぐっても、健一はやっぱり何も言わなかった。
◇◇◇
地元の客を意識してるのか、知ってる顔がそこに立っていたことはない。そう……結構、常連さんだったりするんだな、私は。
「3時間、ここを使ったって、使わなくたって。お金は戻ってこないんだよ? カラオケだってDVDだってあるし。おなか空いたなら、ルームサービス取ろうか? 今日は全部、おごってあげるわ。お給料日終わったばかりだし、もう使う当てもないから平気よ」 「……彩音」 情けない声、出してるんだな。早生まれだって言ったって、今年は年男でしょ? しっかりしなさいよね、まったくもう。 「何か飲む? ビールと冷酒とどっちがいい?」 確か、ポテチとかも入ってたよな〜とか考えつつ腰を浮かせると、つん、と抵抗を感じた。 バスタオルの裾を、後ろから強すぎない力で押さえてる。もちろん、何かあったらすぐに離すつもりなんだろう。振り向くと、こちらを見つめる瞳に強い怒りの色が浮かんでいた。 「やめろよ」 私がもう一度座り直したのを確認して、彼は手を離した。正直、あのまま引っ張られているのはかなりヤバイ。いつはだけるか分からないもの。まあ、そうなったときはそうなったときだと思ってたけど。 「とりあえず、服着ろよ。こんなとこはやっぱ、まずいよ。場所を変えよう」 それから、するっと視線をそらす。小さくため息を落として。 「自分のやってること、分かってんのか? 人を馬鹿にするのも、いい加減にしろ」
「――何よ」 間髪入れずに言い返していた。こういう場で強気に出られるのは、やっぱ場数を踏んでるからかなと自分が悲しくなるけど。 「馬鹿になんて、してないわよ。いいよ、もしもそう言う気があるんなら。お祝いだもん、羽目外してみる?」 「なっ……!?」 今度こそ、目にはっきりと映す怒りの表情で、健一が私を睨み付けた。微笑みをかたち取った私の頬がかすかに震える。空気の微動を感じ取ったみたいに。 「おっ……お前なんかに今更、どんな気にもなるかよっ! 俺がブチ切れる前に、どうにかしろっ!」 すぐに、言葉が荒くなる。呼吸が速くなってるみたい。自分では落ち着こうって思っているけど、それがコントロールできないのかな。こんな余裕のない健一って、ちょっと珍しい。 「……ふうん」 「別に、気にすることないのに。こんなの挨拶代わりよ、たいしたことじゃないわ。それとも何? ……もしかして、健一って男が好きだったりして? そうよねぇ、こんなにいい女とふたりきりでいて、発情しないんだもん。男性機能に支障がないんだとしたら、それしか考えられないわ」 「……」 下から見上げて覗き込むと。青ざめるのを通り越して白っぽくなった顔が見えた。唇をぎゅっと噛みしめてる。 「そっか〜、健一に浮いた話のひとつもないと思ったら、そう言うことだったのね。付き合い長いのに、気づかなかったわ〜。もう、おかしいったら。この話を篤郎や修司に言ったら、どんな顔するかしら? あいつらも気を付けないと、夜道でいきなり健一に襲われちゃったりね……」 何だろう、笑いがこみ上げてくる。あっけにとられている健一の隣で、私はおなかを抱えて大笑いした。何か言いたくて、幾度となく動きかける唇。それを視線の端に感じながら。
「いいや、そう言うことなら。これ以上、迫ったりしないから安心して……さ、時間まで飲み倒そうか?」 そう言いながら、ぴくぴく痙攣してる頬に指を触れた。その瞬間、はだけた胸元の合わせがぱらりと外れた。
「……あ……」
刺すような視線を素肌に感じ取って、慌ててタオルをたぐり寄せようとした。やだ、どうしてバスローブにしなかったんだろ。そりゃ、同じかたちの同じ色のものをふたりで着たら、それこそ……なんかなあと思った。でも、そんなことで済めば、こんな状況を回避できたのに。 「ご、ごめんっ。やっぱり、落ち着かないから服を――」
後ずさりしようとして。その前に、私の動きは阻止されてしまった。 ――コマ送りのシアター映像を見ているみたいに――視界が反転する。捕まれた手首にぎりっと骨に響くほどの痛みを感じた。
「……隠すことないだろっ……」 天井に映るたくさんの影が揺らめく。照明が色んな場所から当たるから、ひとりしかいないはずの身体がいくつもの動きを作る。それを、ベッドに仰向けに倒された私は不思議な心地で見つめていた。 「あっ……彩音っ……!」 肩で大きく息をして、そのたびに影が揺れる。ぼんやりとした視界。自分の目が潤んでいることにその時気づいた。 「くっ……!」 私の上に四つんばいになって、健一が辛そうに身体を震わせる。大きく首を横に振り、何かを必死で払おうとしていた。 「だからっ……っ、駄目だって言ったじゃないかっ! 人の忠告は素直に聞くんだよ……っ!」 ゆっくりと暖まった身体は、更に熱を帯びていた。上気した頬が、額が、腕が、胸が……とにかく彼の全てが何かにたぎっていた。そして、それを必死に押しとどめようとしているのも彼。 「服を……着てくれ」 腕から束縛が剥がれる。私の両脇に腕を付いたまま、彼はもう一度大きく深呼吸した。みしっと、ベッドがきしむ。 「……」
何だろう、これ。 私は今まで感じたことのなかった、不思議な心を感じ取っていた。つんと鼻の先が痛くなる。このままだと、何かに置き去りにされる。こんな風に、押さえてはいけない。今、私がすべきことはひとつしかない。
右手を伸ばして、がちがちに固くなった浅黒い腕に触れた。つううっと指で辿って、手首を掴む。呆気にとられた彼が、素直に力を抜いてくれたので、そのまま自分の思い通りに導くことが出来た。 「……いいんだよ、無理しなくても」 呆然とこちらを見つめる瞳に、ゆっくりと微笑みかける。何かをぎりぎりに堪えながら、それでも私は。 「けど……」 「このまま、上から押さえつけられたら、痛いし苦しいよ。もっと、優しくして。……分からない? あまり力は入れないで……柔らかいでしょ?」 そうじゃないって言われたら、返事のしようもなかったけど。だって、他の女の人のなんて触ったことないもん。緊張した面持ちの健一が、神妙に頷くのが嬉しかった。 「こう……か?」 「はぁ……んっ」 やはり本能なのだろうか。健一のそれは、少しの時間に驚くほど上達した。 最初は恐る恐るさすっているという感じだったのに、みるみるうちに滑らかな手つきに変化する。頂の上に咲いたつぼみを器用に摘み取り、それを口に含む。音を立てて吸い上げられると、おなかの奥からどくどくっと何かが溢れてきた。彼の肩を掴んだ手に、力がこもる。 「……感じてるのか?」 荒い呼吸の狭間で、健一が不安そうに訊ねてくる。私はこみ上げてくるものを必死に飲み込みながら、頷いた。すごくいいよとか、そんな風に誘うのはちょっと恥ずかしくて。女性を乱れさせるのが、男性の征服欲に火を付けるのだとは分かり切っていたけど、今自分がそうなっていくのは怖かった。 「彩音……お前、すべすべしてるんだな。服着てるときはがりがりに痩せていると思ってたのに、付いてるとこには付いてるし」 そんな風に言いながら、健一の手のひらが私の身体を余す場所なく撫でていく。その動きが、柔らかくて壊れやすいものを扱っているみたいで、たまらなくなる。 私も腕を伸ばして、彼の肩から二の腕のあたりを撫でた。 「健一だって、思っていたよりがっしりしてるね。ちゃんと筋肉付いてる」 「まあな」 「いつも仕事で、職人さんに混じって働いてるからな。気が付くと、建具や資材を肩に担いでるよ」 こんな風に。近くにいても気づかなかった部分をさらけ出して、まっさらな身体を認め合う。こんなこと、一生ないかと思っていたのに。何だかすごく不思議。 そうしているうちに、徐々に健一に余裕がなくなってきた。すごく苦しそうで、……呼吸も荒い。我慢してるんだ、堪えてるんだって分かる。健一がぎりぎりまで必死に自分を保とうとする性格なのを、私はずっと昔から知っていた。 「うっ……、くっ……!」 背中をのけぞらせて、歯を食いしばってる。彼が何を耐えているのか、分からない私じゃない。どうすればいいのか、何をしたらいいのか、分かってるよ、ちゃんと。 「……ね?」 「もう……いいから」 こんなこと、今までしたこともなかったけど。私は最初の時と同じように彼の腕を取ると、もうとっくに準備が整っているその場所に導いた。分かるよね……健一。私が、どうなってるか。 「……うわっ……」 かすれた呻きが耳に届く。なんか、それだけですごく恥ずかしかった。指先の先端が触れて、充血したその場所がびくびくっと波打つ。ああ、私は待ってるんだ。こんなにも、待っていたんだと気づく。 「いいよ……もう」 何とも言えない表情で私を見つめた健一は、ひとつ頷くと素早く身体をはがした。
少しの間をおいて、準備を終えたらしい彼はもう一度私の上に覆い被さってくる。その動きにはまだ若干のためらいがあるみたいで、申し訳ない気分になる。私たちがこんな風になっているのは、彼のせいじゃない。こちらが誘ったから仕方なく従ってくれているんだから。 私の間に身体を差し入れて、健一はその場所をうかがっている。そんな……ご大層なものでもないんだよ、使い古された中古品だって知ってるでしょ? 気にすることもないのに。 ぎゅっと目を閉じて、その部分を感じながら腰を押しつける。固いものが入り口に触れて、どきりとした。でも、そんな自分を置き去りにして、なおもずらしていく。私が導いたのか、彼が進んだのか、それは分からないけど、固く閉ざされていた部分を分け入って、とぷっと先端が埋め込まれた。 「ううっ……!」 私の肩に置かれた手に力がこもる。それが、健一の緊張だ。全身で張りつめている、必死になっている。ゆっくりとその動きに合わせて腰を浮かせる。入りやすい角度に私の中の感覚が調整してる。早く早く欲しいと、流れる血潮が煮え立った。 「はあっ……引きずり込まれそうだ。すげっ……、お前の中っ……っ!」 ようやく奥まで辿り着くと、彼は苦しそうにそう言った。ぱんぱんにこの上なく張りつめた彼自身が、私の中でむくむくっとなおもいきり立つ。それに耐えきれずに、揺らした振動が、私にまで浸透していく。 「ふ……うぅん……っ!」 もうこれ以上、待ってられない。そう思って、自分から動こうとした。下になっていたら、強引な体勢にはなれないんだけど、もう健一ひとりに任せておけないと思った。でも、彼はそんな私を制すると、小さく言う。 「……強引なほうが、いいんだよな?」
その言葉が耳に届いたあと、もう、ふたりの間にはひとつの感覚しか存在しなくなっていた。 いきなり最初から、激しい動きで私の中をかき混ぜる健一は、自分自身を制御できてないみたいに、心と体が別々に動いていた。身体が先で、気持ちがあとからついて行くみたいに。そんな彼に応えて、私も必死で受け止めた。 そう広くはない部屋の中、ふたりの喘ぐ声がこだまする。それが上手く調和したり、ずれたり。なかなかリズムが揃わない。だけど、お互いがお互いを夢中で求めた。湿っぽい吐息が満ちて、素肌に汗が滲んでいく。
「彩音……? 苦しいか」 見ると、健一は一度は乾きかけたはずの髪をまたしっとりさせていた。自分でも意識しないうちに、だんだん呼吸が苦しくなってくる。喉が詰まって、上手に吐き出せなくなっていた。そんな私に動きを止めた健一が、心配そうな視線を投げかけてくる。 「……ん……」 「そうか」 ふっと、目の前が暗くなって。そのまま、深く口づけられた。 「んっ……、うっ……!」 くちゅくちゅと水音が立つ。夢中でお互いを求め合いながら、また健一が動き出す。髪の間に指が差し込まれて、地肌がざりざりと音を立てた。 「ああっ……、彩音っ、彩音っ!」 たくさん、たくさん、名前を呼ばれた。それに返事をするだけのゆとりはもはや私にはなかったけど。身体の中心から湧き立つ感情が、やがて私の全てを覆い尽くそうとしていた。 「あんっ……、駄目っ! もうっ……、駄目なのっ……!」 ほとんど絶叫だった。 そう大声で叫びながら、私はその瞬間を待ち望んでいた。結合が外れるくらいに腰を引いて、また深く打ち込んでくる。計算された訳ではない、彼と私の感覚が同じ波を作りだしていくのだ。互いが互いを求め合う。打算も思惑もない、ただ深いところで繋がっていた。 「ああっ……! 健一っ……っ!」 その瞬間が、来る。幾度となく、私を駆け抜けた前兆が流れになって溢れだし、だんだん最後の山を登り始めていた。加速して、早く早く。 「ううっ……、彩音っ……!」
来る――そう思った刹那。 突然、私の中から彼が消えた。いきなりの空白に、溢れかえっていた快感がすうっと引いていく。次の瞬間、太股のあたりに生暖かいものを感じた。
「はっ……はあっ……、ゴメンっ……!」 うっすらと、視界が開ける。ぼんやりと見つめると、青ざめた表情で震えている健一の姿があった。 「おっ……俺っ、途中で訳が分からなくなっちまって……その、ゴムが外れてたみたいで。……大丈夫か、これって……その……」
ゆっくり体を起こす。可哀想なくらい、肩を落とした彼。情けなく彼の前で足を開いたままの私。股の間、白いシーツの上に飛び散った残骸。それを放った彼の、慌てた姿。 「だ……大丈夫だよ、何を慌ててるの」 一気に熱の引いた身体は、ぞくぞくと冷たいものを感じ取っていた。空調の効いたはずの室内で、私の心が凍えていく。彼が、呆然としたままこちらを見たのを感じながら、あっさりと言い放った。 「やだなあ、もう。何気にしてるの。私、今日は全然平気だから。そうじゃなかったら、最初から誘ったりしないし……」 健一のぼんやりとした視線が、ふたりの残骸を見つめてる。 「そうか……」 「何だ、……そうだったのか。全くな〜格好悪いな、俺」 「そんな……ことないって、……ね?」 無理矢理、はがされてしまった身体。求め合っていた胸が手に届く場所にあるのに遠い。あの瞬間、私は満たされていた。いつの頃からか、馴れ合いになっていた「寂しさ」との共存を、忘れきっていた。
――もう一度、あの場所に戻りたい。包まれてみたい。
だけど、伸ばした腕は、彼には届かなかった。すっと、身を引くと、健一はベッドから跳ね降りる。 「おっ、俺っ……あのっ、汗だくだしっ! し、シャワーでも浴びてくるからっ……!」
そのまま、一度も振り返らずに、彼はバスルームの扉に消えていく。私は、ほの暗い部屋の中。ぽつんとひとり、シーツの上に取り残された。
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