◆ 10.デスティニー(運命)
委員会の仕事のために、いつもよりも早めに家を出た。正確には30分。 「オレ様は体育委員にするからな、お前は飼育に行け」 図体もでかいが態度もでかい来生というクラスメイトにそう言われると、もう反論の余地はない。まあ、そのときは思ったんだ。体育委員は用具の出し入れとかでやたらと力仕事が多い。何となくかったるいし嫌だなとか。 ――だけど、実際は。 たった30分の早起きがこんなに辛いものだとは知らなかった。遠足や旅行の朝にいつもよりも早く起きるのは全然平気なのに、一体どういうことだろう。鳴り続ける目覚まし時計を無視してうだうだしていたら、今朝の「任務」を知っている母親に布団から引きずり出された。 全くさ、面白くないったら。多分、来生は知っていたんだ。飼育委員っていうのが雑用ばっかでとにかく面倒くさいってことを。その上、正義感に燃えているんだか何だか、やたらと女子の勢力が強い。ちょっとでも手抜きの箇所が見つかろうものなら、奴らは目くじらを立てて機関銃のようにまくし立ててくる。 たかだか女のわめき声にびくついてるとは情けないが、朝っぱらからアレを聞かされるのは御免被りたい。しかも俺の当番は木曜日、一週間のウチでも特に疲れが溜まる曜日だ。
「……あれ?」 もうすぐ大通りと言うところまで来て。目の前を通り過ぎた人影に、思わず足を止めた。 いつもよりもクリアな朝の風景、まだ人通りの少ないその歩道を遠ざかっていく後ろ姿。平べったいカバン型のリュックに、紺色のベレー帽。同じ色のブレザーに、チェックのスカートをはいていた。白地に紺のラインが二本入ったハイソックスに、やはり紺色の革靴。さらさらと茶色っぽい髪の毛が真っ直ぐに伸びて、脇から細い二本の三つ編みが揺れていた。 彼女はバス停のところで、立ち止まって向き直る。3年生か4年生くらいかな、俺より年下っぽい。見たことのない顔だなと思った。 この辺りは昔からの住宅地で、住んでいる顔ぶれもほとんど変わらない。俺も「岡田電気のせがれだろ?」とこっちから名乗らなくてもそこら中に顔パスだった。それは何も俺に限ったことじゃない。だからこそ、勝手知ったる風景の中にひとり佇む見たこともない女の子はとても新鮮に思えた。 「……」 バス停の前を通るときに、ちらっとだけ横目で確認する。色が白くて、目が大きくて、人形みたいな顔をした子だった。向こうももちろん俺の存在に気付いたと思うが、お互い知り合いでもないのに声を掛け合うこともない。そのまま無言で通り過ぎた。 次の週も、その次の週も。飼育委員の当番で早起きをした朝は、必ず彼女とすれ違った。きっと毎朝、同じ時間のバスに乗っているのだろう。しかもいつも同じ格好をしている。それが「制服」と学校指定のカバンと靴だと言うことに、しばらくしてからようやく気が付いた。 週に一度、一瞬だけかいま見る女の子のことがいつの間にかとても気になるようになっていた。だけど分からない、近所に誰か引っ越してきたとかいう話も聞かないし、休日に彼女を商店街などで見かけることもない。 一体どこに住んでいるのだろう、どうしてわざわざ遠くの学校まで通うのだろう。考え出すときりがない、全てが謎めいているからこそ余計に引っかかるんだ。
「あら、ケンジ。どうして今朝は早いの? 当番の日じゃないでしょう……?」 呼ばれる前に支度を終えて台所に降りてくると、母親はとても驚いていた。俺は口の中でただもごもごと言い訳して、慌てて並べられた朝食をがつがつと平らげる。目玉焼きに醤油をかけるのも忘れるほど、焦っていた。 何でだろう、今日はえらく胸騒ぎがする。明け方の夢の中にバス停の女の子が出てきて、しくしくと泣いていたんだ。あの子の泣き顔なんて見たこともないのに、大きな目から涙があとからあとからこぼれている。「どうしたの」と訊ねようとしたら、目が覚めていた。 当番の朝よりもさらに10分ほど早かったから、さすがにあの子もいないだろうとたかをくくっていた。だけど大通りまで来て俺が見たのは、夢に出てきたのと同じ彼女。いつもの涼しげな横顔ではなく、青ざめて途方に暮れた感じでうろうろとしていた。 「――どうしたの?」 夢の中では途中で途切れてしまった言葉を、最後まで言い終えることが出来た。俺が声をかけてくるとは思っていなかったんだろう、彼女は一瞬びくっと身体を震わせてからこちらに向き直った。 「……あ」 花色の唇が、微かに震えている。見知らぬ小学生に声を掛けられたことにかなり怯えている様子だった。だけど、ここでひるむわけにはいかない。だって、彼女はとても困っているのだから。 「ええと、……定期入れを落としてしまったの」 それだけ言い終えると、彼女は夢の中と同じようにぽろぽろと涙をこぼした。そして頬に付いた幾筋ものあとの上に新しい模様を作っていく。 昨日の帰り道にバスを降りるまでは、確かに手元にあった。でも夜になって確認するとどこにもない。家中、自分が移動した場所は全て確認したが見つからないので、今朝はいつもよりも早起きをして少し向こうの駐在所まで行ってみた。だが、まだ朝の早い時間で、そこには鍵が掛けられたままだったという。 「じゃあ、一度家まで戻って、おうちの人にそうやって説明したら? 今日のバス代だけでも出してもらえばいいじゃない」 そう助け船を出してみたが、彼女は泣きながら首を横に振るばかり。そんなことをしたら迷惑を掛けてしまうからと、子供らしくない言い訳をする。何だか相手をしていると、こっちまでが泣きたい気分になってきた。こうしていても埒があかない、今に彼女が乗るバスが来てしまうだろう。ここはひとっ走りして家に戻って、母親に説明して立て替えてもらおうか。そんな考えまで頭を過ぎってくる。 「――あれ?」 くるりと向き直ったとき、歩道脇の茂みの中に何かきらりと光るものを見つけた。近寄って、その存在を確認する。植え込みの根本にあったのは、彼女のカバンや靴と同じ素材で出来た紺色のパスケースだった。 「あ、……それっ!」 僕が手にしたものを、長いまつげを揺らした彼女が信じられないような眼差しで見つめている。 「ありがとうっ、本当にありがとう……!」 遠くに自分の乗るバスを確認した彼女は、泣き笑いの表情のままで何度も何度も頭を下げた。そして小走りにバス停の方に向かいながら、こちらに手を差し出してくる。 「これ、お礼です。本当に、助かりました。どうもありがとう」 成り行きのようにバス停で見送る俺に、彼女はバスの窓越しに笑顔で手を振っていた。今までに見たことのなかった可愛い表情は、その後も俺の心の中に消えない残像としてきらめき続けることになる。 そのまま夏休みになって。やがて待ちこがれた新学期が訪れたとき、あのバス停から彼女の姿は消えていた。
「ええと、緑が丘公園ですね。それでしたら、この通りを進んで信号をふたつ越えたら、すぐ左にあります。ええ、大きな看板が出ていますからすぐに分かりますよ?」 大きな荷物を手にしたおばあさんが深々と頭を下げてくれる。その荷物を受け取って、一緒に同行して差し上げたい気持ちに駆られるがそうも行かない。もうひとりの先輩が見回りから戻るまで、俺はこの場所を守っていなくてはならないのだから。 駅前の駐在所。数年前に新しく塗り替えられた建物は、真新しく人目につきやすいらしい。ただ、円筒形の建物を見て、時々公衆トイレだと勘違いする人もいるのには困ってしまうが。 トレードマークの帽子をかぶり直すと、俺は周囲を確認してから建物の中へと戻っていく。そして備え付けの机に座ると、拾得物のノートをめくった。それでも、辿る指先が震えてしまう。思えば今朝から、ずっと落ち着かないままだった。 「すみませーん、どなたかいらっしゃいますか?」 その声に、俺は反射的に立ち上がる。入り口に立っていたのは清楚な装いに身を包んだ若い女性、さらさらと茶色の髪が肩先で踊っていた。あれは染めているんじゃない、もとからそんな色なんだと自分でも知らないうちに何度も確認してしまう。 「先ほどはお電話をありがとうございました。実はご連絡を頂くまで、落としたことにも気付いていなくて……本当に助かりました。今日は必修の講義があるのに、危うく遅刻をするところでした」 はきはきと明るい笑顔で話す彼女の前に、俺は紺色のパスケースを差し出す。その上にちょこんと乗せられた四つ葉のクローバー。ひからびて色の変わったそれを見て、彼女が大きく目を見開く。 「……え……?」 学校指定の定期入れ、あの頃持っていたものとは違う品だとは思う。でも、懐かしいそれを見たときにすぐに気付いた。 「申し訳ございませんが、中身を確認して個人的にご連絡をさせて頂きました。どうしても、一緒にお渡ししたいものがありましたので……」
大通りの大きな洋館に、ほんの数ヶ月だけ両親の仕事の都合で預けられていた女の子がいたことを知ったのは、すでに彼女が引っ越してしまったあとだった。その後の行方を捜すことも出来ずに、いつの間にか月日は流れていく。家の電気屋は兄貴が継いだために、俺は警官になった。 どうしてこの道を選んだのか、自分でもよく分からない。だけど、もしかしたら、こんな運命を手にするためだったのかも知れない。
あの日に置き去りにしたままの気持ちがにわかに騒ぎ出す。 祖父母との同居を決めたためにひさしぶりにあの洋館に移り住んだ彼女との再会。変わらない風景と共に、新しい物語が始まっていく。 おしまい。 (060612)
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お題提供◇瑠布子様 |