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12.結晶


「俺、もう辞めようと思うんだ」

 月明かりに浮かび上がった肩先。綿シャツの襟元が小刻みに揺れていた。

「……え……?」

 表通りの横断歩道。いつも通りに渡りながら見上げた窓に灯りはない。

 どこかに買い物にでも出てるのかな――そんな風に考えて、ドアを開けても「ただいま」を言わなかった。玄関に彼の靴を見つけて、ハッとして顔を上げる。私の視線が闇の空間を泳いだのはほんの一瞬。

 何もかくれんぼを決め込んだ訳ではなかったようだ。開けっ放しの襖の向こう、形ばかりの台所以外では唯一の部屋となるそこに人影を見つける。窓にこちらを背にして寄りかかっているが、眠っている様子もない。改めて帰宅の挨拶をしようと手元のスイッチに手を伸ばしながら口を開きかけた時、そのタイミングを待っていたかのように彼の声がした。

 光源を求めていた指先が止まる。

「試験、もう今年までにしようと思う。……これで長かった浪人生活も終わりだ」

 牛乳とフルーツ。明日の朝食用にと求めた食材の入った袋が手から滑り落ちたことに、足先に感じた冷たさで初めて気付いた。

 

 彼の目指している資格がどんなに難しいものであるか、全くの部外者である私でもすでに知っていた。大学でその道を専門に学んでいたとしても、数年に渡り繰り返し受験する人がたくさんいる。合格率も青ざめるほど低くて、さらにそこに到達するまで一番長い人では一年近くに渡り数回の試験を段階的にクリアして行かなくてはならない。
  端から見ていても、それこそ「砂を噛むような」辛く長い戦いであった。大卒の彼は一次試験を免除され毎年五月にある「短答式試験(択一試験)」から受験することになるのだが、仮にそこをパスしても次は七月の「論文式試験」が待っている。さらにその先には最終となる「口述試験」があるが、残念ながらこの五年の間に彼がそこまで辿り着いたことはなかった。
  最終の合格率が出願者の2,3%にしか満たないと聞いている。さすがに狭き門、どんなに優秀な人材であってもその中でさらにしのぎを削らなくてはならない。

「あまり、大きな声では言えないんだ。笑われると恥ずかしいし、結果を聞かれるのも嫌だからね」

 知り合って間もない頃、頬を染めながら夢を語ってくれた彼は最後にそう付け足した。そこまで卑下することもないのにと思ったが、彼としては真剣らしい。どこまでも大人しく、決して人の前には出ないような人だった。あまりに遠慮しすぎて、色々損をすることも多いらしい。

 彼は、文字通りの「苦学生」であった。当時、同じく学生だった私がアルバイトを始めたパン屋に数日おきに現れるのだが、それは決まってお昼前。サンドイッチを作った後に大量に出る「お買い得品」のパンの耳が彼の目的だった。
「本当に、自分が食べているわけじゃないでしょうねえ」――バイト仲間の間でも、彼はすでに噂になっていた。もともとは鳥などのペットに与える餌として買い求めるお客様がほとんどだったのに、数年前からは彼もそのひとりに加わったと言う。いつも抱えている分厚い専門書から、近くにある大学の学生だと思われた。

 ある時、昼の休憩で近くの公園に出たところで彼を見かける。

 その日はお店に来なかったのに、ベンチに座る傍らにはやはりパンの耳の袋があった。細長い一本を口に投げ込むと、今度はそれと同じ量を細かくちぎって地面に落とす。およそ若い男性にはふさわしくない昼下がりの光景に、私は最後まで声を掛けることが出来なかった。

 次の日も、また次の日も。気がつくと足はその場所に向かっていた。講義の関係だろう、いつものベンチに彼が姿を見せることも見せないこともある。賑やかな喧噪の中に消えてしまいそうな存在。それなのに、私はいつの間にか彼のことが気になって気になって仕方なくなっていた。
  こんなこと、誰にも言える話じゃない。もちろん、仕事場でも内緒だ。バイトを始めた頃には春の花が花壇を彩っていたが、次第に日差しは強くなり巷ではそろそろ夏休みを迎えようとしていた。

 

「……あ……」

 前期試験でバイトをしばらく休み、あのパン屋にも公園にも出向くことがなかった。来月のシフト表が上がっているから取りに来るようにと連絡を受け、合間を縫って店に向かう。午前中の二コマを終えてすぐだったから、それは丁度お昼の時間に差し掛かった。

 半月ぶりに眺める公園は花壇や植え込みの間から雑草が伸びて、鬱蒼とした雰囲気に包まれていた。園内こそは土がむき出しの状態ではあるが、周囲は都会の熱気で満ちている。何気なく覗いたいつものベンチに彼の姿はなく「何だ、今日はいないのか」ときびすを返し掛けたところで視線の隅にちらっと白いものが映った。

 大きな木の陰。広い公園の中でもそこは唯一の日差しを遮れる場所であった。詰めて座れば三四人が休めるそこに、彼は身体をぐったりと横たわらせている。額から目の下の辺りまで、白いタオルが置かれていた。

「……あの」

 どう見ても異様な光景である。だから、声をかけずにはいられなかった。もちろん、自分の行動がとんでもないお節介だとは分かっている。しかし、ここで見過ごしてしまってあとで取り返しのつかないことになったらどうしたらいいのだ。

「……う……」

 遠慮がちに肩に手を置くと、彼は少しだけ身体を揺らした。そして生ぬるくなった濡れタオルを取りながらこちらを振り向く。しばらくは焦点の合わない目で、いきなり現れた私を不思議そうに眺めていた。

「君は……確か、この先のパン屋の」

 慌てて身を起こしかけた彼は、また軽い目眩を覚えたのだろう。俯いた額からは脂汗が滲んでいる。

「急に動かない方がいいですよ? そちら、貸してください。そこの水道で一度すすいできますので」

 夜通しの道路工事のバイトが身体に堪えて、今朝は起きあがるのも辛い状態だったのだという。だが、夕方になればまた仕事が待っている。それまでにどうにか持ち直さなくてはならないのに、南向きの部屋ではさらに体力を消耗しそうな感じだった。大学の図書館は月末で休館、さらに市立の図書館も休みときてはもう行くあてもない。
  長期休みに入って来週からはさらに昼間のバイトも入れているのだと聞いて、さすがにそこまでするのは無理だろうと思ってしまった。

「そんなに働いてどうするんです、今に身体を壊してしまいますよ?」

 赤の他人が余計なお世話だとは思ったが、ついそんな言葉が口をついて出てきてしまった。だが、彼は私の非礼を気にする素振りもなく、ただゆっくりと微笑む。

「仕事がある時に、どんどん引き受けておかなくてはね。つい最近まではこちらが頼んでもどこも雇ってはくれなかった。本当に有り難いことだよ」

 通りすがりにしか過ぎない私に、彼はかけがえのない心を分けてくれた。

 

 複雑な生い立ちを抱えていた。

 両親が亡くなってさらに彼自身も危険な立場に置かれたときに、手をさしのべてくれたのがひとりの若手弁護士だったという。見返りを求めることなく自分のために必死に動いてくれたその姿に胸を打たれ、彼はその後の自分の人生を大きく転換させることになったのだ。

「どうにかして、俺も困っている人の役に立ちたい。正しい法は人を縛るものじゃなくて守るものなんだ。あの先生は俺の両親の無実をはっきりと証明してくれた、だから今こうして堂々と日の中を歩くことが出来るんだよ」

 言葉少なにそれでも自分の夢を真っ直ぐに語る彼のことを、傍らで支えていきたいと思った。決して望まれたことではない、私のことを彼は歓迎してくれた訳ではないから。

「同情なんて欲しくないんだ、そんな見せかけだけのものはすぐに崩れ去るものなんだから」

 どんな言葉も彼には届かなかった。激励も慰めも、ただその頑なな心の水面を静かに通り過ぎていくだけ。一緒に暮らし始めても、その体温を誰よりも一番身近に感じることが出来る立場になっても――互いに抱えた孤独は失せることなく、時が経つにつれてさらにその存在を肥大させていった。

 他人の目には、何て馬鹿な女と映るだろう。何度も試験に臨み散っていく彼の側にいることは、頭の中で思い描いていたほどに容易くはなかった。決して己の中の憤りをこちらにぶつけてくるような人ではなかったが、それでも深く落ち込んでしまったときの彼とは幾日もの間共に過ごしても言葉を交わすことすら叶わない。
  期待されたわけでもないのに、ふたりの暮らす部屋の代金も日々のお金も全て私が賄っていた。それに黙って従う彼の中にどんな気持ちがあったのだろう。お互いにとって、決して心地よいものではなかった。しかし、私たち同様の人たちは周囲にたくさんいたことも事実である。人と接することを好まない彼も、次第に周りの人々に心を開くように変わっていった。

 ――彼の夢は、私の夢。

 少なくとも、私の方はそう信じていた。田舎の両親が何を言ってきても、そんなことに心を惑わされることもない。一年、また一年。同じような日々が過ぎていく。もしかしたら、これは永遠に続く螺旋のようなものなのかも知れないと考え始めていた。

 

「辞めるって……そんな。急に決めることじゃないでしょう、まだ時間はたっぷりあるし。今はきっと疲れているのよ、ゆっくり休んでそれから考えればいいわ」

 試験とは合否にかかわらずその結果が出るまではかなりの神経が削り取られるものだ。もしも受かればその辛さも喜びに代えることが出来るが、そうでなかった場合はさらに落胆は深くなる。でも、この試験の唯一良いところはそのチャンスが一度きりではないことだと思う。毎年きちんと募集があり、どんなに稀少とはいえそのたびに若干名の採用があるのだから。
  試験のやり方もだんだん変わってきて、この先はより深い知識を身につけた人たちが優先的に合格するようになっていくようだ。法科大学院(ロースクール)に進むという道も新たに現れている。彼の手元にも以前もらった資料があるはずだ。

「――いいんだ」

 それは、どこまでも澄んだ静かな声。靴を脱ぎ捨てて駆け寄った私を見上げても、その微笑みは揺らぐことがなかった。

「里沙にも今まで心配を掛けてきたね。でも、もう大丈夫だ。今度こそ、本当に吹っ切れたから」

 膝立ちになった彼が、立ちつくしたままの私にしがみつく。丁度、腰に手を回される位置。おなかの辺りに、彼の顔があった。

「側に……いてくれてありがとう。今は何もない俺だけど、これから先もずっと一緒にいてくれるか?」

 言葉を失ったまま、私はぼんやりと彼を見下ろしている。背中の半分まで伸びた髪、節約のためにただ切りそろえるだけにしてきたら、こんなに長くなっていた。

「え、……でも。待って、どうして?」

 いいのに。今まで五年も頑張ってきたんだよ? もしかしたら、来年こそチャンスは訪れるかも知れない。半端な気持ちで辞めたら、この先ずっと後悔する。私だったら、大丈夫。今の暮らしだって、全然辛くない。どんなに心許ない関係でも、私はずっと彼の支えであり続けたい。

 そう、いつの間にか。私の心は彼の色に染まってしまったのだから。その悲しみも苦しみも、まるで自分のことのように分かち合うまでになってしまった。だから、……いつか彼の夢が叶ったとき、同じだけ喜び合えるはず。この先もずっと、その日を信じて待ち続けたいと思う。

「大学に用事があって、久しぶりにあの公園に行ったんだ。しばらくの間にだいぶ様変わりしていてね、近所に大きな住宅地が出来たせいかすっかり子供たちの遊び場になっていたよ」

 腰に回していた腕を解いて、彼は今度は私の両手を自分の両手で包み込む。束縛が解けたことで、へなへなとその場に座り込んでいた。

「何も急に決めたことじゃない、ずっと悩んでいたんだ。もともと俺は自慢できるほど頭も良くないし、年々記憶力も低下してきてこの頃ではいくら詰め込んでも次の日にはさっぱり忘れていることも多い。去年は出来た過去問題が、今年は全く解けなくなっている。何というか……これが限界なのかなと、ようやく気付いたんだ」

 私の目の前にいる人は、今ひとつの夢から飛び立とうとしている。なのに、こんなに安らかで満ち足りた表情でいられるのはどうして?

 確かに辛いけど、これもまた事実だと思う。いくら願ったところで叶わない夢は存在する。学力の差は努力だけでは埋められない部分が大きい。でも……だからといって。

「いいの、そんなことして。……無駄になっちゃうよ、今までが。あとには何も残らないのは嫌だって、いつもいってたでしょう?」

 死人に口なしとばかりに無実の罪を着せられそうになった両親。手のひらを返したように冷たく突き放した親戚知人。あのときの絶望から、彼は必死で立ち上がって自分だけの力で歩き出したのだ。そして、唯一の希望は、自分を助けてくれたその人のような人間に、いつか必ずなること。それだけを、夢見てひたすらに進んできたのに。

「残っているから、だから大丈夫。俺はひとりじゃない、もうひとりじゃないから」

 知らないうちにこぼれていた雫を、不器用な指先が拭ってくれる。片手で静かに私を抱き寄せながら、彼は積み重ねられた書類の中から三つ折りの小さなリーフレットを取り出した。

「この前、郵便局に行ったときに窓口で保険を勧められてね。初めてのことだったから、かなり驚いてしまったんだ。自分よりも自分の周りにいる大切な人を守るためのものだって言われて、その瞬間に里沙のことを思い出してた。そんな自分が、……とても嬉しかったんだよ」

 

 一体何が、どこで変わっていたのか。それはまだ分からない。

 未だに彼の心に私の心に確かに残る、砕けた「夢」の欠片たち。忘れることはないままに、いつかひとつの結晶になる。晴れた日も雨の日も絶えず互いの心の内側を照らして、いつまでも輝き続けますように。

 私たちはもうひとりずつには戻らない。心に同じ色を抱えていれば、どんなに遠ざかったとしても必ず共鳴して求め合うのだから。辿った月日は静かに降り積もって大切なことを教えてくれる。お互いがいたから、越えてきた道のり。

 

「俺の、家族になってくれるかな?」

 月明かりの中の誓いにゆっくりと笑顔で頷く。それはふたりにとって、新しい「夢」が始まる瞬間。

了 (060622) 

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お題提供◇雪嶋ゆえ様(サイト・bittersweet chocolate
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言いたいことは作品の中に全て込めました。
普通は「結晶」というと赤ちゃんかなーとか思ったのですが、ちょっとだけ変化球で。
不完全燃焼のままで消えた夢も、それに向かって走り続けたのだからやはり綺麗だと思います。