TopNovel短篇集・2 Top>遠ざかるアリス・4


scene 2…

 

 

 3ヶ月。それだけあれば、どうにかなると思った。

 新年が明けたばかり。1月のうちに、職場の身辺整理をして辞表を出す。そうすれば、どんなに手間取ったって2月中には退職できるはず。家を引き払って、どこか遠くの街に行ってしまおう。ゆっくりと助走して、徐々に加速して――私は、飛び立つのだ。

 

◇◇◇


「じゃ……、またな」
 元々言葉の少ない人が、もっと無口になって。ホテルを出たあと、分かれ道まで来てようやく彼はぽつんと言った。

「うん……じゃあね」

 最初から、期待してなかった。それどころか、こんな風にして、長い時間の友情を台無しにしてしまうことも分かっていた。分かっていたのに……止まれなかった。あの瞬間、どうしても彼が欲しかった。

 婚約までした男に振られて、自暴自棄になっていたと思われているんだろうな。それでいいと思う。健一には余計な物思いはさせたくないから。この町に戻ってきて、新しい一歩を踏み出す。輝かしい未来には一点のシミもあってはならない。彼は……あの心のままに、まっさらでいて欲しいから。

 健一は、この町で当たり前に幸せになるんだから。

 

 ふたりのことは、もちろん秘密だった。

 日暮れあとの闇の中。あの場所に紛れ込んだ私たちを、狭い町のっ人々は知らない。それは分かってる。だって、健一の家のおばさんも、変わりなく挨拶してくれるもの。息子を寝取った女だと知ったら、とてもあんな風に晴れやかな笑顔にはなれないと思う。毎日のように買い物袋を下げて商店街を闊歩して、花嫁探しに精を出しているらしい。

「かなり、熱が入ってるわよねえ……」
 酒屋の店先で、恭子が苦笑した。すっかりおかみさんらしくなって、割烹着まで着て。同じ年なのに、結婚してお母さんになると、どうしてこんなにも違うんだろう。もちろん彼女も、私と健一のことなんて知らないから、色んな噂をせっせと伝えてくれる。親しい幼なじみの、成り行きを。

「健一が戻ってきたら、飲み会の回数が増えそうだなあ。私はそんなに毎回出られないし、こんな時に口惜しいわ。どうして、女ばかりに負担が掛かるんだろ。子作りは共同作業なのにさ、出てきたあとは女がやって当たり前なんだもの」

 誰よりも仲間を大切にしてきた健一だ。仲間内で集まるときも、みんなに声を掛けてくれた。自分はさっさと遠くの街に行ってしまったというのに、ここに残った私たちよりもよっぽど故郷に執着していた気がする。

 ようやく、夢が叶うんだね。おじさんや、同じ立場の大工さんや職人さんが気持ちよく仕事できる環境を創り出すために、これから健一の新しい挑戦が始まるんだ。正直、名前の知れている大手の工務店と競うのは大変だと思う。最初は上手く行かないと思う。だけど、きっと健一なら大丈夫。10年後、20年後の健一の姿が、瞼を閉じるとありありと浮かんでくるよ。

 

 ……良かったね、健一。

 

 今頃きっと、残務整理に追われているんだろう。なんだかんだ言って、丸4年もお世話になった職場だ。お得意さん回りだけでも大変だろうな。今、手がけている仕事は順調に行ってるんだろうか。

「なあ、聞いてくれよっ! 俺、感激しちまってさ……」

 あの蒲公英の丘で、振り向く笑顔。私に自分の武勇伝を語ってくれるときの彼がとても好きだった。彼が幸せそうに微笑むと、私まで満たされたから。誰よりも、この町から飛び出していきたかったはずの私がうだうだしながら留まっているうちに、他の仲間は着実に夢に向かって邁進している。

 

 飛べない鳥が地上に足を踏ん張ったまま、空を行く渡り鳥を眺めているみたいだ。ひとりだけ、置き去り。取り残された私。

 羽ばたく術を知らないなら、頼りない二本の足で歩いていこう。この町には何の未練もない。残していくものもないんだから。

 

 ――あの丘で、私を待っている背中はもう存在しないんだから。


 心のどこかで、切り捨てたかったのかも知れない。今まで理想的な距離感を保っていた男女の友情が、たった一度関係を持ったことで脆くも崩れ去ってしまう。そんな当たり前の事実は知っていた。だからこそ、私は求めたのだろう。

 過去に一度もそんな感情が湧かなかったかと言えば、それは不透明だ。男と別れるたびに、ぽっかりと空洞の出来た心で健一と会って、その瞬間にふっと頭の隅っこを過ぎった「期待」があった。こんな風に、毎度毎度、帰省のたびに顔を合わせるんだ。彼だって、私と再会することを喜んでいる。昔なじみの懐かしい思い出に巡り会うのを心の拠り所にしてるんだ。

 ……だったら。

 友情以上のものを、健一は抱いていてくれないだろうか。寂しい私の心を全部包み込むほどの大きなものを。この町も、人も、家族も、全部捨ててもいいから。私が欲しいと思ってくれないだろうか。

 ――違うな、そんなはずない。健一はこの町が好きで、人を家族をとても大切にしている。弟たちの面倒もよく見ていたし、帰省したときには近所の子供たちの家庭教師まで引き受けていた。私のことだって、この風景の中にいるから、付き合ってくれているだけ。ここに留まっているから、相手にしてくれているだけなんだ。

 

 あの日、健一は寂しそうだった。とても後悔しているみたいだった。それが辛くて……でも、ホッとした。これで、もう私には何も残っていない。子供の頃から頼り切っていた最後の糸がぷっつりと切れて、今度こそここに未練がなくなる。健一に申し訳ないって思ったら、もう……この町にはいられないから。

 彼が戻ってくる前に、春が来る前に。ひとりでひっそりと消えていこう。

 それこそが、私のただひとつ望んでいた生き方。いつかこの町を捨てて、飛び立ってやる。子供心にもそう思ったじゃないか。最後まで飛べなかった母親の分まで、高く高く飛んでいこう。……当てもない空に。

 

◇◇◇


 それなのに。

 立春を少し過ぎて。まだまだ辺りは寒々しい風景だったけど、私にとって予想外の出来事が起こってしまった。週明けの月曜日、仕事を上がって家路を急いでいると。健一の家の前に、青い車が止まっていた。

 

「……嘘」

 ナンバーと、中のシートを確認する。間違いない、これは健一の車だ。……どうして、こんなに早く戻ってくるの?

 私はコートのポケットに手を突っ込んだ。かさりと指に当たるもの。まだ、辞表は提出してなかった。上司に話すらもしてない。正月は何かと忙しくて、なかなか切り出せなくて。まあ、結婚が決まりそうだった頃、仕事をいつ辞めるかも知れないと話したことがあった。だから、それなりに心づもりはあるのだろうな。4月には高卒の採用だって取れるのだから。

 あと1日、もう1日と延ばしているうちに……健一のほうが先に辿り着いてしまうなんて。

 

 私は振り返ると、夕日に照らし出された遠くの丘を見た。ここからではだいぶ距離があるし、そこに待っている人がいるかどうかは分からない。あんなことがあって、私たちはその後一度も連絡を取り合っていなかった。今まではぽつんぽつんと忘れた頃に、近況を訊ねる電話が入っていたのに、それも途絶えていた。

 しばらく、ぼんやりとうかがったあと、そのままきびすを返す。あの丘には行かず、まっすぐに家に戻った。

 


 健一は、何か書類でも取りに来ただけだ。すぐに帰るはずだ。

 心の中で、何度も何度も呪文のように唱えた。今まで、こんなに短い間隔で帰省してきたことはなかったもの。3ヶ月も4ヶ月も経ってから、ふらりとやってくる。それが常だった。

「なあっ! 聞いてくれよっ……!」

 彼が瞳を輝かせながら語るのは、私の全然知らない世界の出来事。大きな街に暮らして、絶えず様々な人々と出会う仕事をして。この町に戻ってくる頃には、無口なはずの性格がどこに行ってしまったのかと言うほど、舌が滑らかに動くようになっていた。

 一ヶ月しか、経ってない。新しく話す内容もないよね? ……ううん、それよりも。私になんて、もう会いたくないはずだ。

 

 だのに。2日経って、3日経って。それでも車は止まっている。私がその前を通るのは、朝と夕方の二回だけ。でも、そのいつの時も、必ず青い車が私の目に映った。まるで「ここにいるよ」って、私に語りかけているみたいに。諦めきっているはずなのに、まだ心のどこかで期待してる。そんな自分が情けなくて、胸が詰まった。

「何だ、彩音もまだ会ってなかったの?」

 お醤油が切れたので買いに行った先で、恭子に訊ねられた。私がきょとんとしていると、向こうも不思議そうな顔をしてる。

「何でもね〜ウチのが道ばたですれ違って。ほら、正月の不義理もあったでしょ? 夜に呑みに行こうって誘ったんだって。でも、健一はあっさりと断ったって。今はそんなときじゃないとか言ったんだってよ?」

 恭子にまとわりついている女の子。だんだんお口が達者になってくる。少し人見知りみたいだけど私には慣れていて「あ〜ちゃん、こんにちはっ!」と声を掛けてくれる。

 愛されることしか知らない小さな手のひらは、ふわふわしてどんな夢も容易く手に入れられそうだ。

「……健一、戻ってるんだ」

 昼間、家に行っても留守なんだって。毎日、何やってるのかしらねえ〜と、恭子が首をひねる。

 車だけ置いて、自分は戻ってしまったんだと期待したが、そうじゃないのか。それにしても、こんな狭い場所で一度もすれ違わないなんて。やっぱり私を避けているのかな? まあ、そうされても仕方ない理由があるんだからなあ。

 

 恭子の店から出て、またあの丘を仰ぎ見た。健一は、あそこにいるんだろうか? ……まさか、でも。

 紅く染まった空を、鳥たちが飛んでいく。黒いシルエット、山の巣に戻るのだろう。鳥たちにだって、ちゃんと家がある。それなのに、どうして私だけ。私だけ、たどり着く場所がないのだろう。

 つう、と頬に何かが流れていく。とっくの昔に忘れていた感情が蘇ってきた。

 

◇◇◇


 一月ぶりにその場所に立つ。まだまだ寒いばかりだけど、それでも木々の枝からは若草色の新芽が顔を出し始め、そこここに気の早い草花が咲き出している。季節は確実に移りゆく、私の心だけ置き去りにして。

「……お帰り、遅かったな?」

 くわえていたタバコを足元に落として。それを踏みつけながら振り向く。変わらない微笑みに、それ以上傍には行けなくなった。ひとりでに足が止まる。

「何、してるの?」

 いったい何と声を掛けたらいいのか、私はここに来るまでの道すがら、ずっと悩んでいた。「この前はどうも」とか「あのときはゴメン」とか……そんなのって何だかおかしいし。それに健一が必要以上に気にしていても、全然忘れていても、どちらでも都合が悪いなと思った。

「有給消化。頑張りすぎたらしくてさ、……規定で休まなくちゃまずいんだって」

 いつも通りの。いつもと同じ健一だった。それが嬉しくて、寂しい。あんなことがあって、私たちは変わってしまったと思っていたのに。健一の中では、私との関係は同じままなんだろうか? もしかして、あの日のことはすっかりと忘れてしまったのかな。

「ふうん」
 こちらとしても何気なく応えなくてはならないのだろう。それなのに、声が震える。気の利いた言葉も思い浮かばなくて、私はすぐに口をつぐんだ。

 健一はそんな私ににっこりと微笑みかけてから、おもむろにその辺に落ちている木の枝を拾い上げる。それで土の上に線を書き始めた。

「……?」

 何しているんだろうと、不思議に思って眺めていると、だんだんかたちが見えてくる。大きな四角をいくつもいくつも書いていく。やがて、それが家の間取りだと分かるまでにしっかり描かれた。よく、家を建てる前に、ビニールの紐で囲って地面に形作るけど、ちょうどそんな感じ。実物大に書いてるんだ。広い草原の一角が、いつの間にか建設予定地に変わっていた。

「こっちが二階な。ちょっと逆転の発想で、二階をパブリック・スペースにしてみたんだ。
 南側が台所とリビング。ほら、大きな窓を付けたから、光がたくさん入るんだぞ。西側の一角はふすまで仕切れる畳の間にする。段差はわざと付けて、座って椅子代わりにも出来るんだ。
 北側にバスルームなんかの水回り。風呂場の屋根は硝子張りにして、星空が見られるようにするんだ。もちろん、二重になってるペア硝子を使うから曇らないんだ。寝そべって入れる、ジェットバスにして、洗面台はシャンプーの出来るやつな」

 そこまで言うと、またなにやら書き足してる。すっかりと出来上がっていた外壁の回りをまたぐるりと囲っていく。

「南側から西側まで、広いウッドデッキを造る。晴れた日にはテーブルを出して、そこで食事するんだ。焼き肉とか家の中でやるとにおったり脂が飛んだりするしな。そうだ、夏は部屋の中に日差しが入りすぎないように南側に棚を造ろう。朝顔とかヘチマとか、そう言うのでいいかな?」

 まるで、その場所に立ってるみたいに、踏みしめたり身を乗り出して遠くを見たりする。両手を広げて、位置を確認したり、柱の場所を悩んだりして。やがて、うんうんと何度も頷くと、階段みたいに書いてあるところをぐるりと回りながら降りる真似をした。

「で、一階が個室のスペース。子供部屋は広く取って、ゆくゆくは仕切れるようにする。最初から何もかも区切るのは無意味だし、そう言う間取りにすると子供が小さいうちは物置状態になっちまうんだぞ。
 ……この一番広くて立派なところが夫婦の寝室。クローゼットを別にとって、無駄なものを置かないようにしよう。そのほうが広く使えるしな……寝るためだけの部屋なんて味気ないと思ってたけど、そう言うもんじゃないんだって分かったよ」

 ――何をしてるんだろう、この人。

 私は目の前にいる、全てを知り尽くしているほどなじみ深い男が、訳の分からない遠い人になってしまった気がした。こんな風に説明する意図が見えない。……何のために、今、こんな話をするの?

 何となく。家の説明を始めたとき。お正月の時に言っていた、自分が全部任された設計のことを話してくれるのかと思った。今までも、仕事のことを私が理解できなくても延々としゃべる傾向にあったから、今回も同じかなと。それにしても、長い話だ。窓の位置やドアの仕様、取っ手をレバーにするかノブにするかまで事細かに考えていく。

 素人目に見ても、全てをゆったりと贅沢に造られた家だと言うことが分かる。お金もかなりかかりそうだけど、住んだらとっても満足できるんだろうな。

 

 子供みたいに大はしゃぎで説明してくれる。本当に今の仕事が楽しいんだろうな。これからもずっと、こんな風に健一は輝いて行くんだろう。私はその姿を追うことが出来ない。眩しすぎて、目をそらしてしまうから。

 

「……彩音?」

 思い切って、ベッドはこんなにしようかなと部屋の半分くらいの大きさの四角を書いて、その上に立つ。息つく暇もなくあれこれと説明していた彼が、その時ようやく私を振り返った。

「こんな家があったら、住みたくならないか?」

 

「――え?」

 思わず、聞き返していた。いきなり戻ってきた現実に頭が付いていかない。だって、今の今まで、私は気づいたら、夢の住人になっていたのだから。

 

 健一の説明を聞いているうちに、ただの平面図が私の中でしっかりとかたち取られていった。あるはずのない壁が現れて、広い窓にはゆったりとしたカーテンを掛ける。キッチンのシンクの大きさや蛇口のかたち、ダイニングに置くテーブルの色も見えてきた。

 ――夫婦の寝室は、間接照明がいいな……なんて考えていたとき、おもむろに名前を呼ばれたのだ。

 

「うっ……うんっ、そりゃ。ステキだと思うわよ、……でも」
 何故だろう、すごく恥ずかしい。頬が熱くなって、思わず俯いてしまった。

 健一が考えた間取りだ、きっとこんな風に説明してくれるんだから、自信作なんだろう。だったら「住んでみたいな」と答えるのが最高の褒め言葉なんだと思う。……なのに。

 

 もしも、そんな風に言ったら……何だか、それって。

 

「どうなんだよ?」

 健一らしくないな、相手に答えを強要するなんて。私は足元の凍えた草を眺めながら、唇を噛みしめた。

「実際に、こういう家が建っていて。そこに住んでいいぞと言われたら、お前どうする?」

 ゆっくり顔を上げる。

 視線の向こう、いつの間にか自分の書いた図面の上に座り込んでいる彼がいた。本人が寝室だ、と言ってベッドのつもりで書いた四角の上、どっかりと腰を下ろしてる。ふわふわの雲みたいな布団が、見えるはずもないのにそこにあるような気がする。

「一緒に住もうって、俺が言ったら、お前どうする……?」

 

 日がすっかりと西の山の向こうに落ちて、闇が辺りを覆い始める。ゆっくりと羽ばたきのかたちで広げられた腕。私を待っている鼓動に、気づくと飛び込んでいた。

 

「馬鹿っ……、一体、何言い出すのよっ!」

 自分の中から溢れてくるものが止まらない。ずるずるっと情けない音を立てて、鼻をすすり上げると、背中に回った腕にぐぐっと力がこもった。

 

 しばらく。お互いの呼吸が整うまで、私たちは土の上で無言のまま抱き合っていた。

 遮るものの何もない草原。ちらちらと灯り出す丘の下の窓たち。今まで感じたことのない、熱いぬくもりの中で、秒刻みに変わっていくありふれた風景を見つめていた。

「この一月、お前のことしか考えてなかった。すぐにでも連絡したくて、でもお前がそんなことを望んでないって知っていたし……引き留めちゃいけないんだって、思ってた――けど」

 どこかでけたたましいクラクションの音がする。ああ、ウチの裏のご主人だ。毎晩、帰宅するとけたたましい音を鳴らす。でも、それがいつでもぴったり6時なので、みんな時報代わりにしてるんだ。そんなことが普通に行われている土地。みんながみんな、自分を模索しながら、それでも寄り添って生きている。

「もう、諦めきれなかったんだ。お前が、ここを出て行くのを望んでいると知っていたのに。誰よりも、分かってやりたかったのに、それが……どうしても出来なくて。いくら、振り払おうとしても、お前との未来しか浮かんでこない。いくつ図面を引いても、お前と住む家しか作れないんだ。――どうしていいのか、分からないんだよっ……!」

 それは私にとって、二度目に感じる健一の激しさだった。あの日、私を抱きしめてくれたとき。あまりの熱さに酔いしれていた。我を忘れて求めてくれるのが嬉しくて仕方なくて、こんな風にしてはいけないと言う自制の気持ちも吹っ飛んでいた。

「早くしないと、お前がどこかに行っちまいそうな気がして怖かった。せっかく戻ってきたのに、お前は会いに来ないし……知らないだろ、お前、ストーカーされてたんだぞ」

「……え?」
 いきなり変なことを言い出すから、思わず顔を上げて健一を覗き込んでしまった。私の視線を感じた彼は顔を真っ赤にしてそっぽを向く。

「本当に、お前がまだこの町にいるのか不安だったんだ。もしかして、もう他に男でもいるのかって。夜な夜なお前の家の回りを徘徊するから、お袋に辞めろって随分言われたよ。どうして、言いたいことがあるなら直接、面と向かって言わないんだって。お前は父親そっくりだって」

「……?」
 何で、そこに健一の家のおじさんが出てくるんだろう。もう訳が分からなくなってしまう。そんな私に健一は苦笑いしながら教えてくれた。

「どうもさ、俺の親父って、彩音の母ちゃんが好きだったらしいんだ。でも、とうとう言えずじまいで、他の男に取られちまって。男のくせにおんおん泣いて、本当に情けなかったって、お袋がこの前ようやく教えてくれた」

 ――お前の母ちゃんに何かと突っかかっていたのもそのせいだったらしいぜ、なんておどけてみせる。私の頭の中は色んな事で、ごちゃごちゃになって、自分では収拾付かないほど混乱していた。

「お前を幸せにするのは俺じゃないって、俺じゃ駄目なんだって、長いこと自分に言い聞かせていた気がする。だけど……お前の母ちゃんの葬式の時、我が物顔でお前の隣を陣取る男がどうしても許せなかった。あいつのほうがお前にとって必要な男だって知っていても、我慢が出来なかったんだ。……口惜しかった、マジで」

 私は黙ったまま、健一にしがみついた。とっくに彼の一部になっているタバコの香りが鼻を突く。

 

 本当は……私もそうだった。母親が死んで、あっという間に骨になって。小さく変わり果てた姿を見たときに、本当は大声で泣きたかった。でも……あの人の前ではそんな自分をさらけ出すのは怖かった。いつも何かを我慢して、気丈に振る舞う私がいた。しっかり者の顔をして、あの人を甘えさせてあげるのが望まれた立場だったから。

 ――参列者の中で、私と同じ色の悲しみを持ってくれていた健一と、心を分かち合いたかった。でも、あの場でそれは許されることじゃなかったから。

 健一は私の全てを包み込んでくれる。それを知っていた。甘えちゃ駄目だと思っていたのに、心がいつでも求めていた。私の夢を叶えてくれないと知っていたのに……この町から飛び立つ羽をくれる人じゃなかったのに……!

 それでも、傍にいたい。これからも健一の夢の一番近くにいて、一緒に喜んだり悩んだりしたい。今までずっとそうだったように、健一の隣にいたい。誰よりも傍に。

 

 本当に……それが、叶うの? いいの、それで……?

 

「うっ……っ!」

 しばらく。今までの雄弁さが嘘のように、押し黙っていた健一がいきなり苦しそうに呻いた。私を抱く身体がギリギリと緊張して、熱い。

「だっ、駄目だっ――やりてえっ……!」

 

 ――え……?

 いきなり大声でそう叫んだ健一は、次の瞬間に私を抱きかかえるように勢いよく立ち上がっていた。そして、せっぱ詰まった表情で私を見つめる。

「行こうっ! ……彩音っ、今夜は一晩中だぞっ! もう、あんなコトしたら我慢できなくなっちまったんだからなっ……、お前のせいで限界なんだよ!」

「えっ!? ちょっとっ……やだっ、待ってよっ……!」

 もうっ! いきなり何で、そうなるのよっ……! 私は慌てて束縛を逃れると、服の乱れを整えた。どうしたんだろ、健一は。なんかもう、ここで押し倒されちゃいそうな勢いで怖い。でも、嫌がって振り払ったと思ったのか、すっごく悲しそうな顔をするからちょっと可哀想になる。

「あ、あのさっ……そんな、お金のかかるとこじゃなくても。嫌じゃないなら、ウチに来てもいいよ。ひとり暮らしなんだしさ?」

 気を利かせてあげたつもりだったのに、健一はすごい勢いで頭を振る。

「だっ、駄目だっ! ――あそこは壁が薄いから、音が漏れるっ! いいのかっ、近所中の噂になるぞっ! 淫乱だって言われたら恥ずかしいだろっ!」

 

 呆然としている私の腕をぐいと引くと、そのままずんずんと大股で歩き出した。そして、背中を向けたままで言う。

「――新居の寝室は、完全防音にするからな」

 

 まだ茎も伸びていない、葉っぱしかない蒲公英の原っぱ。闇に包まれた空間に、一斉に綿毛が飛び立つ幻影を見た。私の回りにふわふわと浮遊していた、かたちにならない羽毛たち。もしかしたら、心を巣くっていた闇が、その瞬間に浄化したのだろうか?

 

 ……もしかして、私はまだアリスになれるのかも知れない。

了(040115)


 

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