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26.絵の具


 そろそろ早春を迎える頃にあっても、未だに夜更けの冷え込みは厳しい。

  温暖な地にあって、霜の降りる夜も一冬のうちに指折り数えられる程しかないと聞くが、やはり花の季節を待つ心は膨らむばかりだ。

  天に光のない夜、自分の吐息はたちどころにふわふわと白いものに変わり闇に溶けていく。温かい綿入れのその下に何枚もの衣を着込んでもなお、耳の千切れるような凍えは袖口や胸元から忍び込んでくる。
  裏庭を越えればすぐに辿り着く、館とは目と鼻の先の庵。普段ならばそう億劫になることもないが、このように足下が凍り付くような夜に呼び出されてはたまらない。細々とした用事を済ませ奥の対に辿り着けばそこはもぬけの殻。謎解きのような文を残して、夫の姿が消えていた。

 やがて現れる蜜色の灯り。流れる水音も今宵は遠く、どこか別の場所に運ばれてしまった如く辺りは静まりかえっている。

 

「まあ、……これはまた見事な散らかりよう。館の皆に見つかったら、大変なことになりますよ」

 未だに悪ふざけの過ぎる夫にまずはひと言申し上げなければと思いつつ戸口を開ければ、その意に反して燈花の口元からこぼれ落ちたのはそんな言葉であった。

 しかしそれも無理はない。ささやかな土間に続く板間には、すでに足の踏み場もない程である。様々な透かしの入った美しい薄紙、手習い用の半紙、そしてまだ水で溶く前の色粉がそこら中に散乱していた。先日出仕先である大臣家から舞い戻った折りにいくつもの行李を運び込んでいたが、これがその中身なのであろうか。

「ああ姫、ようやくお出でになりましたか。申し訳ございませんがただいまは手が離せません、しばしお待ち頂けますでしょうか」

 こちらには背を向けたまま、せっせと筆を動かす姿に呆れてしまう。もともとどこか風変わりなところのある男だとは思っていたが、未だに毎日驚かされるばかりである。
  西果ての地より舞い戻られてしばらくは過酷な任を終えた疲れからか大人しく過ごしていた。しかし身体が元に戻ると共に、勝手気ままな振る舞いが復活している。ひとりで好きにしてくれる分には一向に構わない。だが、このようにすぐに自分まで巻き込もうとするのだから始末に負えないのだ。

 お待ちくださいと言われても、このまま冷え切った土間で立ちつくしているのも面白くない。せめて火鉢のある部屋奥まで辿り着きたいものであるが、そこに至るまでの道のりは自分で作るしかないのだろう。燈花は傍らの水桶で手際よく足を清めると、素足のまま土間に上がった。きんとした冷えを足下から感じ取る。

「このたびは南峰の商人が珍しい色粉をたくさん運び込んでいましてね。その発色の素晴らしいこと、夢中になってありとあらゆる種類を買い求めてしまいました」

 それは言われなくても分かる。だが寝食を忘れて夢中になるとはどういうことか。少なくない領地を任され、今では大臣家でも館内に上がれるまでの身分に出世したと聞く。いつまでも風流人を気取っていていい身分ではないのだ。
  とはいえ、夫婦の住まう対ではこのように取り散らかすことは出来ない。そこら中を這い回るようになった赤子がいては、紙切れなどたちどころに口に運ばれてしまう。さすがの夫も二度三度と我が子に紙を食べさせてしまって反省したらしい。この頃はもっぱらこの場所で絵筆を取っている。

 足下に落ちた一枚を拾い上げてみれば、それは安らかな赤子の寝顔。我が子の誕生も知らずに過ごしていた数ヶ月を取り戻すかのように、昼夜を問わず子煩悩ぶりを発揮している。妻としては嬉しくもあり口惜しくもあるというところだ。

「ふふ、また難しいお顔をなさっている」

 いつの間に盗み見られていたのだろうか。そう告げる夫の表情は何故かとても嬉しそうだ。柔らかい子供のような眼差し、人の親となられても無邪気なところは少しも変わらない。

「早くこちらにお出でなさい、可愛らしいお顔を間近でとくと拝見したいものです。今宵の衣もとてもお似合いですよ、あなたはどのようなお色でもすっきりと見事に着こなされてしまいますね」

 耳元で甘く囁かれながら、気付けば逞しい腕に抱き取られている。骨と皮ばかりの有様で彼の地から戻ってきた頃が信じられない程に、夫は以前と変わらぬ姿に戻っていた。実りの秋を過ごし、晴れやかな新年を迎え、一年前とは比べものにならない程の充実した毎日を送っている。傍らにいつもぬくもりを感じ取れること、ただそれだけでこんなにも心は満たされるのか。

「あ……殿、お待ちくださいませ」

 甘い口づけに酔いしれてしまえば、すぐにも我が心を手放してしまいそうになる。しかし、それでいいのだろうか。幸せが深ければ深い程、またいつか身を切るような別れが訪れるのではないか。信じたくはない、だがどうして不安にならずにいられるものか。

「どうして? あなたの肌はもうこんなに色づいている、しかも芳しい香が誘うようだよ。こんなにも寒い夜なのに、不思議なこともあるものだね」

 胸元に落ちる熱、そこで燈花は細い悲鳴を上げた。

 

 夫を亡き者にしようと、幾度となく彼の地に刺客を送り続けたという兄。血を分けた兄妹でありながら、あの者がどうしてそこまで冷酷になれるのか理解できない。自分の周りにあるものを人であれ物であれ全て「駒」としてしか考えられない人。その悪行の数々に、今は哀れみの心しか浮かばない。

 西南の大臣家、そのどす黒い渦の中にかつて自分も存在していた。蔑みと罵りと絶望の世界で自分を生かす道は誰よりも有力な「駒」となること。そう信じて疑わなかった。
  兄は今も自分を連れ戻し、新たな「仕事」をさせたいと考えているらしい。しかし降りかかる火の粉を払おうともせずに夫や「月の一族」は悪しき一族の姫君の盾となろうとする。その捨て身の愛情に幾度隠れて涙を流したことであろう。
  籠の鳥として生きてきた十数年、竜王妃となり世継ぎを産むことだけを求められ自分もまたそれを疑うことは知らなかった。誰も信じることは出来ない、人は必ず裏切る。期待する方が愚かなのだから、初めから何も望まなければよい。そう思って生きてきた頑なな心がいつしか溶けだしている。これでいいのだろうか、本当に兄の手から逃れることは叶うのだろうか。

「姫は何もご心配なさらずとも。あなたは犀月(せいげつ)の母君ではありませんか、お気持ちを強く持っていてください」

 彼の地から帰館してひと月が過ぎ、身体も癒えた頃に再びの出仕となった。領主である父親と共に参上した夫は、初めて御前を許されたと言う。長い渡りを過ぎて奥の対まで進むその心地を考えただけで、今も動悸が速くなる。しかし夫は少しもひるむことなく堂々とした立ち振る舞いであったと聞いた。

「長らくのご無沙汰、大変申し訳ございません。ようやく病の床から戻って参りました、これからは大臣様のために身を粉にして働く所存です」

 父親に続いて挨拶をした夫は、ただ非礼を詫びて深く頭を下げた。

「こちらの末姫君におかれましては、我が館で息災に過ごしておられます。どうぞご安心なされませ」

 柱の影に、縁の下に。数えきれぬ程の者が固唾を呑んで静かな部屋奥の推移を見守っている。それを感じ取りながら、夫は一歩も引こうとはしなかった。あとから領主である義父にそう告げられ、改めて背筋の凍る想いがしたものである。兄は狙った獲物は決して逃すことはない、あの鋭い眼差しに見つめられて震え上がらぬ者など存在しないのに。

 ようやく口を開いた兄は、その場で夫に新しい官職を与えた。居合わせた皆が騒然としたのも無理はない。それは田舎領主の三男坊には信じられぬ程の重要な地位であった。

「姫のためならば、どのような仕打ちも甘んじて受けようと覚悟しておりましたが。さすがに西南の大臣様もあのときばかりは兄上のお顔をなさっていましたよ」

 帰館したのち飄々と報告する夫に、燈花はただ声もなく泣き崩れるしかなかった。

 

「……静かですね」

 火照った頬を汗ばんだ胸元に寄せて、ぼんやりとまどろんでいた。外の気も凍り付いてしまったのだろうか、これほどに音のない夜も珍しい。

 その言葉に夫は声で答えず、代わりに燈花の頬を手で包むと軽く上向きにさせた。見慣れる程にさらに愛おしい顔がそこにある。薄い唇が微かに動く、そこに指をあてた。指先から伝わる鼓動、揺らめく瞳。全てが無に帰るこの一瞬にも消えることのない想いがある。

「あなたを……紙の中に閉じこめるのはもう諦めました。どんな色粉を用いようと、このお美しさを描くことは敵いません。ああ本当に、記憶の中に閉じこめたあの幻よりもさらに匂やかに色づいていらっしゃる。私はもう自分の想いに溺れてしまいそうです」

 静かに指が絡め取られる。唇が静かに重なり合って、そこから新たな熱が伝わってきた。髪に肌に今も残る激しさは己の心がどこまでも深くあることを知らしめている。

「彼の地では、やはりあなたの面影をしのぶことでしか心を慰めることは出来ませんでした。たとえばひび割れた赤土を見ても、その中の一粒にでも花のような紅色が紛れていないかと願ってしまう。幾度も幾度も数えきれぬ程にその輪郭を脳裏に描き、どうにかして心を強く持とうと思っておりました。
  でも……実際のお美しさには到底敵うことはございません。こうしていても未だに長い夢を見ているが心地です」

 長い指が静かに燈花の肌を辿っていった。まるでそこに新しい色を置いていくように、指先の熱をひとつひとつ植え付けていく。

「今は美しい花を風景を眺めても、そこにあなたがいらっしゃらなければひどく味気ないものに思えてなりません。どこにいても何をしていても、心はいつもあなたを求めている。ここまで囚われてしまって、私はどうしたらいいのでしょうか」

 蜜月という言葉があるが、自分はまさに今その中にいるような気がする。離れ暮らし互いに心を焦がす程の日々を過ごし、再会した後は半年程を過ごした今も熱病から冷めることがない。

「……そのようなこと、わたくしにお訊ねにならないでください」

 答えが見つからぬのは自分も同じだ。それどころか考えれば考える程、深みにはまっていくような心地すらする。

「そのお言葉は、そのまま殿にお返し致しますわ。わたくしも今は蜘蛛糸に捕まったように、どこへも行くことが出来ません。我が身はすでに殿のお心のままに漂うのみにございます」

 初めはどのようにしてこの想いを伝えたらいいのか、その方法が分からなかった。いくら言葉を並べてみたところでそれは胸の内にある熱さとは程遠くよそよそしく思えてならない。しかし止めどなく溢れるものは抑えようもなく、つたないばかりであっても必死で伝えるしかなかった。

「……姫……」

 濃緑の瞳が、さらに熱を帯びる。新たな激しさが我が身を包み込もうとする刹那、燈花はそっと夫を制した。

「今宵は……もうお許しくださいませ。近頃では皆がうるさくてなりません、日中にぼんやりしているとたちどころに懐妊を疑われてしまうのですから困りますわ」

 深い愛に包まれてしまえば、己を制御することが出来なくなる。繰り返し訪れる波に身を委ねれば、冬の長夜もすぐに明けてしまうのだ。

「何を仰るのです、そのようなことは心配なさらずとも宜しいのに」

 くすくすと子供のような笑い声を上げた夫は、もう次の瞬間には獲物を捕らえる獣の顔に変わる。

「あれこれ詮索されるのがお嫌なら、真のことにしてしまえば良いではありませんか。私も子は幾人でも欲しい、……そうですね、次はあなたによく似た可愛らしい若姫を授かりたいものです」

 ああ、そうかと再び気付く。すでに囚われてしまった心には逃げ場などないのだと言うことを。

 

 闇はさらに深く、ささやかな庵を静かに包み込む。柔らかな帳の中で、ふたりの夜は続いていく。その行くへを互いに知ることもなく。

了(061004)

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お題提供◇アイリス様(サイト・オークの森
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「紫峰のしずく」のふたり、夏月の帰館から半年ほど経った頃です。
「その後の幸せなふたりが見てみたい」とのリクエストをいくつか頂きまして、このたび少しだけ覗いてみました。何というか……もう「勝手にしてください」ですね(苦笑)。
「絵の具」というより「色粉」になってしまいましたが、そこはご愛敬で。