◆ 25.後ろ前
9月までの夏時間が終わって、塾の開始が20分繰り上がった。 外階段を上がって自動ドアを駆け抜けると、受付のおばちゃんが私を呼び止めた。ああ、そうか。今日からクラス替えなんだっけ。先週言われた気がするけど、今の今まですっかり忘れてたわ。 先週帰ってきた模試の結果は五教科の合計で学年5位だった。中一クラスは14人と特に少ないんだけど、それでもまあ移動はないだろう。期待を込めて見上げた掲示板、ちゃんと1-Aクラスの席次表に名前があってホッとする。ええと、……真ん中の列の前から2番目。これなら、後ろの入り口から入った方が早そうね。 「部活でくたくたになったあとに、塾? 今の子供は大変だねえ……」 隣りに住んでるお祖母ちゃんたちはすぐにそんな風に言う。でも、私は自分がそれほど「大変」とも「可哀想」とも思っていないんだな。そりゃ、塾に通わずに済ませてる子も中にはいるよ? でもそう言う子って、並はずれた頭脳で授業内容を頭の中に刷り込んでいける超人か、高校入試を甘く見てるのんびり屋かどっちかよ。 ただねー、ひとつだけ不満があるんだけど。それさえクリアできたら、もう何も怖いものはないんだけどな。
3番教室、がらがらと後ろ側の引き戸を開ける。中学校の教室の奥行きが半分になったくらいの広さ。すでに3,4人の先客がいた。 ――あーあ、やっぱ野郎ばっかじゃん。 もともとウチの学年は女子が私を含めて3人しかいないんだけど、あとのふたりは今回もBクラス。小学生の頃は彼女たちすらいなくて、本当に男ばっかの中で過ごしていた。何て言うかなあ、違うのよね。全然話は合わないし、未だに「ゲーム」だの「カード」だのガキっぽいったら。 我関せずの背中たちに軽蔑の眼差しを向けてから席に着く。……えっと。
そこで、私の頭の中は真っ白になった。 いや、違う。真っ白になったのは、私の視界だ。だって、目の前が白い。何なのこれ、前が見えないよ……!
パニクっていたのはほんの数秒、すぐに現状を把握する。そう、目の前に座っている人間が大きすぎるのよ。横幅もそれなりにありそうだけど、とにかく座高が高い、とてつもなく高い。白いワイシャツの背中が目の前に立ちはだかる「壁」に見えてくる。何なの、これ。 「あー、静かにしろ。小テストのプリントを配るぞ、一枚ずつ取って後ろに回せ」 程なくして見慣れた先生がやって来る。いつも通りの授業が始まっても、いつも通りではない視界は最後まで真っ白なままだった。いや、違う。ワイシャツの背中から透けてる体操服のポケットに名前が書いてある。 ――小山・彬。 それは聞いたことのない名前だった。どうも中一からの入塾生で今まではBクラスにいた生徒らしい。それまでのAクラス常連は小学校の頃からの顔ぶれがほとんどだったから、皆不思議そうに彼を見ていた。知り合いとかもいないのかな、休み時間もひとりでぽつんとしてる。 ……まあ、それはいいんだけど。休憩の時間をどう過ごそうと本人の勝手だし。 でも、私はとにかく面白くなかった。だってさ、何が「小山」よ。ちっとも小さくなんてないわよ、はっきり言って邪魔だわよ。黒板が全然見えないじゃないの。その上、私が右斜めに乗り出すと、彼も同時に同じ姿勢になる。ディフェンダーじゃないんだからさ、いい加減にしろって言うの。 塾クラスの席順は次の模試まで固定だ。そもそも成績順に並んでいるから、変えようがない。もしかして、次回に彼よりも良い成績を取らなければ、無駄に労力を使う毎日がずっと続くってこと? そんなの、絶対に許せないわ。
どんなに頑張って早めに到着しても、必ず「壁」は先に着席してる。鬱陶しいったらありゃしない、どうにかならないものだろうか。そんな風に過ごして、ひと月。ある時、私ははたと気付いた。 ……もしかして、私って「小山」の顔もよく知らなかったりする?? むくむくと標準よりもかなり広めの背中はすでにお馴染みになった。最初は遠巻きに見ていた他の男子ともいつの間にかうち解けて、楽しそうにしゃべっていたりする。でも、そう言うときも彼は自分の席に着席したまま、目の前に立ちはだかっていた。プリントを回してくれるときもこっちを振り返りもしないの、何かむかつく。 7時から始まる塾は、補習の時間を含めても9時半には終わる。私が帰り支度を済ませてもまだ、彼は机に向かったまま。「敵に背中を見せるな」って言葉あるけど、彼はその正反対をしてる。別に私、「敵」じゃないけど。まー、塾仲間なんて全部「ライバル」みたいなものだけどね。 不思議なものだなと思う。もしもこれが学校のクラスメイトだったら、掃除やら給食当番やらあって声を掛け合う機会も増えてくる。こっちが意図しなくても「きっかけ」は訪れるんだな。 「えー、小山くん? あの、大きい人でしょ。私、同じ中学なんだよ」 ある時、さりげなくBクラスの女子たちに彼のことを訊ねてみた。だけど、別に普通の反応しか戻ってこない。私にとってはすごく変なのに、何でみんなは普通だと思うのかなあ。 どうして、こっちを向かないの? 私はこのクラスに一人しかいない女子なんだよ、ちょっとは興味ない? と言うか、ひと言だけ言いたいことがあるんだけどさ。いきなりじゃ、声をかけにくいんだよ。
一度気になり始めると、止まらなくなる。イライラが募って、思わず真っ白い背中に頭突きしちゃおうかと思ったこともあった。 そんなこんなで、さらに半月。あっという間に塾内模試の日がやってくる。この日のために私は今までになく必死で勉強した。だって、何があっても「小山」よりもいい成績を取らなくちゃ。あの白い壁から逃れるにはそれしかないんだから。 模試は土曜日の1時から。部活も午前中で早めに終わったし、久しぶりに自分で自転車を出すことにした。親は「助かるわ」と150円のジュース代をくれる。もうちょっと奮発してよと言いたいところだけど、ぐっと堪えた。 「あれ……?」 いつも通りに席について、何か勝手の違うことに気付く。どうしたんだろう、「小山」がいない。まあ、日中のテストだしスケジュールが会わなければ別受験となる。だから、ひとりふたりとメンバーが少なくなることも珍しくないのだ。 それは分かってる。分かってるのにすごく落ち着かなくて、またイライラする。私はすっかり小山の「背中」に振り回されていた。
「あ、大原さん。今日からクラス替えね、そこの掲示板で座席を確認して」 その声で、あっという間の2ヶ月に気付く。巷はすっかりクリスマス、車を降りて塾に駆け込むそのちょっとの間も凍えそうだ。 掲示板の前、見慣れた背中が立ちはだかってる。だけど、それが少しだけしょぼくれて小さく見えた。 「あのーっ……」 見えないんですけど、と言葉を続けようとした。そしたら、彼はゆっくりとこちらを振り向く。長袖のワイシャツから透けてる体操服、その胸元には「小山・彬」の名前があった。 ああ、そうか。やっぱりこっちが前だったんだなと、ひとり納得する。背中にポケットと名前がある体操服なんて、絶対に変だもの。何で逆さまに着てるのかな、平気なのかなと不思議で仕方なかった。 「不動のAクラス、さすがだなあ」 初めて見るその顔は、想像していたよりも「普通」だった。とんでもなく破壊されているのか、そうじゃなかったらものすごいイケメンか、そんな風に考えてたのに。何か当たり前すぎて、拍子抜け。その脱力感からか、抵抗なく訊ねることが出来た。 「ええと、小山くんは?」 彼は私の問いかけに口の端だけでちょっと笑った。それから大きなその身体に似合わずに、小さく首を横に振る。そのあと、本当に聞こえないくらい小さな声で「難しいなあ」と呟いた。
野球部に所属する彼が、ユニフォームから制服に着替える途中で慌てていたためか中に着る体操服をうっかり後ろ前に着てしまった。そのことに気付いたのはあの日初めてのAクラスの席に着いてからだったと言う。最初は休み時間にでもこっそり直すつもりだったけど、そのうちにはたと思いついた。 「せっかく同じクラスになれたんだから、君に名前を覚えてもらいたいなと思って。あんな風に前の席に座れる機会なんて、滅多にないから。周りの奴らに気付かれて指摘されたらどうしようと、いつも冷や冷やしてた」 ――きっかけをずっと探していたんだ。 そんな告白をようやく聞くことが出来たのは、さらにいくつもの季節を越えてからのこと。今でも私の顔を見るとちょっと赤くなる恥ずかしがり屋さんは、その色を隠すように次の瞬間に空を見上げた。 今日もワイシャツから透けてる学校指定の体操シャツ、私と同じ高校の校章と「小山・彬」の名前はちゃんと胸元にある。 おしまい♪ (060926)
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お題提供◇結城和林様(サイト・ぐるぽん☆) |