TopNovel>「春は桜」と言うけれど・3




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「なぁに〜? あんた、また今井の手伝いするの? そんなの放っておけばいいじゃない、何いいように使われてるのよ」
 ばっかじゃないのと早紀に言われても、何も言い返せなかった。
「今井」っていうのは例のクラス担任の名前。あたしはこのところの放課後はずっと先生の手伝いをしてる。とは言っても、難しいことはひとつもないよ? 配布のプリントの印刷とかホチキス止めとか、そんなのばっかり。
「私は外部の人間ですからね、このような下働きしかさせてもらえません。でも、それでも感謝しなければ。勤めていた高校をリストラされて途方に暮れていた私を拾ってくださったのは、他でもないここの同窓会長様なのですから」
 弱々しい微笑みに、この上ない哀愁が漂う。ああ、やっぱり人生を背負ってるって感じだなー。公立学校とは違って「60歳の定年」がない私立高校だけど、それでも普通ならリタイヤ間近の年齢な先生がこんな風に雑用ばかりを押しつけられているのってイジメに近いものがあると思うよ。
  あれやこれやと手伝いをしているうちにちょっとずつ雑談っぽいやりとりをするようになってきたけど、先生って今独身なんだって。バツイチでふたりのお子さんは別れた奥さんが育ててるそうだ。詳しくは聞けないけど、やっぱリストラとかそう言うのが響いているんだろうなー。オトナの世界って、本当に大変だ。
 職場でも窓際族で、その後コンビニ弁当やスーパーの値引きお総菜を見繕ってひとりの部屋に戻るのか。それでもほとんど会うこともないお子さんたちの成長がなによりも楽しみだとか言うのが泣ける。
「これからますます教育費とか掛かるようになりますからね、切りつめられるものは切りつめないと」
 一男一女。上の男の子はあたしたちより1歳年下で今年高校受験だって。へええ、そうやって言われるとすごい身近。本当に先生もお父さんなんだなとしみじみしちゃう。でもウチのパパよりだいぶ老けてるな。やっぱ並々ならぬ苦労をしてるからなんだろう。
「だから、こういうのもね。出来ることなら遠慮したいところなんですが……こればっかりはお付き合いですから」
 明日の学年集会の時に配布する進路指導用の印刷物を閉じ終えて次に先生が取り出したのは、開封口が紐でぐるぐる止めてある分厚い封筒にまとめて入っている集金袋の束。何十もある封筒のひとつひとつにウチの学校に勤務する先生方の名前の印が押してあって、月々の領収印が1年分押せるようになっていた。
「互助会の積み立てにプラスして、学年旅行用の費用やその他の諸雑費。毎月給料日に合わせて集金するのですが、何しろおひとりずつ金額が違っていましてね。それをいちいち確認するだけで気が遠くなるような作業なんですよ。それに、少額ずつでも全職員の分を合わせると相当なものになりますしね、照合を終えて銀行に預け終えるまでは生きた心地がしませんよ」
 具体的な数値を聞くと、またびっくり。そうだよね、ひとり5千円としてもウチの学校の教職員は80人を越えるって言うもん。……げげ、40万円っ!?
「いやいや、そんな単純計算では片が付かないんですよ」
 ようやく今日のお昼休みに最後のひとりの集金が終わったそうで、先生は細かく区分けしたノートにちまちまとチェックをしていく。そして、改めてぱちぱちと電卓を叩いて。
「三学年担当の先生方は卒業年度ですしね、学年末の職員旅行も豪勢に沖縄や年によっては韓国などにいらっしゃるんですよ。そのために積立額も大幅アップしまして……」
 うわ、65万円っ! あのふくらんだ封筒の中には、そんな大金が入ってるのっ……!?
 恐ろしい現場を目の当たりにしてしまって、何とも落ち着かない気分だ。そりゃあさ、ウチの学校ってお金持ちの家の子供がいっぱい来てるって言うし、そう言う人たちから見たらあれくらいの金額はほんのはした金のようなものなのかも。でも、あたしは違うもん、パパはただのサラリーマンだし。しかもママは専業主婦で、どうやって家計を切り盛りしているのか謎なくらい。お祖母ちゃんズまでいるし。
 先生は慣れた手つきで、封筒の紐を外していく。そして、正真正銘の一万円札や千円札を取り出して銀行員のような鮮やかな手つきで数え始めた。
「でもねー、苑田さんは本当におかわいそうだと思いますよ。だって、あなた本人には何の落ち度もないんですから。ただね、この学校の校風が少しばかり特殊なだけで。全く上層部は何を考えているのでしょう……」
 これも、先生に聞いて初めて知った話。何でもウチの高校の受験には密かに「予備選考」というものがあったそうなのだ。そこで家族構成や親の職業に役職、その他もろもろを厳しくチェックされる。さらに、家族に同窓生がいればそれだけで優遇されるから、結局のところ全くの外部の人間は受験資格すら得ることが出来ないという状態だったらしい。関係者は皆、暗黙の了解だって言うから怖いよね。
「それがねー、どういうことでしょう。昨年度、苑田さんたちの年になっていきなり方針が変わりましてね。一体どんな話し合いの結果かは分かりませんが、とにかく一部に『特別枠』というのが設けられたんです。一定水準の学力をクリアしていれば家柄などは問わないというもので、どうも苑田さんもそのひとりだったようですね。すぐ分かるんですよ、名簿に後付なんですから」
 言われて納得。そうよ、何だか変だと思ったの。だって、五十音順で並んでいるクラス名簿、それなのにあたしはほとんどしっぽの方におまけのようにくっついてる。普通「そ」だったら、男女混合名簿で20番台に乗るはずなのにね。
「この『特別枠』につきましては、同窓会の皆様からもかなりの反発があったようですよ。実際、例年だったら受かって当然の受験生がかなり憂き目を見たらしいですし。ですから、苑田さんに辛く当たる人間が内部にいるのも仕方ないことなんですね。たぶん、そんな感じじゃないですか、あの江川君も。きっと身内のどなたかが、今年の受験に失敗されたとか――」
 無駄話をしながら、それでもお札のカウントは無事終了したらしい。見ているだけで胃がきりきりと痛むような札束がどうにか元通りに収納されてホッとする。ああ、怖い。本当に庶民の前に大金を並べないで欲しいものだわ。先生も見かけによらず、悪趣味なんだから。
「まあ、そんなに心配なさらずとも。あなたが真面目な生徒であることは、担任である私がはっきりと証明することが出来ますからね。そのうちに、江川君にも上手いこと話を付けましょう。ええ、必ず。約束しますよ」
 学園の内部事情。
 そう言うのをひとつひとつ知るたびに、あたしはどよよーんと沈んでしまう。そして、そんなとき助け船を出してくれるのは先生だけだ。ほとんど孤立してるクラスの中、とりあえず早紀だけはあたしと仲良くしてくれる。でも彼女は決して「助けてくれる」わけじゃないのよね。ただただ、あたしの置かれた状況を面白がってる感じで。正直、何だかなーって思うことも多い。
  まあね、結局のところは早紀も「あっち側」の人間だし。一般庶民であるあたしがこの高校にいることを面白くないって思っていても当然なのよね。同じことだったら、あたしと一緒に受験したみつわが受かっていた方がよっぽど嬉しかったんじゃないかな。
 桜吹雪の入学式から早半月。そろそろGWのレジャー情報も頻繁に耳にするようになった。部活動の仮入部期間も終わったから、帰宅組と部活組にはっきりと分かれている。でもねー、ここの学校の帰宅組って、余所でがっつりとお稽古ごとをしている人ばっかりなの。たとえば、週に4日も日本舞踊に通ってる早紀とかみたいに。あたしのようなぶらぶらは、それだけで浮いてる。
 だから、嬉しかった。早紀がお稽古でさっさと帰っちゃう日にこうして仕事を手伝わせてくれる先生が。先生がいるから、この学校に身の置き場が残されてると言ってもいいくらい。
  あたしだってね、何もせずにのんびりしていた訳じゃないんだよ。毎朝毎朝、ちょっと早めに登校したりして、あの「指導室」のドアを叩いた。でも、憎ったらしい「閻魔」と来たら完全無視なのよ。後を付けて、絶対に中にいるって分かってるときでも居留守を使ってくれる。その冷血さと来たら、本当に悔しくて泣きたくなるほどだ。だけど、涙なんて。あんな奴のためには絶対流したくない。
 ――このまま、風紀委員に睨まれ続けたら。今にあたし、本当に退学させられちゃうかも知れない。そしたら、先生の話通りにどこの高校に入り直すことも出来なくて、そのまま引きこもりになっちゃう。
 そうよ、みんなあの「閻魔」が悪い。あたし、何も悪くないのに、言いがかりもいいところだよっ……!
「さあ、そろそろ下校時間ですね。ここも鍵を閉めましょう、苑田さんの荷物はこちらだけですか? ……あ、制服の上着もありましたよ」
 先生は相変わらずにこにこと弱々しい笑みを浮かべ、あたしの世話まで焼いてくれる。きっとあたしたち、運命共同体なんだね。爪弾き同士で強く逞しく生きていくんだ。これで先生がもうちょっと若かったりしたら、何かのきっかけで危ない関係に陥ったりするんだろうか。絶対それも有り得ないような相手だったことが不幸中の幸い? 本当に、先生ってそのまんま「おじいちゃん」って感じなんだもの。
「では、私は職員室に鍵を帰してきますね。……ああ、あまりに手荷物が多くて大変です。ちょっとこちらをお願いしてもいいですか?」
 先生は印刷物の入った袋を重そうにいくつも抱えて、ふらふらしながらそう言った。
「私もこれから急いで銀行に行かなくてはなりませんし、すぐにあとから苑田さんを追いかけますよ。それまで重いですが、辛抱してくださいね」
 いえいえ、先生のその荷物に比べたら。こんなの何でもない。
 ノートやら封筒やら、その中身は詳しくは確認しなかったけど、ほとんどは先生の持ち帰り仕事のあれこれみたい。それほどの重みのない紙袋をあたしに手渡すと、先生はよたよたとペンギン歩きで廊下を進んでいった。

「……ふう」
 ひとりきりに戻ると、一気に現実が押し寄せてくる。先生とふたりだと、まるでエアポケットの中に入り込んでしまったように居心地が良くて時間の経つのも忘れてしまう。逃げてばかりじゃ駄目だなって、分かってるんだけどね。
 長い長い特別棟の廊下。すぐ下の階にはあたしの天敵が棲んでいる「指導室」があるんだけど、今日は何となく足が向かなかった。閻魔って、いつも竹刀を片手に威張ってるくせに正式な剣道部員じゃないんだって。たまに「稽古」を付けにいくことはあるらしいけどね。なんかもう、何様? って感じよね。
  あたしのこと、ここまで徹底的に無視してくれるじゃない。だから、もうそれならこっちだってと思うよね。思い切り悪いことしてやろうとか。ええと……、たとえば「指導室」の壁にでっかく落書きするとか? それとも物陰から油性ペンキをあの長ったらしい髪めがけてかけてやろうとか? いや、他にももっと色々ありそうだけど、あいつのことだから鼻で「ふふん」と笑って終わりになりそう。
 ――ああっ、もう! 腹立つーっ!
 思わず、上履きのゴム底で思い切りばしばしと音を立てて歩いてしまった。ええ、心持ちがに股で。もう、この学校には夢もロマンもないもの。「閻魔」に睨まれたあたしを救ってくれる白馬の王子様なんて現れるはずないわ。だから、女を捨てたところで全然平気なの。
 そしたら。
 背後から突然、軽やかなくすくす笑いが聞こえてきたのね。何事かと振り向くと、そこに立っていたのはものすごーく見覚えのある人物だった。
「ふふふ、こんにちは。莉子ちゃん、こんなところでどうしたの?」
 さらさらつやつやのロングヘア。遠い記憶をふんわりと思い起こさせるようなフローラルの香り。どうしたらここまで整った配置になるのかと首をかしげたくなるほどの美しい顔立ちが柔らかい笑みに彩られてる。たぶん、この姿を見たらほとんどの人間はうっとりとするんだろうな。
 その腕には綺麗に花を盛った平べったくて丸いお盆みたいな花器が抱えられている。知ってるよ、確か「水盤(すいばん)」って言うのだよね? お祖母ちゃんズに教えてもらった。
  ウチの学校、校舎内の至る所に綺麗に花が飾られてるんだけど、やっぱ華道部の作品だったのか。でも次期部長の有力候補が自ら重い花器を運ぶなんてすごいかも。そう言うのって、この人が大勢抱えてるはずの取り巻きにやらせる仕事じゃないの?
「別に、どうもしてません。それにご心配なさらずとも、もう帰宅するところですからっ!」
 この人に対して、何か恨みでもあるわけではないの。でも気に入らないわ、だって「閻魔」の仲間なんだもん。あ、正確には「彼女」か。今だって、この清らかな微笑みの裏で何を考えてるか分からないわよ。
 それにさー、こっちが教えたわけでもないのにいきなり「莉子ちゃん」って、どういうこと? こんな風に声を掛けられたことは今までにも数回あるけど、二度目の顔合わせの時からすでにこんな感じだった。まあね、「閻魔」がリストアップした名簿でも見たんでしょうよ。だけど、気に入らない。
「あらあらあら、どうしちゃったの。そんな風におへそを曲げないで。私、莉子ちゃんが部活に顔を出してくれるのを本当に楽しみにしているのよ。他に入っちゃった訳でもない様子だし、ねえどうかしら? 明日は茶道部との合同練習なのよ。おいしいお菓子も用意するわ」
 返事をするのも面倒で、そのまま彼女のことなんて無視してどんどん歩き出した。それなのに、彼女はあたしの後をぴったりとくっついて追いかけてくる。
ああ、嫌だ。あたしがきっちりと話を付けたい「閻魔」はあそこまで無視を決め込むのに、どうして楓さまはこんなにしつこいの。早紀は「いいわねー」なんて言うけど、ならすぐにでも代わってあげるわよって叫びたい気分。
「でも、怒った顔もとっても可愛いわ、莉子ちゃん。ほっぺがぷっくりして、本当に柔らかそう。ねえねえ、こんなだったら中学の頃もモテモテで大変だったでしょう? 今もお付き合いしている方がいらっしゃるのかしら」
 あああ、何でそんなどうでもいいことを聞いてくるのよ。もう、うるさいったらない。振り払ってしまいたいところだけど、長身の彼女はコンパスもあるのかどんなに大股で歩いても全然離れてくれない。
 そうこうしているうちに昇降口まで辿り着いちゃった。これじゃあ、印刷室からずっと一緒だったことになっちゃう。
「あ、私職員室にこれを届けなくてはならないの。じゃあ、気をつけて帰ってね。途中で寄り道とかしたら駄目よ?」
 何であんたにそんな風に世話を焼かれなくちゃならないのよ、全くもう。ぷんと横を向いたきり黙っていたら、楓さまは全然気にしていない風にあたしの曲がった衿をちょちょっと整えてくれた。そう言う仕草もとっても自然、もったいぶった感じもないのね。
 ――でも、嫌い。「閻魔」の彼女なんて、絶対に気に入らないわ。仲良くなんてならないんだから。

 昇降口を出ると、程なくして後ろから先生がやってきた。
 足音で分かっちゃう、特に急いだ様子もないのに先生ってば顔が赤らんで汗までかいてる。もしかして、職員室で何かあったのかな。教頭や生徒指導にチクリと嫌みを言われたとかね。だったら、かわいそう。
「いやはや……すみませんでした。重かったでしょう、本当に助かりましたよ」
 あたしの手から紙袋を受け取ると、先生はさりげない感じで中を改めた。そして、次の瞬間……ふっとその顔色が変わる。
「――あれ? ここに入っていた封筒、知りませんか。先ほどの紐で止めた……確か一緒に見てましたよね、しまうところ」
 きょとんと振り向いたあたしの顔をまじまじと見て、それからまた紙袋の中をがさがさとかき混ぜる。でも、やっぱり見つからないみたいでとうとう中身を全て出してノートのページを一枚ずつめくりながら丁寧に探し始めた。
「やっぱり……ないですねえ」
 もう一度、先生があたしの顔を見る。そのとき、ようやく気付いた。もしかして、あたしが疑われているのかも知れないと言うことを。
「えっ、違いますっ! ……ちょっと、待ってください!」
 冗談じゃないわよ、封筒ってあの65万円っ!?
 待って待って、そんな馬鹿な。第一、先生はそれほどの大金をこんな口を開けっ放しの紙袋に無造作に入れておいたの? 嘘でしょ、有り得ないよ。だって、あたしはただこの紙袋を持っていただけ。中身だってちゃんとは確認してないんだから。あのお金が入ってるって知ってたら、預からなかったわよ……っ!
「……苑田さん」
 なのに、先生は。今までの優しかった態度があっという間に塗り変わったみたいに、ものすごく汚いものを見るみたいな視線をあたしに向ける。
「残念ですよ、私はあなたを信用していたのに。それなのに、こうして裏切るんですね。そりゃあね、分かりますよ。今は何もかもものが溢れた時代です。欲しいものを全て手に入れようと思ったら、お金などいくらあっても足りないでしょう。ご両親がくださる月々のお小遣いなど、ほんのはした金でしょうよ。……でもね、これはいけません。今なら間に合います、すぐに返してください」
 冷たい視線、じりじりと詰め寄られて。あたしはもう、どうしていいのか分からなかった。
 本当に、先生てばどうしちゃったの? さっきまではあんなに親身になってあたしのことを考えてくれてたのに。嘘だよね、ちょっとからかってるだけだよね? だって、違うもん。あたし、本当にお金なんて知らないし……!
「えっ、……ええと、ええと! ――そう、そうですっ!」
 ぶんぶんと何度も首を横に振って、ようやく思いつく。ああん、馬鹿。何でもっと早くひらめかなかったのよっ。あたしって、どうしてこうも抜けてるのかしら。
「楓さま、楓さまですっ! 先生も職員室に行かれたなら、途中ですれ違いませんでしたか? あたし、さっき印刷室を出てから昇降口までずっと、楓さまと一緒にいたんです。本当です、嘘じゃありません……!」
 そう、そうよ。彼女なら、あたしの無実を証明してくれる。あたしが一度も紙袋の中を覗いたことがなかったことも、そもそもそれに興味すらなかったことも。
「楓……、二年生の高宮楓さんですか? ほほう、……そうですか」
 あたしの言葉を受けて、先生はちょっと難しい顔になった。でも、すぐに気を取り直したのかぱっとこちらを向き直る。
「いいでしょう、分かりました。ではすぐに彼女に確認を取りましょう」
 今来た道をすたすたと後戻りする先生の後を、あたしは続く。
 ああ良かった、これで大丈夫。きっと、先生も自分で封筒を別に持っていて忘れてるだけだよ。
  もしかすると、職員室の机の上にそのまま置いてあったりしてね。うんうん、そうに決まってる。何しろ、大金だもん。無意識のうちに自分で管理しようと思ったんだよね。

「何か、ご用ですか? 今井先生」
 幸いなことに、まだ楓さまは職員室にいた。華道部の顧問の先生と何か話をしていたみたい。彼女はこちらの呼び出しに、すぐに廊下まで出てきてくれた。
「いやいや、申し訳ないです。お忙しいところ、お手数お掛けしますねえ……」
 先生は今まであたしに対して見せていた冷たい表情が嘘のように、いつもの善良そのものな笑顔に戻っている。指導者の立場にあるはずの先生が楓さまにへこへことへりくだって、なんかすごく変な感じだ。
「お時間など取らせません、ちょっとご確認をお願いしたいだけなんですよ。あのですね、先ほどこちらの苑田さんとあなたが昇降口までご一緒したというのは本当ですか? いえ、苑田さんが勝手にそう仰ってるだけなんですけどね。ここはひとつ、正直にお答え頂けませんか」
 ――ちょっと、待ってよ。
 先生、その言い方ってあんまりじゃない? 何か、あたしが口から出任せ言ってるって言わんばかりよ、信じられない。あんた、自分の生徒を信用できなくてどうなっちゃうのっ……!?
「え……、それはどういうことでしょう……?」
 楓さまは先生の言葉を受けて、不思議そうに小首をかしげた。さらさらと綺麗な髪が肩先を流れていく。そして。その次に彼女の口から飛び出したのは、本当に信じられないひと言だった。
「私……そのようなことは全く存じませんわ。何かの間違いじゃ、ございません? 今日も放課後になってからずっと部室の方で花を活けておりましたし……そちらの方とご一緒した覚えもございませんが」
 あたしに真っ直ぐ向かっても、何の感情も浮かび上がらない瞳。綺麗な口元が、さらさらとよどみなく言葉を紡ぎ出していく。
 ―― どうしてっ!?
 その瞬間、あたしは自分の身体から血の気がさーっと引いていく音を聞いていた。

 

つづく♪ (060418)

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