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◆ 43.遺書
白く舗装された坂道をゆっくり登っていく。頬をくすぐる心地よい風が花の季節の到来を告げているようだ。 「パパーっ、ママーっ、早く早くっ!!」 たんぽぽ色のワンピースに身を包んだ少女がくるりとこちらを振り向く。髪をすくって留めたリボンも同系色、結び目にオレンジ色の造花が飾られている。ふんわりとウエーブを描いた茶色の髪は毛先だけがくるんくるんと可愛らしくカールしていた。 「美優(みゆう)、そんなに慌てると転びますよ?」 傍らの彼女が強めの口調でそう告げても、少女は臆する気配もない。春風が周りで踊るのを嬉しそうに眺めながら、また道を急ぎ始めた。その手には今日はどうしても自分が持ちたいと駄々をこねた花束が大事そうに抱えられている。雪の朝に産まれた弟も早二月、久しぶりの親子揃っての遠出にはしゃいでしまうのも仕方ないだろう。 「大丈夫だよ、都はあとからゆっくりおいで。俺がついて行くから」 一声断ってから、彼は足を速める。歩道の両端に植えられたパンジーが色とりどりのラインを描いているのを眺めながら坂の向こうに見え隠れする黄色い背中を目で追った。 「もう、相変わらず甘いんだから。ごめんなさいね、新司くんも寝不足なのに」 ベビーカーを押しながら歩く彼女を振り返って、平気平気と首を振ってみせる。 今は大人しくすやすや眠っている息子であるが、とにかく夜中のぐずりようと言ったら半端じゃない。赤ん坊のいる暮らしがこんなにも常識とかけ離れた特殊なものであったのかと日々身にしみていた。それでも柔らかい愛らしさに勝るものはないだろう。すでに上の娘で経験している彼女に「数ヶ月の辛抱」と聞いて出来る限り頑張ろうと思った。 親子4人となって過ごす最初の春――当たり前のように思える毎日もたくさんの偶然があったからこそ手に入ったもの。彼女も、そして自分も。それは決して忘れてはならないと心に深く刻みつけていた。
「あ、パパ! 遅いよ〜っ、また美優が一番だね!」 目的地に一足早く到着していた少女はとても嬉しそうだ。ぴょんぴょん飛び跳ねるたびに、髪のリボンが舞い上がる。さながら小さな春の妖精のように。 高台に広がる霊園、小さく囲われた区画のひとつに今では大人の背丈と同じくらいになった若木が植えられていた。たったひとつの墓石の下に眠るのは、少女の父親になる人。彼は我が子の誕生を見ることなく、帰らぬ人となった。 「わ〜、見て見てっ! お花、いっぱいささってる。美優の分、入りきれるかなあ……お空のパパ、きっとびっくりしてるね」 一度全部抜いて水を入れ替えてから、持ってきた分と合わせてかたちよく活け直す。 「あー、きっと朝早いうちに来られたんだね」 自分が考えていたのと同じことを彼女も悟ったらしい。鉢合わせになるかもと覚悟していたが、向こうの方からそれを避けたのだろう。この後にお目にかかることにはなっているが、やはりこの場所で顔を合わせるのはお互いにまだ気が重い。 「たっちゃん、たっちゃん、起きて! お空のパパにご挨拶しよう。お空のパパーっ、たっちゃんですよ! 美優ね、お姉ちゃんになったの〜っ!」 母親が制するのも構わず、少女はベビーカーの中の弟を揺さぶった。少しむずかってから目覚めた赤ん坊はそれでもぐずることもなく広々とした風景に上機嫌でいる。 「あのね、お空のパパ。今日は高野のおじいちゃんとおばあちゃんが、美優にランドセルをプレゼントしてくれるんだって! 美優ね、小学生になるんだよ。このお洋服で入学式するのっ!」 くるりとその場で一回転すると、スカートの部分がふわっと広がってレースのペチコートが見え隠れする。それが楽しくて仕方ないらしく、昨日試着したときからずっとその仕草を繰り返していた。 物言わぬ墓石に少女は無邪気に話しかけ続ける。その姿を後ろから眺めていた彼女は、小さく溜息をついた。 「すごいね、子供って。何でも当然のように受け止めてしまって。私なんて、まだこの場所に来るのはちょっときついなと思うのに……」 普段は押さえ込んでいる感情が、ふいに湧き上がって来てしまったのだろう。新司は気にしない素振りのまま、傍らに佇んだ。デパート勤務という都合上、今回も平日に休みを取っている。自分たちの他には人影もなく、誰の目を気にする必要もなかった。 双方の両親から結婚を反対されながら入籍し、その直後に事故で最愛の人を失った。彼女の受けた悲しみの大きさはやはり両親を交通事故でいっぺんに亡くしていた新司にもはかり切れないものがある。ただ、当然のように続いていくと信じていた日常が一瞬のうちに崩れ去った衝撃がとても言葉では表せないものであることは痛いくらい承知していた。 「彼ね、私が病院に駆けつけたときにまだ意識があって……私の手をちゃんと握り返してくれたんだ。あのときのこと、時々思い出すの。きっと自分がそのまま死んじゃうなんて思っていなかったんだろうね、これくらい何でもないからって笑ってた」 大切なお墓参りをすっかり行楽のひとつのように捉えている少女は、やがて墓石から離れてベビーカーを押しながらその辺の散策を始めた。危ないことがないようにと注意を払いながら、しかしふたりは白い石の前から離れようとはしない。 「何があってもふたりを守るから、一生必ず守るからって。普段通りの口癖をその時もちゃんと繰り返してた。何度も何度も繰り返してた。だから……今でもね、何か嬉しいことがあったときには彼が叶えてくれたのかなと思っちゃうの。いつもそんな風に考える癖がついちゃった気がする」 一気にそこまで話し終えて、突然黙り込む。こちらの視線を気にしながらも俯く彼女に、掛ける言葉が見つからなかった。 しばらく沈黙が続いたあと、彼女の方からまた話し始める。 「あんな約束、してくれなくて良かったのに」 唇を噛みしめて震える横顔、もしかしたら泣いているのかもしれない。それでも――自分はその場にただ立っているだけだ。たとえどんな言葉で慰めたとしても、それは彼女を心の芯から温めることは出来ないのだから。
最初から何もかもが上手くいくとは思っていなかった。それでも様々な引っかかりや躓きをひとつひとつ乗り越えながら、不器用でも共に生きていこうと誓い合ったのである。制服の頃に残して来た後悔を拾い上げながら、さらに彼女の中にある悲しみの全てともしっかり向き合っていかなければならない。 かつて彼女が愛し合ったという墓石の中の男と直接の面識はない。高校卒業後に離ればなれになり、再会したときにはすでにこの人は幼子の手を引いていた。そこまで歩んできた道のりを折に触れて話してくれるが、たぶん一生涯掛かってもそれが完全なかたちになることはないだろう。 美優の父親になる人はひとりっ子で、彼の両親は忘れ形見である孫娘を自分たちの方へ渡すようにと何度も訴えてきたという。彼女は長い時間ひとりでその攻撃に耐えてきたが、ようやく辛い日々も終わりを告げていた。まだまだ双方に残るわだかまりは相当なものだとは思う。しかし、こうして数ヶ月に一度はちゃんと顔見せが出来るまでになった。先日、息子が産まれたときにはお祝いも届いている。 「俺にはもう両親がないから。美優の成長を喜んでくれる人がひとりでも多い方がいいと思うよ?」 いつだったかそんな風に告げると、彼女は部屋の隅で声を殺して長い時間泣き続けていた。ようやく収まったあとに、小さな声で「ありがとう」と言う。たったひと言で十分だと思った。
墓参りを終えた後。 坂道を降りながら、彼女が何度もこちらを気にしている素振りを見せていた。途中までは気づかない振りをしていたが、あまりにもあからさまな態度であるのでこれ以上無視を決め込むのもまずいかと思う。ちらっと視線を送ると、彼女の方がびくっとして目をそらした。 「……新司くんって」 だいぶ前から溜め込んでいたと思われる言葉を、彼女は春風に乗せていく。戸惑う息づかいまでがそのままのかたちで届くような気がした。 「私が彼のことを話しても、全然平気なんだね。ヤキモチとか……そういうの、ないの?」 そして、彼女は黙って空を見上げる。まるでそこからこぼれ落ちるメッセージを受け止めようとするように。つられるようにその場所を見れば、ちぎれ雲の端から光が溢れていた。 「そりゃ……正直面白くない気持ちはあるよ。だけど、今このときに都と一緒にいるのは俺だから。この場所にいて君を支えていけると思えば、平気なんだ」 自分でも苦しい言い逃れであるなと分かっていた。だが、思い出と戦ったところで勝ち目はない。死の直前まで一心に愛を注ぎ続けたその人と共に彼女を守っていけたらそれでいいと思う。 「良かった、少し安心した」 そう告げた彼女の頬にようやく笑みが戻ってきた。この微笑みをずっと守り続けていきたいと思う。決して言葉にはしない、この人をこれ以上追いつめることは不本意であるから。それでも、心の一番深いその場所にしっかりと刻み込もう。二番煎じじゃないかと雲間から文句を言われても気にしないで。 ―― 何があっても君たちを守るから、一生必ず守り続けるから。 彼女の応援団は多い方が心強い、だから彼とは良きライバルであり続けたいと思う。この競争に勝者も敗者もないが、絶えず意識することは忘れないようにしたい。 春風が彼女の髪を揺らしていく。こうして手を伸ばせば触れることが出来る距離にいられることが何よりも幸せだと思った。 了(070521) << 42.guilty or not guilty? 44.よそ見しないで! >>
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