「何寝ぼけたこと抜かしやがるんだ、お前ら本気で言ってんじゃねえだろうなっ……!」 そう怒鳴りつけた玄太の顔は、ついさっきまでの陽気なものとは全く違っていた。 婆さまの葬式の席、だいたいの段取りが片づくと、村人たちの関心は自然とひとり残された果瑠の今後に向けられて来る。まあ、当然の成り行きであった。 そのときに、玄太が皆の会話に割って入ったのである。それまでの和やかな空気を一転させるほど、奴の形相は凄まじかった。 「てめぇらはなんだァ? さっさと厄介者を追い出して、婆さまが遺した財産も山分けしようってことかい? 全く、腹黒い連中が考えそうなこった。婆さまにはあんなに世話になったのに、死んだ途端にこれか。ああ、嫌だ嫌だ、情けねえ限りじゃねえか……!」 「何もそんなつもりはない、全てはこの子のためなのだから」と反論も出たが、とりつく島もない。酒の力もあったのだろうが、玄太はやわら立ち上がると、傍らにあった水瓶を叩き壊し、さらに他の家財道具にも手を出しそうになった。 ただですら貧乏人の侘び住まい、これ以上ものを減らされてはたまったもんじゃない。自分が売り渡されそうになっていることよりもそちらの恐ろしさの方が先に出て、果瑠は火がついたように泣き出した。その混乱ぶりに仰天した村人たちはあっという間に散り散りに逃げていく。 気付けば、陽が落ちて薄暗くなった土間に、立ちつくしたままの赤鬼とふたりで取り残されていた。 「けっ、どいつもこいつも……油断も隙もあったもんじゃねえ」 少しは正気に戻ったのだろうか。玄太は自分が粉々にした水瓶の残骸を片づけていた。戸口からのわずかな明かりを頼りに竹箒で割れ物の欠片を集めながら、まだぶつぶつと言っている。普段は掃除らしい掃除もせずに、自分のねぐらは散らかり放題の男だから、そんな後ろ姿さえ果瑠の目には目新しく映った。 「おい、おめぇももう泣くんじゃねえぞ。べそべそしてたって、婆さまが戻ってくるか。村のもんが何を言って来たって、堂々としてろ。あいつらに遠慮する必要なんて、ひとつもないんだからな」 どうして、玄太がそんなことを言うのか。そのときは不思議でならなかった。 もともと、縁もゆかりもない男。しかも行く先々で問題を起こしてはどんな仕事も長続きしないろくでなしで、いつどこでのたれ死んでも不思議がない程である。 ――どっから見ても、頼りになりそうな輩じゃないんだけどな……。 ひとりっきりでいるよりは、誰かが側にいた方がいい。もちろん、養ってもらおうなんて気は毛頭ないが、自分がここにいれば玄太はたまに戻ってくる。その時だけ、一緒にいればそれでいいじゃないか。その日暮らしで生きていても、お天道様は変わらずに頭の上を巡っていく。手に余るような幸せもない代わりに、身をちぎられるほどの哀しみもないのだから。
そんな風に生きてきた。そしてこれからも、命が途切れるまで同じように過ごしていくに違いない。 違う生き方など、望むこともなかった。申し訳ないが、この頃ではとうさまやかあさまのこともあまり思い出さなくなっている。果瑠にとってはこの道が自分の全てであり、ささやかすぎる暮らしでも、それなりに楽しくやって行けた。
◆◆◆
まだ外が明け切らない頃だというのに、表の戸を叩く音がする。眠い目をこすりながら果瑠が寝返りを打つと、隣にいた玄太の方が先にむっくりと起きあがった。 「……何だァ……?」 奴の方もまだ寝ぼけているようだ。昨日の晩はかなり遅くまで話し込んでいたのだから無理もない。しかし、木戸のきしむ音と共に聞こえてきた叫び声を聞いたとき、その横顔に緊張が走った。 「――玄さんっ、玄さんはこっちにいるんだろ!? 大変なんだ、……大変なんだよっ……!」 大股で土間に飛び出していった背中を見ながら、果瑠も起きあがって寝着の襟元を直していた。 まだまだ幼さの残るその声には覚えがある。玄太はあれでいて面倒見のいい一面もあり、幾人かのガキどもをまるで子分のように可愛がっていた。確かそのひとりで、名は小助(コスケ)とか言う名であったような気がする。まあ、若いと言っても果瑠よりはひとつふたつ年上だったと思うが。 「どーした、そんなに慌てやがって。また双六で派手に負けて逃げてきたか、お前も懲りない奴だな……」 最初はそんな軽いやりとりから始まった。しかし、建て付けの悪い木戸をがたがたと開けて表に出たあと、いつまでもふたりでぼそぼそ話をしている。すぐにこちらに上げて、朝餉でも一緒にするのかと思ったが、そんな素振りもない。どうしたものかとしばらく伺っていると、そのうちに玄太だけがひとりで戻ってきた。 「悪いな果瑠、ちっと出掛けてくるわ。出仕用の着替えを出してくれ」 思わず聞き返しそうになったが、その時にはもう奴が寝間着代わりのぼろを脱いで腰巻き一枚の格好になっている。いくら馬鹿は風邪をひかないと言っても、この真冬の冷え込みには少しは考えた方がいいのにと思ってしまう。 ――どうしたんだい、もうこの先は暮れまでお務めはないと言っていたのに。 特に引き留める筋合いもなかったが、何となく腑に落ちない。ささやかではあるが、正月の支度をふたりでととのえるつもりだった。今日辺りは仕上がった飾りを方々に上げてもらおうと思っていたのに、急にどうしたのだろう。 「大丈夫かい、だいぶ冷えるよ。今日はかなり厚着をしていった方がいいんじゃないかい?」 一通りの衣を整えながら、果瑠の口はそう告げていた。 玄太が「行く」と言ったら、止めることは出来ない。そんなの最初から分かっている。それに、玄太本人には深刻そうな様子もなくいつも通りに飄々としているから、こちらが真面目くさって切り出すのもどうかと思った。それでも何となくひっかかるものを感じてはいたが、ここは急ぎの支度に紛れて吹っ切るしかない。 「これを掛けていきな。……少しは違うと思うよ?」 振り向いた玄太は、しばらく信じられない面持ちで差し出された衣を見つめていた。 奴にも少しばかりはものを見る目があるらしい。綿のぎっしり詰まった羽織がそれなりの値打ちものだと判断したのだろう。 「あ……、ありがとよ。助かるぜ」 野歩きには少し立派すぎる織りであったが、幅も丈も思った通りぴったりであった。やはり着るものをきちんとすれば、風格すら漂う気がする。これから侍従職に就くのなら、あと何枚か同じような衣を準備した方がいいだろう。用立てる当てもないのにそんなことを考えてしまった。 「ど、どうか? 似合うか……?」 そう言いながら、くすぐったそうに首をすくめる仕草が何ともおかしい。妙な気負いも照れも気付けば吹き飛んで、果瑠の口元からは自然な笑みがこぼれた。 「そうだね、その羽織に負けないような立派なお務めをしてくるんだよ?」
玄太のあとについて外に出ると、寝着の隙間から肌を刺す冷たい気が入り込んできた。ぶるりと身震いするその間にも、奴はどんどん遠ざかっていく。せっかく見送りに出てやったというのに、足を止めてこちらの気遣いに応じる気もないらしい。 「悪いな、姉さんっ! 玄さんを、ちょっと借りていくよ……!」 あとから小走りにくっついていく小助の方が何度も何度も振り返って申し訳なさそうに頭を下げる。そんなふたりの姿も、いつか朝靄の向こうに消えていった。
◆◆◆
昼前に洗い物を届けに行った家のおかみさんからも、もう一度小屋の建て付けを確認した方がいいと念を押された。冬囲いは念入りに済ませてあったが、やはり注意するに越したことはないだろう。
――なんだろうね、やけに胸騒ぎがする。 先ほどから、ぞくりぞくりと背中をさするような悪寒に何度も後ろを振り向いていた。こうして針仕事をしていても、指先が冷えて思うように動かない。十分な暖は取っているはずなのに、身体の震えも止まらない有様だ。もともとが迷信深くないたちで何事が起こっても動じない自分だと思っていただけに、勝手が違って落ち着かなかった。 玄太がこの小屋を飛び出してから、すでに三日が過ぎていた。あと二晩で新年を迎える年の瀬に、奴はどこで何をしているのだろうか。別に何のか約束をしたわけでもないし、奴が戻らなければひとりでご馳走を平らげるだけだ。あの羽織のお陰で、魚も餅もひとり分しか買えなかったから丁度いいだろう。 がたん、とさらに強い荒れが小屋に打ち付けてくる。燭台の炎も流れて、どうやら持ちこたえたのか元通りに縦向きに戻った。 「……?」 再び訪れた静寂の中、果瑠の耳に聞き覚えのある音色が響き渡った。低く猫が喉を鳴らすような鈴の音。それはあまりにも小さく、吹きすさぶ荒れの中では確認出来ないほどのものである。 ――そんな、……そんなはずもないだろう。 おもてを上げて、戸口を確認する。木戸にはつっかえ棒をしてあり、表からは開かないようになっていた。外にいる者がその存在を伝えようとするなら、あの日の小助のように拳で板戸を叩くしかない。もしも、自分の想像通りの人間が小屋の前にいるのなら、躊躇なくそうするはずだ。 そのままやり過ごすことも出来たが、とりあえずは確認だけしてみようと土間に降り立った。ほんの数歩で辿り着いた木戸のつっかえ棒を外し、少し持ち上げながら横に引く。と、同時に強い荒れが小屋の中まで流れ込んできた。 「……っ……!」 一度は顔を背け、それからもう一度ゆっくりと向き直る。 果瑠の目に飛び込んできた風景はいつも眺めているそれとはだいぶ違っていた。空は血の色に赤く染まって、辺りの木も家も、全てが黒い影になっている。大地の全てが怒り狂って襲いかかってくるようだと思った。ここまでの光景は未だかつて見たことがない。まくれ上がった袖口から覗いた腕には、知らぬうちにびっしりと鳥肌が立っていた。 そして、ぐるりと見渡した最後に。ようやく、足下に転がる塊を見つけた。 「なっ、……どうしたんだよっ! ほらっ、こんなところで何してんだ……!」 最初、それが大きな屍に見えた。だから、すっかり気が動転してしまう。出掛ける朝に羽織らせた衣の柄には間違いがない。真新しいほどだったはずのそれにはいくつもの切れ目が入り見た目はおぞましく変わっていたが、それでも躊躇することはなかった。 「……ぐふっ……!」 塊が、唸り声を上げる。地の底から湧き上がるようなおどろおどろしい声でも、果瑠には嬉しかった。しかし、ぐしゃぐしゃになったその顔を見たときに、新たなる恐怖が訪れる。色白なはずの顔は赤黒く染まり、目はくぼみ血走っておよそ生きた人間の者とは思えなかった。いつもは懐に収まっているはずの鈴が上に飛び出ていることからも、表のとんでもない荒れようがうかがえる。 「……げ……、玄太……?」 それまで地を掴んでいた手のひらが、襲いかかるが如く自分の衣を掴む。千切れるほどの強さを感じながら、しかし果瑠はその場から逃げようとはしなかった。 「ど、……どうしたらいいんだっ! 俺はこの先、どうしたらいいんだ、果瑠っ……! お社様にも本当に申し訳ないことをしてしまった。俺……俺は……とんでもないことを……っ!」 ガクガクと噛み合わない口元でかろうじてそう告げると、玄太はこちらを見つめたままでぼたぼたと涙を流した。今までにもそんな風にしてきたのだろう、その頬や顎には幾重にも白いすじが出来ている。伸び放題の髭は憔悴しきった顎にべったりと貼り付き、口の端がさらに辛そうに歪んだ。 「ああっ、果瑠っ……果瑠っ! どうしたら、どうしたらいいんだ、俺はっ……!」 野獣のように変わり果てたその表情を見ることが出来たのはそこまでだった。果瑠の衣の裾を握りしめたまま、玄太は再び枯れ枝のようにうなだれてしまう。 何かただならぬことが起こっている。それは玄太のこの変わりようで分かったが、かといってどうすることも出来ないというのが正直なところだ。 大きく震える背中にそっと手を添えようとしたとき、玄太の呻きがさらに大きくなった。そして赤子がすがりつくが如く、果瑠の足に腕を絡めてくる。どうかするとぐらつきそうになる膝のすぐ側で、唸るような呼吸を感じた。 「こっ、この手でっ……この手で人殺しをしてしまった! もう奴は動かない、どんなに揺さぶっても声を上げない……! そんなつもりはなかったんだ、本当に……殺す気なんてなかったのにっ……!」 髪からはぼたぼたと雫が垂れて全身がじっとりするほどの濡れ鼠になっている。言葉もなく立ちすくむ果瑠の足下で、玄太は地獄から湧き上がる嗚咽を上げた。
|