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42.guilty or not guilty?

 本当は初めて出逢ったときからすでに始まっていたんだ。

 彼女はきっと忘れているに違いない、否それ以前にそんな出来事があったことすら覚えていないだろう。
  選抜入試の当日、憧れの高校の門をくぐったときから足下もおぼつかない状態だった。周りの受験生がとてつもなく優秀な生徒のように思える。同じ制服で固まって楽しそうに話をしている脇をひとりで通り抜けた。知り合いがひとりもいない状況も緊張に拍車を掛ける。だが、ここまで来てしまった以上頑張るしかないのだ。
  どうにか指定された教室に辿り着いて、ひとつだけ空いている自分の席に座る。選抜の倍率は三倍以上。この部屋にいる受験生の三人にひとりしか合格できない。改めてその事実に気が付いて、さらに震え上がっていた。

「では、筆記用具以外は鞄にしまって。椅子の下に置いてください」

 きれいに削った鉛筆が三本と真新しい消しゴムがひとつ。しっかりと確認してから鞄を片づける。きちんと椅子の下に納めて再び顔を上げると、机の上の異変に気づいた。ないのだ、消しゴムが。数秒前までにはあったはずのそれが忽然と消えている。そんな馬鹿なことがあっていいものか。否、あり得ない。だが辺りを見渡してもそれらしきものは見当たらなかった。

 どうしよう。

 別にやましいことをしているわけではない。だが、試験官に一声掛ければいいその行為がどうしても出来なかった。このまま消しゴムなしで乗り切ろうか、駄目だ無理だ。絶対に書き損じは起こるはず。ただでさえこんなに緊張しているんだから。

「宜しいようですね、ではこれから問題用紙を配ります。合図するまでは机の上に伏せて置いてください」

 非情なまでの宣告が教室内に響き渡る。もう駄目だ、絶体絶命。ああ、この四文字熟語は「対」の方が正しかったのか、そうじゃなかったのか。パニック状態で普段なら即答できる問題なのに全く答えが浮かばない。

「――すみません」

 その時。斜め後ろの方から澄んだ声が聞こえてきた。ハッとして振り向くとセーラー服姿の女の子が試験官に向かって手を挙げている。

「落とし物、拾ったのですけど」

 そして小首をかしげた試験官がこちらに歩いてくる前に、彼女はこちらに手を差し出した。

「はい、転がってきたから拾っておいたよ。どうぞ」

 場違いなほどの柔らかい笑顔、一瞬だけ触れた指先のぬくもり。作業を終えた彼女はこちらがお礼を言う間もなく元通りに席に収まった。

 試験が終わったときにはもうその席に彼女の姿はなく、とうとう声を掛けられずじまいだった。まあその気があればあの瞬間だって短い一言は言えたはず。問題は俺がそれを躊躇してしまったことにある。
  胸に残るもやもやを抱えたまま日々は過ぎ、念願の合格通知を受け取る。田舎の小さな中学校では三年振りの快挙だとか。先生方はもちろんPTAの親たちまでが騒ぎまくる中で、他人事のような不思議な気分でいた。どうしてあのとき声を掛けられなかったのか、とんでもなく無礼な奴だと思われたのではないか。教室中が静まりかえっていたあのとき、彼女は勇気を持って声を上げてくれた。その好意がなかったら、この合格通知も手に入らなかったはずだ。

 もう一度、会いたい。

 入学前の説明会の日にもその姿を探したが、三百人以上の中から見つけ出すのは不可能だった。淡い期待は大きな落胆に変化していく。彼女はここではない別の高校に進学を決めてしまったのではないか、そんな絶望的な結末すら胸をよぎった。
  しかし入学式の当日、思いがけない幸運が俺の前に舞い降りた。「武者震い」という言葉があるが、その瞬間の胸の震えはまさしくそれだったと思う。

 ――彼女、だ。

 間違いない、真新しい高校の制服に身を包み髪型も少し変わってはいたが記憶の中の笑顔と完全に一致している。皆が同じ服装をしているというのに、彼女の周りの空気だけが変わって見える気がした。一瞬目が合った気がしたが、不思議そうな眼差しに戸惑ってすぐにそらしてしまう。その刹那、急に速くなる心拍数。出逢いの日からずっと分からないままだった感情の正体にようやく気づいた。

 こちらには声を掛ける理由がある、だから躊躇う必要など全くないのだ――何度心の中で唱えても、全く上手くはいかなかった。
  まずは出席番号順の席が遠すぎる、芸術の選択科目も異なっていた。同じ部活にでも入れば仲良くなるチャンスが巡ってくるかとも考えたが、彼女はさっさと書道部に入部してしまう。スポーツ全般ならどうにかこなせるがあれだけはどうも苦手だ。無理をして醜態を晒しては逆効果というものだろう。
  入学後のオリエンテーションもそこそこに平常授業に入る。この界隈で一番の進学校と言われるだけあって授業の進み方も滅茶苦茶速い、先生の板書のスピードも半端じゃなくて右腕が何度腱鞘炎を起こしそうになったか分からない。一息ついていようものなら、あっという間に写し終えていない部分が消されてしまうのだ。「もう少し待ってください」なんて言えるような状態ではなかった。
  先生の指名で学級委員長に選ばれたが、その仕事も雑用ばかりで忙しく彼女との距離はさらに広がっていく。時々遠目にその姿を眺めるだけ、ひとりでに熱くなる胸に我が身の情けなさを心底呪った。教壇に置かれた席次表、指が彼女の名前を辿る。

 ――早川、愛花。

 名前までが可愛すぎる。だいたい、彼女は半端じゃない。最初に声を掛けられたときには、その姿が自分と同じ高校を受ける受験生であるなんて到底信じられなかった。
  三歳年下の妹が愛読している中高生向けのファッション誌、彼女はあれの表紙を飾るモデルの女の子たちにも引けを取らないルックスなのである。雑誌の中の子たちは洒落た服を着ているからそれなりに見えるような気がしないでもない。だが彼女は、ありきたりな制服姿でも群衆の中でひときわ輝いて見えるのだ。

 山奥の村で育った俺は、小学校も中学校も同じ顔ぶれの仲間たちと過ごしていた。全員が顔なじみ、そこに特別な感情など芽生えるはずもない。生徒会長などをやっていたためかバレンタインともなればいくつもの贈り物が届いたが、それを受け取ったところで感慨など湧くこともなかった。
地元の人間は当然のように過ごしているこの街も俺にとってはとんでもない都会だ。雑誌が発売日に手に入る、洋服屋で売られている品々も垢抜けていた。すべてが光り輝いている世界、その中でもひときわ眩しかったのが彼女だ。俺には絶対に手に届かない存在、そうは分かっているのに諦めきれない。
  知り合いもなく何となく浮いている存在になってしまってるのも分かっていた。だけどこのクラスには彼女がいる、彼女に会えると思えば二時間近い片道の通学も少しも苦にならない。

 思えばあの頃が一番幸せだった、それなのにたったひとつの出来事が俺を奈落の底に落としてしまう。

『アイカより』――その封筒はある日蓋を開けた靴箱の中にひっそり収まっていた。何事かと思って周囲に人気のないことを確認して開くと、信じられない文面がこれでもかこれでもかと続いている。「ずっと見てました」「一度ゆっくりお話がしたいです」手紙の内容などたいした問題ではなかった、俺の心を舞い上がらせたのは『アイカ』というその名前。彼女がまさか俺にこんな風にしてくれるなんて、これはまたとないチャンスだ。
  覚えてくれていたのか、あの日のことを。決定的な言葉こそは書かれていなかったがそんなことはどうでも良かった。会って確認すればいいだけのこと、こちらの気持ちはもうとっくの昔から決まってる、今更何を迷うこともない。

 指定された場所で彼女を待った。三十分も前に着いてしまい、待ち合わせの時間を過ぎてもなかなか立ち去ることが出来なかった。待つことは辛くなかった、遅れているなら何か理由があるのだから。

 そして、長い時間が過ぎて春の日差しが西に傾いた頃。俺の心の中には「絶望」の文字しか残っていなかった。

 落胆の気持ちを自分の中だけに留めておけなかった俺はとても大人げなかったと思う。だけど、その後も何事もなかったように明るく振る舞っている彼女の姿を見るにつけ、ふつふつと沸き上がってくる苛立ちを押さえることが出来なくなっていた。
  彼女はもうとっくに俺の気持ちに気づいていたに違いない、気づいていてあんな風にからかったりしたんだ。人が田舎者だと思って、簡単に騙されるとか考えたんだな――何でもっと冷静になれなかったのか、今となってはそれが悔やまれてならない。だが彼女に対する憧れの気持ちがあまりに大きすぎたため、ズタズタになったプライドを守るには怒りを直にぶつける方法しか残っていないと信じてしまった。

 それが「罪」だと言われるならば、致し方ない。事実は覆しようがないのだ。

 彼女は地元の人間で、だから校内にも知り合いは多い。それほど目立った感じではないものの、あちこちで楽しそうにおしゃべりしている姿を目にした。彼女を呼び出して罵ってしまったその日から、ふたりの間にはさらにぎこちない空気が立ちこめている。もしも声を掛けられるような距離にあっても、クラスメイトとしてその必然性があるときでも、何となく止めてしまう。
「本物の彼女はとてつもなく腹黒いんだ」――そう自分を慰める日々、こうなったら勉強もクラス運営も人一倍頑張って見返してやろう。いつか俺を馬鹿にして貶めたことを後悔させてやるんだ。

 自分がどんなに愚かであったかは、程なくして彼女自身から宣告された。

「あなた、クラスメイトの名前すらきちんと覚えてないの?」――声にこそ出さないまでも、彼女のまっすぐな瞳はそう語っているように思われた。そうなのだ、彼女は何もしていないのに勝手に俺に犯人扱いをされた「被害者」であったのである。いわゆる「冤罪」と言われるものか。
  文化祭の実行委員を引き受けてくれた彼女とは一緒に過ごす時間が多くなった。必要に迫られて言葉を交わさなくてはならない場面にも出くわす。そんなとき、彼女はどこまでも他人行儀。あの日のことを面と向かって責め立てる気はない様子だが、それだって当てにならない。いつか俺のことをクラスのみんなに言いふらそうと思っているのではないか。彼女に限ってそんなことはないと信じたいが、確信はない。
  出来る限り距離を置きたい相手だが、こうなってしまっては仕方ない。出来るだけ平静を装ってはみるが、気が付けば手のひらにはじっとりと汗をかいていた。

 側にいるといろいろなことが分かってくる。彼女は仕事が速く、そしてとても正確だった。ごちゃごちゃになった書類なども彼女の手にかかるとあっという間にきれいにファイリングされてしまう。それは自分たちに使いやすいだけではなく、来年以降の委員が見てすぐ分かるようにと様々な工夫が施されていた。
  仕事が山積みになってどこから手をつけたらいいのか分からなくなってしまう場面でも必ず助け船を出してくれる。しかも押しつけがましい様子などなく、どこまでも自然体だった。
  彼女と過ごす時間は針のむしろの上にいるような心地、それでも新しい発見が嬉しくて夢中になってしまう。だけど彼女にとって、俺は「天敵」でしかない。自分がその原因を作ってしまったのだから仕方ないが、そうなってしまっても未だに諦めきれないのはどういうことか。

 もしも「ごめん」と頭を下げたら、彼女はどうするだろう。「全然気にしてないよ」と言ってくれるだろうか、それとも黙ったまま軽蔑の眼差しを向けるだろうか。そのどちらであっても、俺に勝機はない。負けることが最初から分かっているのに、好きこのんでそんなことをする必要などどこにあるのだ。

 自分でも情けないと思いつつもそのままで過ごしていたある日、偶然見てしまった。同じ会計の仕事をしている先輩が、さりげない素振りで彼女に聞いている。「今、彼氏とかいるの?」とか何とか。
  足音を立てないようにその場から立ち去るしかなかった俺、彼女の返事を聞くのが恐ろしくて仕方なかった。そうだ、俺は彼女のことを何も知らない。自分と一緒に過ごしているときのことは分かっていても、それ以外のプライベートなことは全く分かっていなかった。そうだ、特定の相手がいないなんて確証はどこにもない。何で最初からそこに気づかなかったのか。

 やはり無理だったのか、もう諦めるしかないのか。

 さらなる絶望に打ちひしがれながら、それでも思い出す。そうなのだ、俺はまだきちんと謝ってもいなければお礼も言っていない。まずはそこからだ、そこから始めないと駄目だ。スタート地点にも立っていない身の上でごちゃごちゃと考えても時間の無駄である。

 六限終了後。放課後の予定を訊ねようと振り向くと、もうそこに彼女の姿はなかった。靴箱にはまだ外履きがあり、校内にいるのは間違いない。今日は会計の仕事はないことも分かっていた。

 言い訳代わりのペットボトルを手に、書道室への廊下を歩く。高鳴る心臓、やはり今日じゃなくてもいいのではと弱気になりそうになる。窓の向こうを通り過ぎていく夏服たち、季節はもうすっかり様変わりしていた。

 ――判定は彼女に任せるしかない。

 俺の代わりに冷や汗をかいていくペットボトル。鮮やかに広がった青空に一筋の飛行機雲が描かれていた。

おしまい♪ (070517)

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お題提供◇羽鳥奈々子様(サイト・CelsiuS
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「有罪か、無罪か?」

「39.目の上のタンコブ」の視点替えです。
この続きを書くものなのかだいぶ悩みましたが、何だかこちらが気を揉むまでもなく上手くいきそうな気がします

ひとつ前と一緒で出会い頭に頂いてしまったお題、ドキドキしながら書き上げました。