TopNovelさかなシリーズ扉>さかなの箱・2



〜こうちゃんと花菜美・10〜
…2…

 

 

「なっ…!? 何ですってえっ!!」

 防音がきいていて、ちょっとやそっとじゃお隣の音が聞こえないと言う高級マンション。その室内に絶叫する奇声が響き渡る。みどりちゃんは般若の顔に加えて、今度は仁王立ちだ。そんなにおなかに力入れると、破水するわよ? ああん、卓司さんの携帯ナンバーを調べた方がいいかなあ。

「大泉さんって…大泉さんって…もしかして、子供が嫌いとか? 欲しくないとか、そう言うのなの!?」

「う〜ん…?」
 私は二個目のケーキをフォークの先で選びながら、首をかしげる。

「そんなこともないと思うけどなあ…」

 子供が嫌いだったら、少年野球チームの監督なんてしていないと思う。大金をいただけるなら分かるけど、ほとんどボランティア、時には子供たちに鯛焼きを買ったり、スポーツ飲料を差し入れしたりと足も出る。お正月には私の実家から送ってきたサツマイモで焼き芋大会もやった。
 豪太郎とだってよく遊んでいる。逞しい体つきの大泉家の血を濃く引いた赤ん坊は、何も言わなければこうちゃんの子供みたいだ。こうちゃんはすごく「お父さん」っぽいんだよね? だから、ベビーカーとか押してたら、見た人は全員親子だと思うわ。
 ご両親が亡くなったとき、末っ子の雅志くんはまだ小学生だったという。8歳。だから、弟たちもこうちゃんが育てた様なものだ。

「そうよねえ…」
 私があんまり落ち着いているから馬鹿馬鹿しくなったのか、みどりちゃんもクッションの上に足を横にして座る。テーブルから少し離れないとおなかがつかえるのだ。本当に妊婦さんは人間製造器。大変だなと思う。

「大泉さんは、『いかにも』と言う感じだもんなあ…ウチの卓司さんの方が信じられないくらいよ」

 そう言いながら、彼女はふすまの向こうの和室に目をやる。そこは8畳に床の間と押入の付いた純和風のしつらえだったが、今や毎晩のように運び込まれる「赤ちゃんグッズ」で、埋め尽くされていた。たまに買ったことを忘れて二重買いしているらしく、私がベビー用品を揃える前にはまずは発掘に来るようにと言われている。海外出張の多い卓司さんは、各国のベビー用品を買いあさるのが新しい趣味なんだって。

 ぴちっと仕立てのいいスーツをおしゃれに着こなした、素敵な旦那様。その方が、自分より顔のでっかいぬいぐるみやら、奇妙なかたちのオブジェやら買っている姿はとても想像できない。

「それにしても…そのうち、とか言いつつ、全然整理してないわね…」

 私の言葉にみどりちゃんは、ちょっとふくれて睨んでから、イチゴの乗ったカスタードタルトを選んだ。

「だってさ、どんどん密林が深くなるんだもん。もうどうにでもして、と言う感じ。私が入院してる間にママとぼたんにどうにかして貰うわ」

「ふうん…」

 あ、「ぼたん」というのはみどりちゃんの妹。いつまでも若々しく綺麗なお母さんと、美人なふたりの娘たちは並ぶとゴージャスだ。ぼたんちゃんはオリエンタル美人のみどりちゃんとは違って、ふわふわの天使様のような外見。みどりちゃんちのパパはすごいよな…家に戻ると目がくらむんじゃないかしら?

「…それよりさ〜、問題はそこじゃないじゃん。大泉さんの行動のがまずいわよっ!」

 あ、はぐらかしたつもりだったんだけど。気が付いたら、話が戻ってるじゃない。

「でさ、花菜美!? 大泉さんは具体的に家族計画について何か言ってるの? まさか、最初の1年は夫婦水入らずで楽しく過ごそうとか…そんなだったら、どうにか軌道修正してよっ! 間に合わないじゃないのっ!」

「え〜、そんなことないよ〜」
 私は紅茶のお代わりを頂く。ああ、おいしいな、みどりちゃんちのお紅茶。ウチみたいにスーパーの無印ジャンボパックじゃないもんね。

「…って、言うかさ。そう言う話、しないもん。全然」

「――は…!?」

 みどりちゃんは、おなかの皮が伸びるくらい大袈裟にのけぞった。ああ、だから〜、そういう無理な体勢はやめてよね…って、させたのは私か。ああ、反省。

「何なのよ〜、花菜美っ!? あんたたち、5ヶ月も何してるのよっ! それは夫婦の基本でしょう? 子供を何時作るとか、そのためにいつ頑張るかとか、ちゃんと計画しなくちゃ。産み分けとかだってあるんだよ? あんたんちなんて、男ばっかじゃない。これは女の子を産むべきだよ〜そのためには、食べ物とか気を付けてとっかからないといけないんだっってよ〜っ!?」

 あ〜、それは聞いたことある。女性が満足しないような淡泊なセックスするとか、身体を酸性にしとくとかアルカリ性にしとくとか…どこまで信憑性があるのかは疑問だけど。女性器に事前に注入するゼリーとかまであると聞いたぞ。

「そんな、恥ずかしいもん。出来ないわよ〜」

 夫婦生活だって、自分から積極的に出たことないわ。とにかく公私ともに忙しいこうちゃんだ。男性はあんまり疲れるとやる気がなくなったり、逆に生命の危機を感じて欲求が増したりするらしい。でも、私は男じゃないし、ましてやこうちゃんじゃない。そのデリケートな部分が分かるはず、ないじゃない。

 だから、いつも誘われるのを待ってる。私だって、仕事があるし、家事もあるし…そんなことにかかり切りになってられないのだ。そりゃさ、期待してるわよ。嫌いじゃないもん、そういうこと。でも、私の方から…なんて出来ないわ。

「もうっ! だからあんたたちは駄目なのよっ!!」
 みどりちゃんは、大口で一気にプチケーキを頬張る。うわ〜口がゴムみたいに伸びてるわ〜〜〜。

「付き合うまでに6ヶ月かかって!? そのあと、プロポーズまでもまたかかって!? 挙げ句になかなか具体的な話が出ないかと思ってたら、速攻で式を挙げたりしてさ。このまま行ったら、母親になる前に、おばあちゃんになっちゃうわよっ!」

 …う、怖い。

 これは、キスしたのはプロポーズのあとだったとか、言わない方がいいだろうなあ。初えっちなんて、結婚式の半月前だし…。

「もうっ! 今夜、大泉さんが戻ってきたら、膝をつき合わせてきちんと話し合ってちょうだいっ! もしも、それで埒があかなかったら、私を呼んでっ! もう必死で説得するからっ…!!」

 

 …うぎゃああああああっっっ!

 

 あ、今の雄叫びは私の心の悲鳴ではないの。みどりちゃんのあまりの激しさに歯固めクッキーがなくなった豪太郎が泣き叫んだのだ。

「はいはいはい…豪太郎はミルクかな?」

 私は心の中でホッとしながら、豪太郎を抱き上げた。片手で支えながら、マザーズバッグの中をごそごそする。1回分ずつに分包されたスティック状の粉ミルクパック。割高なんだけど、お出かけには楽だから、安売りの時まとめ買いをしてる。何故か我が家に常備よ。

『泣く子と…』と言うことで、みどりちゃんもポットとやかんの湯冷ましを用意してくれる。その日の気温に合わせて、熱いお湯と湯冷ましを混ぜて適温にする。

「ああっ! 嫌っ…ちょっとぉ〜!?」

 ひえええええっ! なんかくすぐったいと思ったら、目を離した隙にカットソーの胸元を舐められてる。やめて〜私は亜由美ちゃんじゃないのっ! 何も出てこないのよ〜っ! やだ〜、シミになると落ちないんだよ。赤ん坊のよだれってすごい粘着質なの。ちょっとでも放置すると、絶対にあとになる。

「…ねえ、花菜美」
 どうして、私がこんなこと…という表情で、ほ乳瓶の中の温度をほっぺで確認してるみどりちゃん。ママという単語に一番遠いようなこの人が、数日後には本当に母親になる。綺麗にルージュを引かれた口元が呆れ声で告げる。

「あんたさ、同じ苦労なら自分ちの子供でしなよ…人の子、そんなに頑張って育ててどうすんの…」

 

‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐ *** ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐


 …惚れた、はれたと。

 大騒ぎしているのは簡単だと思う。


 みどりちゃんちからの帰り道。豪太郎をアパートに送り届け、ついでにお持ち帰りお弁当を差し入れして。スーパーで買い物して、夕暮れの道を歩く。私の影が長く長く伸びて…足元に絡みついてる。

 確かにみどりちゃんは、結婚する前もしてからも。もうことあるごとにぎゃーぎゃー騒いでいた。卓司さんのお仕事が忙しくて、休日も家にいてくれないとか。夜のおつとめが何日ご無沙汰だとか。私に言わないでよ〜と言いたくなるような話題を真っ昼間からしてくるのだ。でも、それすらも…私にとっては羨ましい限りだった。

「…羨ましいのは、花菜美の方でしょっ!」
 いつだったか、話の流れでそんな感じになったとき、みどりちゃんがきっぱりと言った。

「私はね〜あのうるさい姑と難癖もありそうな舅と、あとご大層な肩書きを並べる親戚と…そんな奴らの視線をいつも感じてなくちゃならないのよ!? でも、あんたはどうなのっ! 大泉さんちにお嫁に行くって、もう周りじゅうから感謝されて。いい嫁さんだって、誉められて。可愛い弟たちには囲まれて。あれって、ホストクラブ状態じゃない。逆ハーレムと言った方がいいかな…」

 …ま、ね…。

 ものは言いようだと思う。物事なんて、見る角度で変わってくる。みどりちゃんは私は煩わしい親戚づきあいもないからいいねという。でも、本当にそうかしら?

 煩わしくなくたって、親戚づきあいはある。こうちゃんと結婚して、お正月明けに、お母さん方の親戚で不幸があった。生前お世話になったらしい。こうちゃんたちはもちろん弔問に出かけるが、その時に私はどうしたらいいのかとても悩んだのだ。

 …お母さんの妹さんのご主人…と言うことは、こうちゃんの義理の叔父さんになる。その方が亡くなったのだ。私の田舎ではそう言うときは親戚が手伝いに行く。さらに近所の人が台所を仕切ってくれるから、そう言う人たちに御礼をしたりするのだ。ポチ袋に千円とか二千円とか入れて、取りこぼしがあったら大変だから、少し多めに用意する。袋の裏に、名前を書く。出所が分かるように。
 和装は身内だけだろうなと、黒のワンピースにして。白い模様のない割烹着をわざわざ買い求めて持参した。幸いにも顔見知りのお祖母ちゃんがいたから、その人に聞いてみる。でも「いいからいいから、座ってなさい」とか言われちゃって、結局は満足にお手伝いも出来なかった。
 結婚式で会ってるとは言え、こうちゃんの親戚は未だによく分からない。分からないから、名前で呼べない。でも私は新参者で、あちらはこちらが誰なのか分かっているのだ。なかなか居心地の悪いものだった。

 こう言うときに、もしもこうちゃんのお母さんがいてくれたら。いろいろ相談できるのに。そして私のことをみんなに紹介してくれるのに。私は自分で名乗って、頭を下げて回った。台所は女たちの集まり、こうちゃんとその兄弟たちはお座敷の酒盛りの方にいる。こっちには来てくれない。せめて、女の兄弟がいたらと泣きたくなった。

 

 私は大泉家のお嫁さん。こうちゃんの奥さん。だから、粗相のないように頑張らなくてはならない。

 お家も昔ながらの土地で、皆さんが顔見知りだ。町内会とかに行ってもツーカーの仲。こうちゃんは仕事で忙しいから、どうしても私が会合に出ることになる。別にきついことを言われるわけでもないのに、慣れない場所ですごく緊張して、戻ったあとは廃人のようにぐったりしている。

 

 朝晩、お仏壇にお茶とお線香を上げながら。何度、思っただろう。

 飾ってあるこうちゃんのお母さんのお写真は、すごく優しそうだ。こうちゃんは身体の大きさとか、骨格とかはお父さん似だけど、顔の中身はお母さんに似てる。ほんのりとあったかい感じで。

 私、お母さんに会いたかった。一緒にお台所に立って、こうちゃんの好きなお総菜の味付けを教えて貰ったり、昔話をしたりして。困ったときは全部聞けたのに。お葬式にいくら包んだらいいのか、親戚の子が入学するときのお祝いは何をあげたらいいのか。確かにこうちゃんは、私が聞けば教えてくれる。でも、聞きたいときに必ずいてくれる訳じゃないし、ちょっとしたことで困ることが多いのだ。

 思いあまって、実家に電話したりするけど…やっぱり土地柄で色々違うし。戸惑うばかりの日々だった気がする。今、踏んづけて歩いてる私の影よりも、ずっとずっと長い日々だった。

 …結婚って、「大好き」の気持ちだけではどうにもならないことがたくさんある。だから、困る。


 ぷうんと、いい匂いがして。お肉屋さんの前だったことに気付く。ああ、そうだ。今日は手抜きしてフライを買って行っちゃおうかな? そう思って立ち止まる。

「お、大泉さんとこの若奥さん。今日は何にするっ!?」
 威勢のいいおじさんがショーケースの向こうから叫ぶ。

「ええと…コロッケを10個とエビフライを5本と…メンチカツを2個下さい」

 頭の中で考えつつ、注文する。こうちゃんは飲み会だし、千春くんも夕ご飯はいらないと言っていた。そうなると今夜は新司さんと雅志くんだ。雅志くんはお昼がパンだったなら、きちんとお夕ご飯を食べて貰わなくちゃ。確か、このお店のエビフライが好物だったと思う。出来合いで済ませてしまう手前、タルタルソースは作ってあげよう。お汁は豚汁がいいな。

「お待たせっ! ウズラのフライをおまけしておくよっ!」
 コロッケ50円、メンチカツ80円と破格な値段なのに、ここのお店はおいしい。しかもおまけが付く。最初はスーパーで買い物するついでにお総菜コーナーで買ってたんだけど、このごろはこっちに寄るようになった。

「いつもありがとうございます〜っ!」
 お金を払うと、まだホカホカしてる包みを受け取る。昔ながらのお肉屋さんの黄緑色の包み紙。スーパーの袋の一番上に突っ込む。腕がちぎれそう。特売の牛乳とお醤油を買いすぎたかな?

 多分。今の私の背中を見たら、とても若奥様じゃない。すごく疲れていると思う。昨日や今日、舞い降りた疲れじゃない。長い時間をかけて蓄積されたものだ。知らないうちに誰にも言えない「何か」がどんどん溜まっていく。

 …それでも、家に戻る。あそこが私の場所だから。

 

‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐ *** ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐


 お総菜でちょっと手抜きしたから。晩ご飯のあとはアイロン掛けをした。

 普段は面倒でクリーニングに出すんだけど、でも1枚が150円(ハンガー干し、たたみだと170円)…1枚に10分もかからないんだから、時間のあるときは頑張ることにしてる。それで、浮いたお金を貯金箱に入れる。結構溜まる…「つもり貯金」と言うんだって、主婦雑誌に載っていた。

 バラエティーみたいなクイズ番組を見ながら、一枚ずつかけてく。さっき、雅志くんに声を掛けたんだけど、「いいです、自分でやるから」と言われちゃった。

 …ああ、雅志くん。

 こうちゃんのワイシャツにアイロンを滑らせながら、考える。

 雅志くんは最初から、私に対して一線を引いていた。最初は照れてるのかな? とか思った、高校生だし、そう言う年頃なのかもって。でも…孝雄くんも千春くんもあんな感じでしょう? うざったいくらいにまとわり付かれて「お姉ちゃん」を満喫して。で、ふと見ると…雅志くんがひとりだけ、ぽつんとしてる。すごく嫌そうな目をして、私を見てる。

 気に入らないことがあるなら、言ってくれればいいと思う。他人なんだから、些細なことが気にかかるのかも知れないし。私だって、これからつき合いが長いんだから、直せるところは直そうと思う。


「雅志くんって…恥ずかしがり屋さん、なのかなあ…」
 こうちゃんとふたりでいるときに、聞いたことがある。こうちゃんは持ち帰った仕事の資料から顔を上げて、うーんと伸びをした。

「どうかなあ。まあ、その上のふたりが騒がしいから。そんな気がするんじゃないの?」

 …確かに。

 こうちゃんと新司さんはおとなしい性格だし、雅志くんもそうなのかも知れない。でもさ…やっぱり気になるんだよ。実は浪人したのも私のせいかなとちょっと思ってる。気にしてるんだ。こうちゃんには言えないけど…。

 こうちゃんに、打ち明ければ。雅志くんにひとこと言ってくれるかも知れない。でも、それは出来ない。そんなことをしたら、雅志くんが可哀想だ。雅志くんってこうちゃんのことがとっても好きだもん。私には分かる、だって、私もこうちゃんが好きだから。同じ気持ちの人はなんだか感じ取れる。

「ねえ、こうちゃん」
 髪の毛をとかしていた、手を止める。

「こうちゃんは…私と一緒にいて、楽しい…?」

 私を見つめる人が、…え? と言う顔になる。私がこんな風に押し殺したように言葉を発するときは、結構落ち込んでいるのだ。でも、自分でもそれがあまり分からなくて。口に出して、初めて気付くこともある。複雑骨折な性格だなと、思うことも多い。

「どうしたんだ、…何かあったか?」
 こうちゃんは書類を置くと、私が座っている布団の方にずりずりと寄ってくる。

「…ううん」

 あ、こうちゃんの匂いがする。それくらい、近寄ったということ。お祝いに貰ったお揃いのパジャマ。出来るだけ同じ日に着られるように洗濯も工夫する。やっぱり、お揃いは一緒に着ないと意味ないもん。黄緑の縞々とローズピンクの縞々。こうちゃんの腕が背中に回る。

「俺さ、結構、人を選ぶんだよ?」
 あったかい腕と、あったかい声。私を包み込んでしまう、大きくて逞しい存在。お風呂上がりで半分まだ湿っている髪の毛に指が入り込む。

「だから。俺が、ずっと一緒にいたいって思えるのは…本当に少ない人間で。水橋のことは、ずっと、死ぬまで一緒にいたいと思ったから。そうじゃなかったら、結婚なんて出来ないだろ?」

「うん…」
 静かに身を寄せる。…私だって、そうだよ。こうちゃんと、ずっと一緒にいたかった。だから、結婚したんだ。

 …こうして、ずっと、一緒にいられること。こうちゃんが夜になると帰ってくる生活。どきどきとわくわくは少なくなったけど、当たり前の日常を一緒に過ごしていくのが幸せだと思う。

 こうちゃんがいるから。幸せなんだと思う…。

 それなのに。悲しくなるのは…どうして?

 

‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐ *** ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐


 …あ、電話が鳴ってる。ぼーっと考え事をしているうちに番組も変わっている。手だけは無意識に仕事をしていたらしい。私って、偉いかも。アイロンを置いて、立ち上がる。

「はい、大泉です」
 こうちゃんかも知れないな、と一瞬思った。途中から電話をしてくれる日もある。飲み会があるから今日は自転車で出かけた。遅くなるとバスもなくなっちゃうし。

「…あ、夜分遅く…申し訳ございません」
 違った、女の人の声だ。でも…私の知り合いじゃないらしい。セールスでもないみたいだな…なんだろ。

「わたくし、守谷と申します。あの…大泉くんは、監督はいらっしゃいますか?」

 守谷さん、知らないなあ。監督、と言うんだから、こうちゃんのことだろう。と言うことは父兄? それにしては若い声だ。こうちゃんの少年野球のチームは小学生以上だから、親御さんもそれなりの年齢なんだけどな…。考えを巡らせながら、答える。

「ええと、今日は飲み会ですけど。遅くなるって言ってました」

「…そうなんですか?」
 戻ってきたのは、ちょっとびっくりした感じの声。受話器の向こうで、一瞬息を飲む音。

「携帯にかけても通じないので。お家にいらっしゃるのかと思ったのですが…ならいいです。失礼致しました…」

 

「え…あのっ…!」
 私の声は届かず、電話は切れていた。

 規則正しい電子音だけが、疑問符をまき散らしながら、私の耳に残った。


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