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◆ 21.瑠璃色の海
耳に馴染んだ波音、心地よい微風。久しぶりに全身で受け止めると、心がどんなに渇いていたかを知ることが出来る。もう二度と戻ることのない場所、自分が産まれ落ちた故郷。今も水底の果てでそこは穏やかな時を刻んでいるのだろうか。 春浅い浜辺に人影はない。遠く目をこらしてみても、波間に帆影も見あたらなかった。時代の流れから忘れられたような海辺の街。地元の人間しか訪れることのない小さな浜。背後にすぐに迫った小高い山もそこに暮らす人々も、出逢いの時から十数年を経て少しも変わらない。記憶の始まりからずっと、この風景は心の中に焼き付いている。どんなに遠く離れようとも、絶えず求めていた。 「……あ……」 不意に頭上に影が通り過ぎる。大きく羽を広げたカモメが低空飛行をして、波間すれすれに遠のいていった。その白い羽先が春の海に溶けて見えなくなるまで見送って、沙耶(さや)はまたひとつ溜息を落とした。 夏にふたりで二泊三日の小旅行に出た。 「水が澄んで天気のいい日は、神社の鳥居とか小学校の屋根とかが見えるらしいよ?」 彼のその言葉通りに、息を殺して見守っていった水面にうっすらと何かの影を見つけた。水の中にあるものは実際の距離よりもかなり近くに見えると言う。透明な水がレンズの効果を示すらしい。かつてその場所に生活していた人々は胸の押しつぶされる思いでその情景を見守るのだと教えられた。 「沙耶」 物思いがそこで途切れる。ゆっくりと声が聞こえた方を振り向くと、いつも通りの笑顔の人がそこに立っていた。 「またここに来ていたのか。急に姿が見えなくなるから、みんなが心配しているぞ。どこかに出掛けるときには必ず誰かに声をかけなくちゃ、……普通の身体じゃないんだしさ」 ごめんなさい、と小さく頭を下げて詫びる。確かに軽率だったかなと反省した。久しぶりの帰郷なのだ、大歓迎で迎えられたのに荷ほどきもそこそこに抜け出してしまったのだから。 「ほら、冷えると身体に毒だよ。本当に見ているこっちがはらはらするよ、本人が一番分かってないんだからな」 そう言いながら、持ってきた薄手のコートを肩から掛けてくれる。今日は二月にしては気温も上がり過ごしやすい日和であった。だがやはり、こうして吹きっさらしの浜に出れば驚くほど肌寒く感じる。自分でもそろそろ限界かなと思っていた。 「うん、ごめんね。……そろそろ戻らなくちゃ」 自分を眩しそうに見つめる眼差しに、今更ながらドキドキしてしまう。何だろう、こんなにいつも一緒にいるのに。彼は時々自分には手に届かない遠い人に変わる。 「……なあに?」 こちらの問いかけになかなか答えないのにしびれを切らして、さらに言葉を重ねていた。そこで魔法が解けたようにふっと表情を崩した彼は、そのまま自然な感じで肩に腕を回してくる。そして、静かに触れ合う唇。 「この場所は、怖いんだ。海は好きだけど、嫌いだ。……今でも沙耶を連れて行ってしまいそうな気がする」 何故、今更。そんなことを言うのだろう。でも冗談で済ますには、あまりにも真剣な表情。 「どこにも行くわけ、ないでしょう?」 ちり、と心が痛む。だけどそれを振り払うように、沙耶は微笑んだ。 「私はずっと澪(みお)くんと一緒だわ、そう約束したでしょう? 澪くんが嫌だって言ったって、絶対に離れないんだから」 ふかふかの手編みのセーター。長い冬の間に何枚も仕上げたうちの一枚だ。柔らかなその袖に顔を埋める。 「……そうだな」 じゃあ、戻ろうかと促される。おなかの膨らみをかばうように、ゆっくりと坂道を上り始めた。
去年の春。一浪の末に澪の進学先が決まり、それと同時にふたりは戸籍上の「夫婦」となった。 やはり「確実に進路が決定するまでは」という渚のひと言は絶大。不安定なままの身体で三年以上を過ごすことに迷いはあったが、そこは医師夫婦のケアもありどうにか乗り切ることが叶った。 「出所は追及しないでね、これは私たちだけの秘密よ」 ある夜、澪の両親に呼び出されて差し出された一枚の紙片。どんな手段を用いたのかは未だに知らないが、沙耶はこの「陸」の世界で誰に悟られることなく当たり前に生きる術を手に入れることが出来た。幼い頃から、この夫婦にはどんなに世話になってきたか分からない。厄介な居候を幾度となく快く受け入れてくれ、さらに本当の娘にまでしてくれた。 ―― 身も心も「陸」に適応すること。 それが本当に可能であるのか、実は誰にも分からなかった。確実な根拠があるわけでもなく、ただ祈りにも似た気持ちで行為に及んだと言ってしまっても良い。互いの絆よりも自分の命の継続が優先されてしまうとは何とも受け入れがたいことであったが、澪もその家族も温かく自分を受け入れてくれた。心にわだかまるままの不安も一緒に。 「大丈夫だよ、どんなことでもふたりでいればきっと乗り越えることが出来る。そう神様が認めてくれたから、この子は俺たちのところに来てくれたんだよ」 初めての妊娠、しかも元々が常人とは異なる自分の身体。不安に押しつぶされそうになるたびに、澪はいつも温かく励ましてくれた。優しく抱きしめてくれるぬくもりがなかったら、とてもここまで歩いては来られなかっただろう。 春も、夏も、秋も、冬も。 これからもずっと変わらないふたりでいたい。命がけで手に入れた「今」だからこそ、大切に過ごしていきたいと思う。
波間を自由に飛び交う鳥たち。彼らの目には、見えるのだろうか。遠い水底に沈む「故郷」が。どこまでも続く蒼い海原、そのどこかに一瞬でもきらめくその場所があるのなら。 ―― 幸せだよって、そのひと言を伝えたい。 たとえ、何の返事もなくても。別れも告げずに飛び出してきてしまった故郷に、懐かしい人々に、今ひとたび感謝の気持ちを届けることが出来たらいいのに。 それが叶わないことであるとは知っている。ふたつの世界を繋ぐ「扉」は永遠に封印された、もう二度と開くことはない。 あのときは、たったひとつの想いを遂げた後は儚く散る運命にある自分なのだと思っていた。そんなせっぱ詰まった状況で、心を残すことなどどうして出来よう。願うことすらはばかられた夢に導かれて今ここに立っている。自分さえ思い描くことの出来なかった運命。 「大丈夫だよ、沙耶」 いつの間にか、また立ち止まって海を眺めていた。白い飛沫が視界の端を通り過ぎたとき、柔らかい声が追いかけてくる。 「沙耶の気持ちはいつか必ず流れ着くから。遠く離れていても、心はきっと通じ合うはずだ。沙耶も俺の声を聞いてくれたんだろ? だから、あのとき会いに来てくれたんだよな」 出逢いも、再会も。全ては偶然を大切に積み重ねた上に訪れる。 最初の一瞬にすれ違っていたら、もしもあのときに互いの手を離していたら、ここにふたりでいることはなかった。無駄なことはひとつもない、大切な「今」を守ることで明日が拓けていく。 「そうね、……その通りだわ」 ほどなくして産まれてくる新しい命を、ふたりで力を合わせて明るい方へと導いていけるように。また長い長い旅が続いていく。 「ありがとう、澪くん」 そっと寄り添って、胸元に感謝の言葉を落とす。どこまでも広がる海原。この人の心の中にも波音が息づいている。 「こちらこそ」 その言葉が、砕ける波音に重なった。 了(060904)
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お題提供◇小室彩様(サイト・24/7:gallry GENSO KUKAN) |