TopNovel>鈴と羽根・5


…5…

 

「お社様の身に危険が迫っていると知ったとき、どうにかして護らなくてはと思った。……もうそれしか頭になくて、気が付いたら……気が付いたらこんなことに……」

 いつまでも戸口の表で押し問答をしていても埒があかない。そう言って、どうにか小屋の中まで引きずり込んで木戸を閉めてはみたが、やはり玄太はこちらに背を向けたままそれ以上は動こうとはしなかった。

 突然の告白に、こちらだって気が動転してしまう。今までであっても相当のことはしてきた男であったが、それなりの心は持っていると信じていた。何かの間違いではないのか、今は混乱しているがそれが収まれば何事もなかったかのように済まされるのではないか。
  だいたい、玄太は人殺しなんてそんな大それたことが出来る男ではない。大口を叩く割には肝っ玉の小さい一面もあり、些細なことにうじうじと悩んだりする。一度そういう風になると、いくら尻を叩いてもなかなか元通りにはならずに辟易したものだ。

 しかし、相当な相手とやり合ったことはこの姿を見れば分かる。これだけの深く鋭利な切り口であることから相手はなかなかの剣の使い手と言っていいだろう。玄太自身は小刀くらいしか所持していないはずだ。素手同然で応戦したとあれば、今ここで口をきける状態にあることすら奇跡といえよう。

 嘘であって欲しい、間違いであって欲しいという気持ちが強くある。でもその一方ですでに覚悟を決めている自分がいた。
  もしも変わり果てた姿でここに舞い戻ってきた男が正真正銘の人殺しであれば、そのことをしっかりと受け止めなくてはならない。いくら言葉で取り繕ったところで、事実から目を背けることだけは出来ないのだから。

「玄太、とにかくは着替えなよ。そんな格好じゃ、身体に障るよ? そうじゃなくても、こんな荒れの中を遠路はるばる歩いてきたんだしさ」

 一通りの着替えを差し出して、ゆっくりとそう告げる。そうだ、駄目だ。ここで自分までが怖じ気づいていてはどうにもならない。声が震えそうになるのを堪えて静かに問いかけていると、果瑠の心もだんだん落ち着いてきた。

 玄太はそれからもしばらくは動かないままでいたが、やがてのそのそとこちらを振り返る。そして焦点の定まらないぼんやりとした瞳で果瑠を見つめた。血の気を失った口元が、何度も空を切る。苦しそうな呼吸だけが、狭い小屋に響いていた。

「あいつは……俺と同じくらいの年の頃の男だった。きっと、里には女房も子供もいるに違いねえ。それなのに……どうして」

 それだけ告げると、玄太はまた野太い声を殺して泣き崩れてしまった。
 

  ――お社様に刺客が放たれた。

 そう告げてきたのが、先日の小助である。定宿のように入り浸っている賭博小屋でそんな噂を小耳に挟んだ彼は飛び上がらんばかりに驚いて、取るものもとりあえず玄太の元に走った。不確かな情報であることは否めなかったが、それまでもきな臭い話はいくらもあったのである。どんな些細なことでも見逃すわけにはいかないと思ったのだろう。

 玄太が慕っている今のお社様は都から遣わされた方で表向きは中央官僚のひとりとされているが、実はただならぬ身の上の御方なのである。先年身罷られた前竜王様にはたくさんの御子があり、お社様は畏れ多くもそのうちのおひとり。側女腹ではあったが母君になる方が大変な寵妃であり、ご本人も聡明で将来を嘱望された身の上であったという。
  しかし父王の崩御に伴い、にわかに彼の身辺も慌ただしくなっていく。次の竜王になられたのは誰もが認める正妃様の嫡子であられる御方であったが、一方ではそれを良く思わない者も存在した。
  当人があまりにも優秀すぎるために、重臣たちが意のままに政(まつりごと)を動かすことが出来ないというのが理由である。確かに竜王様の政策には迷いもなく、我欲を願う者たちからしてみれば扱いにくい存在であったと言える。
  お社様としては、そのような都のやりとりにほとほと嫌気が差したのだろう。自ら臣下に下ることをお望みになり、場末の職へとお下りになった。しかし、そこで全てが収まったわけではない。お社様の動向を疑う一派もあり、何かにつけて疑いの目を向けられることは免れなかった。

 小助の仕入れてきた話通りに張っていると、やはりその者は現れた。年末押し迫って警護が手薄になった時期ならば、物取りの犯行に見せかけてお社様のお命を奪うことも容易いともくろんだのであろう。人目を避けるために、ただひとり向けられた刺客。玄太はどうにかして、大切な御方に悟られることなくその場を鎮めることを考えた。

 だが、――結果は。

 激しいやりとりの末に足下に転がった骸にすでに息はなく、とんでもない残虐な行為をしでかしたとして玄太ひとりが周囲から責め立てられることになった。

 

「お社様は……全てを分かってくださった。でも、その慈悲にすがることは出来ねえ。今夜はこの通りの荒れだが、明日になれば隣の分所から役人がやってくる。そいつらに引っ立てられることなら、怖くはねえ。でも、……でも。罪を償ったところで、俺があの男の命を奪ってしまった事実を消すことは出来ない。この先、生きているのもおぞましい。もう、俺は……俺は、こうなった以上死んで詫びるしかねえんだよっ……!」

 地下牢で一夜を過ごすことになった玄太の元に小助がやって来た。こんなことになったのも自分のせいだから、全ての罪をかぶりたいと泣いて訴える。しかし、玄太としてはそんな気は毛頭ない。初めから自分ひとりでやったことだと押し通すつもりだった。

 だけど……小助の口から果瑠の名が出たときに、ふと心が動いた。

「どういう訳か分からない……だがな、最後におめぇの顔が見たいと思った。脇っ腹に蹴りを入れられて罵倒されても構わねえ、果瑠だけには……お前だけには分かって欲しかったんだ。やっぱり、最後はお前に見届けて欲しい。そしたら、俺の首を持ってお社様の元に行って、小助を助けてやってくれ」

 荒れ狂う外の惨状は、玄太の心の中をそのまま写し取ったものなのだろうか。命すらも搾り取るようなその呻きと同調するかのように、小屋が柱ごと大きくきしんだ。

「なっ、……何で……」

 玄太はギリギリの場所まで追いつめられている。他の誰よりも彼本人が自分のしでかした悪行を悔い、嘆いていた。確かにそうしてしまう気持ちは分かる。「命」とは何者にも代え難いほどに重く尊いものである。どんな風に取り繕ったところで、玄太のしてしまったことがきれい事に変わることはないのだ。

 だからといって、このまま何も出来ずに見過ごしてしまっていいのか。そんなことは嫌だ。

「ばっ、何を馬鹿いってんだ、この野郎っ……! てめぇがそんな腰抜けな奴とは思わなかったよっ! ああ、見損なったね、このろくでなしが……っ!」

 気付けば、身体の脇で握り拳を作り必死に叫んでいた。もう、自分が何を怒鳴っているのかも分からない、ただ必死だった。顎が大きく震えて、上手くしゃべることも出来ない。こうしているうちにも、何かとてつもなくおぞましいものに取り込まれてしまいそうだ。

「か……、果瑠……?」

 まさか、いきなりこんな風に切り返されるとは思っていなかったのだろう。玄太はぐしゃぐしゃの情けない顔のままで首を上げる。四つんばいになった姿勢で、口ひげからは元は何か分からない雫がだらりと垂れていた。

「申し訳が立たないから、死んで詫びる? そんなことして、何になるって言うんだ、笑わせるんじゃないよっ! そりゃ、あんたがしでかしたことは、取り返しの付かないとんでもないことだろう。だからといって、何もかもを放り出して、それでお終いでいいのかい!?
  少しは根性ある男だと思っていたのは、あたしの思い過ごしだったらしいね。くたばりたかったら、さっさとひとりでどうにでもしな。だが、その時は骨の一本も拾ってはやらないからそのつもりでいなよ。あたしはしみったれた奴には用がないからね、どこか目のつかないところで勝手にやっとくれ!」

 威勢のいい物言いをしているが、本当のところはこうして立っているのがやっとの感じだ。今にも心臓が喉から飛び出そうで、頭も爆発しそうである。だが、ここでやめるわけにはいかなかった。どういう風に伝えたら分かって貰えるかは知らないが、とにかく今は必死で訴えるしかない。

「……か……、」

 玄太はもう一度伸び上がって何かを言おうとして、口をぱくぱくと動かした。だが、かすかに息を漏らしただけに留まり、またうなだれてしまう。何かを押さえつけているかのように、喉がぐうっと鳴った。

「何だい、小助を身代わりにしてこんなところまで逃げてきて。自分が情けないとは思わないのかい? 親分と慕われる奴は、こんな風に情けなく背中を見せるもんじゃねえだろ。ちっとは格好いいところを見せたらどうなんだい、人間の器量ってのはこんなときに分かるもんだろうが。
  やっちまったことは今更仕方ないよ。だけどな、そうなってしまった以上はしっかりと罪を認めて償うって言うのが道理じゃねえか? おめぇの罪状はお役人様が決めることだろう、その言葉に従うってのが残された道だと思うがな。それも分からねえようじゃ、仕方ないね……!」

 とはいえ、果瑠自身にも分からなかった。玄太は何も好きこのんで人殺しをしたわけではない。だが、結果としては逃れようがないことだ。殺るか殺られるか、そのふたつにひとつの選択の果てがどんな風に処されるのか、それは庶民の頭では全く想像がつかなかった。
  だがそれでも、ここで身勝手に自らの命を落とすよりは、生きて潔く罪を認める方がずっと立派だと思う。決して逃げてはいけないのだ、目を背けてはならないのだ。全うにお天道様の下で生きるというのはそう言うことだ。

 大声で休みなくまくし立てたら、さすがに息が上がってきた。大きく肩で息をしながら、目の前の男の動向を見守る。ここまで言って、まだ馬鹿なことを言い出すようだったら、そのときはどうしてやろう。何かすればどちらかの気が違ってしまいそうな、ギリギリの緊張が続いていた。

 外は相変わらずのひどい荒れ。それでも冬囲いを頑丈にした小屋の中は、時折火鉢の炭がはぜる音も聞こえるほどに静まり返っている。聞こえるのは互いの息だけ。永遠とも言える沈黙をふたりは共有していた。

 

 ややあって。

 玄太はゆっくりと身を起こすと、土間にこちら向きにあぐらをかいて座った。自分の袖で顔を拭ってから、おもてを上げる。そこには先ほどまでとは別人のような、普段通りの奴がいた。

「何でぇ……、果瑠。おめぇは、なかなか厳しいことを言うなァ。……その鬼のような顔、婆さまよりも怖いぞ。まだくたばってねえって言うのに、閻魔様の顔を拝んじまったみてえだ」

 そう言うと、照れ隠しのように頭をぼりぼりとかく。その頬には相変わらず焦燥感が漂っていたが、だいぶ落ち着いてきた様子に見えた。

「急に腹が減ってきちまった、……何か食うもんはあるか? あったら、出せ。おめぇのまずい飯でも、文句言わずに食ってやるよ」

 にわかにこみ上げてくるものを制して歯を食いしばる。軽口を叩く歪んだ横顔に、果瑠はただ黙って頷くことしか出来なかった。

 

◆◆◆


 鍋の底に残っていた粥に少し湯を足して煮込んだものを器に二杯も平らげて、まだ足りないと炒り豆をかじりつつ酒をあおる。瓶の底に残った雫まで舐めるように飲み干してから、玄太はぽつりと言った。

「夜明け前には荒れも止むだろう。そしたら、闇に紛れて出掛けるわ。色々世話になったな」

 何も答えることが出来なかった。こうして元通りになってくれたんだ、いつもの調子で明るく過ごしてやるべきなのだろうとは分かっている。だが、頭の中で言葉を組み立てる前に、またじわりとこみ上げてくるものがあって、それを押しとどめるだけで精一杯なのだ。

 いつも通りにしとねを整えて、早めに横になる。瞼を閉じても少しも眠くなどならなかったが、何も手に着かない状態なのだから起きていても仕方ない。眉間の辺りが絶えずずきずきと痛み、それなのに手足の感覚がだんだん麻痺してくる。ぼんやりと横に目をやれば、玄太はこちらに背を向けて丸くなっていた。

 

 不思議な夜だ、と思う。

 あれきり、玄太は二度と馬鹿なことを言い出すことはなかった。まるで自分の身に起こった恐ろしい出来事が悪い夢だったのかのように淡々としている。酒をすすりながら、婆さまとの昔話などをいくつか繰り返し、軽い笑い声すら上げられるようになっていた。

 本当に、全てが夢で終わったらどんなにいいだろう。だが、それは有り得ないことを無惨に姿を変えたあの綿入れが物語っている。もしもいつもの薄物を羽織っていたら、あるいは相手の刃は玄太の心の臓を貫いていたかも知れない。本当に、人の命とはちょっとした成り行きでその運命を分けたりするのだ。

 ――だとしたら、あたしも。

 根無し草のような暮らしを、今更変える気もない。玄太がいなくなったとしても、また当たり前の毎日が始まるだけだ。辛いことも悲しいことも、乗り越えるからこそ新しい朝が来る。立ち止まってしまったら、そこでお終いだ。誰も自らの腕を差しのべて導いてはくれない。ただひたすら、自分の力で這い上がるしかないのだ。
  しとねから引きずり出して、自分の腕を眺める。骨と皮ばかりのみすぼらしい身体。ようやく食いつないでいるような状態で、これでも立派なものだと思う。そして。この村の誰よりも色の濃い肌の下には、赤い血潮が流れている。とうさまとかあさまがくれた命、しっかりと守って生きることが自分に出来る精一杯だ。それは玄太だって、同じ。どうにかして、そう伝えたかった。

 強く生きていかなくてはならない。弱音を吐けば、薄暗いものに取り込まれてしまう。何としてでも、踏みとどまらなければ明日はないのだ。

 

 ふと、意識が浮かび上がる。

 あれこれ物思いに耽っているうちに、いつかうとうととまどろんでいたのだろうか。燭台の炎はとっくに消えていたがまだ火鉢の周りは温かく、先ほどからそれほど時間は過ぎていないように思われる。もう一度沈み込もうと思った刹那、地を這うような呻きが聞こえてきた。

「……玄太?」

 上に掛ける衣もいつもよりは枚数を増やしておいた。とはいえ、あれだけ身体が冷え切っていれば、十分とは言えないかも知れない。そう思ってもう一枚増やしてやろうと起きあがったとき、果瑠はハッと息を呑んだ。

「ど、どうした、玄太。どこか具合でも悪いのか、大丈夫かい……!?」

 手にしていた衣も膝に落とし、慌てて横になった身体を揺さぶってみる。そうしている間も、玄太の身体は小刻みに震えて、歯も噛み合わない様子であった。

「い……いや、すまねえ。大丈夫だ、安心しろ……大したことじゃねえ……っ」

 言葉ではそんな風に応えるが、だいぶ辛そうである。息も絶え絶えといった感じで、どうみてもただ事ではない。むき出しになった腕も、氷のように冷たかった。
  どうしたらいいのだろう、薬師(くすし)様を頼もうにもこの荒れた夜半では無理だ。だいたい、呼びにやったところでこんな貧乏人のところには来てくれるかも分からない。高い薬代など最初から払えるわけもなく、それは皆が承知の上なのだ。

「だっ……、大丈夫だ」

 冷たい額に手を当てると、玄太はその腕を伸ばしてくる。ひんやりと冷たい指先が触れて、一瞬ぞくりとした。

「本当にすまねえ、情けねえことだよ。目を閉じると、あいつが横たわったままこっちを睨んでいるのが見える。もうすっかり血の気がなくなった顔で、それでも俺を睨み付けるんだ。……ああ、分かってる、分かってるよ、俺は罪を償わなくてはならねえ。だけど、……恐ろしい。俺は……俺は……っ!」

 そこまで言うと、頭から衣をかぶってしまう。そうしていても、止まらない震えはしっかりと感じ取れた。全てを吹っ切ったように見えて、そう簡単に済まされることではなかったのだろう。耐えきれない衝撃に、玄太はずっと苦しみ続けていたのだ。果瑠の前では気丈に振る舞っていたが、静かにひとり横になれば真実が胸ぐらを掴んでくる。一体、どれくらいの間ひとりで恐怖と戦っていたのだろうか。

 

「……果瑠……?」

 しばらくして。

 大山のような身体が、びくっと大きく揺らいだ。だけど構わずに、もっとしっかりと腕を回して背中に身体を押し当てる。あまりの冷たさに指先までが凍えてきそうだったが、躊躇いはなかった。

「なっ……、おいっ、よせ! 何してんだ、おめぇはっ……!」

 玄太は弾かれたように暴れ出した。それも無理はない。いきなり背後から抱きつかれたら、驚くのも当然だろう。だけど、今の果瑠には別の手段を思いつかなかった。まだ婆さまがいたころ、怖い夢にうなされるとこんな風に抱きしめてくれた。同じことをしているだけだと思う。
  もともと、女としてみられてはいなかった。どちらも村人たちから見放された身の上。似たような境遇にあったから、親しんでいたに過ぎないのだ。もしも果瑠が男であっても、玄太は同じように可愛がってくれたと違いない。

「何だい、今更照れることもないだろ。こうしてようよ、……少しはあったかいだろ? せっかくふたりでいるんだ、あるものは分け合えばいいじゃねえか」

 そう答えながらも、不思議な心地を果瑠は感じていた。

 今まで、こんな風に互いのぬくもりを強く感じ合ったことなんてない。まあ、ものの分からないガキの頃ならそれもあっただろうが、久しく互いの身体に触れ合うこともなかった。
  それなのに、どういうことだろう。こうしているのが、しごく当然のことのように思える。身体のでっぱりやくぼみまでがしっかりと重なり合い、まるでひとつの物体になってしまったかのようだ。

「よっ、よせっ! 駄目だったら、駄目だっ、離れろっ……!」

 だけど玄太は。そう叫ぶと、がばっと起きあがって壁際に飛び退いてしまう。果瑠のはだけた胸元に一瞬だけ視線をやって、また慌てたように顔を背けた。

「……玄太?」

 急に遠のいてしまったぬくもりに、引きちぎられるような寂しさを覚えずにはいられない。急にひとりきりで取り残されてしまった侘びしさが、空っぽな腕の中に残る。

「そんな邪険にすることもないじゃないか。いいだろ、今夜くらい。……我慢してくれたって」

 ほろりと、雫がこぼれた。

 払いのけられてしまった腕が悲しい。空っぽに戻った胸が寒い。だいたい、何でここまで嫌がられるのかそれが分からない。玄太は今まで、側に寄られるのも嫌な女の世話を焼いていたと言うのか。

「うわっ、……そうじゃねえ。泣くな、……頼むから泣くなっ!」

 いきなりのことに、玄太の方も仰天してしまっている。もう人前で涙など流さなくなって久しい。それでも、一度溢れてしまった哀しみはもう留まるところを知らなかった。どうしようもなくなってしまったのだろう、玄太が果瑠の肩に手を置いてくる。大きくて力強いぬくもりは、婆さまのものとは全然違っていた。

「が、我慢できねえんだよ、だからくっつかれたら駄目なんだ。おい、……おい、分かるか? だいたい、今になって何をやり出すんだよ、ちったあ考えろ。おめぇだって、普通に女じゃないか。こんな風にくっつかれたら、変な気を起こしちまうじゃねえか……!」

「……え?」

 今度はこっちが驚く番だ。何で突然、そんなことを言い出すのだろう。もう訳が分からなかった。隣で寝ていても何とも思わないような女子に、ちょっと抱きつかれたからってどうにかなるとは思えない。
  それにしても、先ほどまでのしんみりした雰囲気が嘘のようだ。よそ行きの言葉で取り繕うよりも、こんな風に生身の心でぶつかり合う方が性に合っている。

 それに。

果瑠の胸の中は、あのぬくもりにもう一度触れたい欲求でいっぱいになっていた。今まで一度としてそんな気持ちになったこともないのに、自分でも不思議で仕方ない。だけど、今はその自然な成り行きに従ってみたかった。
  寝着の結び目に指をかける。そして、ゆっくりと解いた。玄太が呆然とこちらを見守っている。だけど、躊躇いなど微塵もなかった。

 

「分かるかい……、あたしだって怖いんだよ」

 その瞬間、全ての音が途切れる。果瑠は生まれたままの姿で、玄太の胸に飛び込んでいった。

 

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