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22.見ないで


 耳をくすぐるのは心地よい小鳥のさえずり。頬をなでていく五月の風、仕事明けのすがすがしさが胸を満たしていく。そしてゆっくりと瞼を開けば、柔らかい若葉をまとった並木が通りの奥まで続いている。

  迎えの車を途中で降りて、しばしの散策を楽しみつつ家路を急ぐ。ああ、何という穏やかな心地。朝一番のチケットしか手配できなかったためやむを得ずの朝帰りと相成ったが、それもまた一興。今日は一日オフだ、家に戻ってからゆっくり寝直すのもいいだろう。このところ、仕事が立て込んでいて泊まりで家を空けることも多かった。思う存分我が家でくつろぎたいものである。

 駅前から一歩奥に入れば、そこはもう閑静な住宅地。都内でありながら緑豊かで、生活するにはこの上ない環境だ。その一角にあるのが、かの一籐木コーポレーションの傘下のひとつと言われている「藤野木学園」がある。幼稚部から高等部までの一貫教育、優秀な人材を輩出する伝統校として今やその名を国内に留まらず海外にまで広く轟かせている。
  父親が創設から関わってきたこともあり、彼もまたその意志を継いで今に至る。副理事長という肩書きにもようやく馴染んできた。新しい事業のプランもようやくまとまり、手探りで模索し続けた長いトンネルを抜けることが出来そうである。
  プライベートでも子宝に恵まれ、誰もがうらやむほどの充実した日々を送っていた。その満たされた気持ちが自然とその表情にも表れているようである。

 ――もう、朝食も終わった頃かな?

 確認した腕時計は八時半を指している。小さな子供たちの多い家の朝は早く、休みの日でも夜明けと共にたたき起こされることも多い。もちろん学園経営に携わる彼の家には幾人もの使用人がいて、家の中のことは彼らが滞りなく片づけてくれる。有能なベビーシッターにも恵まれて、頼もしい限りである。

 そうだ、たまには妻とふたりで映画でも観に行くのもいいかな。
  そんなひらめきが頭を過ぎる。普段は学園の仕事に家での母親業に忙しく過ごしている彼女だ、たまにはゆっくりと自分の時間をプレゼントするのも良いだろう。そう言えば、懇意にしているデザイナーがそろそろ秋物の打ち合わせをしたいと連絡してきた。帰りにちょっと顔を出すのも悪くない。

 長身の彼よりも高くそびえる鉄の扉。その脇にあるインターフォンを押すと、館の中から若いメイドが飛び出してきた。

「お帰りなさいませ、惣哉様」

 エプロンドレスのフリルが、庭に咲き乱れる季節の花々にも負けないように揺れている。惣哉自身は直接目にしたことはないが、今時はこのような服装の女性に憧れる現象がありメイドが街中に溢れている一角が都会のど真ん中にあるらしい。いわゆる「萌え」という奴である。最初に妻からその話を聞いたときは何のことやら全く分からなかった。そのような趣向はいくら説明されても理解できない。

 ――まあ、妻があの服を着てくれれば。それはそれでそそられるかも知れないが……。

 にわかに自分の心に湧いてきたよこしまな考えを振り払い、彼は愛しい家族の待つ我が家へと入っていった。

 

 例えれば、子犬。いや、その仕草をみれば子リスの方が近いだろうか。

 何しろ初めて出逢ったとき、彼は学園の臨時職員だった妻をあろうことか学園の生徒と勘違いしたのだ。何しろ幼い、小柄な姿も柔らかい微笑みも年相応のものとは思えない。つい先日もゲームセンターの近くで補導員に声を掛けられてしまったと言うから困ったものだ。

 しかしそんな彼女も今や四人の子供の母親であり、また仕事においては惣哉の有能な秘書としてなくてはならない存在である。小さな身体のどこにあれだけのパワーが宿っているのだろうか。一緒に暮らし始めてそろそろ五年になる今も、そのことは解き明かされない謎として彼の前に横たわっていた。

 ――でも、どうしたのだろう……?

 彼が不思議に思うのも無理はない。いつもであれば、自分をこうして出迎えてくれるのは愛しい妻と決まっている。いや、誰が規則で決めたというわけでもないが、妻の笑顔で招き入れられて初めてホッとすることが出来るのだ。たまに子供たちの世話で手の放せないこともあるが、そのようなときでも玄関先には姿を見せてくれる。

「あの、千雪は? どこかに出掛けているの……?」

 そんな話は聞いていなかった。何か予定に変更があるときには、必ず携帯に連絡を入れることになっている。妻は自分の人生のパートナーであると同時に仕事上でも重要な位置にいる人間だ。互いの居場所が分からないなどと言うことでは、色々と困ったことになる。

 すると出迎えたメイドは鈴の鳴るような若々しい声で「奥様はお部屋にいらっしゃいます」と告げる。その表情がいつもと変わりがないことから、体調が悪くて寝込んでいるというわけでもなさそうだ。

「そう、分かった。ありがとう」

 幼稚部の遊戯室のように広々と作られたラウンジでは、やはり朝食をとっくに終えていた子供たちが思い思いに遊んでいる。大きなジャングルジムや滑り台。梁からぶら下げたブランコなど、誰もが歓声を上げるようなしつらえだ。抱えると自分が見えなくなるほど大きなスポンジ積み木を投げ出して、子供たちが嬉しそうにすり寄ってくる。
  ああ、何と至福の時。ひとりひとりの名前を呼んで、順番に抱き上げる。それにしてもまあ、よく揃ったものだ。誰から指摘されるまでもなく、判で押したように同じ顔が並んでいる。「お可愛らしい」とお世辞を言ってくれる客人もいるが、彼はそうは思わない。何故、揃いも揃って自分にそっくりなんだろう。ひとりくらい妻によく似た愛らしい娘がいてもいいのに、幾度仕込んでも男ばかりというのも気に入らない。

「お疲れ様でした、惣哉様。お食事はいかが致しますか?」

 着物を颯爽と着こなし、その上から糊の良くきいた割烹着を身につけている。この家の一番の古株のメイド頭である「幸さん」は今なお現役。幼子たちの世話に明け暮れ、以前よりもさらにパワフルになった気がする。

「軽く食べてきたから今はいいよ、着替えて少し休もうかな?」

 子供たちの世話を皆に頼んで、彼はカーペット敷きの階段を静かに上っていった。

 

「千雪、入るよ?」

 ここは夫婦の寝室である。自分の部屋ではあるが、とりあえずノックの後に声をかけた。

「……千雪?」

 しかし、返事がない。仕方なく鍵の開いていないドアを開くと、それでも室内はしんと静まりかえっていた。建物全体がセントラルヒーティングで四季を通じて快適な空間に調節されている。突き当たりは床から天井までの大きな格子窓。明るい日差しが薄いカーテン越しに注ぎ込んでくる。
  左手の壁際にはキングサイズのベッド。子供4人と妻が一緒になってふざけてもびくともしない頑丈なものだ。しかし、広々とした部屋の中にあってたいした圧迫感もない。その中央がこんもりと盛り上がっている。

「どうしたの? ……具合でも悪い?」

 何やら、ただならぬ雰囲気を感じ取った。自分もだてに夫を続けているわけではない。妻の些細な変化も敏感に感じ取ることが出来るのだ。始終周りに気を遣い明るく振る舞う彼女も、その心奥には様々な想いを秘めている。誰にも見せることのないその部分に踏み込むことが出来るのは自分ひとりだと信じていた。

「……う……」

 くぐもった声、毛布の山が少し動いた。でも、反応はそこまで。また静寂が戻ってくる。

「千雪? どうしたの、かくれんぼはやめなさい。皆も心配しているよ、朝食にも降りてこなかったと言うじゃないか」

 オフホワイトの毛布の端を引いてめくり上げようとしたが、内側からしっかりと押さえられているようだ。ピンと張りつめたものの、それ以上はどうにもならない。

「ほら、いい加減にしなさい。あまり強情にしていると、最後には怒るよ? 今朝戻ることは伝えてあったでしょう、君が出迎えてくれないと急いで戻ってきた甲斐がないじゃないか」

 言葉こそは少々きつかったが、これ以上の無理強いはやめようと思った。ベッドの隅に腰掛けて、小山にそっと手を添える。やはり、その部分は震えていた。そういうことじゃないかとは思っていたのである。

「……いいです、怒るなら怒ってください。私、最低な人間ですから」

 ようやく聞き取れるほどの細い声、震えながらやっとの思いで伝えてくる。一体、どんな顔をしているのだろう。覗いてみたい気もするし、それをしてはならない気もする。自分の中で押し問答した挙げ句に、欲求の方が勝ってしまった。

「ほら、……もういいでしょう。顔を上げて」

 必死に毛布をたぐり寄せたところで、身体ごと仰向けにしてしまえば造作ない。丁度亀の甲羅をひっくり返すように、彼は腕を中に入れて力を込めた。

「あ、……駄目ですっ。ひどい、見ないで……!」

 水玉柄のパジャマが何とも色気ない。せめてネグリジェでも着て欲しいところだが、そうすると裾がまくれ上がっておなかを冷やすから嫌だと言う。涙で濡れた頬を、彼女は枕に押しつけた。

「……千雪……」

 よく考えたら、まだスーツも脱いでいなかった。このままではシワになりそうだなと思いながらも、妻の身体をそっと抱きしめる。向こうは布団に伏せっているので、添い寝をして引き寄せたような格好だ。

「僕がいなくて、そんなに寂しかった? 食事も喉を通らないくらい、会いたかったの?」

 優しくなだめるように背中をさする。妻は震える声で「そんなじゃ、ありません」と抗議した。

「春を……叩いてしまったんです。私、何だかとてもイライラしていたみたい。それが、……許せなくて」

「……え?」

 予想していなかったひと言に、思わず聞き返してしまう。妻が何かに落ち込んで塞いでいるのは分かっていた。でも、その理由がどうしても思いつかなかったのだ。「春」とは長男の「春哉」のことである。肉まんじゅうのようにころころして、いつもその辺を転げ回っている。その姿を見て、幸さんが「坊っちゃまのお小さい頃にそっくり!」と言うのが気に入らなかった。

「やけどをしそうとか、怪我の危険があるとか……そう言うときにはきつく叱るのも大事だと思うんです。でも、今回はきちんと言葉で説明すれば分かるようなことでした。でも……私、気が付いたら春のほっぺを叩いちゃってて……」

 たどたどしい説明、最初は些細な兄弟喧嘩から始まったらしい。おもちゃの取り合いなど、年のくっついた兄弟には日常茶飯事だ。いつもならば危険がなければ放っておくのだが、昨夜は春哉が力任せに弟たちを牛耳り始めたらしい。

「春、とてもびっくりして。私をじーっと見つめながら、声もなくぽろぽろと泣き出したんです。もう、どうしていいのか分からなくて。私、色々分かってるつもりで全然駄目だったんだなって……」

 多分息子よりも、叩いてしまった妻の方がずっと驚いたのだろう。まさか自分が感情から子供に手をあげる母親になるとは思っていなかったのだ。周囲にいた他の者たちもそれほどの大事とは思っていなかったのに、彼女だけが夜通し気にしていたに違いない。

「何言ってるの、千雪。君はとても頑張ってるよ。だから、子供たちもあんなに元気に育っているんじゃないか。少しぐらい上手く行かなくても、家族なんだから。心が繋がっていれば、必ず修復できるよ。大丈夫、そんなに気にしないで」

 子供の年がくっつきすぎることで弊害が起こる。ひとりひとりに十分な愛情を注ぎ切れていないのではないかという不安は始終つきまとい、それが彼女を次第に追いつめていったのか。それならば、悪いのは自分の方だと思う。彼女を責めることなど、出来るはずはない。

「……う、そんなこと言ったって……」

 時折、話してくれる昔のこと。彼女は自分の感情を押し込めることで周囲との平和を保っていた。それが幼い子供たちに囲まれる日常で、次第に崩れつつある。待ったなしの裸の想いが次から次へとぶつかってきて、その全てを受け止めようと必死になっているのだろう。
  ものには限界がある、頑張ったところで倒れてしまっては元も子もない。その思考に辿り着かないことが彼女の長所であり短所でもある。

 ふたつの感情が絡み合うことで、見慣れた風景も違って見える。ひとつひとつの心の積み木をゆっくりと積み上げるように築いてきたふたりの王国。まだまだ完成までの道のりは長い。無理に急ぎ足になることもないのだ。

「ほら、僕もまだ眠りが足りなくてね。少し場所を空けてもらえるかな、休みたいんだ」

 笑顔も泣き顔も全てが愛おしい、でも彼女がそれを隠すのなら無理強いはしたくない。疲れたら、身体も心も休めばいいのだ。難しく考えすぎて行き詰まることも多いのだから。

「え……駄目ですっ。惣哉さん、このままだとせっかくのスーツがシワに。お休みになるなら、着替えてからにしてください……!」

 ごろんと身を横たえて瞼を閉じると、驚いた妻が起きあがって彼の身体を揺する。慌てた声が可愛らしくて思わず吹きだしてしまいそうだが、それをぐっと飲み込んだ。顔をこちらに近づけた妻に片目を開けて告げる。

「心配なら、千雪が全部脱がせてよ。でもそうすると、ゆっくり休めなくなりそうだなあ……どうする? どっちにするかは、君次第だよ」

 ベッドの上に座り込んだまま、妻は頬を膨らませて「じゃあ、そのままでいいです」と言う。彼は喉の奥で低く笑うと、くるりと外を向いた寝癖ごと、愛する人をそっと抱きしめた。

おしまい。(060907)

 

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お題提供◇しゃら様
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>切ない系の話がよみたいな〜っておもってこんなお題にしてみました!

そんなコメントをいただいたので、別の内容も用意しておりました。
そっちのが、すごい「切ない」感じではあったのですが、夏疲れの今書くのはかなりきつい感じ
(しかも、悲恋ものっぽかったし)。
今回は「並木通り」のふたりを召還、時間軸としては「赫い渓」番外「くすぐったい日曜日」と同じです。
前半部分は「おまけ」、父親になっても何か間違っている彼が何とも。執筆中、何度突っ込んだことか(汗