◆ 42.guilty or not guilty? 本当は初めて出逢ったときからすでに始まっていたんだ。 彼女はきっと忘れているに違いない、否それ以前にそんな出来事があったことすら覚えていないだろう。 「では、筆記用具以外は鞄にしまって。椅子の下に置いてください」 きれいに削った鉛筆が三本と真新しい消しゴムがひとつ。しっかりと確認してから鞄を片づける。きちんと椅子の下に納めて再び顔を上げると、机の上の異変に気づいた。ないのだ、消しゴムが。数秒前までにはあったはずのそれが忽然と消えている。そんな馬鹿なことがあっていいものか。否、あり得ない。だが辺りを見渡してもそれらしきものは見当たらなかった。 どうしよう。 別にやましいことをしているわけではない。だが、試験官に一声掛ければいいその行為がどうしても出来なかった。このまま消しゴムなしで乗り切ろうか、駄目だ無理だ。絶対に書き損じは起こるはず。ただでさえこんなに緊張しているんだから。 「宜しいようですね、ではこれから問題用紙を配ります。合図するまでは机の上に伏せて置いてください」 非情なまでの宣告が教室内に響き渡る。もう駄目だ、絶体絶命。ああ、この四文字熟語は「対」の方が正しかったのか、そうじゃなかったのか。パニック状態で普段なら即答できる問題なのに全く答えが浮かばない。 「――すみません」 その時。斜め後ろの方から澄んだ声が聞こえてきた。ハッとして振り向くとセーラー服姿の女の子が試験官に向かって手を挙げている。 「落とし物、拾ったのですけど」 そして小首をかしげた試験官がこちらに歩いてくる前に、彼女はこちらに手を差し出した。 「はい、転がってきたから拾っておいたよ。どうぞ」 場違いなほどの柔らかい笑顔、一瞬だけ触れた指先のぬくもり。作業を終えた彼女はこちらがお礼を言う間もなく元通りに席に収まった。 試験が終わったときにはもうその席に彼女の姿はなく、とうとう声を掛けられずじまいだった。まあその気があればあの瞬間だって短い一言は言えたはず。問題は俺がそれを躊躇してしまったことにある。 もう一度、会いたい。 入学前の説明会の日にもその姿を探したが、三百人以上の中から見つけ出すのは不可能だった。淡い期待は大きな落胆に変化していく。彼女はここではない別の高校に進学を決めてしまったのではないか、そんな絶望的な結末すら胸をよぎった。 ――彼女、だ。 間違いない、真新しい高校の制服に身を包み髪型も少し変わってはいたが記憶の中の笑顔と完全に一致している。皆が同じ服装をしているというのに、彼女の周りの空気だけが変わって見える気がした。一瞬目が合った気がしたが、不思議そうな眼差しに戸惑ってすぐにそらしてしまう。その刹那、急に速くなる心拍数。出逢いの日からずっと分からないままだった感情の正体にようやく気づいた。 こちらには声を掛ける理由がある、だから躊躇う必要など全くないのだ――何度心の中で唱えても、全く上手くはいかなかった。 ――早川、愛花。 名前までが可愛すぎる。だいたい、彼女は半端じゃない。最初に声を掛けられたときには、その姿が自分と同じ高校を受ける受験生であるなんて到底信じられなかった。 山奥の村で育った俺は、小学校も中学校も同じ顔ぶれの仲間たちと過ごしていた。全員が顔なじみ、そこに特別な感情など芽生えるはずもない。生徒会長などをやっていたためかバレンタインともなればいくつもの贈り物が届いたが、それを受け取ったところで感慨など湧くこともなかった。 思えばあの頃が一番幸せだった、それなのにたったひとつの出来事が俺を奈落の底に落としてしまう。 『アイカより』――その封筒はある日蓋を開けた靴箱の中にひっそり収まっていた。何事かと思って周囲に人気のないことを確認して開くと、信じられない文面がこれでもかこれでもかと続いている。「ずっと見てました」「一度ゆっくりお話がしたいです」手紙の内容などたいした問題ではなかった、俺の心を舞い上がらせたのは『アイカ』というその名前。彼女がまさか俺にこんな風にしてくれるなんて、これはまたとないチャンスだ。 指定された場所で彼女を待った。三十分も前に着いてしまい、待ち合わせの時間を過ぎてもなかなか立ち去ることが出来なかった。待つことは辛くなかった、遅れているなら何か理由があるのだから。 そして、長い時間が過ぎて春の日差しが西に傾いた頃。俺の心の中には「絶望」の文字しか残っていなかった。 落胆の気持ちを自分の中だけに留めておけなかった俺はとても大人げなかったと思う。だけど、その後も何事もなかったように明るく振る舞っている彼女の姿を見るにつけ、ふつふつと沸き上がってくる苛立ちを押さえることが出来なくなっていた。 それが「罪」だと言われるならば、致し方ない。事実は覆しようがないのだ。 彼女は地元の人間で、だから校内にも知り合いは多い。それほど目立った感じではないものの、あちこちで楽しそうにおしゃべりしている姿を目にした。彼女を呼び出して罵ってしまったその日から、ふたりの間にはさらにぎこちない空気が立ちこめている。もしも声を掛けられるような距離にあっても、クラスメイトとしてその必然性があるときでも、何となく止めてしまう。 自分がどんなに愚かであったかは、程なくして彼女自身から宣告された。 「あなた、クラスメイトの名前すらきちんと覚えてないの?」――声にこそ出さないまでも、彼女のまっすぐな瞳はそう語っているように思われた。そうなのだ、彼女は何もしていないのに勝手に俺に犯人扱いをされた「被害者」であったのである。いわゆる「冤罪」と言われるものか。 側にいるといろいろなことが分かってくる。彼女は仕事が速く、そしてとても正確だった。ごちゃごちゃになった書類なども彼女の手にかかるとあっという間にきれいにファイリングされてしまう。それは自分たちに使いやすいだけではなく、来年以降の委員が見てすぐ分かるようにと様々な工夫が施されていた。 もしも「ごめん」と頭を下げたら、彼女はどうするだろう。「全然気にしてないよ」と言ってくれるだろうか、それとも黙ったまま軽蔑の眼差しを向けるだろうか。そのどちらであっても、俺に勝機はない。負けることが最初から分かっているのに、好きこのんでそんなことをする必要などどこにあるのだ。 自分でも情けないと思いつつもそのままで過ごしていたある日、偶然見てしまった。同じ会計の仕事をしている先輩が、さりげない素振りで彼女に聞いている。「今、彼氏とかいるの?」とか何とか。 やはり無理だったのか、もう諦めるしかないのか。 さらなる絶望に打ちひしがれながら、それでも思い出す。そうなのだ、俺はまだきちんと謝ってもいなければお礼も言っていない。まずはそこからだ、そこから始めないと駄目だ。スタート地点にも立っていない身の上でごちゃごちゃと考えても時間の無駄である。 六限終了後。放課後の予定を訊ねようと振り向くと、もうそこに彼女の姿はなかった。靴箱にはまだ外履きがあり、校内にいるのは間違いない。今日は会計の仕事はないことも分かっていた。 言い訳代わりのペットボトルを手に、書道室への廊下を歩く。高鳴る心臓、やはり今日じゃなくてもいいのではと弱気になりそうになる。窓の向こうを通り過ぎていく夏服たち、季節はもうすっかり様変わりしていた。 ――判定は彼女に任せるしかない。 俺の代わりに冷や汗をかいていくペットボトル。鮮やかに広がった青空に一筋の飛行機雲が描かれていた。 おしまい♪ (070517)
|
|
|
|
お題提供◇羽鳥奈々子様(サイト・CelsiuS) 「39.目の上のタンコブ」の視点替えです。 ひとつ前と一緒で出会い頭に頂いてしまったお題、ドキドキしながら書き上げました。 |