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◆ 41.宿り木
静けさが戻った肌に薄衣を掛けていると、背後からそう訊ねられた。開けはなった天窓からゆっくりと流れ込む夜明け前の気、髪の間に忍び込んだ夏の気だるさを洗い落としていく。 「さてね、そんな約束が出来ないことくらいお前さんもとっくに承知の上だろうが」 守れる確証のない約束を契れば、それだけ心の傷が増える。互いの間に密やかな願いを込めるその刹那だけは満たされても、あとに来る落胆の大きさを思えばこの手を差し伸べることなど出来ないのだ。 それは誰よりもこの身に深く浸みていること。だから冷たい言葉で突き放すしかない。 「もうよくよく休んだことだろう。表に水桶を出してあるよ、綺麗に身体を清めてからお行き」 名残惜しく客人をひさしの向こうまで送り出す行為など、遙か昔に忘れていた。それが一夜の客を招き入れることを生業とする女たちの嗜みであることくらいは分かっているが、世の習いなど自分にとってはどうでも良いことであった。 男は一度は素直にしとねを去ったが、少し歩いたところでまたこちらを振り向く。無意識のうちににじみ出る名残惜しさの気持ち、人の心を操作することなど知らぬ者の素直な態度であるからこそ惹かれるものがある。 「俺、……本当に嬉しかったんだ。あなたにもう一度会いたくて、あれから方々を探し回ったものだよ。仕事柄、村から村へ渡り歩くことなどたいした苦労でもなかったけど、どこまで進んでもあなたの消息すら知れないのは寂しくて仕方なかった」 夏の短夜に寝乱れた髪、すっきりした横顔から察するにその年は二十歳に届くか届かぬか。確かなところは知らないが、かなり大きな商家の跡目という身分であるらしい。人里離れた峠の茶屋で二度三度と休んでいくうちに、いつの間にか馴染み客になっていった。 「父上は俺の器量を疑っているに違いない。もしもこの度の商いが散々な結果で終われば、他の兄弟を跡目にしようとお考えなんだよ」 客商売には得手不得手がある。同じような文句で売り込んでも、人の心を即座に動かす場合もあればただ上滑りに終わる場合もあるのだ。心優しく気の弱い男には、今の暮らしが苦痛以外の何者にも感じられないのであろう。先の見えない不安定さが、さらに彼を臆病にさせる。 「困った男だねえ、……たまには泣き言以外のことをしゃべってみたらどうなんだい。そんな風じゃどこの茶屋に出掛けたって、軽く見られてお終いだね。本当にだらしないったら、ありゃしない」 この決まり文句も何度目になるのだろうと、我ながら悲しくなってくる。ちょっと突けば泣きべそをかく、どうしようもない奴の世話焼きなど面白くも何ともない。 「でも……」 ほら、もう下瞼の辺りが赤く滲んでいる。だから駄目なんだ、もっと強くならなければ大勢の使用人をまとめ上げるだけの大店を支えることは出来ないだろう。 「ほら、いつもそうやって人に頼ってばかりいる。いつまでそんな身分でいられる訳じゃないだろ? あんたも実家に戻れば大切な息子様じゃないか、そろそろ色めいた話なども出ているんじゃないかい」 もうとっくに耳に入っていた話をわざとカマを掛けるように切り出せば、男の耳たぶは分かりやすく赤くなる。ほらご覧、と思わずこぼれそうになる笑いを必死で堪えた。 「ま、……まあ、そういうのもあるんだ。あるにはあるんだが……それがどうしても上手く行かなくて。幾度か顔を合わせる場も設けてみたけど、一体どんな風に接すればいいのか分からないんだ。あんなに小さくて細くて、どうやって守ってやったらいいのかさっぱり見当が付かない」 見てくればかりが立派でも、中身がそれに伴っていないのだから仕方ない。甘えたいばかりのお坊ちゃんの相手に箱入りの娘では、いいとこふたりしてひな壇の人形ぐらいにしかなれないだろう。 「そんなところだと思ったよ」 こっちの支度はもうすっかり済んでいる。これ以上引き延ばすのならば、先に出掛けようかとすら思う。普段は無人の茶屋に人影があれば、訝しがる里人も出てくるだろう。余計な噂など煩わしいだけ、面倒ごとはたくさんだ。 「せいぜい祝言に間に合うように急いで戻るんだね。何、お前さんが思うほど難しいことなんて何もないよ。人間なんてみんな自分の鏡のようなもの、とにかく自分がして欲しいこと言って欲しいことを余さず伝えることだね。求めちゃいけない、ただ与えるんだ。そうしているうちに、気がつけば全てが上手く回り始めているはずさ」 ―― 全く、よく似た背中であること。 今を遡ること、数十年。同じかたちの背中を見送ったことがあった。もう彼はそのことを忘れてしまっているだろうか。それとも一夜の逢瀬など、女狐に化かされた夢であったと信じているだろうか。 名残惜しそうに立ち去る背中を柱越しに見送る。もう再び、出会うことはないだろう。彼はもう大丈夫だ。守るべきものを手に入れれば、自分など用済みになる。あの男の父親がそうであったように。 「さて、……次は何処へ行くかね」 久しぶりに彼の地にでも登ってみようか。――そんな遊び心がふと胸を過ぎった。
「大丈夫、何も心配することなどないよ」 行かないでと泣いて訴えても、その人は柔らかい笑みを崩さぬままにきっぱりとそう言いきった。 「必ず手柄を立てて戻ってくる、そのときは御館様も俺たちのことを必ずお許しくださるはずだ」 何と言って慰められようと、全ての言葉が断末魔のように身体中を駆けめぐった。誰がどう考えても勝ち目のない戦、今戦場に出れば再び生きて戻れぬことなど何も出来ぬ女子供でも承知している。だから辞めてくれと言うのに、何故首を縦に振ってはくださらないのか。 「お待ちして、宜しいのですね? 必ずと仰るのならば、わたくしはいつまでもあなた様をお待ち申し上げております。もしもこの身が朽ちても、それでもお戻りになるその日まではここを離れません」 遠い記憶。まだそのときまで、自分は普通の姿であったように思う。愛しい人を死の国に送り出すその朝は、身が裂けるほどに辛かった。すでに彼は知っていたのだ、この世では決して結ばれることのないふたりであると。 異変に気付いたのは、長い年月が過ぎてからである。鏡に映る己の姿が、驚くほどに若々しく記憶の中にあるものと寸分違わずに思えたのだ。そんなはずはないともう一度見れば、今度は年相応の老婆がそこにある。手鏡がおかしいだけかと、水場に顔を映してみたが同じ結果になった。 ―― まさか。そのようなはずはない。 故郷は今や無人になっていた。懐かしい山道を登り、暗い森を抜ければぽっかりとそこは現れる。時折ひとり訪れては手を加え、今では花の咲き乱れる懐かしい風景に蘇っていくのが嬉しかった。だが、維持するにはどうしても人手が欲しい。潤った懐で人を雇おうとしたが、そのときにまた不思議なことに気付いた。 仕事に雇った者たちが村にたどり着けないと言う。そんなはずはないと先導して案内してみたが、皆途中でいなくなってしまう。それを幾度か繰り返すうちに、ようやく入り込める者たちが出てきた。皆、気持ちよく働き村はますます潤った。 「どうかこのまま、この地に住まわせてはもらえませんか?」 任期を終えると、彼らは口を揃えてそう言った。自分たちには戻る故郷がない、もしもあったとしてもそこはすでにこの身を受け入れてはくれないのだと。様々な出逢いがあった、一度村に入りまたいなくなった者もいる。そのまま居つき、気の合うもの同士で所帯を持ち代々続く家も出てきた。
―― また、鳥を手放したのだ。 菫色に潤む天を仰げば、遙か遠き記憶もまるで昨日のことのように蘇ってくる。未だに帰らぬ愛しい人、自分は少しも変わらない姿で待ち続けているのか。そしていつまで? ……いつになれば、この魂は救われるのであろう。 迷う魂がこの身に引き寄せられる。重き荷を背負った者だけが、自分とひとときを共にすることになるのだ。だがそれもいつか終わる。凪が過ぎていくように、元通りに水面に波が寄せ返していく。 「わたくしはいつまでもあなた様をお待ち申し上げております」 変わらぬ想いを胸に、彼女は故郷への山道を上り始めた。 了(070510) << 40.ブリキのおもちゃ 42.guilty or not guilty? >>
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お題提供◇西向侍様(サイトは閉鎖されました) >やまとことばのひとつです。 ……との楽しい?コメントより、果たされない約束というニュアンスでまとめさせていただきました。 |