◆ 40.ブリキのおもちゃ
―― そう言えば、あの日もこんな風に穏やかな日和だった。 今は自分の書斎として使っているこの部屋に、かつて客人として足繁く通っていた時期がある。ある時はささやかな期待を胸に、またある時は底知れぬ不安を抱えて。白い雪の舞い散る夕べなどはわずかばかりの道のりでも身体の芯まで凍りそうな気がした。だが、何も恐れることはない。ドアの向こうにはいつも温かな笑顔が待っていてくれたのだから。 いつの間にこんなに集めてしまったのだろう。気付けば壁一面がガラス張りの本棚で埋め尽くされていた。淡い花模様を描いた壁紙もほとんどが隠れてしまって見えない。もしも彼女がこの部屋を見たら、一体どんな顔をするだろうか。想像してみたくても、記憶は遠くすぐには引き戻せないほどだ。 スミレの咲き乱れる庭、淡く霞んだ空。思い出はいつも同じ色をしている。
「まあ……、いつお戻りに? 嫌だわ、わたくし少しも気付かなくて」 停車場から早足で帰り着けば、その人はちょうど寝入ったところだった。少女のような安らかな寝顔は揺り起こすには忍びない。しばらくは旅疲れを癒しながら、傍らで揺り椅子に身体を預けていた。そのうちにいつか知らず寝入ってしまったのだろう。次に目覚めたときはベッドの上の眠り姫が大きく開いた瞳でこちらを見ている。 「いいよ、そのままで。無理しなくていいから」 慌てて身を起こそうとするのを静かに制する。自分の言葉に大人しく従うことからも、だいぶ辛いのだということが分かった。このたびの日程は半月ほど、部屋のドアまで見送ってくれた頃よりもさらに輪郭が細くなっている。自分が留守をしている間にも二度ほど大きな発作があったと聞いた。すぐに戻れない場所にいれば、数日遅れの知らせにいてもたってもいられない心地になる。 「お帰りなさいませ、政哉様」 差し出された手のひらをそっと握り返す。ひんやりとしたぬくもりも、彼女が必死で命を繋いでいる証だと思えば嬉しい。密やかな想いが実を結び共に暮らし始めてからの日々もそのほとんどは病と苦しげに闘う彼女をただただ見守るだけで過ごしていた。 「惣ちゃんには? もうお会いになりましたか」 握りしめた手を放さないまま、彼女はゆっくりと次の言葉を口にする。ただ想いを言葉に乗せるその手段ですら、病床にある身では辛いらしい。静かに時間を掛けてひとつひとつ音にするその時間を先回りせずにのんびりと待つことにしていた。 「いや、丁度お昼寝だというのでね」 彼は首を小さく横に振ってからそう答える。神様が与えてくれた奇跡は古びた洋館に明るい子供のはしゃぎ声をもたらしてくれた。もちろん彼を含め、周囲の誰もがその出産には反対した。あまりにもリスクが大きすぎる、彼女の命と引き替えにしてまで我が子をこの腕に抱きたいとは思わなかった。それは当然の選択だろう。 「それは残念ですね。新しい曲を弾けるようになったことをお父様に知らせたいと今朝から意気込んでいたのに。あまりに練習熱心で、わたくしも館の皆ももうすっかり聴き飽きてしまいましたわ。あの子には音楽の才能がありますね、先がとても楽しみです」 嬉しそうに微笑む人が眩しくて、政哉は目を細めた。そして想いを指先に込めて、握りしめる手に力を込める。我が命を、この人に分け与えることが出来たならどんなにいいだろうか。いや、むしろこの身体と彼女のそれをそっくりそのまま交換してしまっても構わない。一日でも長く生きて欲しい、そして未来を見て欲しいと思う。 「そうか、それでは楽しみに待つことにしよう。今度、君の気分がいいときにこの部屋で演奏会を開こうか。私は楽器はあまり得意ではないが、これから惣哉に負けないように必死で練習しなくてはね」 彼の言葉に、柔らかな鈴の音のような笑い声が重なる。人それぞれに幸せのかたちはちがう、だが自分の幸せはこうして愛する人と過ごすささやかな時間にあると信じていた。 「……あら、そちらの包みは?」 揺り椅子の足下に旅行カバンと共に置かれた土産の袋を見て、彼女が訊ねる。和やかな幸せに酔っていた彼も、ようやくその存在を思い出した。 「あ、……いや。これは惣哉への土産物なんだ」 早く手渡したくて、船便で送った他の荷物とは別に抱えて戻ってきた。あいにく贈りたい相手が夢の中であったため、ついそのまま運んでしまったらしい。両手に収まるほどの小さな玩具たち。彼は包みをほどくと、彼女によく見えるように枕元にひとつひとつ並べていった。 「滞在した街で偶然目にしてね、つい買いあさってしまったんだ。こういうブリキのおもちゃが以前母が住み込みで働いていたお屋敷にたくさんあってね、ご子息たちが手にして遊んでいるのがとても羨ましかったんだ。とてもねだれるような額でないことは承知していたし、あの頃はただ指をくわえて見ているだけだったよ」 二階建てのロンドンバス、ごつごつした造りの外車。中にはネジを巻くと本物そっくりのエンジン音を上げて走り出すものもあった。幼い頃の思い出は、いつも例えようのない切なさを伴って蘇る。身分の差を見せつけられながら、それでも耐えるしかなかった。必死で勉強して、誰にも負けないほど学を身につけるほかに道はない。そう思って夜遅くまで必死に頑張った。 「まあ……そうなのですか」 傍らの妻はそんな彼の話を不思議そうに聞いている。 「わたくしは女の子ばかりの家に育ちましたし、このようなおもちゃには縁がありませんでしたわ。本当に良くできているのですね……ほら、中にはちゃんと座席やハンドルも付いていますよ?」 興味深そうに見入っている頬に、わずかに赤みが差す。それが愛おしくて、彼は細く白い指先を自分の手で覆った。 「惣哉がどんなに喜ぶかと思ってね。しかし、ホテルの部屋に戻ってよく確かめれば、裏にこのように『MADE IN JAPAN』の記載があったのには参ったな。私は日本が輸出したおもちゃをわざわざあちらで買い求めていたんだよ。これはかなり滑稽な話だね」 このようなブリキの玩具は戦前から日本で作られていた。戦中戦後で金属が不足した時期は中断されたものの、その後技術の高い日本製の玩具は米国の物資協力援助と引き換えに輸出されるようになっていったらしい。空き缶などがそのままおもちゃの原料となり、精巧な造りは海を越えたあちらでも大人気になったとか。 「素敵ではありませんか、このおもちゃたちは二度も海を渡ったことになるのですね。でも……惣ちゃんに与えるにはまだ少し早いでしょうか? 小さな窓などに誤って指を挟んでは大変です、もう少し大きくなって扱い方がよく分かるようになってからの方が良いような気がします」 柔らかな風が窓をすり抜けて彼女の元に届く。透き通った肌、そこにかかる茶色の髪。ふわふわと揺れて、遠い場所へいざなわれて行くようだ。まだ駄目だ、そこへ行くには早すぎる。 これから迎える灼熱の季節を、妻は無事に越えることが出来るだろうか。その不安を絶えず胸に抱えながらも、この人の前ではつとめて明るく振る舞う。宝物のようにひとつひとつ繋ぎ止める「今」に一点のシミも残さないように。何があっても、後悔せずに済むように。
「お父様、……宜しいですか?」 小さなノックの音が数回してから、ドアが開く。両手で重そうにお茶のお盆を抱えているのは、今は息子の妻となった人である。かつては彼の経営する学園で教鞭を執っていたこの人も、今では四人の子の母となっていた。心持ちふっくりした面差しが、充実した毎日を表している。 「まあまあ、このたびは随分派手に広げられましたね? これでは片付けるのに何日かかるか分かりませんよ。ゴールデンウィークの間にと仰るけど、お休みが終わってもここは本の海になったままなのではないかしら。本当、惣哉さんもですけど……親子揃って気に入ったものはとにかく手当たり次第に集めるのがお好きなようですね」 足の踏み場もないくらい床に広がった書物を見れば、そんな言葉が出るのも不思議はない。春の日溜まりのような明るい笑顔は、そこにいるだけで皆を幸せな心地にしてくれるようだ。妻も―― もしもこの娘をひとめ見たなら、きっと大歓迎して迎えてくれたであろう。想像でしか思い描くことの出来ないワンシーンが、ふと彼の脳裏に過ぎった。 少し休憩しませんか、とお茶の支度をしてくれる。カップを温めたり、お湯をポットに注いだり。小柄な外見で、その仕草のひとつひとつが心許なく感じられる。その手元がふと止まって、ふわふわのおかっぱ頭がくるりとこちらを振り向いた。 「まあ、すごい! これはまた、年代物のおもちゃですね。この前、TVでやってましたよ。こういうブリキのおもちゃって、マニアの間では信じられないくらい高値で取引されるんですって! 趣味が高じて個人で博物館を造ってしまう方もいらっしゃるそうですよ」 久しぶりにガラス戸の外に出されて、あの日の玩具たちは少し恥ずかしそうに見える。しばらくの間しまっておくつもりが、その後長いこと忘れ去られたままになってしまった。気付けば息子も成人して、子供だましの玩具などには目もくれない年頃になってしまっていた。時の流れとは、過ぎてしまえば本当にあっという間だ。 「ははは、……そりゃ参ったね」 山盛りのお茶菓子と一緒にふたりのティータイムが始まる。いくら何でもこの量はないだろうと思うが、彼女は「私はふたり分食べるからいいんです」とか訳の分からないことを言う。確かに現在妊娠中で栄養を摂らなければならないのは分かるが、だからといって砂糖菓子でカロリーを摂取しても良いものなのか悩んでしまう。 この屋敷に新しい家族が増えるのは、表の庭が秋の花々で彩られる頃。 静かにそのときを待ちながら、ゆったりと毎日を過ごしている。この幸せも、今は亡き彼女が遺していく自分のために与えてくれたものなのだと感謝しながら。 了(070426)
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